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(回答先: 菅前首相が公式サイトで「国会事故調の論点整理」に反論 投稿者 あっしら 日時 2012 年 6 月 11 日 03:10:21)
[風見鶏]原発にも文民統制が要る 特別編集委員 伊奈久喜 [日経新聞]
米国を含むアジア太平洋諸国の記者たちとともに、カリフォルニア大学バークレー校に行き、フクシマを心配する声を聞いた。ホノルルで太平洋を渡るがれきの説明を受けた。災害の影響は国境を越える。だから国際的関心事となる。
バークレーで原子力工学の教授が「日本では原発事故直後の対応に首相官邸の許可が必要とされた」と述べ、記者の間に失笑が起きた。政治家より専門家に任せるべきだったとの感覚からだろう。
似て非なる議論を原発再稼働の是非をめぐって聞いた。政治家ではなく専門家に判断させよとする声である。再稼働反対派の主張である。専門家には原発推進派もいるから、正確には再稼働に反対する専門家たちに判断させよ、とする意見だった。
野田佳彦首相は、その道を選ばなかった。「国論を二分している状況で1つの結論を出すことは私の責務」と、大飯原子力発電所の再稼働を決断した。
菅直人氏が首相だったら結果は逆だったはずだが、立場がどうであれ、政治家が決断し、選挙で有権者の判断を問う。それが民主主義国の手続きである。
核兵器と同様、原発は人類が手にした「必要悪」のようにみえる。核は恐ろしい兵器であり、それゆえに戦争抑止機能を持つとされる。原発も事故の恐ろしさは論を待たないが、多くの国々はエネルギー源としてこれに依存する。
ヒロシマで核抑止力を説くのは難しい。フクシマで原発容認を説くのも同じだろう。それらに頼る世界の現実があるとすれば、だれの判断で、どう扱うかが重要になる。
自衛官と外交官を経験した非議員の森本敏防衛相の就任で軍事における文民統制が話題になった。重要な軍事決断は専門家たる軍人ではなく政治家がすべきだとする考え方である。
米大統領の近くに核兵器発射の暗号認証カードが入った「核のフットボール」と呼ばれる黒いカバンを持つ将校が常にいる。核の使用は国民が選んだ大統領だけが決断できる。文民統制の象徴的光景である。
政治が軍事に優先すべきだとする文民統制は、専門家たる軍人に対する不信感を前提とする。日本では軍部の暴走が国を破滅させた歴史がある。いま「原子力村」と呼ばれる一群の専門家が批判されている。
文民統制はシビリアンコントロールの訳語であり、シビリアンが「市民」も意味するから話が複雑になるが、ここでのシビリアンは市民運動家ではない。軍人に対する文民であり、日本の場合は選挙された政治家を指す。判断を間違えば、選挙で落とせるからだ。
福島第一原発の事故対応を官邸が細かく指令したとすれば、大砲を撃つ号令を現場指揮官ではなく、いちいち政治家がかけたに等しい。バークレーでの失笑はこのためだった。
一方、大飯原発再稼働の是非をめぐる判断は、目前の危機への対応にとどまらない。それ以降の原子力政策への影響を考えれば、開戦や終戦の判断に近い。最高指導者がなすべき重大判断である。専門家たる軍人に、その判断を丸投げする民主主義国はない。
野田政権を信頼し、判断を任せられるのか。再稼働反対を説く専門家の主張の方が説得力があるようにも響くが、彼らは軍人や官僚と同様、選挙されたわけではない。選挙で落とすという責任追及ができない。
内容とは関係なく、首相の判断には正統性がある。問題が忘れられぬうちに、中身の是非を有権者に問えば、それは完結する。
[日経新聞6月10日朝刊P.2]
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