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「兵庫民報」 2011年8月14日日曜日
但馬・丹後の原発計画くいとめた40年前の運動に学ぼう
日本共産党但馬地区常任委員 中家貞雄さんに聞く(上)
一九六〇年代から七〇年代、関西電力は、但馬・丹後の日本海岸に火力発電所と原子力発電所を建設する計画を進めていました。これに対し、「日本海岸を第二の四日市にするな」「危険な原子力発電所計画を許すな」と住民は大きな反対運動を繰り広げ、その計画を阻止しました。当時、日本共産党但馬地区政策委員長・衆院兵庫五区候補として、運動の先頭に立った中家貞雄さん(77)=現同地区常任委員=に話をききました。(日本共産党但馬地区委員会発行『但馬民報』特別号・4月20日付から転載)
但馬海岸が「電源銀座」になろうとした
関西電力は一九六六(昭和四十一)年「浜坂、佐津火力発電所建設計画」を発表しました。その規模は次のような巨大なものでした。
浜坂 岸田川河口 出力二百万kW
香住 佐津訓谷湾 出力二百万kW
一方、前年の一九六五(昭和四十)年、香住町は「原子力発電所誘致対策委員会」を発足させていました。これは関西電力が一九六〇年代の初めから、香住町下浜地区の海岸に出力百二十万kW規模の原発を計画していたことに呼応した動きでした。
さらに一九七四(昭和四十九)年、関西電力は「丹後半島に二百四十万kW規模の原子力発電所を建設する構想」を発表、翌七五(昭和五十)年には久美浜町長が「蒲井(かまい)地区の事前環境調査」の受け入れを表明しました。
いずれの計画構想も地元住民には驚天動地の大事件で激しい反対運動が起きました。
私は一九六六(昭和四十一)年当時は日本共産党但馬地区委員会の政策委員長であり、衆議院選挙兵庫五区の候補者でもありましたので、この「電源銀座」計画反対に、地元住民と協力し、一生懸命取り組みました。
この対策の最中、一九六七(昭和四十二)年に行なわれた総選挙で立候補したのは、自民=有田喜一・小島徹三、民社=佐々木良作、社会=伊賀定盛の各氏と共産=中家貞雄(私)でしたが、原発建設反対を主張したのは私以外にありませんでした。とくに佐々木氏は事実上、関電の推薦候補でした。
全国の知恵に学び政策を提案した
当時の香住町には日本共産党の有田晃議員がおり、原発問題の調査研究に熱心で、自宅のガリ版印刷で議会報告を発行していました。私は有田町議の後を受けた森田春三郎町議と協力して京大の原子物理学の若手教授を訪ねたり、学者肌の兵庫県原水協の福島市郎事務局長(故人)を招いて学習会を開き、火力・原発のイロハを学びました。森田町議は佐津火力反対運動の事務局長を務めました。
火力発電所問題では、年間排出量十三万tの亜硫酸ガスを中心とする大気汚染とたたかった四日市の実態は衝撃的でした。浜坂・佐津の火力発電所計画では十五万tの亜硫酸ガスの発生が予測されたのです。
原発問題はアメリカのスリーマイル原発の炉心溶融事故の教訓に立って、国会でも不破哲三書記局長(当時)が「安全神話」の危険性を鋭く指摘していました。なかでもアメリカでは原発事故の避難・退避地域は半径三十二km圏と義務付けているとの指摘は、「久美浜蒲井の原発事故」を想定すれば、豊岡市はおろか八鹿町まで住民の避難・退去が必要であり、どんなに苦労しても原発は阻止しなくてはならないと決意を固めました。
苦労したのは宣伝・学習費でした。今でも党の財政は苦心しますが、私が候補者をしていた衆院選の得票率は3%以下で、但馬地区委員会は臨時出費の財源がありません。それでも、党員・後援会員にカンパをお願いし、兵庫県委員会に頼んで「兵庫民報」号外をつくり、民主商工会の協力も得て「但馬民報」をつくり、全戸配布しました。
浜坂町には当時、党支部がなかったのですが、ビラ配布のために浜坂駅前に但馬各地の党支部から三十人近い人たちが集まってくれたときは、本当に感激しました。
(つづく)
(2011年8月14日付「兵庫民報」掲載)
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