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「幸福の王子」が体を金色に燦然と輝かせ、目と剣は宝石で光っていた。
しかし王子はそれらを惜しむ事無く与えて崩れ落ち、瓦礫と化して打ち捨てられてしまった。
オスカー・ワイルド作のこの童話は読む人々の心の中にに忘れる事の出来ない深い影響を与えて悲しみと教訓を残してくれるのであるが、
それは、ワイルドの生涯と等しく複雑で広い解釈を要求するものであると考える。
何故この時期にワイルドのこの童話を題材にして政治課題を論ずるのか? と疑問に思われる方も多いだろう。
関東東北大震災を経験し、福島第一原発の破裂を経験し、その二つの前から我が日本国に突きつけられてきていた消費税増税とTPPという国家破壊をもたらす二つの課題の強要を裏切り宦官官僚共達とそれを操る略奪者米国からさらに重傷者をいたぶるが如くに殴る蹴るが如くにいたぶられているのが我が国国民の有様なのだ。
このような悲惨な過去に例を見ない第二次大戦の終戦時よりも激しい植民地支配への屈服に至るかもしれない危機的状況にある。
このような時点にいながらアフガニスタンやイラクの如くに悲惨な戦闘状況に置かれる事が無い故に、日本国民は抵抗の意志はきわめて弱い。
米国等との戦闘にあけくれる上の両国民から見れば小説を題材にして政治的教訓を得ようとの評論は「暇人の寝言」のように見えるだろう。
また、震災と原発被害に遭い困窮の極に追い込まれている我が国の東側半分に住んでいるまた住んでいた少なからざる人々からみても同様であろう。
このような方々には今回の評論はまどろっこしいであろうが許していただきたい。
無意味と感ずれば読んでいただかなくても全く構わない。
読んでいただく対象としては、何かから教訓を感じて我が国に必要とされる政治文化の興隆を得たいと考える読者の方々を考えている。
オスカー・ワイルドのこの童話を私は小学生の高学年の時にたまたま学校の図書館にで読んだのであるが、載っていた美しいイラストレーションと共にストーリーを脳裏に焼き付けてしまい悲しく美しい感動が今に至るまで残っている。
「この思いはなんなのだろうか」と長く疑問に思ってきていた。
王子の像が倒れて瓦礫と化して粉々になり、側に共に歩んだ燕が死骸となって横たわっていた有様は深く感動的であり、且つ、解釈が難しく、子供の頭脳には不可思議な了解不可能な物語として残った。
今の私の目には、
「幸福の王子」が、金の衣を既に幾つかを失い、目の宝石を失い、剣の宝石も失って、
もう直ぐに倒れて瓦礫と化す運命を迎えるかもしれない「王子」が、
「我が国日本の姿」に見える。
尤も「王子」は物語の上の話ではあるが、自ら主体的に自分自身を与え、犠牲を選んだのであり、
我が国日本は小泉政権時代から本格的に収奪され続け、「振り込め詐欺」に騙されるが如く、痴呆的に国富を流し続けてきているのであるから、
その有様は「恍惚の呆子」とも言われるべきであろう。
私はこの評論を書くに当ってはじめは「幸福の王子」をも「幸福の呆子」と皮肉ろうかとも考えた。
しかし物語を再度点検した結果、ワイルドの思惑をこの部分について自分が判っていなかった事を知ったのだ。
恐らく、王子のモデルとしての話が欧州に存在したのであろう。
子供として死んだ人格的に完璧ともいえる王子がいたのではないのか。
私は自分の経験として何人かの子供や少年や青年として夭折した男女を級友や知人として持っている。
彼等の総てが人格的に完璧であり非の打ち所の無い人達だった。
自分自身と較べてそうだったのであり、今の情勢下において彼等が生きていてくれたならば活躍を期待できたのに残念であると思える人達ばかりであった。
彼等であれば、人々に言葉と行いで感動的に訴えて歴史を前進させる事が出来るだろう。
私にはとても彼らのようには出来ない。しかし彼らは居ないのだから私で出来る限りやるしかない。「結果なんか知るものか」の心境だ。
彼等は心は優しく知能は優れていた。それ故に夭折の運命を生きることになったのかもしれない。
生きている時にそのような子供であったとすれば、両親は記念碑も建てたくなるだろう。
そしてそのような心を抱いていたとして王子像を想定すれば、彼は涙を流し、自己犠牲に踏み出すと考える物語の展開は自然なものである。
であるから、とても「呆子」とは言えない。
瓦礫と化してもやはりそれでも「幸福の王子」なのである。
しかし、現世に生きる我々はそして我が日本国はそうであってはならない。
ワイルドは、王子の心臓と燕の死骸を神が取り上げたとして締めくくって美しくも難解な結末で結んでいるが、
しかし、ワイルドは心底ではこのような主張を読者に「受け入れよ」と要求してはいないとするのが私の解釈である。
ワイルドはこの童話を教訓として人々に残そうとしたのだと考える。
それは無意識的に行ったものであると考える。
この教訓を彼自身の破滅的な生き様と共に並べて提示したと考える。
結末はワイルドのグノーシス派に通じそうなキリスト教と神への解釈を示しているようであり現世ではなく霊界においての救済を希求するものとなっている。
しかし、古代ユダヤ教においてもキリスト自身においてもイスラムにおいても救済も神も現実のものとしてさらには将来的歴史的事実の事として認識されていたのであり、グノーシス派的理解は文明崩壊を象徴する退廃でしかなく事実グノーシス派は滅び、ワイルドは近代文明の崩壊を先取りした心理と人格の持ち主であったと考えられ、生涯は破滅に終わったのだ。
しかし、その破滅と作品により現世に生きる我等に貴重な教訓を命と体と働きを以てのこしてくれたのであるから、ワイルド自身が瓦礫となって救済を行った「幸福の王子」であったと解釈できるのであり燕も同様であり、王子と燕は一体のものであると考えられる。
「憎まれ者世にはばかる」と言い、「悪い奴ほどよく眠る」との映画の題名もあった。
ナカソネ、ナベツネ、コイズミ、宦官官僚達、民主党内壊し屋グループといった愚鈍な連中は図々しく居座り続けている。
ドーベルマンのようにやつ等のキンタマに噛み付いて喰らいついて離さない闘志で立ち向かいたいと考えている。
ドーベルマンは獲物を引きちぎる可愛いやつだ。
子供の頃からこのような有様で屈する事なく「王子」のような完璧な人格者達をうらやましくも思い、共に歩みたいとも思った事はしばしばであったが、やはりそれは叶わなかった。
ワイルドは三島由紀夫の如くである。さらに太宰治の如くである。今注目の的であるらしい坂口安吾の如くである。
要するに無頼派であり破滅派なのだ。
彼らは自らの無頼と破滅と犠牲でもって人々に教訓を残した。
不条理の教訓を残してくれたのだ。
私は彼等に深く大きく感謝する。
彼らはその作品と生き様において、
現実の人々と社会と国家に「破滅してくれない事」を望んでくれている。
彼等の提示した作品に彼らは深い悲しみの味付けをして残してくれた。
この事は「悲しみ」の意味を知れ、と言う事だ。
「悲しみの運命を招かぬように必死で努めよ。そうしてくれ。」と言ってくれているものと理解する。
そうでなければ現世の存在の意味がない。
人徳者の彼等の残した教訓を有り難く戴くべきではないか。
「滅びてはならない。瓦礫になってはならない。詐欺師に振り込んではならない。収奪者に与えてはならない。財産・国富・人民の権力は国内と国外の泥棒に与えてはいけない。」
それが現世に生きる者の使命ではないのか。
それが「幸福の王子」とO.ワイルドの残してくれた教訓であろう。
ワイルドに「有難う」と言いたい。
読んでいただき、お疲れ様でした。
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视频: 雲の遥か(云の遥か) 熊谷育美
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