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(回答先: 桜島の防災対策 -火山学的視点から- 投稿者 taked4700 日時 2012 年 2 月 01 日 11:25:11)
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3. 富士山貞観噴火・宝永噴火の推移
静岡大学教育学部 教授 小 山 真 人
1.はじめに
富士山ハザードマップ検討委員会では,歴史時代の代表的な噴火をとりあげ,その推移を復元した上で,それにもとづいた被害想定や防災ガイドラインの検討をおこないつつある。ここでは,そのベースとなっている歴史時代の2つの大規模噴火-貞観(じょうがん)噴火と宝永噴火-をとりあげ,両噴火の推移がどこまで明らかにされたかを紹介する。
富士山において,歴史時代の信頼すべき記録が現存している噴火は,貞観・宝永噴火を含めて10回ある(表1) 1) 。しかしながら,大部分の噴火が記録の乏しい古代から中世にかけて生じたという事情もあり,個々の噴火記録のもつ情報量(文字数)は50字に満たないものが多い。富士山が噴火したということ以外の事実が何も書かれていない記録すら存在する。結果として,地表に残された噴火堆積物との対応関係はつかみにくく,火口位置や噴火様式が全く不明のものもある。
ところが,貞観噴火と宝永噴火については,噴火規模が大きかったために,他と比べて具体的な噴火描写や被害の記述が豊富である。これゆえ,噴火堆積物との対応も確実である上に,細かな噴火推移の復元もある程度可能となっている。そのうえ,貞観噴火は穏やかな溶岩流出を主体とする噴火であるのに対し,宝永噴火は爆発的な火山灰放出を主体とする噴火であり,異なる様式の噴火に対する防災対応を考えるために両噴火は格好の題材と言える。
2.貞観噴火の推移
貞観噴火は,平安時代の貞観六年(864年)に起きた噴火であり,富士山北西麓の「青木ヶ原溶岩」を流出した噴火としても知られている。貞観噴火の文字記録は,平安時代前期ということもあって,当時の朝廷が編纂した日本の歴史書『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』におさめられた報告が,信頼すべき唯一のものである。
『日本三代実録』によれば,貞観六年五月二十五日(864年7月2日)に,駿河国から富士山噴火の第1報が朝廷に届いている。その内容は「十数日前から富士山が噴火しており,流出した溶岩流が本栖湖に流入した」とのことであった。次いで約2ヶ月後の貞觀六年七月十七日(864年8月22日),噴火の第2報が甲斐国から京都にもたらされた。溶岩流が本栖湖と「せのうみ(?湖)」の2湖に流入し,民家が溶岩流の下敷きとなったこと,溶岩の別の流れは河口湖方面へと向かっていること,湖への溶岩流入前に大きな地震があったことなどが語られている。
ここで,「せのうみ」という聞きなれない湖の名前が出ているが,どこにあった湖なのだろうか? この湖の所在を考える鍵は,貞観噴火がもたらした青木ヶ原溶岩の分布にある。筆者が鈴木雄介らとともに青木ヶ原溶岩の分布や重なり方を調査した結果,現在の精進湖登山道の一〜二合目付近に開いた2列の割れ目火口から,大きく分けて4枚の溶岩流(石塚溶岩流,神座風穴溶岩流,長尾山溶岩流,氷穴溶岩流)が流出し,そのうちの石塚溶岩流が本栖湖に,長尾山溶岩流が精進湖・西湖にそれぞれ流れ込んだことをつきとめた 2) 。青木ヶ原溶岩は,これら4枚の溶岩流の総称である。 『日本三代実録』には本栖湖と「せのうみ」の2湖を(溶岩流が)埋めたと書かれているが,実際に青木ヶ原溶岩が流れ込んだ湖は3湖である。この矛盾は,噴火前に存在していた「せのうみ」という大きな湖が溶岩流に埋められて2つに分断され,精進湖と西湖に分かれたと考えると,すっきりと説明可能である。
表2と図1は,『日本三代実録』の記述と実際の溶岩流の地質調査結果にもとづいて,貞観噴火の溶岩流出推移を示したものである。貞観噴火は,火口付近に火山れき・火山灰が少量降り積もっているものの,噴出したマグマの大部分が溶岩流として比較的穏やかに流れ広がった噴火であることがわかった。しかし,その量が宝永噴火に匹敵するほど大量であったため,富士五湖の形や構成が大きく変わってしまうほどの地形変化がもたらされたのである。
なお,ここで「大量」と書いたが,噴火前の「せのうみ」の形状や水深が未確定のため,青木ヶ原溶岩全体の噴出量を正確に推定することが困難であり,噴火シナリオや溶岩流出シミュレーションの作成に大きな不確定さがつきまとっている。このため,「せのうみ」のかつての広がり・水深や青木ヶ原溶岩の流出過程を調べるために,国土交通省富士砂防工事事務所によって青木ヶ原溶岩のボーリング調査と航空レーザープロファイラ調査が現在おこなわれている。とくに,植生に左右されずに地表面の微細な凹凸を描き出す航空レーザープロファイラの威力は凄まじいものであり,これまでの火山学の常識を覆すほどの青木ヶ原溶岩の詳細な表面地形図が得られつつある3)。
表2 富士山貞観噴火(864〜866年)の推移
時 期
推 移
864年(貞観六年)
6月中旬 富士山北西斜面の一〜二合目付近に開いた2列の割れ目火口より噴火開始。溶岩流出が始まる。噴火開始前後して、マグマ貫入にともなう強震がたびたび発生
6月下旬 溶岩流が本栖湖東岸に達する(図1の1)
7月〜8月中旬 溶岩流が「せのうみ」に達し、湖を分断し始める(図1の2)。溶岩の熱によって湖の水は沸騰し、魚や亀が多数死ぬ。何軒かの人家が溶岩流の下敷きとなる。やがて「せのうみ」は精進湖と西湖に分断され、溶岩流の別の流れは鳴沢付近にまで達する(図1の3)。8月なかば時点で、噴火のクライマックスは終了
865年末〜866年初頭 小規模な溶岩流出、または二次的爆発の発生
噴火開始後の2ヶ月間についての推定結果(文献2)にもとづく)。2本の太い点線が噴火割れ目の位置をあらわしている。1〜3のそれぞれがいつの時点かは表2を参照。
図1 富士山貞観噴火の溶岩流出過程
3.宝永噴火の推移
江戸時代に起きた宝永噴火については,江戸近郊での大事件ゆえに数多くの記録・文書が残されており,それらを用いて被災・復興過程の検討,噴火過程の吟味,噴火と地震の関係などの研究がなされてきた。しかし,これらのうちの噴火過程の研究のほとんどにおいては,個々の史料の信頼性についての吟味がなされておらず,史料に書かれたことが基本的にはすべて事実として取り扱われているため,問題があった。宝永噴火の正確な推移を求めるためには,個々の史料の信頼性を判別し,噴火の直接体験者あるいは体験者から直接伝聞を受けた者が書き留めた史料を選別・重視する必要がある。しかし,そもそも史料の数自体が多いうえに史料の詳しい出自が不明のものも多く,選別作業は遅れていた。
以上の問題点をふまえ,筆者らは史料の収集・整理と選別を注意深くおこない,宝永噴火の詳細な推移を復元しつつある 4) 。ここでは,それらの成果のうちの代表的なものを含めた形で,宝永噴火の推移の概要を紹介する。
富士山麓に住んでいた人や,たまたま東海道を通りかかった旅人が,噴火の貴重な目撃談を書きとめている。これらの記録の数や記述量自体は多くなく,時間的にも噴火初期の事件記述にかたよった断片的なものが多いが,記録地がどこかを押さえながら個々の内容を比較・総合することによって,噴火中にどこで何が起きたかの全体像を編み上げることができる。
さらに,宝永噴火の影響が及んだ江戸には多くの知識人が居住しており,しかも日々の日記を綴っていた人も複数存在した。これらの人々は,当時の江戸において自身が目撃したり,あるいは人から伝聞した噴火現象の記述を残している。宝永噴火は,その規模の大きさと激しさゆえに,山麓の人々にとっては現象の全容をとらえきれない面があった。たとえば,巨大な噴煙に空をおおわれたために昼でも闇夜のようになって火山れきが降り注いだ地域では,身のまわりの状況すら把握困難になった時間帯が存在した。このような状況下では,火山からある程度離れた地域における観察内容が重要である。江戸における噴火記述は,ある程度距離をおいて噴火を観察し,その全体像をとらえた記録として重要な意味をもっている。
表3は,これらの史料解読作業の結果によって得られたデータを総合したものであり,宝永噴火の前兆から噴火開始を経て,噴火終了に至るまでの大まかな事件推移をあらわしている。地点別の推移の詳細,降灰分布,マグマ噴出率の時間変化などについては,文献 4) や富士山ハザードマップ検討委員会基図部会の公開資料(内閣府のWebページに掲載)を参照してほしい。
宝永噴火には群発地震や鳴動などの明確な前兆がともなっていたことが,複数の史料記述から確かめられる。また,宝永東海地震の発生から49日目に富士山の宝永噴火が始まったことは,よく知られた事実である。さらに,宝永東海地震の約4年前に起きた元禄関東地震の後にも,富士山から鳴動が聞こえたという確かな記録がある 1) 。表3には,これら宝永噴火の広義の前兆と考えられることも含めている。
表3からわかるように,宝永噴火は一様に激しかったのではなく,最初の3日間にクライマックスがあったことがわかる。また,その後も一様に衰えたのではなく,噴火期間の後半にふたたび噴火の勢いが盛り返したことや,最終日の夜に爆発的な噴火があったこともわかった。逆に,最初の3日間の噴火最盛期の中にも小康状態とおぼしき期間が見られることは,防災対策を考える上で重要である。
【参考文献】
1)小山真人:歴史時代の富士山噴火史の再検討.火山,vol.43,p.323-347,1998
2)鈴木雄介ほか:富士山貞観噴火の推移と噴出量.地球惑星関連学会2002年合同大会予稿集,V032-P023,2002
3)千葉達朗・小山真人:青木ヶ原樹海の地形が見えた.ふじあざみ(国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所発行),no.38,2002
4)小山真人:史料にもとづく富士山宝永噴火の推移.月刊地球,vol.24,p.609-616,2002.
表3 富士山宝永噴火(1707年)の推移
時 期
推 移
1703年(元禄十六年)12月31日 元禄関東地震が発生
1704年2月4〜7日 富士山から異常な鳴動が聞こえる(山体直下へのマグマ上昇と、それにともなう群発地震の発生)
1707年(宝永四年)10月 富士山中でたびたび小地震発生?
10月28日 宝永東海地震が発生
10月29日 富士宮付近を震央とする最大余震発生。富士宮では本震よりも強い揺れにより被害大
12月に入った頃から 富士山中で異常な鳴動と小地震の群発(山体直下へのマグマ上昇と、それにともなう群発地震の発生)
12月15日午後 富士山麓(静岡県裾野市須山、同富士山吉原、山梨県忍野村)ではっきりとした群発地震
同日夜 群発地震の規模が拡大し、御殿場、沼津、箱根、小田原でも有感となる
同日夜半〜未明 群発地震が引き続き、長野県下伊那郡、名古屋、江戸でも有感地震が2度あった
12月16日午前 群発地震が引き続き、富士山麓で朝と昼前に強震が2度発生
同日昼前 2度めの強震の直後に、富士山南東斜面五合目付近から噴火開始。噴煙は成層圏に達し、偏西風にあおられて東へ流れ始める。爆発的噴火に伴う空振が、下伊那から江戸までの広い範囲で感じられ、人々に大きな恐怖を与える。風下にあたる富士山の東麓では火山れきが降り注ぎ、高熱の軽石によって火事も発生する。噴煙中では絶え間なく火山雷が発生する
同日昼過ぎ 噴煙が江戸上空に達し、空は闇につつまれ、火山雷がとどろき、灰白色の降灰が始まる
同日15時頃 噴煙がいったん小康状態になる
同日夕方 噴火が再び激しくなる。マグマ成分の変化によって、東麓に降る火山れきの色はそれまでの灰白色(軽石)から黒色(スコリア)へと変化する。日が落ちると、火山上空にたちのぼる火柱と赤熱した火山弾の飛散がはっきりと見えるようになり、目撃した人々に強い恐怖感を与える。忍野では、降灰域北限の外にあったにもかかわらず、住民が恐怖に堪えかねて富士吉田方面に避難。
同日夜 激しい噴火が続く。日没後、江戸に降る灰の色が黒色に変化する。東麓では高熱の火山れきの落下によって火災が発生する。風向きが変化した江戸では夜中に降灰がやむが、南方上空に噴煙が絶えず目撃される。小田原や江ノ島では降れき・降砂が始まる。元箱根は降砂範囲の南限付近にあたり、この夜に少し降った程度。
12月17日朝 2度めの小康状態が訪れるが、長くは続かない。
同日昼間 小田原・江ノ島では降砂が大雨のように続く。小田原について旅人は、留守番だけを残してほとんどの住民が避難した事実を知る。江戸ではほぼ終日噴煙が目撃される
同時夕方 南麓の沼津方面に一度だけ降灰
同日夜 日没後にやや規模の大きな地震があり、伊勢から江戸までの広い範囲でかなりの強震として感じられるが、被害報告はない。夜中に江戸で再び降灰。忍野では、いったん村に戻った住民が再び富士吉田方面に避難。小田原では夜半前から再び降砂が始まる
12月18日 朝、噴火は3度めの小康状態となる。江戸では終日噴煙が目撃され、夕方から夜半にかなりの降灰がある。忍野では、山中湖方面から到着した避難民とともに再び夜間に富士吉田方面へ避難。小田原では静かに降砂が続くが、夜半前にやむ
12月19日 この日以降、噴火にたびたび小康状態がはさまれるようになる。江戸でも空振や雷鳴が小さくなり、間が空くようになる。小田原では降砂続く。江戸では終日噴煙が目撃され、朝から夜半まで降灰あり
12月20日 名古屋から富士山上空の噴煙が目撃される(以後、曇の日を除いて26日まで毎朝目撃)。江戸から見る噴煙は時間帯によって途切れるようになる。小田原では降砂続く。夕方から夜半前まで江戸に降灰あり
12月21日 江戸では終日薄い噴煙が目撃され、夜間に降灰もあり
12月22日 12月22日江戸ではほぼ終日薄い噴煙が目撃され、夜半から未明まで弱い降灰がある
12月23日 江戸で夕方から夜半にかけて噴煙が目撃され、明け方と夜中〜未明に降灰あり
12月24日 江戸で時おり噴煙が目撃される
12月25日 15時頃から噴火が再び激しくなる。江戸で15時頃から噴煙が目撃され、やがて空を覆い、日光を遮る。その後、夜半前から未明まで弱い降灰がある
12月26日 江戸では終日噴煙が日光を遮り、朝と夕方に降灰。名古屋では、昼過ぎに宝永東海地震以来の最大の地震が感じられるが、被害報告はない
12月27日 富士山麓で地震が頻発する。名古屋と江戸でも小地震あり。江戸では、午前中に目や口が開けられないほどの降灰が続き、昼過ぎと夜半前にも少し降灰がある
12月28日 江戸で時おり噴煙が目撃される
12月29日 江戸で朝と夕方に噴煙が目撃される
12月30日 江戸で朝にとぎれとぎれの噴煙が目撃される
12月31日 江戸で朝に薄い噴煙が目撃される。夜に入って再び噴火が激しくなり、山麓では火山弾の飛散が目撃される。夜中から未明にかけて、下伊那と名古屋で空振・鳴動が感じられる
1708年1月1日 未明の爆発を最後として噴火が停止する。江戸での噴煙目撃も以後途絶える
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