04. ♪ペリマリ♪ 2012年10月05日 14:20:57
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kanegon様釈迦に説法とは思いますが、 http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/pati.html様のブログより 転載させて戴きます。 2010年2月25日
オカルトビジネスのドン 船井幸雄 引用・参考 「カルト資本主義」 斎藤貴男
株式会社リム・コーポレーション。 1992年1月に設立された、、社員十数人から成るこの小さな会社の影響力は半端でない。正式な顧問先は全国で10社程度だが、勉強会「LIMクラブ』は80もの会員会社を擁する。95年にはパチンコ店経営の新規参入を図る大手企業約250社を対象に連続セミナーも開き、経済界の話題をさらった。
当時の社長は水田和男。 水田は本来、京都を拠点にパチンコ店やディスカウントストア、レストラン等幅広い事業を展開する「ビッグエム・グループ」の総帥だ。そこで、と彼が打ち明ける。 「パチンコホールとしては準大手ですが、私自身、かねて業界健全化の必要を痛感し、将来に備えた独自の研究会をやっておったんです。そんな折、私の経営の先生である船井総合研究所の船井幸雄会長が行政からパチンコ健全化への協力を非公式に要請され、私に話を持ってきてくれた。91年初めのことでした」
かくて一年後、リムは設立された。資本金2500万円。出資比率は水田側(水田観光株)42%、船井側(船井コーポレーション株)42、ほか二人の役員が16%。 (中略) 最も犯罪や悲劇の誘因は、他ならぬ警察庁によって育まれていた。80年代末、脱税が罷り通るこの業界の健全化を謳った警察庁は、三菱商事やNTTなどと連合してパチンコ店へのプリベイトカード(PC)導入を急ぎ、そのためカード専用機(CR機)に高いギャンブル性を許した。 大義名分を否定できない。が、当局には業界に多い北朝鮮関係者を監視下に置きたい公安警察的発想に加え、大企業と連動して天下り先を拡大するなど1石3鳥の狙いがあったといわれる。結果、パチンコ店は大衆娯楽場から、国家公認の鉄火場に変貌してしまった。 企業の論理や官僚的な視点で判断するなら、だからこそパチンコ業界は急成長を遂げたことになる。PC導入当初に10兆円とされた市場規模が、いまでは国家予算の半分に相当する30兆円ほどにも膨らんだ。世界最大の産業と言っていい。 パチンコ業界のこのような現代史を、リムは警察当局とと寄り添って歩んできた。権力を味方につけた船井が、専門家の水田とともに時流を掴んだビジネスを展開する構図である。 *注 現在、ネット上で調べただけであるが、リム・コーポレーションはみつからない。しかし、船井総研パチンコビジネス支援グループサイトというのがある。 http://www.funai777.com/index.php
船井幸雄は1933(昭和8)年1月10日、大阪府中河内郡松原村、専太郎・コギク夫妻の長男として生まれた。下に妹と弟がいる。彼は付近一帯に散らばる船井一族の本家だった。 神官の家系である。今も大阪などで神主をしている親族が少なくない。有力な農家だった専太郎もその父親も、地元の熱田神宮の管理を任されていた。船井にとっても、神社は庭のようなものだった。
船井が京都大学農学部農林経済学科を卒業した。卒論のテーマは『経済外強制と封建制」当時はマルキストだったと回想している。 朝日新聞のアルバイトを経た後、関西財界の大物・三村起一の声かけで(財)「安全協会」に就職する。 ここでの仕事がその後の船井を運命づけることになる。 最初の仕事は雑誌の編集である。 そのころ労務管理の分野で流行していた“人間関係論”の実践を目指す機関・団体の専門誌の編集に携わった。 “人間関係論”とは管理者と従業員、労働組合と従業員、組織目標と個人目標等職場の人間的な側面を重視する経営学の立場および研究を指している。 5年後、独立しコンサルタント事務所を起こすが個人事業主の辛さを痛いほど思い知ったという。 64年「株日本マネジメント協会」(JMI)に入社したのは64年。 実績を重ね、出世、70年にはJMI時代の後輩数人を引き連れ、「(株)日本マーケティングセンター」を設立する。15年後に社名を「(株)船井総合研究所」とする。 船井の職業遍歴は、戦後の日本的経営を支えてきた労務管理と重なり合っている。若き日のマルキストが何故資本家の軍門に下ったのか。彼は言葉を濁した。 「とにかく食って行かなくちゃならなかった。三村さんが可愛がってくれたし」
昭和初期までの安全衛生運動は劣悪だった労働環境の改善に貢献した。 しかし、戦時中は労働統制運動に変質する。人命尊重の理念は置き去りにされ、労使一体、産業報国を提唱する機関、「大日本産業報国会」となる。
船井が可愛がってもらったと述懐する三村は41年に産業報告神社の建立を求める提案をしている。 「ただ働かせるだけではいけません。人の心を鼓舞するものは、言葉だけではいけません。卑近なものは物質であり、高きものは名誉である。第一戦の将兵には国家的表彰があります。」 「第一戦と同様だと激励される産業兵士は、今や物的方面においては賃金統制令によって規制されて追って吾吾としては殆ど報いる方法がない。」 別箇所から 高度経済成長の幕が開き、三村起一ら戦前・戦中の立役者たちが第一人者であり続けていた安全衛生運動は、生産性運動と連動しつつ、またしても労務統制の色彩を帯びた。”産業報国”の精神は目標を変え、マルキストたちのノウハウをどん欲に取り入れながら、我が国の社会を再び規定していくのである。 船井が後に入社したJMIはMTP(Management Trainning Proguram =管理研修プログラム)と呼ばれる企業内教育を中心とした教育訓練会社として創業されている。 MTPは元来は米国極東空軍の下士官用プログラム。 JMIの元社員の中にはMTPを「兵隊が喜んで死ねる洗脳の方法」と理解している人もいる。
60年代半ばにはST(Sensitivity Training=感受性訓練)が全盛を迎える。 STも米国生まれの技法で46年、ナチス・ドイツから亡命したユダヤ人心理学者クルト・レヴァンが、差別撤廃運動のリーダーを養成する過程で偶発的に生まれたとされる。 これが軍隊、企業、宗教団体の教育訓練向けにアレンジされ、40年代に在日米軍にもたらされた。その後、MTPに物足りなさを感じていた産業界の要請にこたえて禅の要素が加味され、企業社会で一挙に普及した。 STを受講したために精神異常をきたすサラリーマンは珍しくなかった。死亡事故も相次いだらしい。それでも企業は、STに社員を送り込み続けた。日本化薬や清水建設、住友信託銀行、キリンビール、ディスカウントストアのダイクマ等がことに熱心だったという。
さすがに70年代には下火になるのだが、船井が在籍した当時のJMIはこのSTも手掛けていた。すでに経営コンサルタント会社に脱皮していたものの、経営指導には教育訓練がつきものなのだ。 子どもの頃、なんで世の中の男の人たちはなんでいつも忙しそうで、怒ったような顔をしているのかな〜と不思議に思っていた。 自分の父親にしても、不機嫌な時の方が多かったから。 これを書いていて、それは単純に個々のストレスとはいえない、もっと大きなものが社会全体を覆っていたんだと思う。 現在の方がもっと深刻なのかもしれないが。 この日本の社会全体が被害者ともいえるが、一番被害を受けるのは弱い立場、障害や病気を持った人、女性、子ども だと思う。 人間って、自分が受けた心の傷やストレスを自分より弱い立場の者に対する威嚇や操作、傷つけることで埋め合わせようとすることが多いから。 心理学でいうと代償行為っていうやつかな・・・? 日本は伝統的に、一番社会的に強いであろう壮年の男性の心を支配することで、社会全体を統制してきたのだと思う。 ほんとに効率いいよね。 大日本帝国軍人は戦後、企業戦士と名前を変えた。 (10・2・26 加筆) 書いてて悲しいね。 2010・2・26(続き) 引用・参考 「カルト資本主義」 斎藤貴男 引用 人間の思想は職業的体験だけでは形成されない。豊かな農家に生まれ、超一流大学を卒業したにもかかわらず、船井は人並み以上の苦労を積み重ねてきた。 船井自身が回想する。 「高校生の頃、何故か頭が禿げてしまった。今の仕事に就いてからは、実際より年上に見られるから好都合になったけれど、若いころは悩みましたよ。背も低くて女の子にはもてないし、ケンカするたびにハゲと馬鹿にされる。おまけに気胸といって胸まで悪くして、東大志望だったのに、現役の時は受験もできなかったんです」 これが最初の挫折である。希望通りの就職がかなわなかったことはすでに書いた。 (筆者注 朝日新聞社希望だったが、本採用待ちいうことでアルバイトをする。ハガキにハンコ押しの毎日だったそうだ) 父・専太郎の心配はかなりのものだったらしい。堅実な船井本家の長男として、農家を継ぐのでなければかたい大企業や官庁に勤めてもらいたいと考えていたようだが、船井にはまるでそんな気がなかった。 「僕は昔から、他人の下につけない性分なんです。戦時中の軍事教練でも、配属将校に逆らって殴られてたぐらいでね。朝日のバイトを辞めたのも、まるでサラリーマンみたいな悲哀を感じていたからなんです。」 船井一族の異端児は、次第に父親との溝を深めていく。ある親族によれば、船井が安全協会を辞めて独立した際、専太郎は「勘当だ」とさえ口走ったという。 船井はこの間4歳年下の女性と結婚し、男児をもうけている だが事業が軌道に乗らず、さりとて父親との確執で実家の援助も受けられない生活は困窮を極めた。 そして62年。まだ20歳代だった船井は、その父親と、最愛の夫人を相次いで失ってしまうのである。 「親父はガンだったから仕方がない。でも彼女は昼の12時にお腹が痛いと言い出して、夜の十時に亡くなっていました。年の瀬の寒い季節だったから作ってくれた食事がそのまま残ってて何日も食べました。もう仕事なん糧につかなかったですよ」 この件について船井は多くを語ってくれない。ただ、これも親族によると、彼は二人の死に相当なショックを受けた様子で、「自分の責任だ」と繰り返していたという。 非礼を承知でプライバシ―に踏み込むのは、今日にいたる彼の人生観・死生観はこの時期から培われてきたと、船井自身が著書でしばしば述べているからだ。『未来の分水嶺』には、こうあった。 〈(妻)はまだ25歳、幼児を残しての悲しい(?)旅立ちでした。このようなことがあり、私は「生命とは」「運命とは」「死とは」といやおうなしに深く考え勉強するようになったのです。 それまでの私は、運命や宿命論はもとより輪廻転生の考え方などにつきましては、全く興味がなくつまらない妄想の一種としてしか思っていませんでした。この種の勉強をはじめてスェーデンボルグを知り、エドガー・ケイシーを知りました。〉 なお二人の人名のうち、前者は18世紀を後者は20世紀を代表する霊媒或るいは預言者である。いずれのニューエイジの定番的人物だ。船井のマルキシズムへの情熱はとうに醒めていた。 スェーデンボルグ、エドガー・ケイシ― 少し懐かしい名前だ。 いくつか本を読んだ。 その当時は「なんだかよくわからなかった」というのが正直な感想である。 周囲にはあれは凄い、本物だとかいう人がいないでもなかったが、正直、なんじゃらほい???であった。 (もちろん、そんなことにも全く関心のない人の方が圧倒的に多かったが。) 今は多少わかる。 彼らはその名の通り、霊媒=霊にとりつかれた人物である。 スェーデンボルグの「霊界日記」は確かに霊界=1次元界の話である。 霊界には自分が死んだ=肉体から離れたということが理解していない霊もたくさんいる。 故に生前の行動・想念そのままに漂っている。 霊とは魂が堕落したものである。 この辺については、次の覚醒への記事で詳しく書くつもりである。 参考記事 顕現の世界 3次元・2次元・1次元界 船井の話に戻ろう。 彼が闇の深みにはまり込んでいったのは父と妻を亡くしたこの時期であろう。 カルトの現メンバー及び元メンバーを調査した結果では、破壊的カルトに勧誘された人々の大多数は、人生の中でストレスを感じる気づつきやすい時期に、誘いを受けている。 ストレスはなんらかの大きな変わり目、例えば新しい街へ移ったとか、新しい仕事を始めたとか、人間関係の破綻とか経済的不安の体験とか、或いは愛する人を失ったとかいうことが原因である。 こういう状態の人々は自己防衛機構が過度になるか弱化するか、そのどちらかになりがちである。 こういうときに、もし彼らが破壊的カルトを見抜いてそれを避ける術を知らないと格好の餌食になる。 「マインドコント―ルの恐怖」スティーブ・ハッサンより 船井の場合は、この時期、救世教や学会やら統一教会やらいわゆる宗教やカルトの接触はなかったようである。 彼の場合、このような手合いに接触されたなら、逆に反発して闇に落ちなかったかもしれない。 彼はどちらかといえば、はねっかえりで人に価値観を押し付けられると猛烈に反発する。(自分もそうだからよくわかる) 彼は、自ら生まれ持ったアイデンティティ=神官の家系に西洋風のニューエイジ思想を統合することで、自分の活路を見出そうとしたのかもしれない。 そしてそれが自ら闇に突き進んでいくことになる。 まさに、日本の新霊性運動=ニューエイジの申し子と言えるであろう。 *このブログやHPをいつもお読みいただいている方はもうお察しであろうが、日本の神道も西洋のニューエイジも元をたどれば闇・魔界から由来するものである。 チャネリングは降霊術と同じ 魔王クロウの日本封じ 神社 さらに詳細は右メニューにHPとブログのまとめへのリンクから。 船井さんの魂は元3次元界の支配者に縁が深い、しかしおそらく元は高次元界から堕落して3次元界にやってきた魂であろう。 闇は一度闇に落ち、闇の手の者として有用な働きをしたものをそう簡単には手放さない。 CIAやMI6やマフィアが裏切り者を許さないのと同じ。 イルミナティがロスチャイルド・ロックフェラー・をはじめとする13血流の家族を手放さないのと同じである。
興味深いことに、今日のカルト指導者には、かって自分自身マインドコントロールの被害者だった人物が多い。 「マインドコントロールの恐怖」スティーブ・ハッサン 闇に堕ちることは易く、光の道を歩むのは試練と困難の連続である。 引用
船井はこの間も、仕事の上ではがむしゃらで、どこまでも戦闘的だった。やりすぎて顧問先の企業を次々と倒産させたこともある。“喧嘩の船井”“猛獣軍団”の異名さえ奉られたという。 (中略) 「だけどいつの時代でも、経営者という人種の90何パーセントかは、いざというときに神様や易者に相談に行くものなんです。家族や健康のことも含めてね。彼らは論理よりも、断定してほしんですよ。経営コンサルタントという仕事を社会科学として追求してみても、それじゃあ絶対にに勝てないと何度も思った。それで神様の世界をとことん勉強してみたいという部分もあります。」(船井談) 船井一人を責めるのはどうやら間違いらしい。 どうもこの3次元の人間は自分で決断して行動することが相当苦手だ。 健康は医者に決めてもらいたいし、毎日の行動や価値観は会社や宗教や思想に決めてもらおうとする。 独立して自営業をしている人も誰かに指示や命令を仰ぎたい。 その行動様式が闇をはびこらせる。 船井はそして、精神世界専門の出版社「たま出版」社長の瓜谷侑広が86年夏に設立し「(株)たまメンタルビジネス研究所」に京セラ会長の稲森和夫とともに役員として名を連ねた。
これはあまりうまくいかなかったようである。(実のところはうまくビジネスにならなかったのだろう)
船井幸雄と稲盛和夫。ニューエイジを企業社会に持ち込んだ二人の経営者は、こんなところにも接点があった。 (中略) 「たまメンタルビジネス研究所」を離れて方の船井と稲盛は、ターゲットとするファン層の微妙な違いを保ちつつ、かといって十分な棲み分けはできないまま、あたかも精神世界ビジネス界におけるライバル同志のように過ごしてきている。幼き日に優秀な学業成績を修め、強烈なエリート願望を抱きながら、病気や家庭の事情から果たせず、独力でのし上がっていくしかなかった点で共通する二人の経営者は、それぞれに老境を迎え、遅れてきた”エリート”として、オカルトを方便に人々を内面から支配する快感に恍惚としているように見える。 今、船井は語る。 「私は超能力を持っている」「水に“気”をいれてみましょう」「雲を消して見せます」「あなたの”チャクラ”(エネルギーの集積部)を開いてあげよう。元気になりますよ」 おせっかいながら言っておくが、このようなタイプの人にあなたのオーラに触れさせてはならない。 いっとき元気になったような気がするかもしれないが、あなたのエネルギーは確実に吸い取られることになる。 その証拠にあなたはこのような人たちに依存するようになる。 たとえ、近寄らなくても講習会に参加することでお金という形でエネルギーを奪われつづける。
そうした結果、自己の魂の自由と尊厳を自ら手放してしまうのである。 |