http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/885.html
Tweet |
(回答先: 「国民の生活が第一。」が殺される今、『政治やメディアの陰謀告発ブログ』が鳴らしていた警鐘を考える 投稿者 蔦 日時 2011 年 1 月 18 日 00:56:27)
『「ジャーナリスト同盟」通信から
本澤二郎の政治評論「台湾ロビー」
(1) 2008年01月04日 :http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50831088.html
(2) 2008年01月11日 :http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50834610.html
(3) 2008年01月14日 :http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50838350.html
(4) 2008年01月22日 :http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50885220.html
(5) 2008年01月29日 :http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50914225.html
(最終回)2008年02月03日:http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/50933246.html
から下記を転載投稿します。
=転載開始=
(1)2008年01月04日
<蠢動する台湾派>
暮れの福田訪中(日中国交正常化35周年)によって、日中関係は表向き友好的に推移している。今年2008年は平和友好条約締結30周年である。桜花爛漫の季節に胡錦濤国家主席が訪日することから、小泉内閣がぶち壊した日中関係は修復に大きく向かうだろう。だが、その一方で北京が神経をすり減らしてきている台湾ロビーの蠢動も目立ってきている。3月の台湾総統選挙の有力候補二人が、暮れに次々と訪日して台湾ロビーとの関係強化に努めた。改めて日本と台湾との政治的かかわりの深さと、それを支援する政治勢力の大きさを印象付けた格好である。
台湾派の「第二青嵐会」も誕生した。日華議員懇談会の平沼赳夫は新党を立ち上げるという。ポスト福田に台湾派の麻生太郎を再擁立する動きも。総理経験者の台湾派の実力者・森喜朗と安倍晋三も首相である福田康夫の動きをけん制している。魑魅魍魎が跋扈する永田町に変わりはない。
筆者は98年に「台湾ロビー」(データハウス)を世に出したが、当時の台湾派議員のほとんどが姿を消して、次の世代へと継承されている。不思議と台湾ロビーは後継者を誕生させている。これは豊富な資金の存在を裏付けている証拠なのである。
<金で動く政治>
最初に「政治と金」についての筆者の見解を述べておきたい。
信じられないと思う向きは、政界事情をよく承知していないか、門外漢ゆえに仕方ないのだが、政治(政策)は金で動く。むろん、例外を認めるにやぶさかではないが、重要な政策決定には、政党や政治家を動かすための資金力が水面下で決定的な役割を果たすものなのである。30有余年の自民党を見聞・取材してきた結論でもある。恩師のような宇都宮徳馬の貴重な示唆にもよることを紹介する価値があろうか。
民主政治は、主権者の意思で選ばれたはずの代表者(国会議員や地方議員)の多数意見に従って立法行為がなされ、機能している。「公正な選挙で」が大前提であるが、これはあくまでも表向きのことで、実際には当選するために政党や候補者は日常的にさまざまな仕掛けや工作を駆使している。政党によって、あるいは候補者によって、その手口はまちまちであるが、そこには金が動く。要するに、不公正な要素が水面下において充満している。ここに問題がある。まともな人物が政界に足を踏み入れない理由である。
今日においては、さすがに暴力沙汰はなくなったものの、戦前などでは政府が選挙妨害を行うなど、およそ民主に値しないものだった。選挙といっても参政権のない女性や、あっても庶民・大衆は資産家でなければ、政治を動かすだけの力は少なく、実質縁遠いものだった。一部特権層の金が決め手となった。財閥・軍閥・官僚が牛耳った天皇制国家主義の政治制度であったからである。
制度面で民主化された戦後でも、学校教育も影響しているのだろうが、現在でも若者の投票行動はあいまいなもので、かなりの若者が主権者としての貴重な選挙活動を回避している。義務教育や大学での政治教育が皆無だから、恐ろしく関心が薄い、というよりも理解していない。彼らに、投票行動するだけの政治認識が決定的に不足しているためである。そこには、政治的無関心層の大量輩出がむしろ政府与党に貢献してくれるとの思惑が、為政者の側に存在しているからにほかならない。金にまつわる不正や腐敗が露見しても、それが直ちに政権交代を招来させることはない。
選挙制度もまた、公正さを欠いていることも重要である。従来の中選挙区制は多様化している有権者の意思をより正確に反映するのだが、現行の小選挙区比例代表制は大政党に有利というだけではなく、多様化している有権者の意思を反映しない。したがって、国民の政治不信を増大させることになる。金力が投票結果を左右しがちである。
もともと小選挙区制は戦前の国家主義を信奉する右翼勢力が、平和憲法を破壊するための方策として推進してきた、という歴史的経緯がある。金力の有効活用との側面も否めない。なお、平和憲法を破壊する政治勢力と台湾派は概ね一体化している。注視する必要があろう。
結論だが、金で政治・政策が動くのである。金で国会議員になれるのである。かつて青嵐会議員政策秘書は「金が出なければ台湾寄りで動きませんよ」と筆者に公言した。「金さえ出せば人殺し以外はなんでもする」といった自民党大物秘書もいた。後に触れる台湾派の蠢動はそれ自体、豊富な資金が動いている証拠なのである。
<右翼とタカ派>
最近の学生に「タカ派」「ハト派」を尋ねても、まともに答えられない。わからないのである。新聞を読んでない学生があまりにも多数だからである。
鷹と鳩を比較すれば、一目瞭然であろう。後者は平和の象徴である。戦争に反対する平和主義者の意味である。問題を外交・話し合いで解決する立場の政治家をハト派と呼んでいる。英語のリベラルを用いる言い方もある。筆者はリベラル派を用いている。戦争させない・出来ない日本国憲法はリベラル原則で貫かれている。これほどすばらしい誇れる憲法は、コスタリカの憲法以外に存在していない。他方で、軍事力に傾斜する立場をタカ派と称している。対決・圧力がタカ派、すなわち右翼の立場でもある。改憲派なのだ。
右翼の特徴は、話し合いを軽視するところにも特徴がある。強権主義をちらつかせる対決路線だ。憲法の平和主義とは一致しない。右翼は独裁主義を好む。
軍事力重視である。軍国主義(ミリタリズム)に傾斜する。問題を外交的話し合いよりも、軍事力・戦争で決着をつけるやり方は、国家主義を排除したリベラルな日本国憲法が容認しないところなのだが。憲法を尊重することが前提である国会議員は、すべからくリベラル・ハト派でなければならない。言論人も同様でなければならない。対して、右翼の特徴は天皇主義と反共主義がまとわりつく。偏狭なナショナリズム(民族主義)である。排外主義だ。したがって、共産党政権の国に対しては、やたらと反発し、対決姿勢をみせる。民族主義をあおることに心血を注いでいる。対決の前提として軍国主義へと走る。寛容はリベラルの証しだが、右翼にはこうした体質が皆無に近い。
右翼は軍国主義を好むため、ことさらにそれを全面否定する憲法第九条の解体に総力を挙げることになる。改憲で暴利をむさぼれる勢力は、文句なしにそれは財閥である。特に兵器財閥・軍需産業である。実を言うと、右翼を養成しているのは財閥ということになろう。戦前の一時期、純粋右翼は吸血鬼のような財閥に攻撃を加えたが、今日では一体化しているように見える。改憲論が消滅するどころか勢いを増している真の理由なのだが、これを指摘するのは、この日本列島に誰もいないようだ。
自己保身に走る学者・文化人がいかに多いことか。戦前もそうだったが、現在も同じ状況にある。そのことはまた財閥に恩恵を受けている指導層が圧倒している証拠である。財閥は日本政治を操作するだけでなく、隣国など海外の為政者や知識人をも金力で懐柔している。真実が隠される理由である。
日本の危機はここに潜んでいるのである。財閥の資金で操作される政治家・政党・官僚に問題がある。財閥が暴走すると、それこそ復古主義の再現になりかねいのだ。後藤田正晴や宇都宮らリベラルな政治家が「30年代の日本」と警鐘を鳴らしたのも、問題の本質を見抜いていたからだろう。日本民主主義も一皮むくと財閥民主主義なのである。
右翼議員らには海外からの工作資金も流れる。かつて左翼にソ連からの資金が云々されたこともあるが、反対に右翼には米国や台湾からの秘密資金の存在がその筋でよく知られている。
<森・小泉・安倍は同列、福田は?>
福田赳夫が設立した清和会とう派閥の源流は、いうまでもなく岸信介派である。東条英機戦争内閣の商工大臣として敗戦後にA級戦犯容疑者になった人物である。商工大臣といえば財閥の代弁者に等しい。戦後に解体された財閥が復活すると、その財力で自らも復権を果たし、政権を担当してしまった。その後も亡くなるまで、実弟の佐藤栄作内閣や福田内閣を背後で操作した。蒋介石とは肝胆相照らす仲だった。岸の悪しき信念はこの派閥に堅固に継承されてきている。中曽根派とともに自民党最右翼の派閥で知られる。
森・小泉・安倍という清和会内閣を率いたリーダーたちは、いずれも岸を尊敬してきた。森の有名な発言は「日本は天皇を中心とする神の国」というものである。総理大臣として披瀝したものだから、平均的日本人には理解不能であるが、そうした思いが天皇家の宗教である靖国神社への小泉参拝へとつながるのである。小泉参拝を強力に後押ししたのが安倍だった。天皇と神社は右翼の唯一の止まり木なのだ。
マスコミが健全であったころには、こうした事態はなかった。同じ思想の持ち主である中曽根が参拝を強行したが、マスコミと野党と中国の反発で二度としなかった。森内閣の時代は、まだ自民党内にリベラルな加藤派が存在したことで、軍拡路線を強行することはなかった。むろん、改憲論を声高に叫ぶこともなかった。
しかし、小泉―安倍ラインは改憲と軍拡へと舵を大きく切った。有事法制、ミサイル防衛システム導入、自民党の改憲案作成、防衛庁の省昇格と派兵を主任務とする自衛隊、米軍再編にからめて米陸軍司令部をキャンプ座間に移転、銃をもつ若者教育への始動(教育基本法改悪)、平和憲法解体に向けた国民投票法制定である。いずれも公明党が支持することで実現した。有事法制は背後の岸の意向もあって福田赳夫内閣が強行したものの、果たせなかった戦争法である。
こうした政治実績を並べてみると、天皇主義・改憲・靖国・軍拡の志向を見て取れよう。同じことは中曽根にもいえる。もう一つ加えると、それは教育である。歴史の改ざんには、清和会の右翼思想が関係していることが理解できるだろう。
さて、今の福田はどうか。少しは違うようだ。筆者は宮澤喜一に師事したことが、アジア重視につながっているとみたい。それに政治歴が少ないことが、岸思想に染まらない、たとえ染まっても薄かったことが幸いしたのではないだろうか。
筆者が福田赳夫を取材しているころ、父親のかばん持ちをしていたのは康夫ではなかった。弟の郁夫だった。弟は伊香保温泉の大きな旅館の横手館に養子に入りながら、実父の仕事に人生をかけていた。物静かな物腰の男だった。酒とゴルフのせいか、顔がいつも浅黒かった。郁夫こそが政治後継者であった。康夫は政治に興味を持っていなかったのである。ところが、弟の早世が康夫の石油会社勤務を辞めさせたのだ。その分、右翼思想というよりも極右思想に染まることが少なかったのだといえる。ただし、一部の自民党関係者は「福田もごりごりの右翼。現在の政治状況がリベラルにさせているだけだ」と指摘している。「能ある鷹は爪を隠す」の喩えを踏襲しているにすぎない、というのだ。
先述したように、一般に物事の処理に当たって強硬な手段を行使することをいとわない政治家を、タカ派と称している。それが思想面においても貫かれている政治家や学者・文化人らを右翼と呼んでいる。徹底した共産党嫌いを右翼、平和運動を敵視するものも右翼といって、タカ派とはいわない。改憲派も右翼である。暴力で言論弾圧する輩は無論のこと右翼である。右翼もまた力で抑えようとするため、タカ派でもある。ハト派は平和的に処理する。力の政策は可能なかぎり排除する。それは軍事・武力の行使を容認しない。憲法の立場でもある。外交の基本は平和外交・友好協力外交である。ブッシュ戦争に加担する外交は、たとえテロ対策の大義を掲げても、日本国憲法の精神に反する。
日本の唯一の誇りである憲法の精神を踏みにじったり、これをぶち壊そうとする政治家を、筆者は極右と呼ぶ。安倍はその典型人である。天皇を神に祭り上げる国粋主義、他民族を排除する偏狭な民族主義は極右そのもので、これが戦前の軍国主義にはまとわりついていた。
(2)2008年01月11日
<岸信介と蒋介石>
台湾ロビーは、主に東京とワシントンにおいてスさましいほど活発に活動している。ワシントンではユダヤロビーに次ぐ資金力と実績を誇っているが、東京では米国を除くとロビー活動の1番手につけて恥じない。
その第一人者となったのが総理大臣経験者の岸信介、続く2番手が彼の実弟首相・佐藤栄作であった。二人の総理大臣と台湾の蒋介石総統の関係は、余人をもって代えることが出来ないほど深かった。日台のしがらみの深さは、これのみでも十分説明がつくだろう。
最近の森・小泉・安倍・福田の4代の自民党総裁・総理大臣は、全てが岸・佐藤の亜流であるわけだから、特に小泉・安倍内閣の下では歴史認識や靖国参拝などで日中双方に対立が生じたのも、しごく当たり前なのである。非は72年の国交正常化原則に反する政府自民党にある。批判しないマスコミにも。
拙著「台湾ロビー」の取材に深く協力してくれた松野頼三は、尋ねると即座に2人の名前を上げたものである。彼は福田赳夫や三木武夫の参謀を務めただけでなく、実父・鶴平を通じて戦後政治の裏面史に詳しかった。防衛庁長官をした関係で、軍事利権にまとわりつく岸や中曽根と黒幕の児玉誉士夫にも詳しく、リベラルな派閥の実力者では到底語れない永田町のいかがわしいしがらみと腐敗構造を随分と教示してくれた。台湾ロビーについても彼ほど詳細に語ってくれた政治家はいなかった。彼の側近である平井秘書とは今も交流があるが、彼も松野の代理人として活躍してきた。たまにはアドバイスを求めることがあるくらいである。
蒋介石の策略は、常に岸と佐藤を介在して当時の福田赳夫に伝えられていた。台湾利権とは距離を持っていたとされる灘尾弘吉経由も存在した。彼らは佐藤後継総裁を反中の福田でまとめようと必死だった。他方、中国との関係正常化を悲願としていた大平正芳は、田中角栄と連携し、さらに三木武夫・中曽根康弘を巻き込む過程で4派連合の政策協定に国交回復を掲げた。72年7月に田中内閣が誕生すると、直ちに日中国交回復に向けた交渉を開始すると、福田派は激しい反撃を開始した。田中・大平・三木・中曽根の4派が推進する正常化交渉に、福田派はことごとく執拗に抵抗した。黒幕の岸と佐藤の圧力が背景にあったからである。福田派の抵抗に田中は一時、弱気になったほどでる。大平が必死で突き上げて政権発足3ヶ月後の9月に決着をつけた。当時のマスコミと財界が支援していたことにもよる。
この間の自民党内の主流・反主流の攻防は、あたかも戦国時代のようにまことにすさまじいものだった。右翼の街頭宣伝車が国会周辺に連日動員されて、田中―大平への口汚いののしり声が、大型車に取り付けられた拡声器から鳴り響いた。右翼の強みといえるものなのか、決まって背後に控えている右翼・暴力団を動員させるのである。筆者は駆け出しの記者として大平取材を通して、これらの様子を取材し、つぶさに見聞していた。当時は、知識不足もあって表面上の動きしか理解できなかった。福田の裏で、岸や佐藤が、遠く台北の暗躍している様子など知る由もなかった。
このころ岸事務所での岸会見のさい、誰かが「いつまで議員を続けるのか」という質問をぶつけた。これには「福田君を総理にするまではバッジをはずせないよ」という岸の言葉を今でも覚えている。総理大臣を辞めたあとの岸事務所は新橋の日石ビルの中にあった。当時の日本石油である。石油利権との関係の深さを露呈していた。同じころ、福田側近NO1の田中龍夫が「福田さんは岸さんに言われると、なんでもハイハイなんだから」とこぼしていたことも。彼は戦前の軍人首相・田中義一のセガレである。岸と福田の関係はまるで夫婦のように一体で、誰も間に入ることが出来なかった。
岸−佐藤兄弟と蒋介石の関係も同じく深いものだった。証拠はないものの、ポスト佐藤の自民党総裁選挙において、相応の支援が台北からあったはずである。しかし、それでも福田は敗北した。マスコミが佐藤の官僚政治に批判的で、財界も今とはまるで違ってまともだった。佐藤亜流の福田を嫌って、日中国交回復の流れを正当なものと評価していた。
第一、前年には米国のキッシンジャーが電撃訪中を敢行していた。ニクソン大統領も。佐藤内閣は蚊帳の外に置かれていた。ワシントンの変節は、ソ連との対抗上、ソ連と対立していた中国を引きつけようというものだった。国際政治の流れは、ごく自然に小さな島でしかない台湾から、巨大な領土を保有する中国へと移っていた。
しかし、それでも蒋介石の抵抗は止むことがなかった。総力を上げた秘密工作が東京で表面化した。それが自民党若手の極右グループである青嵐会の誕生となった。
<血盟の青嵐会>
「政治は金で動く」のだが、若手自民党議員の行動力は予想外なことだった。台湾派は福田派の別働隊でもあったが、実際のところそれは岸の配下でもあった。田中―大平攻撃が主たる狙いだった。そうして正常化した日中間に亀裂を入れようというものでもあった。台北が活動資金を提供していたのだろう。その豊富な資金力から、それぞれのメンバーは露骨な政治的演技に走った。
国交正常化の翌年73年に旗揚げした青嵐会は、大時代的な血盟集団でもあった。小指を切り、その血で誓約書に血判を押して気勢を上げたことには、戦前が復活したものかと取材していて驚いてしまった。さすがに彼らを支援するマスコミは存在しなかった。
マスコミはこの時代錯誤の集団を真正面から批判した。このころの読売新聞はまともだったように記憶している。そのはずで、筆者のよく知る政治部長は三木武夫と親しいリベラル派だった。渡辺恒雄の先輩である。
73年の攻撃される主役は外務大臣の大平だ。彼は中国との航空協定の交渉を急いでいた。これに青嵐会は真っ向からぶつかってきた。今でも韓国や台湾の議会で見受けられるような、暴力寸前の怒号が渦巻くような場面が、国会内や自民党本部で演じられた。民主主義も通用しないような自民党であった。
もっとも活躍が目立ったのは浜田幸一である。本人が「ヤクザの世界にいた」と豪語する人物だから、ドスの効いた話し方は本物そのものだった。筆者がよく知る政治家に千葉県警本部長をした渡辺一太郎がいたが、彼は「浜田は現役のヤクザだ。彼が千葉県議のとき逮捕しようと努力したが、なかなか尻尾を出さなかった」と証言している。浜田が暴力団の世界から足を洗ったとの形跡はない。警視総監・法務大臣をした秦野章は「偶然、暴力団の集まりに出たことがあるが、そこに浜田がいた。彼は構成員なんだよ」と教えてくれたものだ。
浜田は自民党の会合で灰皿を投げる、あるいは椅子を振り回すなど本領を発揮したことは、当時の関係者なら誰でも知っている。浜田の盟友が現在都知事の石原慎太郎である。
老いた岸・佐藤の身代わりが青嵐会だった。31人の顔ぶれを紹介しておこうか。
(衆院議員)中川一郎、藤尾正行、湊徹郎、渡辺美智雄(以上代表世話人)、内海英男、加藤六月、中尾栄一(座長)、森下元晴、阿部喜元、江藤隆美、国場幸昌、近藤鉄雄、中村弘海、中山正喗、浜田幸一(事務局長)、松永光、森喜朗、山崎平八郎、綿貫民輔、石原慎太郎(幹事長)、島田安夫、中尾宏、野田毅、林大幹、三塚博、山崎拓。
(参院議員)楠正俊、佐藤隆、玉置和夫(代表世話人)、土屋義彦、丸茂重貞。
当選回数は中川、藤尾、湊、渡辺が4回、あとは3回以下である。のちに首相になった森は2回、中尾は3回、浜田2回、石原1回。参院は玉置がまとめ役となっていた。支持母体は「生長の家」という右翼宗教であった。
激しいマスコミ批判に耐え切れず、脱会したものも出た。山崎、野田、綿貫、内海らである。今日、野田は中国派の代表格である。綿貫は衆院議長になった。渡辺は大平との関係が修復した。森、綿貫、石原、野田、山崎は今も現役である。このうち森、石原は台湾派の代表格となっている。派閥は福田・中曽根両派が中心田中・大平両派の参加者はいない。
資料を開いてみると、青嵐会は73年7月に発足しているが、その趣意書は実にものものしい。「自由社会を護り、外交は自由主義国家群と親密なる連携を堅持する」と冒頭に掲げている。これは安倍と麻生が推進した価値観外交のことである。蒋介石が編み出したものか、それとも岸が考案したものか。安倍がこれに執着した理由が、この趣意書によって明瞭に映し出されていよう。
2番目に教育、4番目に国防と治安、5番目が自主憲法制定である。日本右翼の指針といえる内容が網羅してある。そして最後には「一命を賭して実践することを血盟する」とある。自由と民主主義に愛着を持っている多くの日本人には、おどろおどろしていてとてもではないが、ついてはいけない血盟文である。
(3)2008年01月14日
青嵐会は実質、中川一郎が主導権を握って運営されていた。背後を、岸と福田が支えていたため、田中も手を出せずに暴走を許すほかなかった。
台湾派結集の先には、派閥の結成と自らの天下取りの野心が見え隠れしていた。台北の支援も期待できると考えていたのではなかろうか。彼の激しい田中首相と大平外相への抵抗運動に、総裁選に敗北した福田は側近の安倍晋太郎にないものを見つけて、いつも満足していた。これには福田後継者である岸の娘婿(安倍)が嫉妬したほどである。
中川は、自分を福田派が支援する総裁候補になることを夢見ていたようだった。実際のところ福田派は安倍を擁立、両者は対立・競争関係に入ってしまった。福田への期待はしぼむ。そのころのはずだが、彼の事務所で筆者と二人きりになったとき、ふと漏らした一言を鮮明に覚えている。「政界は政友ばかりで、心友はいない」と。極右・台湾派の行動隊長にも、総裁選の厳しい展望に孤立感が襲いかかっていたのであろうが、確かに彼がいうように政界に心友はいない。唯一・例外は大平と田中の関係くらいだろう。双方とも、自分にないものを相手は持っていると心底、認め合っていたからである。
中川はいつもゴルフと酒で、顔は黒々と日焼けしていて、周囲にいかつい印象を振りまいていた。永田町ではそんな容姿に、誰れ彼となしに「北海のヒグマ」という愛称を捧げた。しかし、彼はその実、すこぶる小心者だった。青嵐会時代のころだったが、彼はマスコミの批判にしょぼくれて元気がなかった。周囲には誰もいなかった。「マスコミにたたかれれば、その分、同情も集まるもの。そんなに気にしなくてもいいのではないか」と慰めたほどであるが、このとき初めて彼の外見と異なる素顔を知ることが出来た。人間は表と裏は異なるものだが、中川の場合、それが極端すぎた。息子はどうだろうか。
現に、総裁選に敗北したあと、北海道のホテルで自ら命を絶ったとされる。父親の非業の死を受け入れるかのようにして、息子の昭一は銀行員を辞めて世襲議員の階段へと足を踏み入れた。
<第二青嵐会旗揚げ>
中川昭一が政界で頭角を現すようになったのは小泉・安倍内閣の下で、である。一郎の死に対する旧福田派の同情を一身に集めたからであろう。農水大臣、通商産業大臣、そして盟友の安倍の政権で党3役の政調会長に就任する。それまでは自民党内で軽い存在だった。父親のようないかつさはない。性格は陰性で暗い。アルコールは強い、というよりも父親の無念が酒好きにさせたのであろうか。そうだとすれば同情に値する。
だが、いったん口を開くと、鬱積していた地下のマグマが噴き出すかのように、父親以上に相手を感情的に攻撃して止まない。二世のおおらかさが見られないのだ。政治信条は父親そっくりなのだ。安倍が祖父の岸を体現しているように、父親の一郎路線を突き進んでいることがわかる。
台北の政治指導者顔負けの中国批判は、まるで石原慎太郎並みである。それは彼の歴史認識などにおいて露骨に噴出する。
「強制連行があったのか、なかったのか。わからない」といってとぼける。不都合な質問は逃げてしまうのだが、被害者の側のアジア諸国民からすると、いかにも不見識で衝撃的である。農水相就任の記者会見のときである。
「中学の歴史教科書に従軍慰安婦問題が記述されたことは疑問だ」とも公然と批判の声をあげる。98年7月の発言だ。文部官僚を槍玉に挙げるのだ。NHKの番組が従軍慰安婦を取り上げた時、安倍ともどもNHKに圧力をかけたことはよく知られている。それは報道した朝日新聞に対してまでも。2005年のことだが、不甲斐ないことにマスコミの側が屈した。権力に敗北したマスコミを内外に知られてしまった。日本の言論の自由も大したことはないという現実に、心ある国民は衝撃を受けた。
とどのつまりは、中川は93年(宮澤内閣)の慰安婦問題についての河野洋平官房長官談話にもクレームをつけてやまない。中国脅威論を喧伝し、武器輸出3原則の緩和を叫び軍拡路線を肯定する。2007年の「価値観外交を推進する議員の会」旗揚げにも関与する。拉致問題では安倍との共闘が注目を集めた。
この二世議員は反中・反朝で、そろって気勢を上げる。共産主義への敵対姿勢は、自民党内で突出しているのである。もっとも安倍は政権担当時のみ、選挙のこともあって靖国参拝を止めて中国を喜ばせた。ところで、2008年の正月の動向を本人のホームページで調べると、実に神社参拝を2度もしている。神社は靖国を含めて天皇家の宗教だ。戦前の国教である。侵略戦争の片棒をかついだ。忠君愛国教育の論語もそうだから、平和を愛する日本人は、神社信仰と儒教に抵抗を感じている。しかし、中川は逆なのである。神社信仰と皇室崇拝者なのだろう。戦前の価値観に共鳴するのもここに原点がある。
無神論者には理解できないことだが、神官による「お払い」が好きなようだ。農水大臣と通産大臣を無事にこなせたのも「神社のご利益」と自ら喧伝している。正月参拝のおり、神社で祈ったことは「自分のこと、ついで家族のこと」とこの辺は、不思議なことにごく普通の会社員並みである。科学万能論者でなくても、安心してついていけそうもない時代感覚のようなのだ。
盟友の安倍内閣退陣で、これからはいよいよ自分の出番とばかりに決起した。2008年の日本と台湾の政変に対応するかのように、昨年12月4日、「第二青嵐会」と呼べそうな勉強会を立ち上げたのだ。59人の賛同者を集め、30人が本人出席したという。会長に当然、中川が就任した。この数字は本人の力だけでは困難だ。日本会議という国粋・民族主義的な議員が多いという。日本の右翼団体を結集した日本会議を知らなかったが、どうやら森内閣以降に発足したものだろう。安倍を支援したグループだ。安倍本人も背後を固めていることがわかろう。それにしても「第一青嵐会」の31人の倍である。豊富な資金力を裏付けている。どこから集めたものなのか?
話しは変わるが、台北の面倒見のよさは関係者以外、よく知られていない。筆者なども「台湾ロビー」を執筆するまでは、皆目見当がつかなかった。政界に入ると、必ず台北からの招待状が届くシステムは、見方によってはなかなかすごいことである。政権党の秘書団にも機会あるごとに声がかかるようだ。自民党内で台湾当局を批判する者は極端に少ない。議員と秘書の双方を丸抱えするという芸当を、旧ソ連や韓国でも聞いたことがない。北京にとっては想像もつかないことだろう。あるいは「選挙の年はそろって台北を訪問するのがはやっている」と随分前に自民党の古参秘書から聞いたものだ。
ワシントンはどうか。やや似たことをしているが、誰も彼もではないはずだ。とにもかくにも、青嵐会の議員には、息子や娘婿を後継者にしているのが目立つ。しかも、父親と同じ思想の持ち主、すなわち台湾派なのだ。これが何を意味するのか、は考えなくてもわかるだろう。旗揚げしたグループは「青嵐会二世が主役となっている」と自民党内で注目を集めているのだ。
石原の息子の伸晃・宏高の兄弟、渡辺の長男・喜美、浜田の長男・靖一、中尾の次男・水野賢一、江藤の長男・拓、中山の長男・泰秀、加藤の娘婿・勝信らを指しているものか。このうち石原伸晃は、小泉と安倍に引き立ててもらい既に肩書きを手にしている。渡辺喜美も、である。伸晃はマスコミ内に支援グループを作っていて、それをテコにしてテレビ出演が目立つ。安倍も、小泉によるテレビ利用で首相の座をつかんだが、石原の息子もテレビ利用での天下人を狙っている。
政治家の能力とは関係なしにテレビ出演が、政治家ならぬ政治屋の格を決めている日本政界である。テレビ界の腐敗もきわまっているのである。日本民主主義の低級さをさらけ出していて嘆かわしい。しかし、これが現実なのである。民度とも関係している。まともな政治教育を文部科学省が禁じていることも深刻なことである。
<台北の意向と期待>
2008年1月12日に台湾立法院の選挙が実施された。同年3月の総統選挙の前哨戦として与党・民進党と最大野党の国民党が激突した。アメリカは大統領予備選挙の真っ最中だったが、それでも米CNNはいち早く国民党の圧勝を伝えた。
東京でも台湾ロビーは固唾を呑んで成り行きを見守っていた。そのはずで日本は、不人気で首相の座を降りた森内閣以降、小泉・安倍・福田と4代続いて台湾ロビー政権である。岸傀儡政権だ。先述したが、安倍内閣は昨年7月の参院選挙のこともあり靖国参拝を見送り、北京をほっとさせ、続く福田内閣も「アジア重視」で暮れに北京を訪問した。
表向きの、文字通りの戦略的な日中関係は、修復している中での立法院選挙となった。それでも政界も財界も官界も、結果を重大な関心をもっていた。リベラル派は国民党圧勝に安堵したが、台湾ロビーの大半は衝撃的だったろう。蒋介石の国民党は既に大陸との融和政策に舵を切っている。原因は経済である。台湾の経済界は大陸との経済交流を抜きに展望が持てなくなっているからだ。
台湾経済界の軌道修正に国民党も従ったのだ。対決・独立による与党・民進党に有権者は、強烈なNOを突きつけたのだ。これで3月の総統選挙も見えてきた。
かつて国民党独裁時代の東京・ワシントンの台湾ロビーは、国民党との太い人脈で全てを処理してきた。しかし、この8年の間、甘味のある与党へと関係を切り替えてきた。所詮、利権がらみだからでもある。その窓口は、前の総統で陳水扁総統の後見役である独立派のドン・李登輝である。安倍内閣と続く福田内閣の発足で日本政局に安堵した彼は、足元の立法院選挙で激しい衝撃に襲われた。
間もなく、1年もたたずにワシントンも政変が訪れるはずである。李登輝のあせりが東京の台湾ロビーへの期待となろう。いうなれば第二青嵐会は、台湾独立派の期待を担っていることになろうか。しかし、国際情勢の変化はまことに激しい。経済摩擦はあるが、それでもワシントンには「アジアを中国に任せてもいい」という空気が拡大している。北朝鮮問題での取り組みなどから中国敵視論は薄まっている。陳水扁が主導する独立に向けたさまざまな政策に、妥協するどころかNOを突きつけている。ワシントンのロビー工作はユダヤが主導権を握っているからなのだ。ワシントンに忠実な東京は、これに歩調を合わせるしかないのだ。
これは、たとえ東京に民主党の政府が誕生しても変わらないだろう。前原など松下政経塾の台湾派が、民主党の外交政策を方向付ける力はないのだから。第一、松下資金が豊富とはいえ、若手議員ばかりで指導力を発揮できる実力派はまだいない。
<安倍も支援>
そうはいっても、中川台湾派に全ての道が閉ざされているわけでもない。体調を崩してワシントンの要望に添えないで、あっさりと政権を投げ出した坊ちゃん政治家の安倍晋三が「今度は君の番だよ」と中川支援を買って出ていることもその一つだ。
「安倍の周囲には右翼議員がかなりいる。中川勉強会の大半はそうした日本会議という右翼・国粋議員ばかりだから、行動力はある」とする指摘もある。また、安倍の強みは、亡くなった父親・晋太郎の金脈を継承したところにある。それは古くは岸金脈でもあるのだが。筆者は兵器財閥の関係は格別なものがあると推測している。
本当のところはどうか。安倍を大事にしてきた李登輝も、もうそんなに若くはない。情けない退陣劇で世論の目はきつい。それかあらぬか、右翼人士が利用する雑誌(1月10日発売)に登場して保守再生を訴えて「その捨石になる」といきがっている。平和憲法解体をあきらめない、という宣言である。こうしたマスコミを用いての政治手法は、一般的に言うと「私を忘れないで、捨てないで」と恋人に哀願している失恋男と見られがちである。筆者の見てきた永田町では、実力者であれば邪道に属する手口である。
彼は、そこで中川勉強会にも触れて「有意義なことである」と声援を送っている。二人の正体をさらけ出しているのだが、本当のところそれは李登輝向けなのかもしれない。
それかあらぬか自民党の2008年運動方針には、森―小泉―安倍ラインが固執してきた「新憲法制定に向けた国民的議論の喚起」を継承するだけでなく、「靖国神社の参拝を受け継ぎ、国の礎になられた方々に対して哀悼の誠を捧げる」としている。福田内閣とはいえ、小泉―安倍路線と同じであることを内外に誇示しているのである。何も変わっていないのであるから、ブッシュのアメリカも動じていない。
ご存知、自民党幹事長は今も国家主義の復活を求めて、平和憲法を解体しようと執念をみせる中曽根老人の政治を、継承してやまない伊吹派会長ではないか。福田の「アジア重視」も、そうそう小躍りするようなものではないのかもしれない。閣内の官房長官・外務大臣・防衛大臣はいずれもリベラルではない。右翼か右にすり寄る面々ばかりだ。こうした政治環境が、第二青嵐会に活躍の場を与えることになるのである。
<麻生内閣目指す>
中川、安倍ともに「保守再生」を口ずさんでいる。これも不思議なことである。衆議院は3分の2を確保している。他方、参院の大敗北は安倍政治に原因がある。極右・国粋的政治に人々は違和感を抱いている。そうだというのに、まだあきらめきれずにリベラルな平和憲法を破壊しようというのである。天に唾しているに等しいのだが、独特の思想の持ち主である彼らにはわからないらしい。岸や中曽根の悲願とする反リベラルの国家主義体制が、21世紀日本のあるべき姿だと信じ込んでいるのだから。
平和主義を愛する日本国民は、拉致問題のような材料を持ち出してこないと、小泉選挙のときのように再びごまかされたりはしないだろう。確かに、北朝鮮による拉致事件は日本の右翼に恐ろしいほどの元気を与えてしまったのだが、それでも前回の参院選挙で国民は年金問題なども表面化して目を覚ました。画期的なことである。
本当に9条があぶない、という事態が現出すれば、現在のところ自己保身に走っている学者・文化人・教員・言論人でも、必ずや立ち上がるであろう。アジア諸国民も、これに動じるはずである。よほどの愚かな政治指導者でないかぎりアジア諸国も反対するであろうし、欧米の人民も連帯するであろう。なぜか。それは9条が人類の宝であるからだ。
9条はアジアの平和と安定に不可欠である。いずれは各国とも9条憲法を保持するようになろう。日本はその魁になるのである。軍縮が世の中から貧困を無くす唯一の手段なのだから。戦争原因でもある貧困を解消することで平和を構築していく。そのときに日本は信頼されるようになるだろう。アジア諸国民の恨みから解放されるだろう。
だが、自民党の右翼グループは当面、「麻生太郎内閣」を誕生させようとしている。吉田茂を祖父に持ちながら、彼は右翼の陣営に加わり、昨今台湾派のリーダー格になって頭角を現している。それは最近まで先輩であった河野洋平(衆院議長)に砂をかけているに等しい。河野の政治力の衰退とも関係しているのだが、麻生は極右・日本会議の代表選手になってしまった観がある。
もとはといえば、大平―鈴木善幸―宮澤喜一―加藤紘一の宏池会に参加していたのだが、河野と行動を共にする過程で右翼派閥に身をゆだねて頭角を現すのである。機を見るに敏な政治家であって、リベラルな祖父とは対極に位置している。安倍後継の総裁選挙では、豊富な資金と小泉―安倍ラインに乗って勝利すると判断したが、加藤や山崎拓らが福田を担いだため、敗北を余儀なくされた。
そんな麻生を中川は、引き続き支援し、そのあとを継ごうというのであるが、果たしてどうなるのか。
<中川内閣?>
「中川内閣」は父親が果たせなかった夢を息子が実現しようというものだ。それは安倍がそうしたように、である。こんなことが許されるところに、日本政治の低級さを露呈している。国際社会では恥ずかしくて紹介できないだろう。
しかし、中川は本気なのだ。見本が目の前にいる安倍なのだから。台湾ロビー政権が森・安倍と次々と誕生してきたのだから、当事者がそう考えても不思議ではない。中川は最初に農水大臣に就任した。理由は農村部の議員が落選しないため、である。ついで通商産業大臣だ。産業界との結びつきによって資金集めを容易にするためである。小泉の配慮による。小泉は、森のように露骨な台湾ロビーの姿を見せ付けることはないが、しかし、このことからも実質、台湾派であることが理解できるだろう。靖国参拝による中国との対立作りは、政治的思惑であったことも。
現在のところ、台湾ロビーの親玉は森である。そのあとを安倍と麻生、そして中川というラインが構築された格好である。中川の今後は、というと、台湾の出方にもよる。それは台湾独立派の秘密工作の中身と行方にかかっていようか。
しかし、先は読めない。自民党政権そのものが不透明きわまりないのだから。次の総選挙がどうなるのか。その後に大連立が実現するのか、小連立なのか、それとも政界再編なのか。現状では、日本経済が沈没する中で「中川内閣」が夢幻になる可能性が大きいように思えるのだが。
(4) 2008年01月22日
「アジアの平和と安定確保」を目的にしているはずの日中友好議員連盟は、大平の盟友・伊東正義、その後は後藤田正晴、野中広務あたりを最後に、とうとう右傾化の波に呑み込まれ、昨今はそれまで旧三木派の最右翼だった高村正彦が会長、自民党最右翼・森派の町村信孝が副会長を占め大きく変質してしまい、事実上、開店休業状態にある。
北京にも知日派がいない中で、日中間のパイプは細くなる一方である。対して台湾派はどうか。日華議員懇談会が台北とのパイプ役になって久しいのだが、会長の平沼赳夫は郵政民営化という小泉改革の政治闘争に敗れて自民党を追放された。
彼の政治力は落ち込んでしまい、しかも昨年は体調を崩してしまった。弟分のような安倍の内閣で復党を望んだが、小泉一派の反対が強く果たせなかった。また、日華懇幹事長の藤井孝男の場合は参院議員に鞍替え、自民党に復党している。平沼のほうは、やむなく「新党を立ち上げる」と意気込んでいるが、莫大な資金を前提とする新党論を叫んでいるところをみると、資金的に問題はないものか。同じ台湾派でも麻生、中川の資金の潤沢さが自民党内で注目を集めている。いつもながら不思議と台湾派の懐具合はいい。なぜなのか、永田町の興味は尽きない。他方、台湾政局も大きく変化してきている。
<平沼・日華懇>
中国経済が低迷してきた80年代までは、金丸信や側近の小沢一郎らも政治力を背景に台湾利権に手を突っ込んでいたと見られがちだ。日本企業の進出先でもある台湾は利権の宝庫でもあったからである。この手の政治家が今も東京とワシントンにかなりいる。日華懇の威勢もよかった。ところが、ケ小平が打ち上げた改革・開放政策が軌道に乗るや、政治も経済も大きく変化してゆく。自然の成り行きである。
台湾を独裁的に支配してきた国民党は、蒋介石後継者の蒋経国が倒れ、本省人の李登輝が実権を握ると、政治制度の民主化を推進する過程で台湾独立へと政治の舵を切る。そうして誕生した民進党の陳水扁体制が、一段と独立志向を強め、それを国民党と縁を切った李登輝が全面支援する形で今日を迎えている。
肝心の台湾経済は、日本のバブル経済の崩壊に比例するかのように、大陸中国の経済に依存するようになってしまった。ケ小平戦略が功を奏した格好なのだ。いまでは大陸を抜きに台湾は成り立たなくなっている。先の立法院選挙では、大陸との和解を推進する変身野党・国民党が圧勝した。3月に行われる総統選挙も、軍配は国民党に上がるものと予想されている。
過去に李登輝―陳水扁との関係を維持してきた日華懇は、当面動くに動けない状況にある。それどころか、当事者は足元の東京政局に一喜一憂しているありさまなのである。確たる目標も立てられないでいる、というのが筆者の印象である。
<生長の家>
かつて日華懇は岸、佐藤、前尾繁三郎らと親しかった灘尾弘吉の独壇場だった。松野頼三の秘書にいわせると「利権に関与しなかった政治家は灘尾さんただ一人。あとは岸を含めて利権がらみの政治屋ばかりだった」という。かなり的を射ている指摘だろう。腐敗の構造が定着してきていたのだろう。
数年前だが、都内の小料理屋で偶然出会った国民党評議員と称する人物に尋ねると、事実かどうか不明だが「自民党の大物が訪問してくれば、帰りの土産は日本円で1億円は持たせる。これがごく普通の台湾の流儀なのさ」と臆面もなく教えてくれた。こちらの名詞を差し出すと「政治評論家も大事にするよ。是非訪問しなさい」と誘われたものである。中国の友人もまた「台湾に行くべし」とお尻をたたいてくれるが、以前2度ほど、それも20年も前に訪問して以来、残念ながらその機会がない。
「台湾ロビー」(データハウス)を執筆したさい、松野事務所の紹介で取材した日華懇の橋本靖男事務局長は、現在もそのまま務めていることが今回の取材でわかった。橋本は生き字引なのだが、彼こそ灘尾弘吉の秘書だったのである。
現在は平沼赳夫が会長になっているが、このポストは歴代いずれも改憲派で国家主義に傾倒する右翼議員で占めてきているが、平沼の場合、その典型といっていい。「生長の家の信者」と決め付ける関係者もいる。きわめつきの右翼宗教として永田町では昔から知られている。そことは関係が深い人物の説明である。生い立ちもまた、彼の政治的立場を物語っている。
養父が軍国主義時代の首相をした平沼騏一郎である。彼が「感銘を受けた本」というのが、なんと谷口雅春の「生命の実相」であると自ら吹聴している。谷口こそ生長の家を創立した人物だ。筆者には理解不能だが、古くは自民党の有力な選挙マシーンとして知られる。谷口の後継者は政治と関係を断ったといわれるが、谷口時代の生長の家は、自民党支援の宗教団体のなかでは最優力だった。
どうしてか皇室崇拝と靖国参拝にひどく熱心な教団で、自民党右翼議員にとって貴重な票田だけではなかった。過去に玉置和夫、その秘書の村上正邦らが生長の家を代表する国会議員として有名である。後者は腐敗が暴露されて後輩の参院議員とともに逮捕され、現在も係争中だ。村上、玉置とも熱心な台湾派で、かつては彼らの豊富な資金に議員仲間が集まっていた。生前の玉置の事務所金庫には、常に100万円の札束がいくつも積んであった。訪問する相手次第で札束が多くなったりしていた。元金庫番が話してくれた真相である。これは首相官邸の金庫(官房長官室)の雰囲気に似ているらしい。
2005年の小泉・郵政選挙で郵政民営化に反対した平沼の子分に静岡7区の城内実という無名の前代議士がいる。彼は平沼に従って無所属で出馬したものの、小泉が放った刺客・片山さつきに敗れた。3位は民主党の阿部卓也である。阿部は熊谷弘の秘書をしていたときに会って知っている。大男で腰の低い若者である。次回の風は阿部に吹いている。
問題は城内だが、よくテレビが報道し、その都度女性の同情を集めている。そのしぶとさの背景が判明した。なんと平沼が毎月100万円を振り込んでいたからである。やはり平沼資金は豊かなのだ。城内にも生長の家が支援しているのだろうか。平沼が出馬して以来行われているという3000人集会は、生長の家信者によるものだと見られている。彼の思想と生長の家の思想が合致しているものといえよう。
資料によると、生長の家は靖国神社の国家護持運動や建国記念日の制定、元号の法制化に熱心に取り組んできた。天皇絶対性・皇室崇拝・忠君愛国に特徴がある。教団として政治連合を立ち上げて、玉置や村上を擁したことは触れた。産経新聞グループが音頭をとった新しい歴史教科書をつくる会にたくさんの信者が参加しているという。
<改憲論者>
従来の自民党議員の出馬の前提条件は、2つあった。それは決して公約に増税と憲法改正を入れないことだった。二度と戦争をしてはならない、という平和主義が国民に定着していたからである。改憲を吹聴するような政治家を有権者が許さなかった。アジア諸国民の目も厳しかった。それこそいかなる政治家でも核武装論を口には出来なかった。それは落選を意味した。
マスコミもそうした候補を徹底して批判する土壌が確立していた。兵器財閥さえも公然たる政治工作をためらっていた。したがって、選挙のときだけは低姿勢を貫き、有権者をごまかして議員になるものが、特に保守党に多かった。
そんな中で、平沼のみ「自主憲法制定」を公約に掲げた。生長の家の政治路線でもあった。あたかも公明党の支持母体である創価学会の逆の主張をしていた。彼の地元での3000人集会が、改憲公約を可能にしたものだということが理解できる。いうなれば、こちこちの右翼議員として当選時から自民党内で知られてきた。
台湾派・改憲派に対して世論の目はきつい。彼が頭角を現すようになったのは、中曽根内閣、ついで森内閣以降である。郵政改革で小泉と対立する平沼だが、それでいて小泉内閣で強固な政治基盤を確立している。小泉政権は、森や安倍、中川など台湾ロビーの上で踊りまくっていたことがわかる。靖国参拝を強行した背景でもある。
改憲派の狙いはいうまでもない。軍事拡大によるアジア・太平洋での覇権行為、そのための日米同盟であると分析できるであろう。台湾は別格として近隣国への友好とは異なる、平和憲法が厳に戒めている危険路線だ。兵器財閥が狂喜する国家主義・日本ということなのだが、平和を愛するアジア諸国民への挑戦でもあろうか。宇都宮徳馬が抵抗した相手だった。「戦前の夢よ、もう一度」の元祖が岸信介である。晩年の岸が宇都宮に和解を求めてきたことを承知しているが、むろん、宇都宮は拒絶した。平和・軍縮派の仇敵が、岸や中曽根ら国家主義を信奉する政治路線であったからである。彼は背後の兵器財閥の動向をいつも注視していた。
宇都宮の旧制水戸高校の後輩である後藤田正晴は「わしの目の黒いうちは改憲をさせない」と公言していたが、見事果たした。後藤田の思いを共有している日本人は、いざとなればまだまだたくさんいるはずである。
<日本会議と新党論>
あまり聞いたことのない政治仲間に「花の会」がある。平沼の頭文字Hと安倍のA,中川のN,麻生のAすなわちHANA(花)である。いずれも台湾派の有力メンバーである。中川が立ち上げた会、正しくは「真・保守政策研究会」の黒幕が、安倍・麻生・平沼ということなのであろう。「麻生の別働隊」という指摘もあるらしい。
筆者は詳しくないのだが、安倍内閣の支援グループは日本最右翼団体の「日本会議」だった。これの国会議員グループの総大将が平沼(日本会議国会議員懇談会会長)である。先頭を切ったのが安倍で、彼は「戦後レジームの脱却」をスローガンにして岸政治への回帰を目指した。当時は麻生、中川、平沼が応援団の中心にいた。
平沼には、このほか拉致議連会長、中国の抗日戦争記念館から不当な写真の撤廃を求める国会議員の会という長ったらしい右翼議員の会長もしている。みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会は、瓦力から島村伸宜にバトンタッチされたものの、平沼もこの会の有力メンバーである。瓦によると「島村さんは喜んで引き受けてくれた」と話している。島村は中川の顧問格と見られている。
平沼の豊富な資金のなせる技なのか、新党結成を進んで吹聴している。「30人集めたい」と期待は膨らんでいるが、残念ながら彼の希望を信じる議員はほとんどいないらしい。しかし、金で動く永田町である。政局不透明な中だから、誰も断定できない。
<中川秘書>
平沼と中川は偶然かもしれないが、深く結びついているという。進学校で有名な東京の麻布高校の先輩・後輩なのだ。同窓であることは、当事者に予想外の信頼関係を築くものだが、二人の場合、思想面でも一体だから余計に太いパイプでつながっている。
それだけではない。平沼は政治の修行の場所が、中川の実父・一郎の事務所だった。青嵐会を動かしていた一郎の秘書である。石原など自民党右翼議員の溜まり場という環境で政治家への道を突き進むのである。行く先は決まってしまう。
筆者が現役の政治記者のころは、平沼のような極め付きの右翼議員をマスコミが取り上げるという習慣はなかった。批判しても擁護するような記事を書くものはいなかった。それが今は違う。右傾化などといえる政治環境を、はるかに跳び越しているのである。
現に筆者も現場で確認した70年目の南京と改装された大虐殺記念館について、あろうことか日本政府は「おかしい」「改めよ」とやんわりと抗議した。南京の史実を知るものにとって、恥ずかしい予想外のことだった。
報道によると、上海総領事が「大虐殺記念館の展示内容に、事実に疑いのある展示がある」として南京市と記念館に配慮を申し入れた。1月11日から12日にかけてだが、総領事は「日本人への反感や恨みを抱かせる内容だ。虐殺数が30万人となっている」とも指摘して抗議をしたという。
筆者の認識とは異なる。ふとドイツ人の偉大さを想起してしまった。ドイツ人はユダヤ人の大虐殺数600万人といわれていることに「事実は500万だ。300万人だ」などと抗議しただろうか。被害者の立場を尊重することが何よりも優先されなければならない。恐らく広島や長崎の原爆被害者数に対して、米国人が「おかしい」といったという話を聞いたことがない。日中友好内閣の正体を見せ付けたものか。
(5) 2008年01月29日
<灘尾時代>
日華議員懇談会は灘尾時代を全盛期にして存在感が著しく低下している。以前は、会長である灘尾の清廉さと穏健さの賜物だった。確かに重みのある政治家であった。石原などとは天地の差を感じた。利権あさりに厳しかったため、台湾当局の信頼も厚かったという。
余談だが、60年代の池田内閣というと、岸前内閣がぶち壊した日中関係を修復したことで知られる。池田勇人は側近の大平正芳を外相に起用し、国交回復の流れを勢いづかせた。あるいは、岸内閣の前の石橋内閣が短命でなければ、中国との関係は大きく前進したはずだが、不幸にも彼の健康が邪魔した。石橋は病を回復すると、示し合わせたように宇都宮徳馬と北京を訪問して両国の友好関係に拍車をかけた。
池田を徹底的に支えた前尾繁三郎(元衆院議長)もまた、大変な徳のある政治家として有名であるが、彼と灘尾の友情も格別だった。二人の関係が、灘尾の人柄を物語っている。日中国交回復は、当初社会党など野党の専売特許であったが、鳩山内閣が日ソの国交を回復すると与党の自民党内リベラル派から「次は中国だ」という流れが噴出する。しかし、岸の実弟である佐藤栄作の内閣で再び頓挫してしまう。岸−佐藤―灘尾ラインが日中間の大きな壁となっていた。
松村謙三、藤山愛一郎らの地道な活動と岡崎嘉平太ら財界人の支援を基礎にして、そこに誕生した田中内閣(大平外相)によって日中の改善がようやく実現したのだが、このことは台湾ロビーの中核となっていた日華懇の抵抗の大きさを証明している。日中国交正常化して35年を経ても、この議員グループはまだ存続している。資金の豊富さゆえであろう。果たして特異な人物で知られる平沼のもとではどうなのか。
<福田康夫幹事>
手元に2007年11月2日現在の日華議員懇談会の役員名簿がある。なんと現首相の福田康夫が役員ポストの幹事になっている。福田もまた父親と同様、台湾派の重鎮の一人であったのだ。2008年1月18日に幹事長の藤井孝男と会見するため、参院議員会館の藤井事務所を訪問したさい、そこにいた事務局長の橋本にも会った。お互いすっかり顔を忘れていた。
藤井事務所の小林秘書の紹介を得たものだから、さっそく彼に福田の様子をたずねてみた。総理大臣になった福田は「昔とは違う」といって肩を落とした。
「外務省のチャイナスクールにやられてしまいましたよ」とその理由を教えてくれた。「当選したころは、とても熱心なメンバーでしたよ」とも付け加えた。福田の友人に中国派の外務官僚がいるということは一部でよく知られているが、橋本はそのことを指摘したのだ。
筆者は亡くなった宮澤喜一の地元、広島県に本社のある中国新聞の論説委員から「福田官房長官はいつも宮澤の所に来ている。外交問題を学んでいる」と耳打ちされていた。そんな福田に興味を持つと同時に、大いに感心した。
宮澤こそ戦後の日本外交の生き字引である。彼に相当する外交通が、この日本に存在しなかったのだから、福田が宮澤を頼って当然ともいえるのだが、関係はそれだけではなかった。宮澤は福田の父親にも大事にされていた。政界随一の知性派で英語使い、それに戦後復興時の吉田内閣の裏面をも承知していた宮澤を、福田赳夫も派閥は異なっていても大蔵省の後輩には一目置いていた。
戦前から米国の内情を知る知米派だけに、比例してアジアを重視していた。それは保守本流の元祖・吉田茂とも共通していた。また、母方の祖父・小川平吉(元政友会副総裁)は孫文とも交流があった。次男の小川平二と筆者の交流は晩年まで続いたが、彼の自宅には孫文筆の「博愛」の額が掛かっていた。宮澤は平吉の影響を強く受けていた。宮澤外交に共鳴した福田康夫は小泉内閣で、小泉と安倍というブッシュ一辺倒の右翼に挟まれてうんざりさせられる日々を送っていたことが、これでなんとなくわかろう。それは福田の日華議員懇談会への興味を半減させるものでなかったろうか。
<役員名簿>
参考までに日華懇の役員を列挙しておこう。特別顧問が森喜朗と綿貫民輔。後者は神官としても有名である。総理大臣になった福田も、このポストということらしい。
会長が平沼赳夫、副会長が愛知和男、麻生太郎、江藤征士郎、亀井久興、玉沢徳一郎、中井O、鳩山邦夫、藤井裕久。この中では麻生、玉沢の台北寄りが目立つ。後者は軍事面での支援を云々されている。
幹事長は藤井孝男、幹事長代理が中川昭一。平沼―麻生―中川ラインに安倍を加えれば、台湾派4人組ということになろうか。
副幹事長が大江康弘、坂本剛二、船田元、古谷圭司。船田の祖父も台湾派で知られていた。二代目だ。
幹事は魚住裕一郎、奥村展三、鴻池祥O、小池百合子、鈴木克昌、渡海紀三郎、西銘恒三郎、藤原正司、水野賢一。昨年11月の名簿には、福田もこの幹事の中に名前を連ねていた。(Oは漢字がないため省略)
<藤井幹事長と会見>
中国経済の大飛躍と世代交代、台北の政治経済変動という新たな環境のもとで、日華懇は何をしているのだろうか。2008年通常国会が召集された1月18日午後、参院議員会館の藤井事務所を訪ね、幹事長から現状などを語ってもらった。「財界政治部長」の名前をほしいままにした実父・丙午を政界へと引きずりこんだ人物は、いうまでもなく国交回復を断行した田中角栄である。後継者の息子は、田中派から離脱した旧竹下派のプリンスにまでなって総裁選にも出馬している。それがどうして日華懇の幹事長なのか。筆者は不思議に思っていた。
―どうして日華議員懇で活動しているのですか。
「オヤジの影響ですよ。オヤジは敗戦時の蒋介石の対応に感謝をしていました。日本分断に反対してくれたので、いまの日本がある。むろん、オヤジは反中ではなかったですよ。反共でしたが」(こうした奇麗事は灘尾のような人物の口からだと、ごく自然に思えるのだが。しかし、目の前の藤井は父親もそうだが、田中派の系統である。むろん、田中派にも金丸や小沢のような台湾派がいたのだが)
「金丸、小沢、小渕さんも台湾によく行きました。綿貫さんも」(天下を狙うのであれば中国に行くべし、と小渕恵三に対して直接、談判したことがある。そのとき小渕は「中国は竹さんが行っているじゃないか」と釈明したが、外務大臣になる前に北京で胡錦濤と会見、約束を果たしてくれた。小渕はまた、盧溝橋近くの川原に友好林を作っている。竹下が小渕、金丸が小沢を支援していたという関係も影響したであろう。現在、小沢も竹下が設立した長城計画を推進、暮れに北京を訪問して歓待を受けている。一度、筆者も愛野興一郎の薦めで参加したものだ)
―角さんへの恩義もあるでしょう?
「ですから、私は日中友好議員連盟にも入っていますよ」(これは意外だった)
―今の会員はどれくらい?(すると椅子から立ち上がり、扉を開けて小林秘書に問い合わせた上で)
「228人です。衆参あわせて」(昔は300人程度と記憶している。やはり地盤沈下しているものなのか)
―ところで、現状の台北をどう御覧になっていますか。
「1月12日に立法院の選挙が行われ、ああいう結果になりました。3月21日には総統選挙ですよ」
―民進党の大敗北原因をどう分析しますか。
「台湾経済がよくありません。そして最大のポイントは国会議員225議席を半減させ、予備選でふるい落とすなど、いろんなことが考えられますね。陳総統スキャンダルとか、国連加盟の国民投票とか。米国が大陸に気を使って双方にズレが生まれていた。日本は内政にとやかくいえない。賛成の立場をとれずにあいまいにしてきました」
―経済事情もありますね。
「台中経済は切り離せないほど貿易は膨らんでいます。国際関係はグローバル化して大陸とは貿易面、人的面で交流が深まっていますしね」
―民進党政権になって双方に変化?
「民進党は8年間、独立に向けて走るなど陳総統になってから随分変わりました。一方、大陸は軍事力を強化しながらも、オリンピック、万博がありますから微笑外交に徹しています。日本が福田内閣になって北京は大歓迎でしょう。暮れの福田訪中は異例なもてなしですよ。春には胡錦濤主席が来る。福田内閣は中国重視ですから。確かに8年間の台湾独立志向で大きく変わったものの、景気が悪く、総統夫人のスキャンダルなどで国民は一気に国民党へ流れたといえますね」(台湾派にとって台湾は国・国家という認識なのか)
―この流れが総統選挙に続きますよ。藤井さんはどれくらい台湾へ行きましたか。
「何十回も行きましたよ。でも、いやな思いをしたことはありません。お互い島国ということで、日本をよく理解してくれています。生活レベルも上がっていますしね」
―中国には行ったことがありますか。
「2回ほどですね。一度は竹下さんと。2回目は所属していた衆議院の常任委員会の訪中団の団長として行きましたよ。歓待を受けました」
―ところで、日華懇はどんなことをしていますか。定期的に会合を開いていますか。
「定期的というよりも、ことあるごとに頻繁に会合を開いていますよ。これまではビザの問題です。随分、苦労しましたが、ようやく解決することができました。これからは長期滞在ビザをどうするか。一つ一つやっていきますよ」
―会長の平沼さんの健康はどうですか。声がかすれていますね。
「ええ、でも元気ですよ。声帯をやられたのでしょうね。ゴルフもやっています」
―生長の家と日華懇は関係がありますか。
「それはありません。宗教は無関係ですよ」
―福田さんが幹事になっていますね。彼は台湾派?
「今は顧問です。親中派でしょう」
―3月の総統選挙について、国民党と民進党のどちらを支援するのですか。
「これは台湾の人たちが決めることですよ。我々がとやかく言える立場ではありません。国交もない。実態関係による相互信頼で、観光・文化・芸術などの交流をしているものですから」
「総統選挙が日台関係に変化することはありません。確かに国民党の馬英九とは、これまで交流はありませんでした。台北市長時代にかなり厳しい日本認識をしていましたから。でも昨年、日本に来まして自分は反日ではないと言っていました。日華懇とも会いました。その後に民進党の総統候補の謝長廷さんも来られた。彼は日本語を話した。日本の大学に留学しています」(筆者の感じだが、日華懇は独立派の民進党との関係が、8年余の政権担当という事情もあってか深いようだ。国民党政権が実現すれば、容易に軌道修正をするであろうが、心情的には独立派に傾倒しているのだろう。台湾有力紙・中国時報による1月13日世論調査は、馬英九の支持51・4%、謝長廷19・9%)
<松野頼三秘話>
前回の取材では、松野頼三に依存する機会が多かった。それというのも、当選回数と人脈がものを言う永田町では、松野のような人物は恵まれているため、あらゆる関係者との出会いとそれゆえの情報が格段に集中するからである。そこから予想外の出番をつかむことができる。松野秘話を紹介しよう。
しかし、なんといっても実父・鶴平の存在が大きかった。福岡県の地下足袋メーカーを立ち上げた石橋正二郎というと、いまや世界で活躍するタイヤメーカーの創立者であるが、石橋家とも関係が深い。自衛隊車のタイヤもほとんどがブリジストン製であるが、確認したわけではないものの、これなどは防衛庁長官経験者である松野の力添えなのか。それにしても、石橋の手口はしたたかである。長女を東京の名門・鳩山一郎(元首相)の長男・威一郎(大蔵官僚・外務大臣)に嫁がせた。由紀夫(民主党幹事長)、邦夫(法務大臣)の母親だ。3女を三井財閥関係者へ、4女を衆院議長になった石井光次郎の長男へと、まるで戦国武将さながらの政略結婚をさせて、世界的タイヤメーカーに育てた。ちなみに3女の関係では宮澤家、甥の妻は池田勇人の娘でもある。資本主義社会でも会社の業績を急成長させるためには、権力との関係が何よりも大事であることがわかろう。見方を変えれば、これぞ腐敗構造そのものではないだろうか。公正ではない。
所詮、政商でなければ企業の拡大は望めない風土がこの日本には存在する。ともあれ正二郎は娘を鳩山家に嫁がせることで、総理大臣・外務大臣などを手にした。そんなブリジストンを戦前から支援していたのが、熊本県の作り酒屋から政友会代議士になった松野鶴平だったのだ。余談だが、石橋の遺産は、娘を経由しておよそブリジストンの800万株が孫の鳩山由紀夫と邦夫へと相続した。年初来の世界同時株安で邦夫は「40億円も損をした。兄も同じだろう」と軽口をたたいて、年収200万、300万円で生活している多くの国民に衝撃を与えた。二人とも株の配当金で政治をしていたのである。親の七光りということになろう。
松野が政界引退しても由紀夫や小泉が松野の事務所をよく尋ねていたが、前者はブリジストンの関係による。後者は大学(慶応)の先輩だからだ。息子の頼久を由紀夫に預けて民主党から代議士にしている。松野は小泉が生まれる2年ほど前に慶応大学を卒業、敗戦3ヶ月前に海軍主計少佐で任官している。大学卒業後5年も入隊を免れているのは、父親の政治力のせいであったろう。赤紙1枚で戦場に送り込まれた大半の若者ではなかった。ベトナム戦争を回避した今のブッシュ大統領に似ている。
松野に一度だけ戦争時の昔話を聞いたことがあるが、驚いたことに「いやな思い出はない」とうそぶいた。中曽根康弘と同じ主計畑だ。鉄砲玉をかいくぐる体験をしていないのである。危険な目に遭っている戦後政治家に改憲派はいない。岸や中曽根には戦争の本当の怖さがないのである。「戦争が終わってほっとした。今日から家に電灯がつくだろう」と喜んだ宮澤喜一のような庶民感覚が、二人にはない。
鶴平は戦後の第一回目の選挙に出ると、鳩山一郎ら共々に戦争責任を問われて追放された。仕方なく、戦後2回目の選挙に息子の頼三を出馬させて当選させる。そして吉田茂総理大臣秘書官にもさせるのである。鶴平は追放を解除されると、参院議長になり吉田御三家の一人として外交官首相を党人派長老として補佐した。
オヤジは吉田側近中の側近だから、セガレは吉田派若手として、まことに幸運な政界第一歩を踏み出したことになる。それでいて吉田の政敵・岸信介の内閣で、総理府総務長官と労働大臣に就任した。岸は息子を重用することで、鶴平人脈を利用したのである。あたかも小泉が石原のセガレを大臣に起用して、石原の動きを止めたように。ついで岸の実弟・佐藤栄作の内閣で防衛庁長官と農林水産大臣にも就任している。佐藤までがどうして松野を重用したのか。これも鶴平との関係がものをいったのだ。彼は戦前、鉄道大臣をしており、鉄道官僚の佐藤に目をつけていたのである。
吉田内閣の官房長官に佐藤は、ノーバッジで就任している。この破格な待遇は戦後の混乱期という事情だけではなく、鶴平の支援があってのことだった。佐藤はそのことを忘れていなかったのである。
以上の経緯を踏まえた上で、松野と政治行動をともにしてきた平井秘書が、松野密使の秘話を披瀝してくれた。
詳細な日時を平井も記憶していない。そのころはというと、71年7月に米国務長官のキッシンジャーが北京を電撃訪問、周恩来と長時間、会談を行った。翌年、大統領のニクソンが訪中した。もはや国際社会は、中華民国の台湾から中華人民共和国が中国を代表する唯一の政府という認識で固まっていた。
それでも台湾派の佐藤首相は、こうした流れに抵抗して台湾を国連に残留させる手立てを講じようとしていた。既に、64年にはフランスがいち早く中国承認を宣言していたにもかかわらず、である。頼みの米国はベトナム戦争の泥沼で身動きできなかった。なんとかして北京を説得できないものか。当時、福田赳夫外相が「アヒルの水かき外交」に懸命だった。保利茂官房長官は美濃部亮吉知事の中国訪問を利用して周恩来に「書簡」を届けたりしていた。恐らく蒋介石に恩義を感じる佐藤や岸は、この時とばかり台北の擁護に必死であったのであろう。
こんな風雲急を告げる局面で、佐藤は松野に「蒋介石に直接会見して、本心を聞き出してもらいたい」と命じたのだ。秘書も連れずに一人で、こっそりと台北に乗り込んだ。蒋介石と鶴平の友情も深かった。親子2代にわたる信義を踏まえての佐藤密使に、総統も快く迎えいれた。余人をもって変えることなどできなかった
松野は佐藤の伝言を、中華民国総統に率直に伝えた。この場面では、岸と佐藤ができる最善の蒋介石への友誼であったのだろう。しかし、総統からは予想外の回答が松野の耳に届いた。「すべて日本政府に委ねる」という一言だった。
彼は日本の努力を承知していた。そして事態は台北から北京に動いていることも。頼みのワシントンがベトナム戦争でがたついていることも。もはやあれこれ日本政府が工作しても、局面に変化など起きないことを承知していたのであろう。
松野はほっとして帰国の途に着いた。あと佐藤・岸の兄弟のなすべきことは、台湾派の福田赳夫に政権を譲ることだけだった。岸派残党と佐藤派を福田支持にまとめることで、福田内閣が実現すると多くの政界関係者はみていた。松野は福田派の参謀として汗をかくことになる。
しかし、ブルドーザーのように馬力のある田中角栄が佐藤派の大半をかっさらってしまうのである。マスコミも財界も田中―大平連合を支持していた。田中の盟友・大平は、やや力ずくで前尾派を大平派に衣替えしていた。大平参謀が鈴木善幸である。福田を仇敵にしてきた中曽根は、勝ち馬に乗ろうとして田中支援を買って出てきた。リベラルな三木派の協力も取り付けて、勝負は田中に軍配があがった。3ヵ月後に日中は国交を回復した。こんな自民党総裁選に筆者は政治記者1年生として参画した。担当は大平派である。初めて会った政治家が鈴木である。毎晩、鈴木邸に押しかけて派閥記者の洗礼を受けることになった。
思えばこれも奇縁というほかない。もしも、福田派を担当していたら現在の自分はなかったかも。権力にくらいついて腐敗の底に落ち込んでいたのかもしれないのだから。無冠だが、幸運なジャーナリストだったのかもしれない。
(最終回)2008年02月03日
<大平密使>
今から30年前の78年に日本と中国の間に平和友好条約が実現したのだが、当時の内閣は福田赳夫内閣。72年の国交回復に反対した派閥の政権だった。福田の背後には台湾派の大御所・岸信介が目を光らせていた。福田がどう変身しようと、彼の黒幕が承知しなかった。北京はこの政権に全く期待をもっていなかった。
とはいえ、この内閣は大平正芳と田中角栄が支える政権でもあった。台湾派と中国派のバランスの上の乗っかっていた政権である。自民党を牛耳っていた幹事長が大平である。永田町では「大福餅政権」と呼んでいた。福田は当時の派閥参謀である園田直を外務大臣に起用した。大平と田中が犬猿の仲である台湾派の福田を支援した背景には、履行されることはなかったが、福田の後に大平内閣を誕生させるとの密約が存在した。その当事者の一人が園田でもあった。逆に言うと、園田参謀は大平と田中の支援を勝ち取ることで、福田内閣を誕生させたことになる。したがって園田は、自分の好きな大臣を手にできた。意図していたかどうか、彼が外務大臣を選択したことで、中国との平和条約を締結できるという歴史的な機会をつかんだことになる。
他方、田中は園田番に信頼できる若手・愛野興一郎(外務政務次官)を外務省に送り込んだ。生前、愛野から直接、このときの秘話を聞きだしたことがある。当時、目白の角栄邸からは愛野にいくつも指令が飛んできた。彼の仕事は、角栄の用件を園田に耳打ちすることだった。むろん、福田や岸には内緒だった。漏れると壊れる。秘密裏の田中工作の連絡役である。
愛野が一言漏らせば、全ては水の泡である。田中が愛野を選んだ理由がわかろう。たとえ忠臣でも口の軽いものでは、真剣勝負を前提にした勤めを果たすことはできない。見事、成功するのだが、改めて田中も愛野も偉かったことがわかる。
核心は田中と園田の密会である。戦後、いち早く党人派として国会に議席をもった二人である。腹を割った対話が可能であった。園田は、福田に隠れて田中との密談を巧みにこなした。そうして双方の了解が成り立つ。とはいえ、大臣にはいつも警護の警察官がついている。警護官(SP)に知られると、それは警視総監経由で法務大臣の耳に入るだろう。官邸は法務・検察との連携に神経をすり減らして秘密情報を得るのに必死だから、この警護のプロをまくのも、なかなか容易ではないのだ。
大平の仕事は、肝心要の北京を説得することだった。北京は、福田内閣が実現したことで平和条約締結をすっかりあきらめていた。三木前内閣には期待したものの、ロッキード事件に端を発する政局に左右されていて条約どころではなかった。福田内閣をまず誕生させた大平は、しかし満を持していたかのよう似動き出した。ロ事件でさんざんいたぶられていた角栄に異存はなかった。政治家とは一つの目標を打ち立てて、そこへと全力で疾走することに生きがいを感じる生き物でもある。「福田に右翼を抑えさせる」作戦に突進したのである。国交回復をリベラルな田中―大平連合で強行したことから、右翼・台湾派の抵抗を強めてしまったのだから、逆に右翼政府に条約締結という蜜を与えれば成功間違いなしと判断した。現に園田は「私が福田を抑える」と約束していた。「俺が福田内閣をつくってやった。今度はこちらの言い分を呑んでもらう」との意気込みである。ワシントンに太いパイプのある大平は、カーター政権だから「了解をとれる」とも判断していた。
日中の不幸な関係は、ともかく72年に修復することにこぎつけたものの、平和条約はまだである。これを大平は片時も忘れず、頭の中はいつも重かった。周恩来との約束・信義でもあったからだろうとも推測される。寡黙な大平はそうした心の奥底を側近にも明かさなかった。無言実行が彼の真骨頂である。そんな大平を誰よりも理解しているのは、日本人というよりも中国外交官の肖向前である。ことし90歳になるが、北京に健在である。田中真紀子が小泉内閣外務大臣として北京を訪問したとき、彼に会おうとしたのだが、中国の愚かな官僚が「病気で入院している」とうそをついて彼女を失望させた。それでも「病院に見舞いに行く」といってきかなかった。角栄の情を真紀子も体しているのである。話しを元に戻すと、相手の北京には自分の意向を伝えねばならなかった。誰がいいか、かなり考えあぐねた。政治家は目立つ。口も軽い。大平は鍵田忠三郎に白羽の矢を当てた。奈良市の市長である。
なぜか、これも生前、本人に証言を求めたことがある。72年に国交が回復すると、鍵田も動いた。行く先は大平外務大臣(田中内閣)のもとだった。理由は古都・西安市との姉妹都市・友好都市の提携である。西安市は唐の時代の首都・長安である。奈良市の街づくりは長安を模倣して誕生している。これが、鍵田市長が行動を起こした事情だった。
一介の市長に大平は快く応じた。大平を通して周恩来、そして西安市へと友好都市の計画は伝えられ、瞬く間に実現した。友好都市の第一号となった。鍵田の感動はひとしおだった。彼は一躍、時の人になった。一見、鷹揚に構えているように思える大平が、即座に動いて実現したことは両雄の信頼関係の深さを物語っている。国交正常化の場面では激しいやりとりをしたはずだが、そんな相手をとりこにしてしまう周恩来もすごい。日本で彼の批判を聞くことがない。中国の指導者の多くと交流した宇都宮徳馬であるが、尊敬できる人物を挙げさせると、一番に周恩来といった。
今度は鍵田が大平の要請に応える番だった。それが、福田内閣が誕生して間もなく訪れたのである。大平密使として北京を訪問することだった。しかし、任務は重かった。北京を動かすことだったのだから。
72年前後からそうだったが、中国の対日政策の最高責任者は国務院総理の周恩来であったが、直接の窓口は知日派の実力者・リョウ承志で彼に全ての権限を任せていた。鍵田の相手はリョウ承志であった。
彼は大平伝言を全く聞き入れようとしなかった。それもそうだろう。福田は派閥のほかに青嵐会という別働隊まで発足させて、日中友好の流れに噛み付いて抵抗してきた。田中内閣を打倒もした張本人だ。まさに永田町右翼の塊のような政権ではないか。しかも、背後には蒋介石の盟友の岸が控えていた。そんな福田内閣を信じろ、というほうが無理ではないか。一般的にいうと、そうした味方はしごくまともだった。
いったんは鍵田も同意するほかなかった。大平の言い分に無理があるのではないか。しかし、それでは自分は何のために北京にきたのか。大平密使の使命を果たせないで、おめおめと大平の前に出られるか。そう考えると、引くに引けなかった。持ち前の性格を丸出しにして叫んだ。
「自民党は私が一切の責任を持つ、と幹事長は何度も言ってくれた。あなたは大平を信用できないのか」
最後はけんか腰だった。生前の鍵田とは、選挙に落選しているときも上京すると、よく東京駅と皇居の間にあるパレスホテルで会った。風貌は古武士のようで、押しの効く政治だった。彼の気迫に対日責任者も折れた。大平の密使も大役を無事、こなして意気揚々と帰国して大平を安堵させた。
残るはワシントンである。共和党右派の政権ではなかった。リベラル派だったことが幸いした。田中―大平連合はワシントンの内諾も得たのである。これで鬼に金棒である。さしもの福田も折れた。しかも彼は、条約実現の総理大臣として自らの足跡に花を添えることができた。見事な環境整備を背景にした福田は、岸や台北の抵抗を抑えることができた。福田政権の決断に、かつての暴れん坊集団の青嵐会も反対できなかった。こうして大平の言うとおりの結末に終わったのである。めでたし、めでたしとなった。
<鍵田の一言>
鍵田は83年の総選挙で衆院議員に当選した。既に心酔していて大平は亡くなっていた。中曽根派に所属した。彼はその後も暇を見つけては、北京を訪問、知り合いとなったリョウ承志と交流していた。筆者が彼と親しくなったのは、同じく中国大好き人間ということだけではなく、彼の秘書の内本が以前からの友人であったからである。内本は医学博士出身の八田貞義の秘書をしていて知り合った。その後、鍵田秘書へと転進してきたのである。
鍵田とおしゃべりしていると、中国の話ばかりで実に馬が合うのである。友好都市のことや大平の話しが出ると、いわば同士のような関係になったものである。あるとき、予想外な要請をしてきた。
「日本は中国に大変なことをしてきている。侵略して無数の人民を殺してしまった。これを償えるわけでもない。それでいて賠償金をとらなかった。軍人さえも返してくれた。それどころか日本人の幼児らを養子にして育ててくれたのだ。こんな民族がほかにいるであろうか。これこそが中華民族の偉大さではないのか」
いわずもがな、その通りである。心の広い日本人でなくても全てが同意できる経緯である。彼の重大な一言は、この後に飛び出した。
「そこで現在の中華民族の悲劇はなんであろうか。あるとすれば、日本人として人肌脱ぐのが当然であろう。実はそれは大陸と台湾が分断していることではないか。平和統一が中華民族の悲願である。そうであるからして中華民族に恩義を受けた日本民族は、この平和統一に手を貸すべきではないか。貸すのが人間の道なのだ」
彼の指摘に異論などなかった。ひざをたたいて「そうですね」と応じた。そのあとに「実はご存知のリョウ承志先生に頼まれたのだ。日本人は台湾との関係が深い。人脈もある。その力を平和統一の分野で協力してもらえないだろうか、とね」という重大発言が飛び出した。
「当然ではありませんか」
「ならば、あんたも新聞記者として平和統一に向けた活動をしてほしい」と懇願してきた。これまで政治記者として自民党の派閥抗争を取材してきたのだが、こんな話題が浮上することなど経験したことはなかった。これは国際関係にかかわる一大事である。
<岩動参院議員を説得>
まだ、当時の台湾は大陸への武力解放などと大時代がかった呪縛から逃れられないでいた。緊張政策を利用して市民を支配するような政治が貫かれていた。反共教育が大手を振っていた。何もかもが大陸敵視の政策で埋まっていた。蒋介石が亡くなり、息子の蒋経国の時代も、そして蒋一族が去る80年代に入ってようやく民主化の動きが台頭してくるのだが、政権は相変わらず国民党の独裁政治が敷かれていた。
それにしても日本人ジャーナリストに何ができるのであろうか。小さな頭には何も思い浮かばない。第一、台湾を知らない。一度も行ったことがない。一人で行っても何も得られない。街を見て歩くだけである。
誰か仲間を見つけるしかない。それも台湾派といえる人物、それも民間人ではダメである。よく出入りしている政治家、それもこちらの意見に賛同してもらえる政治家でなければ無意味である。筆者を信頼してくれる人物というと、それは参院議員の岩動道行である。彼しかいなかった。
岳父が吉田茂内閣の御三家・林譲治(元衆院議長)である。大蔵省出向の吉田首相秘書官も歴任。最初は衆院議員だ。松野頼三と似ているが、こちらは大蔵官僚だ。人付き合いが下手で、無口ときている。それでいて威厳を撒き散らすものだから、人が集まらない。彼の弱点をカバーするのが、筆者の役目のようなもので、秘書の中田滋はそのことで筆者を大事にしてくれた。人間は大事にされると、その相手を大事にするものである。時間を見つけては岩動のところに行き、永田町の動きを教えてあげた。逆に財界や役所のうごめきを教えてもらうのである。いわば持ちつ持たれつの関係が、政治記者と政治家なのだ。
岩動は官僚出身だから石原慎太郎のような台湾派ではない。事情を説明すれば、理解する能力と良識を持っていた。彼は筆者の説得に応じてくれた。「台湾へ行こう」という計画を立てるのだが、土壇場で時間の都合がつかなくて秘書の中田を代理に立てた。まず84年8月に決行した。
<2度の訪台>
岩動ミッションのような立場での訪問だから、お陰で台北では国民党幹部、外交部の要人、新聞担当、大学の教授らと会見することができた。「昔の北京ではない。話し合いによる平和統一の時期を迎えている。応じるべきではないのか」と説得を続けた。
国民党独裁の台湾である。「はい、そうですね」と応じてくれる雰囲気はなかった。「三民主義による統一」を口にするばかりだった。それでも北京の変化を伝えて、対決をやめて話し合いによる平和統一を力説した。彼らが、大陸との交流を拒み続ける三不政策にも苦言を呈した。これには外交部幹部は「日本や香港を中継地とする貿易は経済の論理にゆだねるつもりだ」と回答した。これがいうなれば唯一の成果といえた。
今日の中国・台湾の交流からすると、想像もできない厳しいものであるかが理解できようか。大陸の平和攻勢にたじろぐ台北が見えてくる。岩動の政治力を背景とした平和統一の働きかけは、決して無駄ではなかったはずである。平和統一が日本のみならず、アジアの平和と安定の基礎であることを国民党と政府に訴えたのだから。
そして翌85年には、工業都市・高雄へと足を向けた。このときから高知県南国市の千屋崎病院・高橋正六院長が紛れ込んできた。彼は市民団体・日華親善協会の幹部をしていたから、遊ぶ方面では台湾事情に詳しかった。むろん、筆者の思いを伝えて日中友好のレールを走るようにした。彼は期待に応えてくれた。最愛の娘の医師を亡くすと、彼女所有の医学文献を北京の大学に寄贈して感謝されている。
高雄では野党系の知事、中立系新聞経営者、市民から率直な意見を聞くことができた。民主化の遅れ、国民党独裁への不満など現地でなくては聞かれない真実を耳にすることができた。
「ここは内側からの変革は不可能である。外圧しかない」という悲鳴も聞こえてきた。彼らとの交流は全て非公開を原則に行われた。漏れると逮捕拘束が待ち構えていたからである。このときのメモはどこかに行ってしまったらしい。
その外圧というと、ヒィリピンでのアキノ革命、韓国の民間大統領誕生、北京の平和攻勢、ワシントンの圧力と経済沈下などが台北に押し寄せてきていた。
筆者はこの台湾訪問を踏まえながら88年4月に「大陸と台湾」(第三次国共合作の底流)としてまとめて、前年に急逝した岩動道行元科技庁長官の霊前に捧げた。
筆者にとっての台湾は以上の経緯による。台湾をあれこれ都合よく利用したい東京とワシントンの右翼の存在は相変わらずだが、それはアジアの平和と安定を阻害するもので、正義に反する。既に1国二制度の香港は軌道に乗っている。「大陸と一緒になると貧困に陥る」という台湾住民の不安は消えている。台湾住民と企業の多くが大陸で生活の糧を得ている今日である。
当事者同士の交流も盛んだ。変な外部からの横槍は不用である。夫婦喧嘩に口をはさむ必要もない昨今の大陸と台湾である。(おわり)
=転載終了=
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK104掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。