http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/265.html
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87
ウィキ「貞観地震」
今回の大震災とよく似ている、といわれるのが平安時代、清和帝の御代にあった「貞観地震」。すこし調べてみました。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-0b7b.html
『静かなる細き声』の記事
「戦後の繁栄は全て地震活動期を乗り切るための蓄え」2011年4月16日
(ココカラ)
貞観十一年五月(ユリウス暦869年7月)の貞観大地震
この地震では蝦夷征討のための基地が津波で消滅。
代替地として内陸へ移したのが多賀城。
清原元輔(清少納言の父)の歌
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」
の波はこの大地震の津波を指しています。大津波でも越せない松のようにずっと待ち続けます・・・という比喩です
(ココマデ)
陸奥国府・鎮守府として多賀城が造営されたのは奈良時代。
延暦年間の田村麻呂将軍の時代には、鎮守府はさらに北の胆沢城に移転しています。
上記の記述については、消滅したのは「台地上にある多賀城本体」ではなくて南側の平野部に広がっていた官衙・都市部だったと思われます。
おそらく、多賀城と国府(城下町)、七ヶ浜の半島・松島湾にかけての「国府津=港」と、塩釜神社から慈覚大師創建の五大堂などの宗教装置が一体となった、東北経営の一大拠点でありましたでしょう。
地震・津波で平野部の港&都市がまるごと消滅、というのは日本の歴史ではたびたび繰り返されています。
上記で参照されているデータベースは静岡大学防災総合センターが公開しているもので、文献上にある地震・火山噴火などが精密に拾われています。
検索して、貞観地震の記事を採集しました。
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/db/
『[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)』
(ココカラ)
事象番号:08690713 種別:地震
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
貞観11年5月26日/869年7月9日(J)/869年7月13日(G)
《廿六日癸未》{(貞観十一年五月)}、
陸奥國地大震動、流光如晝隠映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城〓倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝〓漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯〓、原野道路、惣為滄溟、乘船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉、
《七日辛酉》{(九月)}、
(中略)以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝為檢陸奥國地震使、判官一人、主曲一人、
《十三日丁酉》{(十月)}、
詔曰、義農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷〓於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄隆譴、厚載虧方、如聞陸奥國境、地震尤甚、或海水暴溢而為患、或城宇頽壓而至殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然《〓》{(愧イ)}懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、
(ココマデ)
漢字ばっかで泣きそうです・・・
廿六日癸未の条は次の記事に訳文あり。
http://blog.goo.ne.jp/rgriggs1915/e/0e8973cab85d8a0ca0d6a736501d7b7b
http://blog.goo.ne.jp/rgriggs1915/e/5d75210a89287448ed22c5f902a58db1
『炎と水の物語 2010 Apprehensio ad Ignis et Aquarius.』の記事
「869年の 宮城 ・ 福島沖 巨大地震 大津波を考える」2005年11月17日
「869年 宮城 ・ 福島沖 巨大地震・大津波 2 その背景を考える」2005年8月28日
(ココカラ)
>「 旧暦五月二十六日の夜 陸奥国の地に、大地震が発生し、その発光現象で、昼のように明るくなったり影ったりする。
人々は、悲鳴をあげて倒れ、起き上がることが出来ない。建物の下敷きになり圧死し、土砂崩れに埋もれてしまう人もいる。
牛や馬は、走り回り、高い所に登ろうとして折重なって騒ぐ。
城郭や倉庫、門、見張り台、城壁は崩れ落ち、破損した所が数多い。
そうするうちに海から轟音が響き渡り、その音は、雷鳴のようだ。
大津波が陸上を襲い、怒涛渦巻き溢れ、たちまち(多賀城の)城下に達した。
さらに、はるか内陸にまで浸水して、原野や道も、見渡す限り水没してしまった。舟に乗る間もなく、山に登ることも出来ずに溺死した者は、千人ほど。財産や農作物もほとんど失われてしまった。」<
(ココマデ)
七日辛酉の条は九月、紀朝臣春枝を「検陸奥国地震使」に任命、現地調査に派遣ということ。ずいぶんのんびりですが、発災後まる3か月は手がつけられなかったということでしょうか。
十三日丁酉の条は十月、現地調査を受けて発せられた詔勅です。
前半は中国古代史などを引いた修辞。後半部の訳を引用すると
既出『静かなる細き声』
(ココカラ)
戸籍に登録された人間と朝廷に服従しない人間(蝦夷)を差別することなく救済せよ。死者は全てきちんと葬式を出して篤く弔え。生存者には援助をしなさい。被害が著しい者は税金を免除する。妻を失った男、夫を失った女、生業を失って生活ができなくなった者には、その被害の程度に応じて、手厚く支援をせよ、
(ココマデ)
東北経営の根幹を揺るがす天変地異でありましたから、この大方針に沿って各種対策とその指令文書が飛び交ったものと思います。
さらにその年の暮れ
『[古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)』
(ココカラ)
事象番号:08700123 種別:地震
貞観11年12月14日/870年1月19日(J)/870年1月23日(G)
(A)〔日本三代実録〕○新訂増補国史大系
《十四日》{(貞観十一年十二月)}丁酉、
遣使者於伊勢太神祗官陰陽寮言、当有隣境兵寇肥後国風水、陸奥国地震損傷廨舎、没溺黎元、是日敕命五畿七道諸国、斑幣境内諸神予防後害、
廿五日戊(中略)申勅命五畿七道諸国、限以三日、転読金剛般若経、謝地震風水之災、厭隣兵窺隙之寇焉、
(ココマデ)
12月には肥後でも地震被害があったらしく、陸奥の貞観地震とあわせて諸社への奉幣、諸大寺での法要などがおこなわれています。
この文中「有隣境兵寇」とあるのは、史上「貞観の韓寇」とよばれるもの。新羅の武装集団が北九州沿岸を襲ったという事件を指していると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87#.E8.B2.9E.E8.A6.B3.E3.81.AE.E9.9F.93.E5.AF.87
ウィキ「新羅の入寇」から
(ココカラ)
貞観の韓寇
『日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日にかけて記された博多への入寇と、その後の対策。
大宰府言す。「去る月(869年5月)二十二日の夜、新羅の海賊、艦二艘に乗り博多の津に来たり、豊前の年貢の絹綿を掠奪して即時(すなわち)逃竄す。兵を発して追えども遂に賊を獲ざりき」と。
これに対し政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決め、賊徒を射た「海辺の百姓五、六人」を賞した。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶の内応を告発した。
朝廷では弩師や防人をさらに充実させ、対馬守小野春風ら有力武人を励まして現地を警護する一方、八幡、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「日本は神の国であり、敵国の船は未然に漂没する」と訴えた(870年2月15日)。
(ココマデ)
貞観年間は地震・津波あり外国勢力の入寇あり、六年五月二十五日(864年7月2日)には富士山の大噴火などもあり、まことにものものしい時代でありました。
付記:次の指摘などはとても興味深いです。
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/51782851.html
『2010/3 パラノイア』の記事
「大震災『日本三代実録』」2011年3月16日
(ココカラ)
いずれにせよ規模といい、被災した土地面積など、まるでパソコンでコピーしたように重なるのはなぜか。
また、「石巻仙台平野における869年貞観津波の数値シュミレーション」というのが東京大学地震研究所から報告されている。PDFファイルとして公開されているので必見である。
(ココマデ)
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