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評論家の立花隆は1974年に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表、田中首相退陣のきっかけを作ったことで一躍脚光を浴びた。しかし立花が書く人物評は感情に流される傾向があり、中傷記事やあやしげな話を持ち出しては名誉毀損で訴えられることも多々あった。
ジャーナリストの上杉隆は、具体例として小沢一郎民主党幹事長の政治資金問題を挙げ、立花が検察や小沢や民主党など事件当事者への取材を一切行わず、新聞・テレビの報道や過去の経験を基に憶測で記事を書いている点、さらには10年以上永田町で取材を行っていない点などを指摘し立花の記事の杜撰さを批判している。
作家の世川行介氏も小沢一郎に関する立花隆の記事の胡散臭さを12月出版予定の「角栄と一郎」という書籍の中で次のように詳しく分析しているので紹介する。
<以下、抜粋>
立花隆という男は、田中角栄から始まって小沢一郎まで、
「政治の清潔主義」を楯にとった<正義>を振りかざして今日まで来た。
いま、彼は、金権政治告発の王者のような顔をして、
小沢一郎にたいして罵詈雑言を吐きまくっている。
誰もが、彼の「政治の清潔主義」を不可侵の<正義>だと思っているみたいだが、
とんでもない話だ。
あんな三流の<正義>の前で立ち往生してはいけない、と僕は思う。
立花隆の小沢攻撃
一一年一〇月二九日号の「週刊現代」に、「司法批判?ちゃんちゃらおかしい」という副題をつけた、立花隆の『小沢一郎よ、お前はすでに終わっている』全六ページが掲載された。立花隆というルポライターは、一九七四(昭和四九)年に雑誌「文藝春秋」で「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を書き、田中角栄首相(当時)退陣のきっかけをつくった人物として有名だが、当時、ちまたでは、「立花隆は反田中の有力議員から資料をもらって書いたダミーライターではないか」と噂されていて、僕などもそういう印象で彼をながめてきた。
正直言って、この人物の田中角栄や小沢一郎に関する文章は、この副題の「司法批判?ちゃんちゃらおかしい」といった文言でもわかるとおり、はっきり言って、とても下品だ。前述の野中広務にしてもそうだが、僕は、自分の性格上、品性の下劣な人の意見はあまりここに取り上げたくないのだけれど、まあ、社会的には小沢批判の最右翼とでも言えばいい人物なので、気乗りはしないが、取り上げることにする。
『政党交付金は余れば国庫に返納することになっているが、そんなことは小沢が関係し た政党は一切していない。政党解散の前後に小沢が関連する団体などに寄附され、それはやがて使途不明金なってしまう。要するにこの部分の原資は、もとは税金なのだ。』
(立花隆『小沢一郎よ、お前はすでに終わっている』)
この立花隆という人物に聞いてみたいのは、戦後、政党交付金があまって国庫に返納した政党には、どんな政党があったのか?という点だ。僕もこの世に生を受けて五九年間になるが、寡聞にして、政党金があまったから国庫に返納した政党の実例を聞いたことがない。そういう政党があったとしたら、それはきっとマスコミも、「見上げたもんだよ風呂屋の煙突」といった感じで取り上げるはずで、ほんとうに小沢一郎の関連政党だけなのか、知りたい。
それともう一つ。「寄付行為」のどこが悪いのだろうか?立花隆は、「要するにこの部分の原資は、もとは税金なのだ。」と書いている。「税金」という言葉は、マスコミや立花隆といった「クリーンな政治論」を展開する人たちの錦の御旗だ。個人とか組織を「税金の悪用だ」と指弾すれば、それには誰も勝てない、と思いこんでいるみたいだ。
だが、僕もまた、特定郵便局長として、官僚機構の末端に一四年ほどいて、そうした機構のお金の使い方を見てきたので、少しくらいは書くことができる。毎年、年度末近くなると、各郵便局に少なくない金額が送られてきた。「何かな?」と思うと、やがて、「局にこれこれの備品をそろえろ」 という趣旨の通達が郵政局からとどき、ごていねいに、通達とほぼ同時に、外郭団体の郵政弘済会から商品パンフレットが送られてくる。
送られてきた金額で買える価格が明記されていて、「ハハン。これが国家予算消化の円環システムか」と苦笑したものだった。これが官庁における年度末に生じた年度内予算の余剰金(=税金)の年度内消化をはかっての措置であることは、一目瞭然だ。たとえば、これを「税金の無駄遣いだ」と難じることはたやすい。だけど、それは、好ましくはないけれど、法的には問題がないから、法を熟知している官僚たちがやったのではないのだろうか?
つまり、道義上云々は別として、法に抵触する行為ではないから、その法を変える以外に法的には文句のつけようはない、というのが法治国家の基本である、と僕などには思える。それは、立花隆が小沢一郎を難じた部分でも同様のはずで、きっと、法的には指弾される処理方法ではないはずだ。だから、検察は小沢一郎を不起訴処分とし、問題を「金の出所」云々に転じていったのだと見るのが妥当な見方だ、とぼくは思う。
立花隆はぼくなどよりも官界や政界に精通している人間のはずで、そんな彼が、官僚のすることは知って知らぬ顔をして、小沢一郎ならば、法的には問題はないけれど責める、というのでは、少しおかしくはないだろうか? 彼が本当に「税金の無駄づかいをするな」と思うのなら。
これが客観的な視線で立花隆の「週刊現代」の文章を読んだぼくの感想だ。この一点だけを取り上げて言うわけではなく、これまでの立花隆の小沢一郎攻撃の文章をあれこれ読んで思うのだが、立花隆の小沢批判には、少し奇妙な匂いがする。それは、たとえば、次のような一節にも感じられる。
『勝っても負けても、裁判はさらに続く(どちらが負けても控訴)。そして、裁判とは関係なしに、総務委員会での小沢の電波利権問題に対する追及は続くし、それが司直の追及を受ける事案に発展する可能性も少なからずある。裁判に勝っても負けても、小沢は当分の間、政治活動に大手を振って復帰するという状況にはならないのだ。その間、小沢の政治力は低下する一方だろうし、寄る年波に追われて、小沢のエネルギーは必然的に低下していく。』
この文章は、仮に、「この執筆者は現役の高級官僚である」と言っても、なんの違和感もない文章であるような気がする。なぜなら、この文章には、「自分は小沢一郎の失墜を願ってやまない」、と思わせるものがあるからだ。つまり、小沢一郎に関していえば、立花隆は、小沢一郎を憎悪してやまない高級官僚と同じ立場から、そして同じ角度で、発言しているのだ。
たとえば、この六ページにおよぶ文章のなかで、かれが根拠にしているのは、高橋嘉信という小沢一郎の元秘書一人だけの証言だ。立花隆は、高橋嘉信の証言を一〇〇%信頼に足るものとして取り扱っているが、本当にそうなのか?僕は、小沢一郎の地元である岩手県奥州市水沢区をなんどか取材に歩き、また、高橋嘉信を知る何人かの国会議員や政治家から、高橋義信について取材をしたことがある。
立花隆は、高橋が小沢一郎とはなれた理由を、「〇三年、自由党が民主党と合併すると、民主党を離れ、小沢と袂を分かった」とサラリと書きながし、高橋自身の、「こういう小沢の独善的な体質にホトホト嫌気がさしたのが、小沢から訣別した理由です」という発言を紹介して、高橋のことばだけを根拠に、高橋嘉信=正義、小沢一郎=悪、の図式をつくっている。しかし、その図式は、ぼくの取材した内容とは一八〇度ちがうのだ。ぼくが得た関係者からの証言では、以下のとおりだ。
高橋嘉信は、秘書時代に横柄さがすぎて、とくに、増田寛也岩手県知事時代には、小沢一郎の威光をかさに着て、県政にもくちをはさむようになり、周囲からきらわれた。かれを秘書からはずそうと、関係者が相談し、小沢自由党が六五八万票を獲得した二〇〇〇年の総選挙で比例東北ブロックから立候補させ、当選。その際、高橋は、「国会議員をやりながら小沢秘書もやりたい」と申し出たが、高橋を秘書からはずすのが目的だったので、「そんなことができるわけがないだろう」とことわられた。
国会議員になると、一年生議員でありながら、ほかの国会議員と飲食すると、「小沢が。小沢が」と、小沢一郎を呼び捨てにし、周囲の小沢系議員たちから猛反撥をうけた。小沢一郎は、「政治家は(小選挙区で)地盤を持たなくてはいけない」がくちぐせで、比例議員にも小選挙区へくら替えをすすめてきた。高橋もそう言われたが、あちこちに打診してみたら、高橋を受けいれる選挙区がどこにもなかったため、改選期の立候補を断念せざるを得なかった。
その際、高橋嘉信は、「小沢の秘書にもどりたい」と言ったが、それこそがみんなが一番拒絶したいことであったから、当然、その話はながれた。そして、その一件で自分を見る周囲の視線をしった高橋は、小沢陣営から去り、それから「反小沢(=自民党)」に転じ、ついには、「週刊文春」に小沢一郎を売る身にまでなった。
立花隆に言いたいのは、たとえば、高橋嘉信が自民党から小沢一郎の対抗馬として立候補した時、高橋の経済状況を知っている地元では、「かなりのお金が動いた」とうわさされた。しかし、ぼくは、そんな噂話を書いたことなど一度もない。なぜなら、どんなに「いけ好かない!」と思っている相手であれ、物書きはそんな風聞を書いて読者を誤解の海にみちびいてはいけないからだ。
僕は、自分の取材内容が一〇〇%事実だと言い張る気などは毛頭ない。ただ、「こうした証言というものは、一人だけの証言に一〇〇%の信をおいて論を進めないというのが、ノンフィクションライターの基本姿勢ではないのか」と思っているので、立花隆の、高橋嘉信だけの証言で六ページにもおよぶ小沢糾弾文を仕立てあげる姿勢には、疑問をいだかざるをえない。
立花隆の文章から匂う胡散くささは、それが原因ではないか、と考える次第だ。それにしても、立花隆の小沢一郎に対する憎悪はどこから来るものなのだろうか? 僕には、今もって、それがよくわからない。立花隆の文章で僕が大笑いをしたのは、次の箇所だ。
『(元秘書三人有罪の)この当たり前の判決が出たことに対して、一部小沢シンパと小沢シンパの若干の識者(?)と若干のメディアが(そして小沢自身も)裁判批判をしているようだが、これは批判するほうがおかしい。』という一節の、「若干の識者(?)」の「(?)」。これって、いったい、何の意味の(?)なのだろう?
思うに、立花隆の頭の中では、小沢一郎を批判する人間は「正真正銘の識者」だが、擁護する人間は、「(?)つきの識者」、となるのではないのか?あまり笑わせちゃいけないよ、と言いたい。
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