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(回答先: レッテルとしてのフクシマ 投稿者 ダイナモ 日時 2012 年 3 月 25 日 23:14:16)
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小田嶋 隆「レッテルとしてのフクシマ」の分析
日経ビジネスというネット雑誌に小田嶋隆氏の記事が出ていた。読んでなんともいえない不快感を感じたので、その理由を考えてみた。これはかなり複雑で嫌な構造をした詭弁だと思う。
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月末に福島を訪問しようと思っている。
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大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地の食べ物を食べたからといって何が危険だというのだ?
もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、本気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。
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ここが最初のポイントだ。
「反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ」
この文章では「反射的な反応は無意味で間違っている」という前提が置かれていることがこれでわかる。果たしてそうなのか。人間の反射的な反応は、じっくり頭で考えた反応に対して、常に劣位であると言えるのか。
私が反射的に気になるのは、「本気であぶないと思ってそう言ったのではない。」と言っていることだ。反射的な反応は本気ではなく、じっくり頭で考えた反応が本気だ、というのは、私には理解できない。これは人間の理解として間違っていないか。何か美味しそうなものを見て、「食べたい!」と思ったけれど、「いやいや、体重のことを考えろ。」と思ってそれを我慢した場合、「本気」はどちらか考えてみたほうがいい。
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この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。
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だとすると、多くの人は、本気で福島の状況にビビっている、と考えて良かろう。
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悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日本では、会話の中に出てくる「フクシマ」という言葉を、自然に受け流しにくい空気が流れている。だからわれわれは、驚いてみせたり、混ぜっ返したり、冗談を言おうとすることで「フクシマ」という言葉を、なんとか消化しようとしている。そういうやっかいな状況なのだ。
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確かに状況は厄介だ。それはしかし、放射性物質が大量にばらまかれた、という事実による厄介な状況である。
「悪気があるわけではない。差別しているのでもない。」
と頭に振っているのは、この厄介さが「悪気」と「差別」とのせいだ、という印象を導くための伏線と思われる。
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震災から一年を経て、福島の現況は、少しずつではあるが、改善しつつある。
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早川由紀夫氏がツイートで指摘していたが、このあとに、
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状況は、そんなに変わっていない。改善している部分もあるが、全体としては停滞していると思う。
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と矛盾したことを言っている。これは小田嶋氏が、印象操作を優先して書いていることの反映である。
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言いたいことはわかる。
原発でああいうことがあった以上、周辺の地域がいまなお深刻な汚染の中にあることは明らかだからだ。
でも、局地的な被害を過大に語る人間がいて、そのことが福島という大きな面積を持つ県に住む人々を困惑させていることもまた事実なのだ。
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ここでは、
(1)「周辺の地域がいまなお深刻な汚染の中にあることは明らか」
<でも>
(2)「局地的な被害を過大に語る人間がいる」
という2つの層の「事実」が「でも」で接続されている。こんなことをしてはいけない。
「そのことが福島という大きな面積を持つ県に住む人々を困惑させている」
というが、福島の人々を困惑させているのは、(1)の事実のゆえなのだ。(2)はその派生現象に過ぎない。それは、放射能汚染の事実のデータと、現在われわれが持つ科学的知識が福島の人々に正確に届けられたとしても、人々が困惑せざるを得ないことを考えれば明らかである。ところがそれを、この奇妙な操作により、(2)が困惑の原因だと思わせるようにしている。
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現実に、
「郡山市に人は住めない」
というような発言をする人間が、公的なメディアの中にすら存在している。
いや、これは本当の話なのだ。
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ほう、そうか、と私は思うだけである。「本当の話なのだ」という表現によって、「郡山市に人は住めない」という発言が異常であるという印象操作が行われている。
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原発から50キロ以上の距離にあり、間に大きな山地を挟んでいる郡山が、「人の住めない土地」だと、記事を書いた人間は本気でそう考えているのだろうか?
とすると、彼は、今日も郡山の空の下で、その土地の空気を吸って暮らしている三十数万人の市民を、人間とは別の生き物だと判断しているのか?
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これは、揚げ足取りである。「人の住めない土地」に住んでいるのは「人間とは別の生き物」だ、ということには全くならない。世界中には、ものすごく汚染されたゴミ捨て場に住んで、そのゴミの回収によってかろうじて生きている人々が沢山いる。それはもう、臭くて汚くて危険で、とてもではないが人の住めない土地である。そういう人がいる、ということと、彼らが「人間とは別の生き物」だということは、全く違ったことである。そういうことを言っておいて小田嶋氏は言う。
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いや、揚げ足を取ろうとしているのではない。
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いや、揚げ足を取ろうとしている。間違いなく。それを更に否定してみせるのは、悪質な詭弁だ。
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ただ、現実に人間が住んでいる土地に対して、「人は住めない」という見出しをつけてしまえる感覚に、私は、どうしても、うまく折り合いをつけることができないのだ。
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それは折り合いをつけられないはずだ。現実に相当の汚染が起きており、本当にそこが安全かどうかわからなくなってしまった場所が、現に人間が住んでいる土地だ、という「事実」に対して、誰もが折り合いが付けられないでいるのだ。しかしここでも小田嶋氏は、「見出しをつけてしまえる感覚」の方に、折り合いを付けられない、というすり替えを行なっている。
これは読者に対して行なっている、というよりも、彼自身が、自分自身に対して仕掛けている詭弁なのだ。なぜこんなことをするかというと、「反射的な反応は無意味で間違っている」という命題を前提にしているからだ。
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差別だとか、風評被害だとか、大げさに言い立てるつもりはない。
でも、「郡山市に人は住めない」は、やはり、率直に申し上げて無神経だと思う。
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ここでも先ほどと同じ手口が使われている。彼は、こういう発言は、「差別で風評被害だ」と言っているのだ。
続けて、巧妙で嫌らしい印象操作が行われる。
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福島の被害を大きめに伝えることで活性化するビジネスや、福島の復興を妨げることで利益をあげるタイプの立場があるということなのだろうか……と、そんなふうに疑いたくなるレベルの記事だ。
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と先ほどの「見出し」を攻撃した直後に、
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脱原発・反原発を唱える立場からすれば、放射能の恐怖が切実であればそれだけ、運動が展開しやすいという事情はあるのだろう。
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と並べるのである。このように並べることで、
「脱原発・反原発を唱える=福島の復興を妨げるビジネス」
という印象を与えている。
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私自身、原発は廃止すべきだと考えているし、その意味では、脱原発のために有利なデータは歓迎したいと考える。
でも、福島の被害が巨大であってほしいとは思わない。それとこれとは別だ。交差点に信号機を設置してほしい旨を訴えることと、そのために人身事故が起こってほしいと考えることは別だ。
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これは、彼が「脱原発」の意味を理解していないことを示している。脱原発というのは、今後の戦略である。それは「有利なデータ」で何とかなるようなものではない。それは我々が今後、どのように生きていきたいか、という意思に関わることである。データ合戦でどうこうなることではないのだ。生き方や世界観という次元のことなのだ。これは、彼がこの問題を真剣に考えてはいないことの反映であろう。
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今回は、福島について書くことにした。
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今頃言うな。
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まるで関係の無い話に聞こえるかもしれないが、私は、南京大虐殺についての言論状況を連想する。
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まるで関係がない。
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ただ、南京をめぐる話が、猛烈にめんどうくさいことになっている点を指摘することで、福島関連の議論が、同じ状況に陥らないように注意を促したいだけだ。
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南京は、加害者と被害者との関係が基本である。それゆえ、これを福島に当てはめるなら、東京電力・政府・原発村と、被曝者との関係とその間の論争に比定せねばならない。
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福島は、南京化しつつある。これは、とてもよくない傾向だ。
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福島は南京化していない。全然していない。福島では加害者と被害者との共依存関係が形成されつつある。これは非常に厄介な状況である。
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特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。
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本当にそうか。こんなふうに定式化できるとは、私は考えない。議論が厄介になるのは、双方が詭弁を用いる場合だ。詭弁をやっていたのでは、事態はどんどん悪化する。小田嶋氏の議論は、詭弁の拡大に貢献している。
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わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題――南京大虐殺は、既にそういうタームになっている。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。
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南京事件について真剣に実証研究を積み重ねてきた歴史学者の研究を、「狂信者」とレッテル貼りして、読んでいないのだろう。
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これが冗談で済めば良いのだが、福島をめぐる状況は、現在、南京方向に向けて推移している。
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推移していない。
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具体的には、原発事故の収束を宣言し、原発の再稼働を企図する人々がいる一方で、反対側には放射線被害の実態を誇張して語る人々がいるわけで、両者ともが、被害や復興の実態を歪曲して伝えているのである。
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「事実を歪曲するな」と多くの人は主張しているのだが。
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私は、この状況を憂慮している。
実際、ツイッターや2ちゃんねるを見ていて目を疑うような書き込みに驚かされる機会は、事故から一年を経て、むしろ増えている。
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私も憂慮している。全然収束していない事故を、政府が公式に「収束宣言」するようなとんでもないことに、驚かされる機会が、事故から一年を経て、むしろ増えているからだ。何の根拠もなく、放射能は屁の河童という、焼夷弾恐るに足らずの竹槍精神を振りかざす人が増えているからだ。
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私が不安説に対して同情的だったもうひとつの理由は、安全率という考え方をなんとなく信頼していたからだ。よくわからないものに対応する時には、大きめの安全率をとっておいた方が賢明だ。後になって事実が判明した時に、避難が大げさすぎたことや、安全策が過剰だったことは、それらが過少だった場合に比べて被害が少ない。
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これは合理的な考えだ。
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ところが、不安説は、一向に終息しない。
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なにが「ところが」だ。見極めのできない危険性については安全側に立つ、という当然の予防原則を、「不安説が終息しないから」という理由で放棄するとは、驚きの一言である。
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事態の究明が進んで、比較的安全な地域とそうでない場所の区別が明らかになり、避けた方が良い食べ物と大丈夫な食べ物が分別される状況が整いつつある中で、不安説は、むしろ勢いを増しているように見える。
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本当にそうか?
区別できるのか?
私はそんな根拠はどこにもない、と考える。
いまだに、いったい、どこまでが安全でどこまでが危険なのか、サッパリわからないのである。
こんな大規模で広範囲なよくわからない汚染を、片付ける以前に、どうやって調べたら良いというのか。
呆然とする。
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私としても、そうそう鷹揚に構えてばかりもいられなくなる。
しかも、不安説は、個々人の感情的な反応であることを超えて、集団的な圧力を形成しつつある。と、これは、少々やっかいな副作用をもたらす。
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ここにも「個々人の感情的な反応」への軽視がある。それを軽視して押しつぶすことが、「集団的な圧力」を生じさせるのだ。この人間と社会とに対する倒錯した認識が、このような詭弁を生み出すようだ。それに集団的な圧力として作動し、マスコミなどの言説を歪めているのは、放射能の危険を隠蔽する政治的圧力ではないのか。なぜそちらは軽視するのか。
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不安のようなものでも、組織化されると一定の「権力」を帯びるようになる。「利権」と呼んでも良い。
不安利権は、やがてビジネスになり、政治的な運動の体を成すに至る。
こうなるともはや無害ではない。
復興の妨げになり、差別の引き金になり、ヒステリーの温床になる。
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最初から「権力」で「利権」である側は、なぜ無視するのか。事態を軽視して隠蔽しようとする利権を持った集団が、権力を利用して作動していることが、復興を妨げ、差別を引き起こし、人々の精神を不安定にしているのではないのか。
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で、おなじみの陰謀説が跋扈しはじめる。
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ほう。
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政府は事実を隠蔽している。
東電と電通と電事連とマスコミは裏で手を結んでいる。
記者クラブは経産省の犬だ。
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このあたりは、事実だと私は考えているが。
そればかりか、もっと広い範囲で、社会が隠蔽工作によって作動しているのが問題だと考えている。
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空間線量を測定する係の人間は地面を水洗いしてから計測している。
世界中のメディアが日本を笑っている。
このままでは国際社会の中で日本は放射能テロ国家の認定を受けることになる。
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こうやってちょっとおかしい話と並べることで、前半も異常な妄想だと思わせる印象操作なのだろう。
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言葉が発明される。レッテル貼りが横行し、リストが作られる。
誰が御用学者であり、誰がエア御用コメンテーターであるのか。
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考えてみて欲しいのだが、御用学者がどれほどのリスクに晒されているというのだろう。たとえば東大のなかで、御用学者は安泰である。大半の学者はただ黙っている。私のような意見を表明するのは、危険である。「あいつは危険人物だ」とレッテルを貼られ、リストを作られる。それと2ちゃんの御用学者リストと、どっちが危険だと言うのだろう。
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かくして、議論は死に、論争は南京化し、真実は虐殺される。私は、このことをとても懸念している。
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真実を虐殺するのは、詭弁であり、隠蔽である。
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最後に、原発事故以降に発明された福島周辺の言葉について解説しておく。
不毛な議論の周辺では、不毛なレッテルが大量生産され、それらのレッテルが思考停止を招くことになっている。
用語について説明する前に、他人の言説を「レッテル貼り」と決めつける態度は、それ自体が「レッテル貼り」であるという指摘と、「思考停止ワード」という言葉が、実は最も典型的な「思考停止ワード」である旨について、一応の反論をしておく。
おっしゃる通り「レッテル」は「レッテル」の一種だし、「思考停止ワード」は「思考停止ワード」そのものだ。
が、だからこそ、われわれは、「自分たちがレッテルを貼り合っている」ことを自覚すべきなのだ。
ともあれ、自分たちが使っている「レッテル」と「思考停止ワード」を列挙して、互いにそれを含みおいた上で議論をすれば、論争の不毛さはずっと軽減される。そう考えて、せめてレッテルを貼る時には、そのレッテルに対して覚醒していようではないか。
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何を言いたいのか私にはよくわからないが、少なくとも小田嶋氏の文章が、詭弁を解消する方向のものではないことは、確実である。
ここから小田嶋氏は「レッテル」の解説をするのだがあまり面白くない。ひとつだけ取り上げておこう。
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【フクシマ】・・・つまるところ、この言葉を使う人間は、自分が、「国際派の日本人」である旨をアピールしようとしているに過ぎないのである。
サムライ、ハラキリ、ゲイシャ、ツナミ、などなど、外人さんの視線を背景に語る日本人は、自国の文化や出来事を物珍しい陋習、ないしは恥辱として扱う植民地商人の手つきを……というのは、言い過ぎですね。はい。撤回します。
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「そもそも、苦情を受けて引っ込める程度の覚悟なら、どうしてはじめからもう少し穏当な書き方ができなかったんだ?」
と「郡山市に人は住めない」と書いた記者を批判しておきながら、こういうことをするのは、どういう神経なのだろうか。
それ以上に、この「植民地化」の問題は、もっと深刻に我々の社会の言説を覆っていると私は考えている。
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以上です。今回はオチがありません。みなさん。福島に行きましょう。当地には素晴らしい春がやって来ようとしています。大丈夫。安全厨の私が保証いたします。
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オチは十分についている。
============念のため全文を下記に保存======
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