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(回答先: Re: test 投稿者 少人長 日時 2011 年 12 月 09 日 17:43:43)
W選挙の結果、橋下徹氏が大阪市長に当選し、その手腕に全国の注目が集まっている。選挙中の出来事として驚かされたのは、週刊誌報道によって『同和』問題がクローズアップされたことだ。あたかも「あのホテルは幽霊が出るそうだ」などと噂するのと同様に、判断力が未発達で心が純真な人々に対する影響力は、十分にあるのであろう。
しかし、その手法は、他者を自己目的の為に操作する連中が、1000年以上に渡って伝えてきた、いわば「伝統芸」である。社会の進歩を願う者であるならば、その邪悪な意図を見抜き、対処法を研究・吟味することが、絶対に必要だ。その際に最も効果的な手段が、「真の歴史」の探究である。独裁的権力者の自己正当化チラシを知恵の力で裏返し、かすかな鉛筆書きの文字を読み取らねばならない。
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東ローマ帝国から中国南朝に至る絹の国際交易ルート構築のため、ユーラシア東部のトルコ系騎馬民族・突厥は、ロシア沿海地方から渡海して、東北・北陸に上陸、東北・関東・甲信・駿河の大平原に「牧」を設け、馬を繁殖させて運搬・戦闘に用いた。将軍一族の「蘇我氏」は、騎馬軍団により列島を支配し、突厥語は、やがて日本語の中核となった。
次に、北魏での弾圧を逃れた仏教軍団が、朝鮮半島に侵入し、高句麗・百済を勢力下に置き、新羅に迫った。景教徒の新羅王族・騎士団は、北九州に亡命し、「秦氏」と呼ばれた。
秦氏は、ヒッタイト→古代エジプト→ヘブライ→イスラエル→アッシリア→バクトリア→秦→新羅と移り住んだ氏族であり、古代エジプト式土木建築などの技術力に秀でていた。また、「正々堂々と戦った勇者は、戦死しても再生する」と約束する軍神「ミトラ」を信仰し、ローマ騎士道を信奉していた。
蘇我氏と秦氏は、蘇我王朝を建てて明日香を都とし、蘇我氏の製鉄技術と秦氏の高度土木建築技術により、巨大古墳築造・河内湖干拓・大運河掘削などを行い、水銀製造工場・金メッキ工場・ガラス器工場を建設し、さらに東北から近畿に至る道幅12mの直線式高速道路を敷設して、馬車輸送による国際交易を発展させた。
北のシルクロードがもたらしたもの
騎馬民族がもたらした日本のことば
極東のローマ
新羅の腰?(ようはい)は突厥の金帯飾りに似ている
秦氏とユダヤの関係
飛鳥の工房
古代日本の計画道路
東山道武蔵路 その1
645年、唐進駐軍は、藤原氏と共謀の上、蘇我王朝を急襲して崩壊させた。そして、列島東国の絹、水銀、銀、金、琥珀、翡翠などの資源略奪のため、亡命百済人を属国官僚とする政府を樹立し、唐の律令を施行させた。さらに、騎馬民族を蔑む漢訳仏教を思想武器として持ち込み、民衆奴隷化を目的とする列島統治を開始した。
これに対し、蘇我軍団と秦氏騎士団合同軍は、672年、近江の亡命百済王朝の本陣を攻撃して壊滅し、明日香の地に再び砦を築き、騎馬民族の王号であるテングリを「天皇」号とし、国号を「日本」とし、日本初の天皇、天武天皇を誕生させた。
藤原氏は、唐進駐軍を後ろ盾として権勢を揮い、天武王朝の皇子を次々と謀殺した。また、道鏡への譲位を願った称徳天皇の計画を謀略によって阻み、天皇を毒殺した。後を継いだ井上天皇と他戸皇太子も呪詛の嫌疑を掛けて暗殺した。これにより、天武王朝は滅亡し、唐進駐軍と藤原氏が、亡命百済貴族を傀儡として支配する桓武王朝が誕生した。
中央を追われた蘇我氏・秦氏末裔は、東北に逃れ、『蝦夷(えみし)』と呼ばれた。彼らは桓武王朝に激しく反抗したため、朝廷は、唐の軍事顧問を司令官として派遣し、鎮圧を図った。蝦夷の棟梁、アテルイは坂上田村麻呂の言葉を信じ、平安京に向かったが、朝廷により斬首された。
蝦夷の捕虜は、西国に送られて「別所、湯浅、散所、海渡」などの捕虜収容所に集められ、『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれた。この収容所が、「落ち武者の武民が集う処」という意味で、後に「武落」から『部落』と呼ばれるようになった。この俘囚の中から、武士道に則って戦う武士が誕生した。そして、蝦夷が用いた馬上戦用の蕨手刀から日本刀が誕生した。
また、近畿の山奥に逃れた蘇我氏・秦氏末裔は、山の民となり、藤原氏が支配する平安京にゲリラ戦を仕掛け、『鬼』と呼ばれた。後には、情報・技術力を駆使して戦国大名に仕え、『忍者』として活躍した。
この列島は李氏・唐王朝に征服され、傀儡国家が誕生していた
「武器の材料の牛角を、日本から送ってほしい・・・」
壬申の乱は日唐戦争(5)
道鏡の真実
闇に葬られた皇族(1) ー 井上内親王
井上内親王 他戸親王王
アテルイの時代
武士の起源は「俘囚」=蝦夷か?
武士形成における俘囚の役割/蕨手刀から日本刀への発展
三神たけるのお伽秦氏「忍者」
藤原氏は、蘇我氏・秦氏が支配者であった歴史を隠蔽する為に、蘇我王朝の歴史書を焚書し、隠し持つ者を厳しく処罰した。また、漢字二文字の地名・人名を強制したのみならず、蘇我氏・秦氏の宗教施設を破壊した跡に寺院・神社を建設して、それ以前の列島歴史を抹殺した。
藤原氏支配の正当性を主張する為、720年、創作歴史本「日本書記」を刊行し、蘇我氏に「稲目、馬子、蝦夷、入鹿」などの蔑称を名付けて、貶めた。また、「馬子、崇峻天皇を暗殺」などの記述で、徹底的に蘇我氏の暴虐非道性を捏造した。
また、藤原氏は、「仏教伝来」「聖徳太子即位」「遣隋使派遣」「大化の改新」などの架空事件をでっち上げ、騎馬民族支配と蘇我王朝の歴史の完全削除を目論んだ。その目的は、渡来異民族の闘争劇であった日本列島史を隠蔽し、天皇に統治された単一大和民族が、今日まで存続していたと信じ込ませるためであった。
さらに、藤原氏は、騎馬民族蔑視の漢訳仏教を利用し、騎馬民族末裔の蘇我氏・秦氏に『旃陀羅(せんだら)』や『穢多(えた)』などの差別語を与えて、排除した。それに加えて、らい病者の世話を彼らが住む『部落』に押し付けた。『旃陀羅』の語源となったカースト制は、釈迦が激しく非難していたものであり、本来の仏教とは真逆の存在と言うべきである。
古事記より古い書物がどうして残っていないの?
天武天皇の謎を解く
大法廷:日本書紀捏造事件の大岡裁き
「聖徳太子はいなかった?」 / 書き換わる聖徳太子像(東京新聞)
日本書紀の神話は藤原不比等が創作捏造したもの・・・
『日本書紀』が捏造だと分かると歴史も変わるのだな
秦氏と藤原氏
穢多・非人
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