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(回答先: 私が民主党の政治家にいちばん欠けていると感じるのは、「仮説」を立てる能力である。道筋と順番をつけられる力のことだ。 投稿者 TORA 日時 2011 年 6 月 18 日 14:04:51)
菅は官僚=悪という図式にとらわれて、官僚を萎縮させてしなったのではないか?
それが根っこにあるのではないか?
日本では不満を持っていても、村八分にされるのが恐くて、「空気嫁」という形で少数派に圧力がかけられてきたと思う。組織が個人を殺さないようにせねばならない。
その意味で今回の震災は重要だ。
戦時中のように多数派が組織的に個人を圧殺して意見を封殺する事はもはや危険だろうと思う。
菅は対等な形で官僚と話し合いが出来ず、上から抑え付けて言う事を聞かせようとして失敗した。公務員のトップである官僚はなまじ反体制派やマスコミからは諸悪の根源と叩かれ、一般国民は悪いイメージを持つ者が多い。だが、彼らの協力を得なければ復興は進まない。力を合わせるというのは相手を認め、信じるという事だ。糾弾するだけのリーダーでは組織は柔軟性を失うだろう。
太平洋戦争では敗色が明らかなのに誰も終結を言い出せず、戦争を8月まで延ばしてしまった。日本を救う為には、時には従来の自分の立場からフリーな気持ちで正しいと思われる事を言う人と協力せねばならない。一緒に協力してやろうと言う気持ちがなければ、敵対的な態度を取れば、当然相手だって身構えるだろう。
菅に欠けていたのは褒める、労をねぎらうという事だろう。相手を思いやる心である。政治家が本当に闘うべき敵は部下ではなく、上司として立ち現れると思う。
>◇互いに不信感を募らせる悪循環◇
>なぜ菅首相は、今回「空回り」をしつづけ、「人災」といわれるような悲惨な状況を招いてしまったのか。霞が関のなかからみえたことを、本稿では論じたいと思う。
>まず、菅首相が「空回り」した原因は、明らかに官僚をうまく「使いこなせなかった」ことにある。いざ有事において、官僚組織を迅速に動かすためには、現場に臨機応変に対応できるような権限を与える代わりに、責任は自分が取るという強い覚悟が、政治家には求められる。上の立場の人間が、「俺が全部責任を取る」という態度を示さねば、現場はなかなか思い切り動けない。
>だが、菅首相が示した態度は、「とにかく情報を早く上げてこい。決めるのは俺だ。決めたらいったとおりにやれ。それができない無能者は承知しない」というものであったように感じる。そういわれれば、官僚としては、さまざまな情報を上げ、判断を仰ぐ。しかし、これだけの非常時に、現場の細かい情報を集中させても錯綜するだけで処理しきれるものではない。
>「官邸、しかも総理本人に情報を上げ、そこでの判断を待たなければならない」となれば、どうやっても時間がかかる。官僚からみれば、「急げというくせに、官邸に上げたら時間がかかるじゃないか。われわれを信頼してやらせてくれればもっと進められるのに」という苛立ちと焦燥感が募るばかりである。それでいながら、「できなかったらおまえの責任だぞ」などといわれれば、あっという間に士気喪失である。
>もともと菅首相が非常に厳しく官僚に当たり、感情を露わにするという話はよく聞いていた。そのような地合があるところに、このような混乱状況が生まれてしまったら、周りを固める人たちからすれば、「何なんだ、この人は」という不信感の悪循環が生まれるだけになってしまう。
>東電福島第一原発の話でも、ベントのタイミングが遅れたのではないか、といわれている。現場の状況をよく知らないくせにという批判を承知であえて指摘すれば、菅首相が「全責任は政府が取る」と明示して「命令」すれば、事故現場の暗闇で手探りで作業せねばならなかった事情はあるにせよ、もう少し早く行なうことができたのではないか。
>「絶対に放射能を外に漏らしてはいけない」といわれつづけてきた原子力事業者からすれば、放射能を撒き散らすことになるベントは、精神的にきわめてハードルの高い決断である。しかも、運よく原子炉がすぐに安定状態になったとしたら、「なぜベントなど行なったのだ」と批判される恐れもあるのだ。そういうなかで、「おまえの責任だ」といわれそうな雰囲気の下、「早くやれ」と尻だけを叩かれても、それが正式な命令ではなく、ただの言葉の指示だけでは、現場としては必要以上に慎重にならざるをえないことは目にみえている。
>私が民主党の政治家にいちばん欠けていると感じるのは、「仮説」を立てる能力である。つまり、一つの問題を解決するために、どこを変えればよいのか、道筋と順番をつけられる力のことだ。
>「仮説」を立てれば、結果が想定どおりにならなかった場合に、なぜそういうことになったのか、自分がとった考え方と行動がはっきり整理できるので、その原因の分析ができるはずだ。しかし、民主党はどんな仮説に立ってどう行動したのか、自分でも理解していないのではないか。それでは、いつまでも場当たり的な対応を繰り返すしかない。
>そうなってしまうのは結局、民主党の政治家が政策に関する体系的な勉強をしてこなかったからであろう。野党時代の民主党は、与党の自民党の政策のアラを探して、そこを徹底的に追及していく、という政治手法を多用した。ところが、その分野について幅広い見地から勉強し、問題解決のための「仮説」を出して政策を推し進めていくのは、不慣れなようだ。
>一方の自民党だが、政策立案の場として、党内に「財務金融部会」「経済産業部会」「環境部会」といった専門の部会を設けてきた。これら部会は体系的に政策を学ぶことができる、若手議員の勉強の場でもあった。しかし、その先生役を務めるのは官僚だ。言い換えれば、自民党の議員は官僚に育てられて一人前の政治家になるという仕組みであった。だから、役所の枠をはみ出せない政治家になってしまう。
>国民の利益よりも、省の利益の代弁者である「族議員」は、このシステムが生み出す弊害そのものであった。自民党政権時代には、こうした政官が一体となった「複合共同体」ができあがっていた。民主党政権になれば、それらは一度、ご破算になるはずであった。ところが、民主党政権には、官僚と新たな関係を構築し、政治を運営していくだけの能力はなかった。
>思えばかつて民主党が自民党のアラを徹底的に追及できた背景に、自らの思惑を通したい官僚側の「リーク」があったことも、事実である。与野党ともの、このしがらみの構造を解きほぐさねば、真の改革は実現しない。(後略)
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