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取り付け騒ぎが起こった  ギリシャのユーロ脱退の噂で (ユーロ預金封鎖に現実味が・・)
http://www.asyura2.com/12/hasan76/msg/189.html
投稿者 墨染 日時 2012 年 5 月 16 日 07:35:25: EVQc6rJP..8E.
 

http://markethack.net/archives/51819895.html

ギリシャが連立政権樹立交渉の決裂を受けて、6月に再選挙を決めました。

6月の再選挙は「実質的にギリシャ国民がユーロ圏に残りたいかどうかの、レファレンダム(国民投票)になる」と言われています。

アンケート調査では急進左派連合がどんどん人気を伸ばしていると言われています。

若し、ギリシャが通貨ユーロの使用を止めたら、新ドラクマはたぶん70%〜80%の価値を一瞬にして失うでしょう。

ギリシャが通貨ユーロの使用を止めると決めた場合、ギリシャ国民がギリシャ国内にユーロで預けてある預金は一旦、封鎖されると思います。

そして、あくまでも仮の数字ですが、たとえば「1ユーロ=1ドラクマ」のような交換比率で新通貨を貰うわけです。

しかし新通貨はギリシャという国に対する信用が無いわけですから、一瞬にして暴落します。

若し、皆さんが日本で銀行に預けている預金が、一瞬にして5分の1の価値になるとすれば、皆さんはどうしますか?

当然、今、お金を引き出して、それを金(ゴールド)なり、USドルなりに換金するでしょう。

いまギリシャで起こっていることは、それです。

ウォールストリート・ジャーナルによると月曜日だけ9億ドル近い預金の引き出しが起こったそうです。

3月末のギリシャ国内金融機関の全預金残高は1,650億ユーロです。その意味では未だ引き出しは怒涛のペースというほどではありません。

ウォールストリート・ジャーナルは、ギリシャがユーロの正式使用を止めた場合でも、ギリシャ国内でユーロ紙幣が流通するのはほぼ間違いないし、好むと好まざるにかかわらず、それは防げないと論じています。

それどころかモンテネグロのように今後もユーロを「準通貨」として使用し続ける可能性もあります。このように一国の中に二つの通貨が流通している例はいくらでもあります。

ただ、ギリシャの企業や金融機関はユーロで資金調達をすることが出来なくなります。するとユーロ建てで借金しているOTE(=ギリシャのNTT)などの企業は続々デフォルトすることになります。

発電所の燃料を買うお金が無くなって、慢性的な停電になるリスクも高いと言われています。

ギリシャ企業が、外国の投資家や金融機関から借りている借金は、突然、いままでの何倍もの返済負担として圧し掛かってきます。(=なぜなら電話料金や電気代を折角、消費者から徴収しても、新ドラクマの価値が減価してしまったので、ユーロ建ての借金を返すには焼け石に水だから)

欧州中央銀行は1,600億ユーロ相当のギリシャに対する貸付や債券が焦げ付くことになると思います。

欧州中央銀行の自己資本はとても貧弱なので、この損は欧州中央銀行そのものの市場からの信頼を失墜させるリスクを孕んでいます。

以上の説明からもわかる通り、若し、ギリシャがユーロから抜けるのであれば、EU加盟国のリーダー全部と示し合わせて、電撃的にそれを行う必要があります。

今のように衆目監視のうちに、6月の再選挙という、わかりきったタイムテーブルに向ってユーロ離脱を準備すれば、離脱が発表される前にマーケットが大混乱して、それどころではなくなる危険性もあるのです。

冒頭で急進左翼連合が前回の選挙後もどんどん支持を伸ばしていると書きましたが、これには但し書きが必要です。それはギリシャ国民は急進左翼連合への支持は増やしているけど、ユーロ脱退は望んでいない(80%が残留希望)という点です。

ユーロを脱退すれば、ギリシャ政府の1日当りの収入は2,000万ドル程度しか無いわけですから、今、ドイツをはじめとするEU各国から強要されている、財政緊縮プログラムよりも遥かに厳しい耐乏生活をしなければいけなくなります。

つまり、どこかでギリシャ国民がこのチキンレースを翻し、全ギリシャ社会主義運動や新民主主義党などの伝統的政権の支持へと回帰する可能性も全く無いとは言えないのです。

最後に、若しギリシャがユーロを脱退し、新ドラクマを採用した場合、たぶんユーロは大暴騰します。それは一瞬にしてドイツを大不況に陥れるでしょう。

・・・・・・・・
PS.なお僕のメイン・シナリオは以前に書いたとおり、ECBによる電撃利下げ、ドイツ労組の賃上げ容認などの成長戦略をメルケル首相が前倒し採用するというものです。

 

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コメント
 
01. 2012年5月16日 09:03:35 : KbjUzFqPyw
ギリシャ人はプラトン時代のギリシャ人と違う民族構成になっているのか???

理性も何も失っているようだ!!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーギリシア
古代: ギリシア・ローマ時代 [編集]

パルテノン神殿。
詳細は「古代ギリシャ」および「アカエア」を参照
古代のギリシャはアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体でありマケドニア王国に征服されるまで統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にアケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアのピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたコリント同盟に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。
大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロス(エペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊と共にローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。
現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々、ラテン人、スラヴ人、アルバニア人等との混血、古くからは南のアラブ人、エジプト人、東のトルコ人などとも混血が進んでいる。現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもあるが、ヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。
中世: 東ローマとオスマン朝支配時代 [編集]
詳細は「東ローマ帝国」を参照


1025年 皇帝バシレイオス2世没時の東ローマ帝国版図。
395年にローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。
この時代のギリシャについて、日本では「東ローマ帝国の支配」と表現する書籍が多いが、7世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ人が中心となっていったため、そうした表現はじつは妥当性を欠いている。現代ギリシャにおいても、東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリア・トラキア・マケドニアであり、現在のギリシャに当たる部分は、中央のコンスタンティノポリスからは辺境地域と見なされていた。
1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノポリスが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは十字軍を混乱を収め、安定をもたらすものとして歓迎した[1]。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。他には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国、セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。
アナトリアに逃れたギリシャ系のニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、以後400年近くオスマン帝国の統治が続いた。
近現代: 独立回復と王政時代 [編集]
オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。翌1830年、バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、東ローマ帝国滅亡以来約380年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。
その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争に参戦し、クレタ島をトルコから奪取した。
1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年 - 1922年にセーブル条約を押し付けるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争)ムスタファ・ケマル・パシャが率いるトルコ軍に敗退した。1924年にクーデターにより共和制となるが、1935年には王政が復活した。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツおよびイタリア、ブルガリアの侵攻にあい王室と政府はイギリスに亡命し、ギリシャ本土は1945年までドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態であった。
大戦中には占領軍に対するレジスタンス運動では活動を主導した共産主義左派とイギリスの亡命政府に支援された右派が連携をとっていたが、第二次大戦が終結し亡命政府が帰還した後対立が起きた。1946年にはソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「共産主義者民主主義軍」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が保守右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したので、ユーゴスラビアからの援助が失われ、ギリシャ内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。
戦後から現在まで: 軍事独裁政権時代と共和政治の確立 [編集]
1950年に行われた総選挙の結果保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年1951年に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定し、1952年に北大西洋条約機構(NATO)へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビアおよびトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。
1950年代の後半になると、キプロスを巡ってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。


アテネ市内を制圧したクーデター部隊のM48戦車。
1967年4月21日の撮影
国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合(EK)は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革等の内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求され、国王はアメリカ合衆国の支援の元に中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。
1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的にNATOの要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。
1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生により大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリス・イオニアデスがクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。
その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し軍部の独裁体制は崩壊、大統領フェドン・キジキスは国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していた元首相コンスタンディノス・カラマンリスに帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。
1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果カラマンリス率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。
1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年に欧州共同体 (EC) の10番目の加盟国となった。
1980年代には全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生、アンドレアス・パパンドレウはNATOと欧州共同体 (EC) への加盟に懐疑的で西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATOとECへの加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。
2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック(第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。
政治 [編集]

国家体制として共和制を採用しており、大統領が国家元首として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で議会により選出される。現大統領は2005年3月12日に就任したカロロス・パプーリアス。行政府の長である首相は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。
「ギリシャの大統領」および「ギリシャの首相」も参照
立法府たるギリシャ議会 (Vouli ton Ellinon) は一院制で、300議席、任期4年、比例代表制による直接選挙で選出される。政党は中道左派の全ギリシャ社会主義運動 (PASOK) と中道右派の新民主主義党 (ND) の二大政党が中心。この他少数野党として、左翼政党のギリシャ共産党 (KKE) と急進左翼連合 (SYRIZA)、2007年から国政に進出した民族主義の右翼政党国民正統派運動[2](LA.O.S) がある。
「ギリシャの政党」も参照
1996年以来 PASOK のコンスタンティノス・シミティス政権が続いていたが、2004年3月7日の総選挙でコスタス・カラマンリス率いる新民主主義党が議席の過半数を獲得し、政権が交代した。その後新民主主義党は2007年の総選挙でも辛勝し、政権を維持したが繰り上げ解散を行った2009年の総選挙ではゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウ率いる全ギリシャ社会主義運動に敗北、5年ぶりに全ギリシャ社会主義運動が政権与党の座を奪回した[3]。
2011年10月31日、パパンドレウ首相は、財務問題を巡る欧州による支援策の受け入れの是非を問う国民投票の実施を表明した。しかし、ユーロ圏諸国(ドイツやフランスなど)は国民投票で支援策が否決されれば、国際的な金融危機を誘発しかねない状況で、危機が欧州全体に広がるのを防ぐため、国民投票の実施を断念するように同首相を説得し、11月4日ベニゼロス財務相が国民投票の実施を断念したことを明らかにした。
2011年11月5日、ギリシャ国会(一院政、定数300)は、パパンドレウ内閣の信任投票を行い、賛成多数で信任した。与党の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)は過半数をわずかに上回る152議席を占めている。信任投票では賛成が153票であった。
2011年11月10日、ギリシャ次期首相にルーカス・パパデモスが就任し、全ギリシア社会主義運動(PASOK)と新民主主義党(ND)が合意し11日に組閣、二大政党による大連立内閣が発足した。大連立内閣は、緊縮策を前提とする支援策を受け入れる。来年2月19日に総選挙を実施する。
2011年12月1日、政府の財政緊縮策に抗議する24時間ストが行われた。今年7度目のスト。[4][5]
若年齢での失業率が世界的に見ても高く50%台である
国際関係 [編集]

周辺国との関係では、キプロスの帰属問題でトルコとは対立関係にある。ギリシャ民族の国家であったマケドニア王国やギリシャ国内のマケドニア地方と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にある。
軍事 [編集]

詳細は「ギリシャ軍」を参照
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
地方行政区分 [編集]

詳細は「ギリシャの地方行政区画」を参照


ギリシャのペリフェリア。3の中央マケドニアの南東部の半島にある色違いの部分がアトス自治修道士共和国。
全土は、13のペリフェリア(地方)、74のペリフェリアキ・エノティタ(県)、325のディモス(市)に区画されている。ギリシャ共和国の主権の下に属する特殊な地域として、修道士による自治が行われているアトス自治修道士共和国(アトス山)がある。
アッティカ
中央ギリシャ
中央マケドニア
クレタ
東マケドニア・トラキア
イピロス
イオニア諸島
北エーゲ
ペロポネソス
南エーゲ
テッサリア
西ギリシャ
西マケドニア
主要都市 [編集]
ギリシャの10万人以上の都市(2001年)
都市 地方 人口
1 アテネ アッティカ 745,514
2 テッサロニキ 中央マケドニア 363,987
3 ピレウス アッティカ 175,697
4 パトラ 西ギリシャ 171,616
5 イラクリオン クレタ 137,711
6 ラリサ テッサリア 126,076
地理 [編集]

詳細は「ギリシャの地理」を参照


ギリシャの地図。


ギリシャ最高峰、オリンポス山 。
ギリシャの国土は4つの地方に分かれる。まず、国土の約2割を占めるエーゲ海を中心とした島嶼である。最大の島はエーゲ海南方に浮かぶクレタ島 (8336km²)、次いでエーゲ海西部と本土の間に横たわるエヴィア島 (4167km²) である。次にコリンティアコス湾とコリントス運河によって他の地域と区別できる南部のペロポネソス半島である。国土の西海岸線に沿った形で南北に伸びるギリシャ最大の山脈ピンドス山脈は湿潤な西部と乾燥した東部を分つ。最後に、古代の都市国家を含む中央ギリシャである。
ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2000mを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境にはロドピ山脈が東西に伸びる。ギリシャの最高峰オリンポス山 (2917m) はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15kmにわたってひろがる独立した山塊となっている。平原から立ち上り山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。
気候 [編集]
ほぼ全土がケッペンの気候区分でいう地中海性気候 (Cs) に区分される。従って、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1℃、夏季の7月では28.0℃である。年平均降水量は383.8mm。これは同じ地中海性気候に分類されるローマの約1/2と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる温暖湿潤気候 (Cfa) に分類される。
経済 [編集]


この節は現在進行中の事象を扱っています。内容は最新の情報を反映していない可能性があります。このタグは2011年10月に貼り付けられました。
詳細は「ギリシャの経済」を参照
「2010年欧州ソブリン危機」も参照
産業 [編集]
主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業、観光。農業では世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)や世界8位の綿、同10位の葉タバコが際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やとうもろこしなど主食となる穀物の生産は振るわず、農業国でありながら食料を自給できていない[6]。
鉱業では石炭が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位で主に燃料に用いる亜炭・褐炭では世界第4位(6,600万トン)である。マグネシウム鉱にも富み、生産量は世界第6位である。鉄、ニッケル、ボーキサイト、原油、天然ガスなど、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。
工業は食品加工業や繊維業などが盛んだったが、造船業、製鉄、石油化学工業も発達している。世界第3位のオリーブ油生産が突出している。
古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、オナシス家、ニアルコス家、ラティス家、マルチノス家、ロス家、クルクンディス家、リバノス家と海運王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、オイルタンカー、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10カ国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主はパナマ(世界第1位)やキプロス(世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。
観光業 [編集]
「ギリシャの観光」も参照
数多くの古代ギリシャや東ローマ時代の遺跡・遺構、エーゲ海の風光明媚な島々などの観光資源も多く、観光も重要な産業となっており、海運業、移民からの送金と観光業でギリシャの三大収入源となっている。アテネオリンピックが開催された2004年の時点でギリシャ総労働者数の16,5%、約66万件が何らかの形で観光業に携わっており、さらにそれまでギリシャ観光を統括していたギリシャ政府観光局の上の組織として観光省が新設された。
参考資料、ギリシャを訪れる外国人観光者数
年度 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1990年 1995年 2000年 2004年
人数 260,280 276,593 339,970 399,438 440,243 8,873,000 10,130,000 13,096,000 16,251,000
貿易 [編集]
100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業、移民の送金などによって貿易赤字をほぼ充当できている。
主要輸出品目は、衣料、果実、石油製品である。これらにつぎ、アルミニウムの輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、原油、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。
日本との貿易関係は、日本に対してナフサ、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの石油化学工業や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお大理石の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。
交通 [編集]


パトラ近郊のリオン・アンティリオン橋、斜張橋としてはヨーロッパ一位、世界では二位の規模になる。
1980年代に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部(イグメニツァ)とギリシャ北東部を結ぶギリシャのエグナシア・ハイウェイ (en) が含まれている。リオン・アンティリオン橋(ヨーロッパで最も長い斜張橋、総距離は2,252m(7382フィート)は中央ギリシャのアンティリオン (en) とペロポネソス半島のリオン (en) (パトラから7Km、もしくは4マイル)を結んでいる。ペロポネソス半島西部のピルゴス (en) へ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。
首都であるアテネの都市圏では2001年に新たにアテネ国際空港が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路であるアッティキ・ハイウェイ (en) が2001年に開通、そして2000年以降、アテネ地下鉄が拡張された。
ギリシャの島嶼部と主要都市の多くはギリシャの二大航空会社、オリンピック航空とエーゲ航空によって結ばれている。航路は水中翼船、カタマラン(双胴船)を含む最新の高速船で運航されている。他のヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、新たにアテネ周辺への接続として、また、アテネ、テッサロニキ間の近代的都市交通として鉄道も拡大、2500kmもの路線の多くが複線へ拡充された。国際列車としてはギリシャの都市から他のヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへと接続している。
国民 [編集]

ギリシャの公式統計機関であるギリシャ国立統計局((NSSG)の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は、10,964,020人[7]。その内訳は男性5,427,682人、女性5,536,338人であった[7]。1971年、1981年そして2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった[7] 。
2003年の出生率は1000人に対して9.5人(1981年は1000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった[7]。
ギリシャ社会は時を経ると共に急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年には僅かに増加して61%となったが、2004年、再び低下して51%となった[7]。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている[7]。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体は以下の通りであった。アテネ、テッサロニキ、ピレウス、パトラ、イラクリオン、ラリサ、ヴォロス[8]。
20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人がアメリカ、オーストラリア、カナダ、イギリス、ドイツへ移住、各地でギリシャ移民らは成功を収めた。しかし、この海外移住傾向は1980年代以降、ギリシャ経済の重要な改善の後、収まりつつある。
民族 [編集]
民族構成(ギリシャ)
ギリシャ人

98%
トルコ人
1%
その他
1%
ギリシャ人が98%、他にアルーマニア人、トルコ系、ユダヤ系、アルバニア人。


02. 2012年5月16日 10:47:59 : a5JRWJuq3c
>>01
あんた相当に暇な人ですね(笑う)

そんなコメント誰も読みません(笑う)


03. 2012年5月16日 13:49:37 : sgolhP60mA
ユーロ脱退と緊縮拒否をごっちゃにして論じるものが多いが、これもその一つ。

新ドラクマだけでユーロ大暴騰はどうかな?
新ドラクマでギリシャ問題が解決されるわけではない。
国債の問題と、緊縮問題はそのまま残っている。

ギリシャの緊縮が確定すれば、スペイン・イタリアが緊縮に向かう期待で、一応上がるとは思うが、暴騰までは・・・。フランスは緊縮反対に向かい出したし。


04. 2012年5月17日 16:40:39 : E1vpkFFxVY
乞食になってもドラクマにしたい、というギリシャ人の意思を尊重してあげましょう。
どの国も、他国に干渉しすぎ。

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