133. 2011年10月09日 06:51:16: dBIH4to5Y6
◆江川紹子氏 9.26陸山会事件の判決を聞いて2011年09月28日 裁判所の大胆で強気な判断の連続に、判決を聞いていて驚きを禁じ得なかった。 実際に報告書を作成した石川知裕、池田光智両被告は有罪とされることは十分ありうる、と思っていた。この事件は、お金の出入りについて、政治資金収支報告書に記載すべきかどうか、いつ記載すべきかが、本来は最大の争点だった。なので、実際に支出があった年に報告しなかったり、小沢一郎氏の他の政治団体など身内間の金の融通についても逐一報告しなければ違法、と判断すれば、有罪になる。 なので、主文言い渡しの際、2人が有罪となったことについては(求刑通りという厳しさには「おっ」と思ったが)、特に驚いたわけではない。驚いたのは、判決理由と、陸山会事件で大久保隆規被告も有罪とした点だった。 東京地裁は、6月に証拠採否の決定で、検察側主張を支える供述調書の多くを退けた。自ら証拠を排除しておいて、判決ではそれを「当然…したはずである」「…と推認できる」など、推測や価値観で補い、次々に検察側の主張を認めていった。しかも、その論理展開は大胆に飛躍する。 たとえば、大久保被告の関与。同被告が政治資金報告書の作成に関与していないことは争いがない。しかも、石川、池田両被告が「報告書原案を大久保被告に見せて了承を得た」とする検察側主張を、裁判所は判決で退けている。 にも関わらず、石川被告から土地の登記の日をずらすよう不動産会社と交渉して欲しいと頼まれたことで、小沢氏が建て替えた4億円を隠蔽することについてまで、大久保・石川両被告人は「意思を通じ合った」と決めつけた。さらに、それから半年後の報告書に虚偽を記載する共謀までできあがったと認定。そのうえ、石川被告から後任の池田被告に事務に関する引き継ぎをもって、「石川を通じて池田とも意思を通じ合った」と断定した。そんな証拠はどこにあるのだろうか。 法廷で明らかになったことは全く逆の事実だった。石川被告が自身の選挙の準備で忙しく、丁寧な引き継ぎを行わなかったうえ、この2人の関係は疎遠だった。池田被告は厳しい石川被告を恐れ、満足に問い合わせもできずにいた。そのため、報告書に記載された金についての認識も、両者で食い違う。 にも関わらず、石川被告を媒介に大久保被告と結びつけられたうえ、判決でいきなり「大久保に報告するのが自然である」と認定された池田被告は、よほど驚いたのか、目をぱちくりさせていた。 いくら「名ばかり」といえども、会計責任者になっている以上、石川、池田両被告人の行為が違法と判断されれば、大久保被告の道義的、あるいは政治的な責任が問われるのは当然だろう。しかし、だからといって刑事裁判において、裁判官の価値観と推測によって、かくも安易に共謀を認定し、刑事責任を負わせるというのは、あまりに荒っぽく、危険に思えてならない。 犯罪の実行に直接関与せず、それについての相談にも乗らず、謀議もなく、事後にも何の報告も受けず、犯罪の存在すら知らずにいても、共謀が成立して有罪となるのでは、企業などでは部下の犯罪は知らずにいても上司の罪となりうる。これでは、郵便不正事件で、係長が行った公的文書の偽造を上司の村木厚子さん(当時課長)は知らないはずがない…という思い込みから出発した(と考えられる)大阪地検特捜部の発想や判断と同じではないのか。 水谷建設から石川被告への5000万円の授受も、目撃者も裏付け証拠もないまま、同社関係者の証言だけで、「あった」と断定した。これなら、複数の仲間が一定の意図の下に「金を渡した」というストーリーに基づいて話を合わせれば、それが事実ということになり、いくらでも事件が作れてしまう。石川被告に5000万円を「渡した」とする証人は1人だけで、しかも、その証言に疑問を投げかける別の証人も2人いた。にも関わらず、「渡した」と決めつけるのは、被害者の訴えだけで逮捕されたり有罪判決を受けたりする痴漢冤罪事件と同じ構図に見えてならない。 冤罪を防ぐために、昨今は痴漢事件でも、手に付着した下着の繊維片などの裏付け証拠が重視されるようになってきた。今回の判決は、こうした証拠重視の時代の流れに逆行していると言わざるをえない。 もう1つ気になったのは、裁判所が、肝心の政治資金収支報告書の記載について淡々と証拠と法律に基づいて判断するのではなく、「政治とカネ」問題を断罪することに並々ならぬ熱意を注いでいたことだ。 そもそも本件、つまり政治資金の虚偽記載に関して、水谷建設からのヤミ献金の有無は直接関係がない。なぜなら、検察側の主張するヤミ献金の受け渡しは、土地購入のために小沢氏が4億円を立て替えた後の出来事で、この4億円に問題とされた水谷マネーは入りようがないからだ。なので、小沢氏を起訴した検察官役の指定弁護士は、この問題を争点から外している。 ところが、秘書3人の事件では、検察側は「動機もしくは背景事情」として、このヤミ献金疑惑の立証にもっとも力を入れた。そして、裁判所もそれを許した。裁判を傍聴していても、これはいったい何の事件だったのか、ヤミ献金事件、もしくは収賄事件の裁判ではないかと錯覚しそうになったほどだ。 そして迎えた判決も、この点に多くが割かれ、読み上げる登石郁朗裁判長の声にももっとも熱が込められていた。やはり、これは収賄事件の判決ではないかと思うほどであった。そして、すでに閉廷予定時刻の5時が迫っているのに、量刑の理由を読み上げる前に、わざわざ10分間の休廷をはさみ、一気呵成に「小沢事務所と企業の癒着」を論難した。 その口調からは、裁判所が「政治とカネ」の問題を成敗してやる、という、ある種の「正義感」がびんびんと伝わってきた。そこに、我々が社会の不正を正してやる、という特捜検察の「正義感」と相通じるものを感じて、私は強い違和感を覚えた。この種の「正義感」は「独善」につながることを、一連の特捜検察の問題がよく示しているのではなかったか。 証拠改ざん・隠蔽事件で大阪地検特捜部の検事三人が逮捕されて一年。検察の独自捜査の問題点が少しずつあぶり出され、検察自身も改革を進めつつある。せっかく取り調べの可視化や客観証拠を重視することで冤罪をなくしていこうという機運が高まってきたのに、こういう判決は「マスコミを活用した雰囲気作りさえできていれば、薄っぺらな状況証拠しかなくても、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージにならないかと危惧する。 刑事司法の問題はすなわち裁判所の問題だ。検察が無理をしても調書を作るのは、裁判所がそれを安易に採用し、信用するからだ。しかし、郵便不正事件以降、裁判所も検察を過信するのを控えるようになってきたのではないか、という期待もあった。ところが、それはあまりに甘い見方だったようだ。 今、もっとも改革が必要なのは、裁判所かもしれない。 (9月27日の朝刊に掲載された共同通信配信の原稿に、大幅加筆しました) 日刊ゲンダイより(日々坦々様資料ブログ) http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-3883.html ◆森田実氏 「非常に危険な判決だと思いました。たとえば“天の声”の問題です。東京地裁の裁判長は、小沢事務所が“天の声”を利用して献金を集めていたとか、岩手県や秋田県では公共工事の談合において小沢事務所が決定的な影響力を持っていたと判断しましたが、そんなことはありません。私もこの問題は徹底的に取材しました。東北の談合は小沢事務所が仕切っていたといえば構図が分かりやすいし、そういう固定観念があるのは事実ですが、真相は違い、結論は小沢事務所に出る幕はなかったというものです。それを、なぜ裁判官は簡単に決めつけたのか。1億円の裏献金問題も同じです。明確な金銭授受の証拠は最後まで出ていない。だから地検特捜部も詰め切れなかった。それなのに裁判官は、渡した側が渡したと証言しているから間違いないんだ、被告たちの供述は信用できないと一蹴です。ハッキリしないこと、明白でないことが多いのなら、“疑わしきは罰せず”が裁判の基本なのに、疑わしきことを有罪と決めつけてしまう。こんな判決が恒常的になったら、人権が守られず、裁判制度そのものがおかしくなってしまいますよ」 ◆天木直人氏 「裁判官が勝手にストーリーをつくってしまうという点であるまじき判決ですよ。これまでの裁判は、検察調書を99%根拠にして有罪判決にしていたが、今回は満足な調書もないのに、状況証拠だけで有罪にしてしまった。裁判の慣例がいきなり変わったのです。それなら国会でまず制度改正をすべきなのに、裁判官個人が勝手にやってしまう。こんなことがまかり通っていいのか。それに裁判官は1億円裏献金を事実と認めた。これは大変なことです。それならばなぜ贈収賄事件に切り替えてやらないのか。巨悪事件を追及しないのか。なぜ被告たちに裁判官は執行猶予をつけたのか。おかしなことだらけなのです。反小沢、親小沢といったことを超えて、国民的に疑問視しなければならない大問題判決ですよ」 東京新聞こちら特報部より ◆佐高信氏 「判決には無理がある。検察が立証していない水谷建設からの裏献金も認定しており。(大阪地検の証拠改ざん事件など)検察の捜査の失態を裁判所がカバーした印象だ。真っ正面のゴロをトンネルした検察を、裁判所が救った形で、とんでもない判決だ」 元週刊朝日編集長山口一臣ツイッターより http://twitter.com/#!/kazu1961omi ◆山口一臣氏 陸山会裁判の判決要旨を読んで気がついたこと(誤解があったら指摘してくだされ): 問題とされたふたつの政治団体は西松建設がその社名を隠して政治献金を行うための隠れ蓑だったとする論法は、私にも違和感はない。その理由も丁寧に説明されている。したがって、大久保氏が寄付の主体が西松建設であるということを認識していたというのも、普通に納得できる。 ところが、ここから先、迷走が始まる。判決は〈岩手県や秋田県では、公共工事におけるいわゆる本命業者の選定に関して、小沢事務所の意向が決定的な影響力を持っており、その了解がなければ本命業者になれないという状況であった〉と、何の根拠も示さず断定している。その上で、大久保氏が「天の声」の発出役を務めていたと認定する。これらはいかなる証拠に基づくものなのか、判決要旨からはわからない。そもそも「天の声」の存在自体、09年7月の西松建設•国沢元社長の判決で明確に否定されている。献金をして「天の声」をもらって、工事を受注するといった単純な話はもうないのだ。しかし、今回の判決がここまでハッキリ断定しているということは、国沢元社長の裁判でも出て来なかった何らかの根拠や証拠があるのだろうか。もしないとしたら、登石郁朗裁判長は頭がどうかしていると考えるのが、自然かつ合理的だ。 判決によると、岩手県等の公共工事の受注を希望するゼネコンはまず小沢事務所の秘書に陳情し、了解が得られると鹿島建設の仕切り役にその旨を連絡し、小沢事務所の意向に沿った談合が行われていたという。これについても、認定した根拠は示されていない。それはさておき、ごく普通に一般社会で仕事をしている人間にとって、この判決に書かれたようなことが本当に行われていたとはにわかに信じ難いだろう。公共工事の受注は建設会社にとってはきわめて重要な問題だ。それが、いくら地元の有力政治家とはいえ、一野党議員の事務所が「天の声」を発して差配していたと考えるのは無理がある。裁判官は何を根拠にこう認定したのか、要旨だけではわからない。しかし、ここまでハッキリ書いている以上、何らかの証拠があるのだろう。もしないとしたら、登石裁判長は頭がどうかしていると考えるのが、自然かつ合理的だ。 ちなみに、東北の公共工事の談合について撤退的に取材したという政治評論家の森田実氏は9月29日付の日刊ゲンダイで、「岩手県や秋田県では公共工事の談合において小沢事務所が決定的な影響力を持っていたと判断しましたが、そんなことはありません」と断じている。森田氏の取材の結果は「結論は小沢事務所に出る幕はなかったというものです」というものだ。ごく普通に考えて、公共工事の受注になぜ、発注者でもない小沢事務所の許可が必要なのか? 裁判官はどう考えたのだろう。有力政治家ならば、経済合理性を超えて何でもできると思っているのだろうか? 判決をくだした裁判体を構成する裁判官たちの頭の中を見てみたいものである。 もちろん、小沢一郎氏が与党の実力者として権勢を振るっていた時代には、そうした仕組みがあったであろうことまでは否定しない。小沢事務所と公共工事の実態については、久慈力•横田一著『政治が歪める公共事業 小沢一郎ゼネコン支配の構造』(緑風出版)に詳しい。しかし、ここで指摘されている事実は、今回の裁判で扱われた時期よりずっと前のことだ。ちなみに、ゼネコン各社は独禁法改正前の2005年末にいわゆる「脱談合宣言」している。宣言後も談合事件が発覚したケースはあるが、これをきっかけに公共工事の受注の仕組みが大きく変わったことは間違いない。 しかし、今回の古い資料をひっくり返していたら、驚くべきことに気がついた。先ほど指摘した、判決要旨に書かれた岩手県等における公共工事の受注に関するくだりは、西松建設事件の裁判のときの検察側冒頭陳述の丸写しだった。一言一句、ほぼコピペされているといっとも過言ではない。こういうことは、よくあるのだろうか? 判決の文章が検察側冒陳と同じということは、やはり判検が癒着していることの証拠ではないか。それはさておき、このくだりを読み返してもうひとつ指摘したいのは、百歩譲って小沢事務所が当時もまだ、公共工事に影響力を持っていたとしても、小沢事務所が陳情を受けて働きかける相手は、談合の仕切り役ではなく、発注者である首長もしくはその周辺ではないか。そうでなければ「天の声」など出せるはずがないのである。判決の要旨をざっと読んだだけでも、次から次へと矛盾が出てくる。まだまだ指摘したいことがたくさんあるが、少し長くなったのでいったん休む。(続きはまた) ◆田中良紹氏 またか 「ほー」と思わせる判決だった。「陸山会事件」の一審判決で東京地裁の登石郁郎裁判長は、大久保隆規元秘書が公共工事の談合で「天の声」を出す当事者であり、石川知裕元秘書と共に水谷建設から裏金1億円を受け取ったと認定した。そしてそれを隠蔽するため政治資金収支報告書に嘘の記載をしたとして3人の元秘書に執行猶予付きの禁固刑を言い渡した。それならこれは虚偽記載事件と言うより贈収賄事件である。 東京地検はなぜ贈収賄事件として贈賄側を逮捕し、次いで収賄側の立件に至らなかったのか。一連の事件には初めから不可解な点が纏わりついている。まず政権交代がかかった衆議院選挙直前の3月に「西松建設事件」で大久保秘書が政治資金規正法の虚偽記載容疑で突然逮捕された。形式犯とも言える容疑での強制捜査は前例がない。 しかも時期的に総理になる可能性の高い政治家に対する捜査である。検事総長以下最高幹部が意思統一し捜査に臨むのが決まりである。ところが「検察首脳会議」は開かれず、「若手検事の暴走」という形で強制捜査が行われた。私が担当したロッキード事件で、東京地検は田中逮捕の前に「福島の天皇」と呼ばれた高齢の知事を逮捕して世論の動向を探るなど慎重に準備を進めたが、今回の捜査にはその片鱗もない。 「西松建設事件」の収賄側には自民党議員の名前が多数挙がっていて、中には事件発覚後に秘書が自殺した者もいた。しかし当時の官房副長官は自民党に事件は及ばないと断言し、その通り自民党議員は立件の対象にならなかった。「若手検事の暴走」という形にした事や政権交代の推進力である小沢一郎氏に的を絞った捜査は、通常の検察捜査というより政治的色彩の強い捜査と見られた。大阪地検も同時期に民主党副代表をターゲットにする「郵便不正事件」に着手したから狙いは政権交代阻止と見られた。 大久保秘書の容疑は西松建設が政治献金をするために作った組織を西松建設本体と認識していたというもので、これが虚偽記載に当るというのである。犯罪と騒ぐような話かと思ったが、いつものことながら政界とメディアに「政治的道義的責任」を追及する大合唱が起きた。ここで小沢氏が非を認め、代表を退けば、検察は形式犯でしかない大久保元秘書の起訴を見送る公算が強いと私は見ていた。 ところが小沢氏は非を認めず、検察に対して闘争宣言を行なった。検察は大久保元秘書を起訴せざるを得なくなり、「西松建設事件」だけでは有罪が難しいため、慌てて小沢捜査に力を入れ始めた。過去にさかのぼりゼネコン関係者からの聴取が行なわれた。 その結果摘発されたのが「陸山会事件」である。検察は秘書らが住む事務所棟建設の土地購入に関して4億円の記載ミスがある事を発見した。一方で水谷建設から1億円の裏金提供の話を得る。この二つがどのように結びついているのか不明だが、ともかく二つの情報が流れればそれで目的は達する。国民には贈収賄事件の心証を与え、しかし検察は贈収賄事件の立件をしない。立件すれば証明しなければならないが、心証を与えるだけで政治的効果は十分だからである。 一方で大阪地検の「郵便不正事件」は検察の大失態となった。担当検事が供述調書を改ざんして逮捕され有罪となり、事件の構図は崩れた。検事の取調べは信用できなくなった。そのため「陸山会事件」でも裁判所は供述調書を証拠として採用しない事にした。証拠に代わって判決の骨格を成したのは「推認」である。裁判所が被告と検察の言い分のどちらを「自然と見るか」という事で、客観より主観が優先される。 今回の判決で裁判所は全面的に検察側の主張を受け入れた。3人の元秘書や小沢氏はすべて嘘を言ってきた事になる。ロッキード事件以来、数々の「でっち上げ」を見てきた私には「またか」という思いがある。ロッキード事件で田中角栄氏に一審有罪判決が下った日、私は官邸で後藤田官房長官を担当する政治記者だった。中曽根総理も後藤田官房長官もその日は裁判に一言も触れなかった。 野党が「田中角栄議員辞職勧告決議案」を提出すると言って騒ぎ始めると、二院クラブの参議院議員であった作家・野坂昭如氏が、「選挙民が選んだ議員を国会が辞めさせるのはおかしい。それでは民主主義にならない」と私に言った。「その通り。辞めさせたかったら選挙で辞めさせるのが民主主義です」と私が言うと、しばらくして野坂氏が「田中角栄に挑戦する」と言って新潟3区から立候補を表明した。 1993年に田中角栄氏が亡くなりロッキード裁判は控訴棄却となった、その2年後に最高裁はロッキード社幹部に対する嘱託尋問調書の証拠能力を否定する判決を下した。嘱託尋問調書は田中角栄氏がロッキード社から受託収賄した事を裏付ける証拠である。真相がほとんど解明されていないロッキード事件は、しかしメディアによって「総理大臣の犯罪」とされ、その後の日本政治には「政治とカネ」のスキャンダル追及が付きまとう事になった。 今回の裁判で有罪判決を受けた元秘書は不当な判決だとして控訴した。小沢氏本人の裁判も来週から始まる。かくなる上は裁判の行方を見守るしかないのだが、「またか」と思うようにメディアや政治の世界が「政治的道義的責任論」を叫び始めた。政局に絡ませようと言うのである。しかし大震災からの復興予算を作らなければならない時に、立法府がやるべきはスキャンダル追及ではない。司法の問題は司法に任せる事が民主主義の基本なのである。 投稿者: 田中良紹 日時: 2011年9月27日 19:04 日刊ゲンダイ(日々坦々様資料ブログ)より http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-3878.html ◆衆議院議員で弁護士の辻恵氏 「判決は捏造で魔女狩り裁判のようだ」 「裁判所は公判請求された公訴事実について真偽を判断するのが仕事です。裏金授受については判断する必要もないのに、虚偽記載の悪質性を強調するために証拠がないまま事実認定し、断罪した。大久保被告が天の声を発していたというのも同様です。さしたる証拠もないまま大久保被告が天の声を発していたと事実認定し、だから、水谷建設も大久保被告に裏金を渡し、虚偽記載では共謀していると断じた。検察は村木冤罪事件で違法な聴取をし、それと同じことを西松・陸山会事件でもやっていた。裁判所はそれをたしなめる立場なのに、小沢はうさんんくさい、金権だという世論やメディアに流され、証拠に基づかない事実認定をした。これぞ、魔女狩り裁判で司法の危機だと思います」 http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-3874.html ◆郷原信郎弁護士 「判決内容を詳しく見なければならないが、信じられない判断だ」 ◆魚住昭氏 「驚いたのは、水谷建設からの裏献金1億円を認定したことです。石川知裕議員に渡したという5000万円は、客観的な証拠が何もないのに受け取ったと断定しているからビックリです。5000万円が渡ったというなら、その5000万円はどこに行ったのか。それも明らかにされていない。『疑わしきは被告人の利益に』が裁判の大原則なのに、『疑わしきは検察の利益』になっている。考えられない判決ですよ」 「論理的に考えれば、小沢元代表は〈無罪〉以外あり得ません。検察審査会は、石川議員が検察に供述した『虚偽記載について小沢氏に報告・了承を得た』という調書を基に、小沢元代表を強制起訴しています。しかし、石川議員の調書は〈任意性がない〉と裁判所が証拠採用を却下している。つまり、検察審査会が強制起訴した根拠がなくなってしまったのです。常識的に考えて、〈有罪〉にするのは無理があります」( ◆九大名誉教授の斎藤文男氏 「そもそも、この事件は政治資金規正法違反(虚偽記載)という形式犯です。過去には修正で済まされてきたケースも多い。それなのに、検察の強引な構図で事件化され、大マスコミがはやし立ててきた。最初から、小沢失脚を狙った政治的な思惑があったとしか思えない。今回の判決にしても、法違反そのものを立証すればいいのに、状況証拠だけで踏み込んで、余計な背景説明までしている。なぜ、こんなことになったのか。本来ならば、マスコミは一歩引いて、冷静に伝えるべきですよ」 弁護士落合洋司の「日々是好日」より http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20110926 ◆落合洋司弁護士 大久保被告が石川被告らと共謀したかも争点だった。地裁は検察側請求の共謀に関する供述調書などを不採用としていたが、判決は、大久保被告が土地の選定や売買契約に深く関与したという状況証拠から、起訴内容の一部を除き共謀を認めた。http://t.asahi.com/41tj ネットで読むことができた判決要旨も一通り読んでみましたが、特に問題を感じたのは、上記のような事実認定の在り方でしたね。知っていたはずだ、知っていないはずがない、といった、一種の「決めつけ」の積み重ねで、刑事責任の核心部分である共謀を、安易に認定しているのではないか、こういった手法が広くまん延すれば、状況証拠による認定の美名の下に、次々と冤罪が生み出されてしまうのではないかと、強い危惧を感じずにはいられませんでした。 こういった、薄っぺらい証拠で強気に共謀を認定する裁判所の傾向は、共謀罪問題の際にも各方面から指摘され、共謀罪が立法化されずに現在に至っている大きな原因になったものでしたが、その危険性が、図らずも露呈した、という印象を強烈に受けています。 元特捜部長、副部長といった、弁護士の皮をかぶった検察官のような輩が、こういった認定の在り方を礼賛していますが、このような認定がまん延すれば、検察、警察にとっては、組織犯罪摘発等で便利この上なくても、国民が、思いがけないところで刑事責任を問われ、そのような事実がなく必死に否定しても、怪しいから、疑わしいから、といった薄弱な根拠で有罪と決めつけられかねず、安易に礼賛するのではなく、慎重に見なければならないと思います。 従来の知能犯捜査、公判では、こういった共謀認定では、供述証拠が重視され、それがないとなかなか積極認定はされないのが通常でした。それが100パーセント正しいとまで言うつもりはありませんし、状況証拠の活用ということも検討すべきとは思いますが、この判決での裁判所による上記のような共謀認定は、状況証拠の危うさ、被告人や弁護人の主張に耳を傾け合理的な疑いがないかどうかを検討する謙虚さに欠け、検察ストーリーに安易に乗って有罪と決めつける、現在の裁判所の極めて危うい傾向を露骨に露呈しているのではないかと思います。 そういった点も含め、この判決が持つ問題点が、今後、慎重に検討されなければならないでしょう。 東京新聞より 「直接証拠が乏しい中、判決は『知っているはずだ』『怪しい』という推測を多用し被告間の共謀関係など重要な部分を認定しており、背筋が凍るような思いだ」 「推定無罪が原則である刑事裁判の判決は、被告が無罪になる可能性の芽を丁寧に摘む必要があるのに、考慮した跡が見られない。冤罪を生みかねないこうした論法がまかり通れば、安心して社会活動ができなくなってしまう」 |