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(回答先: ラジオ考古学:エリック・ドラード著(和訳)ワイヤーレス技術の隠された歴史 投稿者 C.V 日時 2013 年 4 月 05 日 20:34:16)
Radio Archaeology by Eric Dollard
ラジオ考古学 エリック・ドラード著
http://ericdollard.com/radio-archaeology-by-eric-dollard/
1997年6月、ボリナス・ラジオ局KPHは、海洋産工業への94年に渡る奉仕に終止符を打ち、沈黙へと至った。KPHは、サンフランシスコで、PH(パラス・ホテル)として、有名なラジオ実験家であり、先駆者であるリー・デ・フォレストによって1903年に創設された。PHは成功をおさめたワイヤーレス局となり、多くの他の各局とワイヤーレスの各特許と共に、後にアメリカン・マルコーニ社に吸収された。1913年までに、サンフランシスコの北13マイルの漁業と材木業の町ボリナスが、新施設の場所として、マルコーニ本人によって選び出された。ボリナスは、今でもそうだが、物質地学的に並外れた力のラジオ特異点で、この事実は、マルコーニが来る何世紀も以前から、先住民であるミヲク・インディアン(族)に認識されていた。マルコーニが大規模な技術開発の努力を行ったのは、ボリナスの近くの新施設で − 彼の新たなワイヤーレスの施設の建設は、当時、世界で最も大きいものの一つだった。
アメリカン・マルコーニ(社)は、発電所と、関連施設建設のために、J.C.ホワイト社を雇った。ジェネラル・エレクトリック(GE)が、チャールズ・ステインメッツとアーネスト・アレクサンダーソンの努力を通して、ワイヤーレス設備を設計し建設した。一つの対の各システムがアメリカン・マルコーニによって採用されたが、一つはニコラ・テスラの破壊的・分裂的放電/オシレーション(振動・振幅)トランスフォーマー(変換機)システムで、もう一つはアーネスト・アレクサンダーソンのアルタネーター(変換機)/複数チューン(同調)されたアンテナ・システムだった。両者の各システムは地球(内部)への配信を含んだので、海の中に大きな各青銅製のプレートを埋める事と、発電所の周りの土地に何マイルものワイヤーを埋める事が必要になった。これらは現在でも未だに存在し、この場所に強力な電子現象的影響を及ぼしている。テスラ・システムは、300キロワットのパワー・レベルで機能し、アレクサンダーソン・システムは、200キロワットで機能し、各アルタネーターは毎秒18キロサイクルで機能した。この施設は、当時の科学と哲学の最先端を体現していて、現在、KPHと呼ばれるものに、マルコーニは、テスラとステインメッツのワイヤーレス原理・原則を共に(一所に)もたらした。マルコーニはまた、電気をボリナスの町にもたらした。
この冒険(試み)の全盛期に、アーネスト・アレクサンダーソンは、ある技術開発のコンヴェンションで、ワイヤーレスは「人類を、政治的奴隷制から、永遠に解放するだろう」と宣言した。彼がほとんど気付かなかったのは、何十年も後にボリナスが、政治的奴隷制を永続させるための役割を果たしたという事である。
1919年、この盛大な施設、KPHボリナスが完成すると、それはアメリカン・マルコーニから米海軍に押収された。1920年に、KPHは、東海岸の各関係施設と共に、科学者アレキサンダーソンまでも含めて、デーヴィッド・サーノフ指揮下の、新たに設立されたラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)に渡された。そのあたりの少し後に、ワイヤーレスの機材は、18キロサイクル・アルタネーターを除いて、破壊され岩壁から海へと投げ込まれた。1920年になると、ジェネラル・エレクトリックは、水冷却プリオトロン・オシレーター(発振器)をハイ・フリクエンシー(高周波数・振動数)電流の源泉とする開発を始めた。プリオトロンは、デ・フォレストの熱イオン三極真空管を改良したヴァージョンだった。プリオトロン・オシレーターは、その騒音が2マイル離れたボリナスの町でも聞こえた前代のオシレーターよりもっと扱いやすかった。プリオトロンは静かだった。通常のL字型エリアル(アンテナ)と共に、アレクサンダーソンは、今日、コリネアー・ブロードサイド・アレーズ(同一直線玄側・舷側配列)として知られる新たな構造を開発した。これらの配列は、KPHの残りの歴史において、主要のアンテナと成った。
1924年になると、増大するKPHの性能を補佐するために新たな施設が完成された。第”2”ビルは、新たな配信機材のために建設され、第”9”ビルは、電力サブステーション操作として建設された。立体駐車場もまた建てられた。ジェネラル・エレクトリックは、其処で基準マスター・オシレーター電力アンプ設計・設定を使い新たな配信記を開発した。”207s(シリーズ?)”と呼ばれた水冷却プリオトロンが電力アンプの役割を果たした。オシレーションはクオーツ・クリスタルからカットされたプレートから引き出され、それから開発されたばかりの860と861四極真空管を使った各中間段階を通して高電力レベルへとアンプされた。これらの各システムは”B”セットと呼ばれ、メガサイクルの範囲で機能し電力出量は20キロワットだった。アレクサンダーソンの18キロサイクルで使用された彼の無限伝播・繁殖速度原理・原則は、再びメガサイクル機能のための新たな設計に応用された。これらはタイプ”A”プロジェクターと呼ばれ魚の骨の形をしていた。この”A”は、地(グラウンド)に電気誘導の転移をさせない縦電磁ブロードサイド配列だった。此処が電磁たジオの誕生で、それが今日のラジオである。
1920年代の終わりから1930年代にかけて、ジェネラル・エレクトリックは、”B”セットの大型ヴァージョンとそれらに続く”C”セットを開発した。これらは40キロワット級の電力で機能し、未熟なアンプリチュード・モデュレーション(振幅変調・調整)を使用した。これらはタイプ”D”と”E”セットと呼ばれた。RCAの科学者達、ビーヴァレージ、カーター、そしてハンセルが、電磁波アンテナを開発した。これらの各アンテナは進行波原理・原則で機能した。大きな自己サポート・タワー(s)が、何百フィートもの高さの空中で長いワイヤー(s)を支えるために建てられた。これらの各アンテナはタイプ”B”と”C”プロジェクター(s)と呼ばれた。これらの中からタイプ”D”が出て来て、今、ロンビック(菱形)配列として知られている。ロンビックは今日まで主要のHF(ハイ・フリクエンシー)アンテナとして残っている。
一つのあらたな局が今、KPHと共に立ち、それはKETと呼ばれた。KPHは、船舶から陸上通信の元祖としての役割を果たし、時に第1ビルと呼ばれたマルコーニ・ビルに残っていた。KETは、新たな”Z”ビルで、東洋との海外点から点(通信)の役割を果たし、マルコーニ・アレクサンダーソンの18キロサイクル・システムに取って代わった。KETが、点から点へのオペレーションのための主要のコール・レター(s)(モールス・コードの?)としての役割を果たす間、局が供給していた莫大なチャンネルをカバーするために多く(の人)が配置された。KPHでまだ使われていたモールス・コードは、KETのためのアームストロング・周波数シフト・システムとテレプリンター・オペレーションに道を譲った。
歴史のこの時点において、この伝達(通信)システムの上に、劇的な太陽風の減少を通して、冷遇を持って照らした。減少された太陽風は地球のイオン層・電離層を弱め(薄くし)、それによって発せられた電磁波(s)の伝播・繁殖の能力を減らす。HFラジオにとって大きな頓挫であったが、RCAは更に高い電力と更に大きなアンテナでその道を強引に開いた。競争に打ち勝つという熱望が、HFバンドの混雑が増す中、更なる高電力使用を強いた。プリオロン水ジャケット(s)の中の水が、モールス・コードと共に歌うのが聞かれる事が出来た。電磁ラジオは永遠に太陽のサイクルと婚姻させられ、11年周期で中絶・途絶を経験した。後の1950年に、RCAの科学者ネルソンは、各惑星のサイクルもまたラジオ伝播・繁殖の中で主要な役割を果たしている事を確定し、ラジオ占星学の開発が必要となった。
1939年には、RCAは、”F”セットの設計と開発を、ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーションに委託した。この配信器は、ジェネラル・エレクトリックの”D”または”E”セットとあまり変わらないが、GEによるRCAへの機器供給の圧倒から分岐する点の役割を果たした。RCAは既にGEセットのための彼等独自の各真空管と各コンデンサーを造っていたが、この頃、完全な配信器の生産を始めた。RCAに設計された最初の配信器は”S”セットだった。それは新型強制空気冷却三極真空管、891で、プレート振幅変調された。
”S”セットは声と音楽のためのAM短波配信ユニットで、出量は20キロワットだった。同じ頃、RCAはブンネル・テレグラフ社から”U”セットを買い取った。”U”セットは”S”セットよりもっと強力だったが、それらには連力アンプにおける不安定さに向かう傾向があった。これらは空気冷却変調器と、独立した蒸留水冷却システムを必要とした大きな単一水冷却三極真空管を要する高忠実度振幅変調配信器だった。
歴史のこの時点で、第二次世界大戦が進行中で、”U”と”S”の各セットは日本へのプロパガンダ放送の役割を担った。局は、対敵攻撃にそなえて陸軍兵達に囲まれた。ボリナスは米国ラジオ通信の主要なターミナルになっており、攻撃目標の対象になると予想された。日本軍は既に、フィリピン諸島のRCA局を破壊していた。米海軍がシーンに再入し、古い18キロサイクルワイヤーレス変換器を再起動させ、新たなアレクサンダーソン式複数ロード(?)されたアンテナ・ネットワークを立てた。RCAの電磁ラジオは潜水艦と通信する事が出来なかったので、海軍はマルコーニのワイヤーレス科学技術がまだ必要だった。海軍はまた、地上通信のためにRCAの配信器を利用し、独自のヘルツ式ダイポールアンテナをそのために立てた。幾つかのシグナル・コープス水冷却三極真空管(129B)配信器がマルコーニ・ビルに設置された。出力10キロワットで、これらは戦後KPHのあらたな配信器になった。
戦争が終わった時、ワイヤーレスも終わった − 永遠に。テスラとステインメッツはとっくに死んでいて、マルコーニは歴史の中だった。デ・フォレストはまだ生きていたが、ファーンズワースだけがまだ発明していた。それからサーノフがいて、その(指揮下の)RCAは地球上の最も強力な会社に育ったが、死んだ(発明を奪われ口封じされた)発明家達の跡を残した。海軍はボリナスを離れ、変換器をジャンクにした。もう一層の壊れ物が岩壁の上を越え砂と塩に飲み込まれた。”V”セットと呼ばれた10キロワット・シグナル・コープス・の各ユニットが残り、それらがその最後の年々までKPHに奉仕した。
1950年代には、ボリナスのRCAグローバル通信施設は、大規模な拡張を経験した。第2ビルはHF配信機器と役目を終えたアンテナで混雑した。ロンビックアンテナは素晴らしいパフォーマンスを披露し、点から点へのラジオ通信の主要アンテナになった。コリネアー・ブロードサイド配列はKPHの船舶から陸へのアンテナとして残った。
旧式の”A”,”B”,と”C”,の各アンテナは下ろされ、50のロンビックスが戦後に建てられ、3,000エーカーの土地を占領した。BL−10と呼ばれる50キロワットで、500キロサイクル配信器がマルコーニ・ビルに設置された。それは一つの巨大な強制空気冷却三極真空管を使い、重さは100パウンドを超えた。対飛行機点滅ランプのついた315フィートの配信塔がそのアンテナとして立てられた。その下には大きなチューンする(調整)ためのコイルのための小屋が建てられた。新しいビルが、新型750キロワット、4きろヴォルト発電セットのために建てられた。海軍のL.S.T.ランディング船からのポート・エンジンによって動かされ、このセットはボリナスの町全体の電気を賄う事が出来た。第2ビルに、2Aと呼ばれる大きな加入が成され、その2500キロワットキロワットの電気的システムは、局の増えているロードに合わせるために、パシフック・ガス・アンド・エレクトリック(PG&E.)に連携された − 電気代は月々25,000ドルを超えた。
1950年代中頃には、マルコーニとKPHは巨大なラジオ施設に育った。テレグラフ・オペレーターが彼のキーを押した時、ボリナスの町の明かりは暗くなった。RCAグローバル通信は事実上、太平洋への全てのラジオ通信を担った。”K”と”L”セットと呼ばれる新型の20と40キロワット配信器をRCAは導入した。”L”セットは賑幅変調型で、”K”セットは周波数シフト・キー型だった。かれらはRCAの最良の設計を代表する各改良ユニットだった。BA−6Aリミット付きアンプの様な幾つかの操作機器は、今でもまだ必要とされている。配信とテレプリンター機能は”K”と”L”セットで受け持たれている。
1960年代には、更に大きな電力と大きなチャンネル能力を許した賑幅変調過程である、サイドバンドと呼ばれる新型の革命的開発を見た。音声周波数トーン・グループ(VFTG)を通して配信器毎のチャンネル能力増幅は2から64テレプリンターに広がった。テレシグナル・コープ101と102VFTGの各ユニットはRCAによって購入され、RCA自体のものかの様に見える様にRCA901と902の名前のタグがつけられた。(これはRCAの典型的なやりかただ。)RCAの科学者カーンは、彼の素晴らしい消滅・再導入封筒型(EER)刺激器をAMの“L”セットのために開発し、無駄の多い直線電力アンプを必要としない強力なサイドバンドの各ユニットにした。
RCAグローバルは、数々のラジオフォト、ブロードキャスト、テレプリンター、そしてテレグラフ配信と共にボリナスで育ち続けた。局のロードは1,000キロワットまで伸び、PG&Eのディップ・トレイルを追うアルト線(ミル峡谷)では、ボリナスとRCA両方を同時に供給する事が出来なくなった。何らかの理由で、PG&Eは1920年代に若きRCAのために設置したレイクヴィレ線(ぺタルマ)の60キロヴォルトの配信器を外し、水道局のためのウッドエーカーに再ルートした。PG&Eは、新たな12キロヴォルト線を局に供給するためにボリナスへ配線しなければならなかった。2つのライン、アルトとウッドエーカーは、750キロワット変換機と共に、局をメジャーな電力センターにした。”H”セットと呼ばれる新型直線サイドバンドユニットである配信機が更に加えられ配置された。”K”,”L”セット同様に、それらは強制空気冷却三極真空管を使用した。出力は10キロワット平均でピークは20キロワットだった。全ての変調は、低電力レベルで成され、故にプレート変調器の必要がなく、小型ユニット化された。約40配信機が機能しており、60を超えるアンテナが栄光に満ち立っていた。その通信能力は、パシフィック・コースト・ハイウェイとなったものに沿って、1920年代に中国人労働者によって整備された古い鉛と紙の電話線を厳戒まで押した。
1060年代の終わりになると、通信伝達科学技術は、200,000テレプリンター・チャンネルが可能な衛星システムにシフトし始めた。KET閉鎖の話が中に舞った。再び、海の岩壁へ − 2つの”B”セット、91313と11BBが、大きな塊のまま(岩壁を)超えて、すぐに”S”セットが続いた。この時、しかしながら、砂と塩は、ボリナスのもう一つの時代を飲み込まなかった。ノヴァトの空軍街からの若い高校生の科学の学生のグループが、部品を一つおきに彼等の車庫の研究室に引きずり帰った。RCAは彼等に自由に局に入る事を許し、岩壁をまだ越えていなかった物を集める事を許した。これらの学生達の内の一人は、彼の両親の車2台分の車庫で、111313を再構築した。次世代のラジオ開発はその道を歩き出していた。
1970年代の初頭には、ボリナスのRCAグローバルにとって物事はうまく進まず − KETは風化し始め、デーヴィッド・サーノフは故人で、マルコーニは歴史本の中の小さなアルファベットで、そしてテスラって誰?だった。RCAには頭(指導者)がなく、チキンの様に失敗した。ワイヤーレスの仕事をした古い作業員(研究者)達は彼等の墓の中だった。ペイプティー島へのチャンネルが唯一だった。日勤の数はジム・ボーンとアイヴァン・ネルソンの2人まで減り、両者は既に老人だった。ビルは夜間、もぬけの空なので、侵入者が悪戯をするのを防ぐために再クローン・フェンスが周りに設置された。マルコーニ・ホテルは破壊行為にオープンで、その記録は風に飛ばされた。
RCAは、戦後の設計である”H”、”K”、と”L”セットを除く第2ビルの全てをジャンクにする事を決定した。しかしながら、地元のRCAの執行部(2人?)はそれらを新たな大人の科学の生徒達に移転した。彼等はサンフランシスコの3,000平方フィートの倉庫を借り、プロジェクト1と知られた。これらの各個人達は、彼自身が熱心で素晴らしいラジオを実験者である、地元ののジム・ヘップバーン副代表も含めて、高周波数ラジオの新たな開発は可能だと感じていた。
米海軍が再び参入し、湾岸警備隊を通して、RCAの所有地のパロ・マリン・エッジでNMC局を建設した。これは、死にかけているRCAグローバルが手放した最重要な機能を乗っ取った。しかしながら、KPHは、ラジオ・マリーン・コーポレーション・オブ・アメリカと呼ばれたRCAの別の枝だったので、まだ無傷で機能していた。1975年になると、RCAは所有物を、保存のために、米国内務省の管轄である国立公園サービスに渡した。RCAは、船舶が衛星通信を欲していなかったので、KPHの海洋オペレーションに必要なものを貸し戻した。この転機点に、コモンウィールと自称するグループが公共の地をためのトラストを通してアクセスを得た。政治的組織であるコモンウィールは、局の歴史や運営して保全しようとする者達に敬意を表さなかった。5週間の期間の内に、コモンウィールは第2ビルの中身の全てを破壊し、全ての書類や記録をゴミ貯めに送った − KETは風へと消滅した。
1980年代が到来した頃、KPHの極一部しか残っていなかった。マルコーニ・ビルの”V”セットは死んだまま放置されていた。BL−10がそのビルの唯一起動している配信機だった。KPHのオペレーションは、ビル2Aの”H”、”K”、と”L”セットに移動されていた。これらの各セットはテレグラフ・オペレーションに順応させられていたが、それはそれらが元々設計された機能ではなかった。研究所と機器が取っ払われた第2ビルはコモンウィールによって封鎖され、オフィス・スペースとパーティー・ホールに変えられた。科学の生徒達の唯一の一人が、プロのラジオ技術開発者となり、此処に残っていた。彼はマルコーニ・ビルのアレクサンダーソン室で、小さなリサーチ研究所を運営しており、生活費を稼ぐためにRCAとコモンウィールのためにケーブルの修理と設置の仕事をしていた。最終的に彼は、去る事を強いられた。
エド・ブレネンの指揮の下、KPHは急速に腐敗する事を許された。対飛行機の点滅ランプは暗いままで、ロンビックスは地へと崩れた。資格のない人達による配線は750キロワットのジェネレーターを破壊した大きな火事の原因になった。ソノマ州立カレッジの科学教育と研究を通しての保全命令にも関わらず、ラジオ受信機は、壊れる事を確かにするために二階の窓から投げ出された。
1980年代の中頃には、GEが戻ったが、今回は創造するためではなく、RCAとコモンウィールが破壊しなかったものを破壊するためだった。”V”セットは地元の人達に破壊され、地元の漁師が拾った鉄くず以外は小川の底に投棄された。残りの研究機器は消え去った。古いマルコーニ・ビルの守り神、BL−10は機能していたが、RCAの最後の作業員、ジョージ・ガイサーを、最後の天罰の行動で感電死させた。これは、BL−10が1920年に最初の作業員を感電死させてから唯一の感電死した人だった。
GEの下でKPHは足を引き摺りながら歩んだ。良く発火した配線をされたアンテナとちゃんと機能しなかった配信機と共に、局はその顧客にさえも聞かれる事が出来なかった。KPHの競争相手であったハーフ・ムーン湾のKFSから育ち、台頭してきたグローブ・ワイヤーレス社が連邦通信委員会(FCC)に、それが世界中の多くの場所でしてきた様に、ボリナスの施設を引き取る申請を出した折に希望の欠片が見えたかの様に見えた。FCCはグローブ・ワイヤーレスを却下し、代わりにMCIに渡した。MCIは、ヘンリー・ラジオ社と呼ばれるハム・ラジオの一団によって作られた安い4キロワットの配信機を使った低コストなシステムを導入した。ロンビクスの崩れる塊は山積みにされ、1938年からサビの一つも見せずに立っていたタイプ”B”タワーの本野つは外国の国に売られた。MCIは新たにしょぼいコリネアー・ブロードサイド配置のセットを立てた。これらは、まだ其処にいた一人のラジオ技術開発者に、彼の町での新しいワイヤーレス・アンテナをマーリン・カウンティーの保安官達に破壊され、アンテナ・フィールドでの車内生活を余儀なくされた者にディバグされる必要があった。彼の新たに見つけられたラジオ論説はMCIの下で商業応用されるのかも知れなかった。
MCIの下、KPHの通信量は無へとしぼんだ。ワイヤーレスを殺したデーヴィド・サーノフへの根強い恨みによって、KPHはアメリカの船舶から、決してビジネスを得る事は出来なかった。MCIは来る閉鎖を発表し、残っていた顧客はグローブ・ワイヤーレスに移った。局の管理者ジャック・マルティーニは海洋伝統に乗っ取って彼の船に乗り海の底に沈めた。
最終的に、香港が中国に落ちる頃、KPHは死に、その周波数はグローブ・ワイヤーレスに売られた。BL−10は無法な野蛮人達に破壊され、マルコーニ・ビルはその電力源を剥がされた。建物はコモンウィールの管理の下急速に風化した。マルコーニの一度は偉大だったラジオ施設は廃墟と化し、そしてこの地球上で最も重要なラジオのホット・スポットの地はNMCを除いて逝ってしまった。私は、しかしながら、唯一のラジオ実験者であり、沈黙からは程遠い。アレクサンダーソンの地下ワイヤーは未だ顕在であり、新たな形のワイヤーレスへと芽吹くのを待っている。
1997年から98年になる現在、ワイヤーレス配信は時代遅れの科学技術と考えられていて、遥かに優れている電磁ラジオに取って代わられている。しかし、ラジオは本当により優れているのだろうか、またはより広く伸びる事の出来る科学の単なる一つの影なのではないだろうか?人が歴史を振り返る時、最近にヴァシラトス氏によって彼の概論で成された様に、初期のワイヤーレス・システムは、伝播・繁殖の注目すべき消失と脱線の少なさを見せるだけでなく、電池も電力供給も必要としていなかった。事実、それらの幾つかはエネルギーを消費するのではなくエネルギーを生産するシステムの特性を見せていた。その様なものがニコラ・テスラのものだった。これが何故、KPHやそれと同様の各局が閉鎖する事を強いられ、ラジオを禁止する新たな法が造られようとしているのではないだろうか?
覚えておかなければならないのは、最初のワイヤーレス探知機は、コイル間の機械的力、金属のチップの溶接、または細いワイヤーを熱する事を用し、これら全ては大量の電気エネルギーを受信する事を必要とした。電池など其処にはなかった。近代的ラジオは、弱い電磁波(s)を十分に強力にして同等の結果を得るために何百万ものアンプを必要とする。アンプは勿論、電池やその他の電源を必要とする。ワイヤーレス・インパルスを利用した初期の方向探知システムは脱線・逸脱がほとんどないか、全くなかった事が発見されていて、それに比べて電磁波(s)を利用するシステムは散らばりと伝播・繁殖の障害・妨害から苦しむ。ワイヤーレス・インパルスは明らかに、今日使われている散布的な電磁波より、もっと直接な通り道を行く。そしてさらに発見されたのは、ワイヤーレスのコイルと畜電器からは、医師達によって様々な病気を和らげるために利用された 放散物・放射物があった事で、それに比べ、電磁波が健康に害をなすのは既に知られている。
ワイヤーレス技術と今日のラジオ技術の間に特定の技術的違いが存在していた事を調べる事は指導的である。大切な科学技術を復活させるのに必要な(KPHボリナスの様な場所での)科学的研究や実験をブロックしようという努力を調査する事もまた指導的である。
電気ワイヤーレス・システムには、スペース(エーテル)に接しているアンテナ・ネットワークのエネルギーとワイヤーレス変換器に電力を供給する有用体との間の相互的な関係が存在する。故に、もしワイヤーレス・システムがそう設定されているなら、アンテナ・ネットワークの リアクタンス(誘導抵抗・感応抵抗)は電力会社のリアクタンスとして現れる。よって、ワイヤーレス・システムが、燃料を燃やす事をしないで、電力会社へのエネルギー供給源になるのは、理論的に可能だ。対照的に、現在のラジオ・システムによって差し出されているロード(蓄電?)は直接の電流への純粋な抵抗であり、電気的力の破壊の実の原型であり − 電力会社には何も返還されない。
テスラのオシレーション変換機や、アレクサンダーソンの複数ロードされたアンテナや、マルコーニの同軸(ケーブルの)アンテナの様なワイヤーレス・ネットワークとのもう一つの違いは、それら全てが、電磁ラジオより高いオーダー(秩序・値)の周波数と波長を見せる事だ。これらの各要素は複雑な量、または結合した対として存在している。それらの伝播・繁殖は距離と速度を超えた(向こうの)要素を用し、故に中間スペースを旅する事なしの配信だ。電磁ラジオ波(s)は効果的な光速と距離のインピーダンス(交流における電圧の電流に対する比)に無情にも縛られている。
究極的に明言されなければならないのは、エレクトリック(電気の)ワイヤーレスとエレクトロニック(電子工学)ラジオの違いで、ワイヤーレス技術開発はエーテルの科学で、ラジオ技術開発は物質的科学だという事だ。ワイヤーレス論説は、スペースは全てに浸透するエーテルで満たされていると考え、このエーテルは、エネルギーを、誘導・感応の結合した対の形(遺伝子の様に)で、蓄積し移動する特性を持つと考える。これらはマグネティック(磁気)フィールドとダイエレクトリック(静電・絶縁)フィールドと呼ばれる。一つの場所でのフィールドの度合の変化・変更は、もう一つの場所のフィールドの度合の変化・変更に、距離は関係なく、結果する。宇宙的力(s)からで、人間の工夫からではなく、ワイヤーレス・ネットワークは究極的に自己出力だ。
対照的に、近代的電磁ラジオ論説では、スペースは空っぽで歪められていると考える。伝播・繁殖は強制されたフォトン(光子)粒子に成され、前述の光速に制限され移動する。マグネティック(磁気)とダイエレクトリック(静電・絶縁)のアクション(効果)は無視され、その代わりにエレクトロンの様な粒子がエネルギーを蓄積し移動させる役割を果たすとされる。距離と速度は主要な要素で、継続するエネルギー消費が必要とされ、電池やエンジンに動かされた発電機の様な工夫によって供給される。
ワイヤーレスのエーテル科学を失った事と、ラジオがそれに取って代わった事は、対の原因に帰する事ができ、複数のワイヤーレスの先駆者達の間の対立(競争)と、科学と哲学を(大)企業勢力が服従させた事にある。デ・フォレスト対フィースデン対アームストロング対マルコーニ対テスラ対エトセトラは、ワイヤーレスが開発された道だった。これらの各個人達が、彼等自身の発見を完全に理解出来ていなかっただけではなく、彼等を統合する総合的な科学は存在していなかった。状況は、各企業の実力者達が資本主義的力を伴い科学に参入した事によって対立に油が注がれ、各組織(企業)が機能障害性の論説を好んだ事によって更に酷くされた。サーノフや、モーガンや、ロックフェラーといった名はこの要素の主格たるもので、歴史的例がその状況をイラストレート(表現・描写)する。長距離電話は、ブリティッシュ・ロイアル・ソサエティー(大英帝国王族会)による、長海底ケーブルを通したインパルスの配信に含まれたダイエレクトリック(静電・絶縁)要素の強い否定とテレグラフ・インパルスへの誹謗中傷によって、配信の速度は遅い率に制限され、出遅れさせられた。スコットランド人の素晴らしい論説家オリヴァー・ヘヴィーサイドは、電気パルスの歪められていない配信を容易にするには、ダイエレクトリックの用語RCはマグネティックの用語LGと調和にもたらされなければならない事を彼の原型的テレグラフ方程式で証明した。
物理学会はヘヴィーサイドを愚か者と宣言し、関係する電気の各力の不均衡な理解の下でケーブル業界に働く事を強いた。後に、テスラとマルコーニと同時代の電気科学者マイケル・ピューピンは、”ピューピン・コイル”として知られるヘヴィーサイドの定理の物質的証明を開発した。この開発は、駆け出しだったアメリカン・テレフォン・アンド・テレグラフ・カンパニー(AT&T)によって早急に買い上げられた。AT&Tはピューピンの特許、もしくはロードしたコイルとして知られる様になったものへの権利を持ち、長距離電話ビジネスの完全なコントロールを得た。オリヴァー・ヘヴィーサイドは、電気技術開発のための全体の土台の仕事を確立した名誉を与えられる事が出来るが、貧困の中で亡くなりすぐに忘れ去られた。AT&Tは巨大な富と権力の会社に育った。もしチャールズ”プロテウス”ステインメッツの努力がなかったのなら、ヘヴィーサイドの偉業のほとんどが永遠に失われていただろう。
全く同じ状況が、ラジオともっと一般化されたワイヤーレスについて、好ましくない成り行きとともに、今日存在する。ヘヴィーサイドのによって彼の電気的方程式で証明され、ステインメッツの伝統に私自身が続き更に発展させた様に、ワイヤーレス配信は、電磁的と磁気・静電(ダイエレクトリック)的、結合した対の伝播・繁殖を含むと証明される事が出来る。電磁気とアインシュタインと彼の様な者達によるその論説の粗悪品は、電気的力(s)の伝播・繁殖の受け入れられた(一般定説化した)要素となった。磁気ダイエレクトリシティーとルドルフ・ステイナーによる素晴らしいその次元性の発表とそれに続く者達は、企業的ケーブル組織によって否定された。そかし、長距離ケーブルの件の様に、電気はひいきせず、そしてデジオ配信は類似した歪みから苦しまされる。結合した対の原型はあちらこちらに存在するが、しかしながら、幾つかの例が描写・表現するだろう。
とても単純な類似説明は、種の男性と女性だ。種は結合した対としてだけ唯一伝播・繁殖する事ができ、男性がダイエレクトリックなら女性はマグネティックだ。同様に、植物の枝と根は結合した対として一緒に機能し、日に照らされた枝をマグネティックとすると、暗闇の中の根はダイエレクトリックだ。象徴的表現・代表はG.F.ハンデルのアレクサンダーの饗宴 − ”音楽の力”の合唱の最後の動きだ。
学識のある博士達の物理科学はこの異説は一切聞く耳を持たず、混沌的不確かさの妄想的数学の下で研究を続ける。近代的音楽は、その痛みに満ちたスクリーチ(急ブレーキの様な音)と遠吠えと共に類似的にスピリット(霊・魂)が空の中身に奉仕している。流行りの音楽は、コンピューターに造られたサド・マゾ的行進へと減少させられた。この病理的社会状況は、ウィルヘルム・レイクの「ファシズムの集団心理学」や「キリストの殺人」などの書物によって素晴らしく分析されている。言うまでもないが、レイク博士は連邦刑務所で死んだ。現代主義は批評・批判を受け入れない。
http://journal.borderlands.com/wp-content/uploads/2010/03/galacticbulb.jpg
電球の中のギャラクシー的生命?ガラスのバルブの中のプラズマ放電に宇宙的形状が現れる。
1988年、カリフォルニア、サンタ・バーバラの古きBSRF研究所で、エリック・ドラードによって創造された。
最終描写は、ボリナスのマルコーニのKPHの正に此処に存在する。”学識ある”博士のハンマーと斧から救われた時代遅れと呼ばれるラジオ機器で造られた質素な研究室で、一つの驚くべき発見が成された。ワイヤーレスの応用を通して:原理・原則、宇宙的スーパーインポーズが作業台の上で無条件で確定し、太陽達とスター(恒星)達が素敵・素晴らしいギャラクシー的形状で弾け出で、物質とエネルギーをその場で創造したが、湾を渡ったリヴァーモアーの研究所では、毎時何十億キロワットと何十億ドルでもその用な事は可能に見えないが、キロワットとドルは流れ続ける。何にしても、貴方がそれを支払っているのだから。
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(おしまい)
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