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(回答先: 経済コラムマガジンの荒井彰先生も脳動脈硬化症? 投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 14:30:58)
毛沢東の私生活 李 志綏 著
「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言語を残し、著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見された。また北京政府は「事実無根の書」として、事実上発禁扱いにした。
『毛沢東の私生活』は、毛沢東付きの専任医師であった李志綏が、1980年代にアメリカ移住後に書いた回想録。1994年に世界各国で同時出版された。この本は中国大陸本土では出版が認められていない。
李医師はこの著作で、毛沢東の権力絶頂期から死に至るまでの二十数年に渡る私生活を日常的に目撃観察している。毛の堕落した私生活(とりわけ性生活)、文化大革命期を中心とした中国共産党内部の権力闘争、プロパガンダのすさまじい運用(大躍進政策など)、1972年のニクソン大統領訪中前後の毛の興奮などが詳細に述べられている。
また李は、文化大革命が自身の家族に及ぼした影響、医師として診た毛自身の独特な生活態度(風呂には一切入らないなど)も具体的に述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%94%9F%E6%B4%BB
イギリスのBBC放送が毛沢東生誕百年を期して作成した「中国叢談」は、一九五四年から毛沢東が死去するまで二二年間にわたって侍医を務めた李志綏の証言をもとに「裸の毛沢東、最晩年の孤高と絶倫」を完膚なきまでにえぐっている(浜本訳、『THIS IS 読売』九四年四月号)。
「無法無天」の形容句に恥じないセックスライフについて巷間のウワサは絶えなかったが、今回は侍医の証言だから信憑性がきわめて高い。固有名詞として登場するのは、謝静宜(文革期に北京市委員会副書記)、張玉鳳(生活秘書)、孟錦雲(生活秘書)の三人だが、性関係をもった「教養の低い」女性は「非常に大勢」であった。
「普通の人間ならあれほどの年齢になれば性欲もなくなるのだが、毛の場合は性欲を自分の生命力を測る尺度にしていた。性欲がなくなれば生命力がなくなったも同じ」
と考えてセックスに励んだというから、好色爺そのものだ。
李志綏は「毛が本当に悲しみ、涙を流す姿」を見たことがないという。
陳毅元帥の葬儀で涙を流したという有名な話を李志綏は否定する。
「あの時私は毛のそばにいたからわかるが、泣いてなどいなかった」。
http://www25.big.or.jp/~yabuki/doc/sk940403.htm
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上巻p156
歳月を経るにしたがい、こうしたダンスパーティー、そしてパーティーに参加した女性の役割は私にしてからが思わず目をおおいたくなるほど露骨なものになっていった。
1961年に毛沢東の専用の特製ベッドのひとつがダンス開場に隣接する一室に移され、主席がダンスの途中で「ひと休み」できるように配慮されたのであった。私はいくども、主席が若い女の手をとり、その部屋につれこんで後ろ手にドアをしめる光景を目撃している。
上巻p167
張は、主席の歯なみに固着した歯苔の分厚い膜や、歯の隙間にたまった食べかすを取り除くことで口中の掃除をした。
「主席、毎日ブラシで歯をおみがきになる必要があります。苔がたまりすぎです。」
「いやだ」毛は、反発した。
「私はお茶で口の中をすすぐ。みがいたことなんかないぞ。虎はけして牙をみがかない。それなのに虎の牙は、なぜするどいのか」
毛沢東の理屈は、しばしばこんな調子で飛躍する。こちらは返すべき言葉もなかった。
奥さんの江青は、ヒステリーで、お付きの人を虐め抜くし・・
上巻 p429
私は、まだ毛沢東の過剰な性欲に気がついていなかったし、毛沢東が自分を捨てるのではないか、と心配する江青に対し、そんなことはないと 安心させたという主席の話を思い出しただけであった。また、その時点で、かかる問題についていえば、江青の方が私よりもずっとはっきり「現実を見抜いている」ことを 私はまだ気づいていなかった。
毛沢東の性欲は けたはずれであり、セックスと愛情は、彼にとって別ものだった。
上巻 p481
上海会議のあいだ、毛沢東は、専用列車のなかですごした。豪華なハードーン旧邸は居心地が悪かったのと、列車付きの若い看護婦とまだ関係が続いていたからだった。
相変わらず大胆に夜ごと看護婦を「錦江倶楽部」に同行した。
公安当局者は、地元のもっと有名な女優や女歌手との接見を手配したが、毛沢東は、当局の選択に少しも関心を示さなかった。女たちは、年をとりすぎているうえ口が達者で世間ずれしすぎていた。
もっと年若く、世間知らずの娘が毛沢東好みであった。そのほうが 御しやすかったのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/naomi_shararan1998/25584225.html
毛沢東のエッチ [スペインのハエ (R-18)]
緊張に包まれた毛沢東主席の宮廷!で無学!無教養なのにいつもちょろちょろしていた人がいたそうです。
その葉子龍と名乗る男は主席の執事が表の顔!
裏の仕事は女性調達係でもあったそうな。
農村地方のあちこちから若い少女が無邪気に寝室にやってきたそうです。
主席は並外れた性欲の持ち主。ま!王様になったら食欲や性欲や殺人欲が解き放たれますわな。
しかし!絶倫の割りにはそんなに立派なモノを持っている訳ではなかったようです!?
長年!主治医だったリ(李)医師は「毛沢東の私生活」(新庄哲夫訳)に書いています!
性器の包皮が異常にかたくてめくれず入浴はしないから感染症の心配があり左側の睾丸は通常より小さく右側の睾丸にいたっては腹腔内のまま!いんのうまで下降していなかった云々。
おそまつ!の部類だったようです!
この世で主席の恐れるものはただひとつ!
インポテンツだったそうです。
それだけにはなりたくない!
なぜなら!そうなると仙人になれない!?
結局!
中国古代の帝王「黄帝」の「多接」「少泄」「易女」「御少女」で100歳まで生きて仙人になった伝説!に行き着くのでしょうか!?
権力者の夢は誰も!復活と!永遠の命!
「御少女」とは14歳から19歳までの娘らしい!?
だから!主席には多くの少女が必要だった?!
葉子龍は彼女たちに謝礼として数百人民元からせいぜい2千人民元を渡していたといいます。今でもわずかな額ですが多分!昔は日本円でいえば100円にも相当しなかったのでは?!
永遠の命を買おうとする大金持ちにしちゃあケチですね!
彼女たちは主席への忠誠心からお金には関係なく喜んでいたのかも!?
歴史は寂しい、、、ですねぇ。
http://audrey-hotaru.blog.so-net.ne.jp/2007-10-09
『毛沢東の私生活』というこの本は、毛沢東の傍に長年付き添った主治医の回想録である。革命後の中国で何万人と餓死する人間がでようと、豪奢な暮らしを続けた党幹部たち。その実体がいかほどであったかが暴露されている本だ。
これを読むと、一体「人民のための革命」とは何だったのか? と思う。
あの文化大革命で、あらゆるものが“ブルジョア的”“反革命”と標的に合い、攻撃され破壊されたというのに、なんと! 毛沢東の屋敷の中ではアメリカ映画の上映会が開かれ、「ダンス・パーィー」が毎週のように開かれていたとある。
『将軍様の踊り子』という北朝鮮には金正日に仕える美女軍団がいるということだが、まさにそれと同じ、中国全土各地から選ばれた美女達がその「ダンス・パーティー」で毛沢東の相手をするために集められるのだ。ダンスのみではない、気に入った女性を毛沢東は別室に連れ込んだとある。
それが毛沢東の日常だったのだ。なんということだろう! 由々しきことだ。信じられないことだが、しかしこれは四六時中毛沢東に付き添い仕えた主治医の手記なのだ。
党幹部達はみな見て見ぬふりをしていたとある。
「オウム真理教」でも教祖が気に入った女性信者をイニシエーションと称してセックスを行っていた。自分の欲望を教義に組み込み、教祖とセックスを行えば一段と高いところへと昇華できると信じ込ませていた。熱狂的信者であれば、それも厭わない。 こと性に関しては毛沢東とて同じだった。
「ダンス・パーティー」に集められた若い女性たちは、国家主席のために身を捧げることを厭わなかったのだ。彼女たちだってそれを承知で集められていたのであり、その「ダンス・パーティー」の目的を知っていたのだ。
『英雄色を好む』とは、昔から言われてきた言葉です。しかし、古代の皇帝や江戸時代の大奥の話しでもなく、まがりなりにも「共産主義」の“人民の国”中国で、餓死で国民が死んでいる最中です。「右派反対闘争」と言って、資本主義の悪を駆逐する共産化運動が進められ、容赦なく粛清が行われていた時です。山水画までブルジョア的と標的に合い、大量に焼かれた時代です。最も高潔、人民の模範、清廉潔白、聖人君子であらねばならぬはずの指導者毛沢東の私生活がこれなのですね。
勿論この高潔・清廉潔白というのは「公人」としてであって、相方合意の上の男女がどれだけ性的な関係を持とうと、とやかく言うことではないと思うのです。政治家であろうとプライベートでの生活、趣味の領域に立ち入るべきではなく、愛人がいようと、何人の女性と性行為を持とうと、強姦のような犯罪行為でないかぎり、それはかまわないことです。毛沢東とてとやかく言われることではないでしょう。
しかし、公邸内で公金で行われているとしたら、それは問題です。しかも何万という人が餓死している中で、宴会が開かれ、楽隊が呼ばれ、雑伎団の余興があり、隣りに特製のベッドルームがしつらえてあるということは問題だと思うのです。
「人民のため」「国民のため」と、腐敗や堕落を許さない「共産革命」を起こしたところで結局コレなんですね。国民は給料もなく「現物支給」という制度で、公平に大食堂で食事が取れるということになっていても、その支給される現物も限られ、食べるものがない。しかし高級幹部は豪邸に住み、別荘を持ち、豪華な暮らしをして色情に溺れる。
毛沢東は視察を好み、中国各地に出向くことが多かったようですが、「大躍進」という毛沢東が打ち出した生産増大スローガンはまったく機能していなかったのが実体で、農作物の不作を訴える地方の幹部に、『何故一毛作で、二毛作をしないのか』と叱咤したという。温暖な日本でも米の二毛作などできる所は限られている。しかし生産が上がっていない地域は“やり方”が悪いということになって、それは幹部の責任となる。生産性が低いということは、「反革命」とされたのだ。
そのため正しい情報は上げられなくなり、獲れてもいないのに“大躍進”しているという偽の報告書が出され、そのために農民は益々苦しい生活に追い込まれていくのだ。日本が戦争に負けているのに、決して劣勢であるとは言わず「大進撃」と嘘の発表をしていた大本営と同じだった。
「大躍進」政策の最中には、「裏庭煉高炉」といい、名ばかりの“鉄高炉”が各地区に作られたが、それは農民達の鍋釜を溶かして再び再生するという、「鉄高炉」とはとても言えない代物だった。「鉄」の生産どころか、単に作り直しをしていただけで、そのため人民は鍋釜が家庭からなくなり、白湯も飲めなかったとある。貴重な石炭や燃料がこのために浪費されただけであった。
毛沢東が地方巡業すれば、1万5千人もの護衛が召集され、行く先々の鉄道の沿線、駅、すべてに配置され、何万という人が餓死している最中でも、その歓迎のセレモニーが毛沢東のために催されるのだ。 貧しい村に訪れたとき、空調もない部屋に毛沢東夫人である江青が怒って、最新の空調設備がすぐ取り寄せられ備えられたとか、シャワー設備を整えたという話しがあります。
毛沢東が泳ぎたいと急に言い出したから5キロに渡って川周辺が警備されたとか、その大旅団のために鶏2000羽が食料として集められたとか、何度もくどいように書きますが、あくまでも人民が餓死している中で、こうした視察が繰り返されていったということです。
これをどう考えたらいいのでしょう。モラルというものは、上に立つモノだからこそ律しなければシメシがつきません。範を示すというのが上に立つモノの勤めです。しかし毛沢東はじめ党幹部はその特権にあぐらをかき、人民だけに過酷な労働と規律を求めていました。 毛沢東は生産向上のため「大躍進」という政策を打ち出しますが、【『毛沢東秘録』】にも書かれていたように、その政策を批判した劉少奇は毛沢東に恨まれ粛清されていきます。毛沢東の政策に異を唱えるものは、共産革命の同士でさえ「反革命」だったのです。
さすが餓死するものが何万人と増え続けると、毛沢東は「肉」を口にしなくなったと言いますし、身内が特権的な扱いを受けることを嫌ったとありますが、こと自分となるとそれも違ったのでしょうか。それを一番の回春剤と考えてか、若い「人肉」、女性の肉体だけは求め続けたようなのです。
今問題になっている、税務調査会長の官舎に愛人を住まわせるなどいう公私混同はカワイイ事なのかもしれません。毛沢東は公邸の中に売春宿を作っていたようなものです。
結局、こうした「権力者」のあまりにも国民から乖離した意識構造、「金」と「女」と「地位(権力)」への欲望は、共産主義社会であれ資本主義社会であれ、同じなのですね。
この本では、毛沢東の乱れた女性関係、ワンマンで言うことを聞かない独裁者としての身勝手な行状ばかりが描かれている。後世まさかこれほど悪し様に自分の私生活が暴露されるとは思いもよらなかったであろう。どの『英雄伝』であろうと“私生活”が暴かれたら形無しだ。
もともとフルッショフがスターリン批判をしたことに端を発し、右派(修正主義者)撲滅運動が中国で始まる。それが文化大革命にまでつながっていくのだが、党の機能がしなくなるほど、党内でも粛清の嵐が吹きまくる。その後毛沢東が取った路線はアメリカや日本との国交回復、資本主義社会との提携だった。フルッショフを毛嫌いしソ連と国交断絶した毛沢東は、支援の相手国に日本やアメリカを選んだのだ。
中国はまだ「共産党」と名称は変わっていないが、実体は資本主義経済と同じ、今や世界の物資不足を引き起こすほどの大躍進を遂げている。そうなると、一体「共産主義革命」は何だったのだろうと思う。ブルジョア的・修正主義と批判され、何万といった人々が吊し上げにあい、拷問され、「反革命」と落胤を押され死んでいった。
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/12/post_2143.html
毛沢東はセッ○ス狂
毛沢東は自室で思いのままにメモを取っていたようだ。その時々の気分であったり、政治的な事柄であったりもした。それらはゴミ箱の中から側近が拾い集め、密かに保管していたらしい(李鋭談)。また自分自身の個人的な記録も取っており、その内容は性的なものまでも含んでいた(中南海医師、李之随談)。李は「毛沢東をセックス狂だ」とみなしていたという。(『ニューエンペラー上』第六章 注釈17)
幹部の一人康生は、毛沢東の春画集めに多大な貢献をした。康生は江青を毛沢東に引き合わせた人物であり、その後も毛沢東の踊り子達を調達し続けた人物でもある。江青が10代の頃、康生の邸宅で下女として働いていたという噂がある。
「彼のベッドは若い女でいっぱいだった」
(ルイ・アレイ、ソールズベリインタビュー:1987年10月21日北京)
康生は毛沢東の性癖を満たすのに大いに活躍したが、彼自身も旺盛で次のようなエピソードがある。
紅衛兵によって通りに放り投げられた古い手稿や絵画の山を漁り、焼き捨てられてしまう前に、なかから貴重な春画を見つけだしては自分の懐に入れた。
http://a340.oops.jp/mao/mao03.html
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ユン・チャン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳『マオ(上・下巻)』(講談社、2005年)は、合計1119頁もにわたり、新たな資料と綿密なインタビューによる証言に基づいて毛沢東の生涯を検証した意欲溢れる大著である。「人間」としての毛沢東を描写すること自体、現代中国において重大な禁忌であるので、極めて勇気のある行為である。日本で言えば、「天皇制」を論ずる程に困難、重大、それに果敢な行為である。『マオ』の大胆な仮説の面白さと骨太な筆致に思わず引き込まれて一気に読了した。また、実際読んでみて新しく学んだ事実や「人間」としての毛沢東の生々しい描写から大いに触発を受けた。
小生は毛沢東研究の専門家ではなく、このような膨大な大著から専門家のように広大かつ深淵な読み込みはできない。しかし、素人なりにこれまでに読んできた数冊の著作を頼りに学んで得る事のできた『マオ』の読後感を述べたい。
なお、『マオ』からの引用については、以下(上巻、323頁)のように記す。
まず、「人間」毛沢東を冷静に見る上で役立った著作に高島俊男著『中国の大盗賊・完全版』(講談社、2004年)がある。第1章の陳勝(ちん しょう)・劉邦(りゅう ほう)にはじまり、朱元璋(しゅ げんしょう)、李自成(り じせい)、洪秀全(こう しゅうぜん)、そして、第5章の毛沢東からなる。盗賊の側からの歴史として中国史上、有名な人物を面白く紹介している。1989年に『中国の大盗賊』が出版されたが、紙面数の制限と当時、「社会主義中国」を信じる人が多かったという背景から「毛沢東」の部分を廃棄して出版した。その後、読者から「毛沢東」の部分も読みたいとの要望が多くあり、完全版の出版となった経緯をたどった著作である。
「盗賊皇帝」としての視点に反発を感じる人もいるかもしれない。しかし、悠久なる中国史を視点を変えてみた時、中国の歴代皇帝としてのスケールの大きさを毛沢東にみてとることが可能である。20世紀の中国は、100年以内に2度も統一政権が革命によって交替したという中国史上初の経験を経た。そこで、前世紀における蒋介石と毛沢東を比較してみる。
前者は杜月笙(と げっしょう)、後者は康生(こう せい)(毛沢東の第四番目の夫人、江青(こう せい)とは別人)というマフィアのリーダー出でスパイをはじめ、裏の汚い仕事を請け負う人物を暗躍させていた点では、共通項がある。小生は蒋介石と毛沢東の大きな違いの一つにカリスマ性の大小があると考える。前者は「蒋・宋・孔・陳」のいわゆる「四大家族」による開発独裁の国の独裁者水準であったが、後者は個人崇拝を強固に推進し、周恩来が宰相役を演じ、輔弼(ほひつ)するような状況であり、さながら、歴代王朝の皇帝を彷彿させる。『マオ』には「蒋介石は最初から最後まで私情に従って政治や軍隊を動かした。そして、そのような弱点とはまったく無縁の毛沢東という男に負けて中国を失った。」(上巻、524頁)との指摘があるが、小生は共感する。
高島氏の平易で要領を得た著作からは『マオ』を理解する上で大いに役立った。例えば、井岡山に関しては、「井岡山の道」(2)の章にある古来の盗賊のしきたりからの解説で納得できた。後で、毛沢東と女性たちとの関わりのところでも触れるが、毛沢東は家族に対してさえも非情であった。例えば、高島氏は敗走した劉邦が、背後から敵の騎兵が迫ってきた際、車を軽くするために同乗していた子供たちを次々と車から突き落としたことが紹介されている。(3)毛沢東も我が子に対し、愛情が酷薄だったという『マオ』での指摘がある。非情さにおいても皇帝級の人物だったという印象を小生は得た。そして、中国史上で稀有な存在ではなく、これまでも類似した傑物が存在したとして落ち着いて『マオ』について、考えられるようになった。
毛沢東と女性たちとの関わりについて感想を述べる。鋭く厳しく批判的に描写されており、『マオ』を読んでいて最も印象的なテーマであった。特に、楊開慧(よう かいけい)に関する新発見には驚いた。小生は、毛沢東は生涯最も愛していたのは楊開慧であったとばかり思ってきた。そう思ってきた理由は次のとおりだ。エドガー・スノーらアメリカ人ジャーナリストが、革命に殉じた素晴らしい女性として印象的に語っていた。また、楊開慧との間に生まれた長男、毛岸英(もう がんえい)が朝鮮戦争で戦死した時の司令であった彭徳懐(ほう とくかい)をその時は許したものの、後に大躍進政策に反対したことを理由に罷免し、不遇な境地に追い込んだ。その理由の一つには、やはり長男に関する復讐であると小生は思っていた。
しかし、『マオ』には、「毛沢東は悲しい表情ひとつ見せず、不幸があったことを疑わせるような一瞬の陰りさえ見せなかった。それどころか、毛沢東は、まるで岸英が生きているかのように、彼について冗談を飛ばしたりしていた。」(下巻、90頁)とある。岸英のことを自分の後継者とばかりに期待していたと、小生は想像していたことがあったので、非常に驚いた。あえて周囲に対する芝居をしたのではなかったのかと、『マオ』の記述を疑いたくなる程驚いた。
さらに、「第七章 さらなる野望、妻の刑死」を読んだ時に得た衝撃は大きかった。楊開慧は毛沢東を愛していたものの、毛沢東の共産主義思想には懐疑的であった。そして、上巻の156〜159頁の楊開慧の文章からの引用にあるように、毛沢東に無視された挙句、見殺しにされていた。「救おうと思えば、容易に救えたはずだ」(上巻、159頁)の言葉に著者の怒りを感じた。女性を弄んだ挙句、捨て去るといったものだ。
そうした女性軽視の毛沢東の姿勢は、毛沢東の第三番目の夫人、賀子珍(が しちん)(ホー・ツーチェン)についての記述でも著者の怒りの姿勢は如実に出ている。賀子珍にとって毛沢東は人生最大の後悔ともいえる存在だった。下巻の213〜215頁にあるように毛沢東の気まぐれのために回復不可能な精神異常をきたすに至る悲惨な人生だった。
毛沢東の漁色と形容できる女性に対する執着については、彭徳懐の回想録に相当する 彭徳懐 著、田島淳 訳『彭徳懐自述』(サイマル出版会、1984 年)や『マオ』の中でも、彭徳懐が毛沢東を厳しく批判していることが詳しく紹介されている。京夫子(チン・フーズ)著、船山秀夫編訳『毛沢東 最後の女』(中央公論新社、1999年)で紹介されている張毓鳳(ちょう いくほう)という毛沢東の側近であり、看護師だった女性からみた毛沢東像も貴重である。そして、李志綏(り しすい)(リ・チスイ)著、アン・サーストン協力、新庄哲夫訳『毛沢東の私生活(上、下巻)』(文藝春秋、1994年)には、著者が毛沢東の侍医だったので、書名どおりに詳細に記されている。
例えば、毛沢東の第四番目の夫人、江青について、『マオ』では、「何よりも、江青は夫を恐れていた。」(上巻、452頁)、と指摘しつつも、どんなに汚いことも実行できる悪女として描写している。江青悪女観は今日の中国人の考えとしては一般的である。李志綏は江青の権力基盤は毛沢東の権威であり、毛沢東に捨てられることをひどくおびえていた、と鋭く指摘し、江青もまた、毛沢東の犠牲者として分析している。看護師と医者が出てきたところで、次に毛沢東の健康状況について触れる。
李志綏の前掲書は毛沢東の健康状態を詳細に紹介している。それについて、要約している著作がある。小長谷正明(こながや まさあき)著『ヒトラーの震え 毛沢東の摺(す)り足』(中央公論新社、1999年)である。「神経内科からみた20世紀」というサブタイトルにあるように、著者は神経内科の専門で、読みやすく毛沢東の病気について紹介している。
毛沢東は筋萎縮性側索硬化症(ALS)だった。この病気は「脳からの命令が伝わる通りみちである側索と、その命令を中継して伝達する前角神経が、ゆっくりと機能しなくなり、運動神経からの支配を喪失した筋肉がやせて萎縮してしまう。手足は麻痺することをはじめ、食事や言語障害を生じ、ついには呼吸障害まで引き起こし、死に至る病である。今日でも治療法は存在せず、毛沢東の医者たちは30年間の臨床経験でわずか2例しか診たことがなく、ちなみに日本では10万人に5人ぐらいの頻度の難病中の難病である。」(4)
『マオ』の中では、毛沢東の性欲をはじめ、異常なまでの猜疑心、被害妄想や心気症などの精神異常を指摘している。また、仕事を始めると、昼夜を問わないほど不規則で周囲の秘書や医師団らは大変であったことも指摘している。
また、林克(リン・クオ)・凌星光(リン・シンクワン)共著、凌星光訳『毛沢東の人間像』(サイマル出版会、1994年)でも夜行性で気ままな日常だった、と記されている。この著作は元毛沢東の秘書だった林氏と、中国社会科学院で日本経済などを研究し、福井県立大学など日本の教壇に立たれた凌氏との対話形式で、毛沢東の人間像を語っている。『マオ』と読み比べれば、抑制がきており、遠慮している部分もある。それでも、非常にバランスのとれた意見であり、偏りが目立つと批判のある『マオ』と読み比べると、『マオ』が根拠薄弱のものではないことがわかるともに、毛沢東の人格の多面性と非凡な魅力について別な角度から知りうる好著である。
『マオ』を読んでみて正直のところ、一番抵抗のあったのは、日中戦争期の記述である。例えば、「日本語版によせて」で「日本軍による侵略が毛沢東の政権奪取を助けたのは確かです。」(上巻、4頁)とある。ちなみに中国共産党軍が日本軍とあまり熱心に戦闘しなかったという記述は、ピョートル・ウラジミロフ著、高橋正訳『延安(えんあん)日記』(サイマル出版会、1975年)にある。著者はコミンテルンから派遣されたロシア人記者で、延安における凄惨な権力闘争に関する記述では、『マオ』との共通項が多い。
しかし、それでは日本軍は一体誰と戦っていたのか? 中国の国民政府の抗戦力については、石島紀之著『中国抗日戦争史』(青木書店、1975年)で実証研究がなされている。実際、蒋介石は共産党との戦争に備えて兵力を温存していた。付言すると、アメリカは当初、国民政府と共同で中国大陸から日本軍を撃退することを考えていた。しかし、国民政府が消極的態度であったため、アメリカが単独で太平洋の群島づたいに日本軍を撃退する方針に転換した。
一方の日本軍は「八路軍(はちろぐん)(バロー:日本軍の蔑称)狩り」と称して残虐な掃討作戦を展開するほど八路軍を恐れていた。そして、八路軍や中共が恐ろしかったと語る旧日本軍人は少なくない。著者の記すように、国共軍が抗日戦争(中国語では、一般に日中戦争をこのように表現する)にあまり関与していないのならば、100万人もの日本軍はなぜ、南方の戦線に行けずに足止めのように中国大陸で戦闘を継続せざるをえなかったのか。例えば、アヘン戦争後の平英団のような民兵組織が日本軍に対し、強い抵抗をしていたのならば、少しは首肯できる。また、皖南(かんなん)事変(ワンナン事変)に関する記述(上巻、394頁)で共産党が国民党に比べて宣伝がたくみであったと指摘している。しかし、正直の所、今でも信じられないという感想を有する。
また、第26章の「革命的阿片(アヘン)戦争」(上巻、458頁)で共産党が農民に阿片を栽培させていたという記述にも驚かされた。日本軍が中国で阿片の製造・販売していた事実は江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波書店、1988年)で知っていたが、それに共産党が本当にかかわっていたとしたら、中国でのアヘン事情に関する研究に大きな波紋を投げかけることになる。
日中戦争期に関し、最近出版された著書に、劉震雲(りゅう しんうん)(リュウ・チェンユン)著、竹内実監修、劉燕子(りゅう えんし)訳『温故一九四二』(中国書店、2006年)がある。この著書は日本軍が中国の農民から略奪した食料を河南省で日照りとイナゴの大群で被災した農民に対し、食料を分け与えたという史実を小説にしたものだ。当時の国民政府は被災者を救援するどころか、農民から厳しく食料を取り立てていた。そんな折の救援に恩義を感じた農民は国民政府に歯向かった。著者は飢餓と戦争で苦しんだ当時の農民と成長に取り残された現代中国の農民と姿が重なるという。
『マオ』もそうだが、異なった視点で歴史をとらえることは重要である。しかし、一方で日本が行った侵略戦争の免罪符のように扱われることがあってはならない。現在の日本では、「自由主義史観」と称し、歴史の歪曲を謀る集団がいる。例えば、Iris Chang “Rape of Nanking” PENGUING BOOKS, 1997.のように日本人に対する差別や偏見があるなど不適切さが目立つとはいえ、この著書をもとに南京大虐殺を中国人のでっち上げとして悪用されたことがある。ちなみに、アイリス・チャン氏への批判については、J・A・フォーゲル氏の論文(5)が詳細で理解しやすい。同様な事が今後も発生する虞(おそれ)があり、警戒して注視しなければならない。
朝鮮戦争に関する『マオ』の記述には、「スターリンと毛沢東という共産主義独裁者の世界的野望に金日成(キムイルソン)の地域的野望が加わって、一九五〇年一〇月十九日、中国は朝鮮戦争の地獄に放り込まれたのであった。」(下巻、65頁)とある。
正直のところ、それは言い過ぎではないかと考えた。例えば、朱建栄(しゅ けんえい)著『毛沢東の朝鮮戦争』(岩波書店、1991年)がある。この著書はサブタイトルの「中国が鴨緑江(おうりょっこう)をわたるまで」にあるように、中国国内外の多様な資料をもとに、多角的視点から毛沢東の朝鮮戦争参戦する経緯を実証研究している。端的に述べると、当時の中国は国共内戦で疲弊しており、建国間もない時期においては、戦後復興をはかりつつ、権力基盤を安定させ、内政を充実させる必要があった。また、対外参戦に伴う重大な負担をかけることは、中国の経済発展を遅らせ、深刻な経済問題を引き起こす虞があった。故に、毛沢東は参戦したくなかった。しかし、国家建設にあたり、ソ連の協力は重要だった。また、国民政府時代にソ連に事実上与えてしまった中国・東北部の権益を取り戻すためにも参戦は必要だった。さらには、米軍主体の国連軍が中国国境にまで迫ってきており、中国領内にまで戦線が拡大する虞があった。そうした諸事情があったこそ、「援朝抗美戦争」(中国語で朝鮮戦争のこと)になったのであり、毛沢東個人の野望に参戦理由の重点を置いた『マオ』での扱いに対し、小生は賛成できない。なぜならば、参戦した主な理由を中国は東西冷戦に巻き込まれたために、朝鮮戦争に参戦せざるを得なかったと見るからである。
中国経済史に関心のある小生にとり、「第31章 共産中国ただひとりの百万長者」の中にある土地改革をめぐる記述(上巻、547頁)にも驚いた。これまでは、結果として、土地改革に関しては、国民党は不徹底なために失敗し、共産党は徹底したので成功したという真剣な議論を聞いてきた。例えば、長岡新吉・西川博史編著『日本経済と東アジア −戦時と戦後の経済史ー』(ミネルヴァ書房、1995年)はそれぞれの土地改革に関し、要領を得た説明がなされている。それが共産党の土地改革が宣伝から来る美名であり、実際は農民から土地を収奪するのみの行いであり、しかも、凄惨なリンチ殺人込みの地獄絵図であったのには心底驚かされた。ところで、丁抒(てい じょ)(ディン・シュー)著、森幹夫訳『人禍』(学陽書房、1991年)には、山西省において興味深い次のような事実が紹介されている。
「初級合作社が成立したとき、農民たちはあれこれためらったが、結局、協同化にもある程度の利点があるはずだと信じた。ましてや土地や農具はまだ自分の名義のままで、そこからも配当を受けられるし、そのうえ共産党はいつでも自由に退社する権利を保証していたので、最終的には加入を申し出たのである。ところが、わずか一、二年後に、地区によっては数ヶ月も経たないうちに、上級から高級合作社を組織せよ、と指示された。そこで農民たちは、遅ればせながら、為政者の約束はあてにならないことに気づいたのである。
彼らには高級合作社に参加しない権利が認められなかったばかりか、初級合作社を脱退する自由さえも失ったのである。衆人環視の中で脅したり、大会で名指ししたり、三日三晩眠らせなかったりしたのでは、どんなに意志の強固な男でもがんばり通せなくなった。こうして農民たちは屈服し、自分の土地や農具・役畜に対する所有権を放棄して、毛沢東の社会主義を受け入れたのである。」(6)
『人禍』は1958〜1962年の大躍進政策にともなう2000万人もの餓死者を出した悲劇を記した著書である。『マオ』の下巻、「第40章 大躍進ー国民の半数が死のうとも」とも合致している凄惨な記録である。一方、『人禍』の中にある加々美光行氏の解説「人禍の悲劇と現代史の画期としての中国革命の評価」と『マオ』を比較すると興味深い意見の違いがある。
例えば、前者は1970年代に対米接近を晩年の毛沢東が図ったことについて、「毛という人物が、他のいかなる指導者にもまして、国際世界への視野をもちつづけていたことを知ることも、現代中国の理解のためには不可欠である。」(7)と毛沢東を擁護する内容が顕著である。しかし、『マオ』では、「毛沢東主義の宣伝は、インドシナでも世界でも行き詰まった。が、機略縦横の毛沢東は、脚光を浴びるための新しい計画を思いついた。アメリカ合衆国大統領の訪中である。」(下巻、421頁)と冷ややかな評価である。事実を認めつつも、毛沢東を否定しきれないのは、加々美氏のみではなく、中国をはじめとする世界中の多くの人々に言える。小生も同様である。
『マオ』と並んで注目すべき著書に北海閑人(ほっかい かんじん)著、寥建龍(りょう けんりゅう)訳『中国がひた隠す毛沢東の真実』(草思社、2005年)がある。北京在住の中国共産党の古参幹部がその統治手法と毛沢東の実像を紹介している。淡々とした調子(リズム)で記されているが、率直な表現であり、説得力がある。今日の中国共産党の統治手法を批判するのみならず、毛沢東時代を生きてきた人々の声を後世に残そうとする姿勢は、『マオ』と同様である。『マオ』とともに一読の価値がある。
毛沢東の人間像を正視することは、重要である。なぜならば、毛沢東の権威を悪用し、中国人民をはじめ世界の人々を欺き、時として害をなす虞があるからである。例えば、『マオ』のエピローグには、「今日なお、毛沢東の肖像と遺体は首都北京の中心部にあって、天安門を威圧している。現共産党政権は自らを毛沢東の後継政権と位置づけ、全力で毛沢東神話の不朽化をめざしている。」(下巻、512頁)と、記されている。また、1970年代のカンボジアのポルポト政権や、今日では、ネパールやインドの農村部などで暗躍する「マオイスト」が存在する。彼らは目的遂行のためには、虐殺に至る暴力をも辞さず、それを正当化する論拠として毛沢東像を歪曲し、悪用している。それは毛沢東を冒?することにもつながる。さらに、日本のように負の歴史を直視することを避けることで同じ過去の過ちを繰り返す虞がある。中国においても過去の歴史を直視することは中国のみならず、世界平和のためにも必要である。特に将来、若い世代に正しい歴史を伝える義務がある。
蛇足ながら、小生の毛沢東像に関する浅薄な考察を述べる。実は、井波律子著『破壊の女神』(新書館、1996年)から着想を得た考察である。この著書はサブタイトルの「中国史の女たち」にあるように、中国史上、有名な女性の物語をわかりやすく、興味深く記している。特に、西太后に関して興味を抱いた。
毛沢東は部分的に西太后と重なる要素がある。
1) 経済に関する概念の欠如。前者の大躍進政策時の土法高炉(どほうこうろ)に象徴されるような大規模な浪費と後者の宮中での奢侈(しゃし)による浪費。具体的には、前者は人民から鍋、釜、鍬、鎌といった鉄製の日用品を供出させ、大量のグズ鉄を生産させた。後者は宮廷での衣食住はもちろんのこと、頤和園(いわえん)をはじめとする豪華な庭園の造成、豪華列車での旅などの贅沢である。こうしたことから推察しても、おおよそ当時の人民の生活のことは念頭になかった。
2) 非情な性格。毛沢東については『マオ』で詳細に記されているので割愛する。後者はライバルだった東太后を陥れるために自ら産み落とした嬰児を殺めたり、些細なミスでも死刑にしてしまう態度。しかも、死ぬ間際まで権力に固執した。
3) 本来なら限定される範囲での権力闘争に人民全体を巻き込んだこと。前者は延安、後者は宮中にとどめるべき範疇の争いを、戦争及びその賠償金支払いを引き起こし、その挙句、重税を課したことで、人民を巻き込んだ。もっとも、毛沢東は、ケ小平の言うところの晩年における三割の過ちにあたる大躍進政策や文化大革命があるので、西太后よりもはるかに人民を苦しめた。逆に権力闘争を人民にまで拡大させなかった例として、前漢の時代について述べる。高祖・劉邦の后だった呂氏の専横が宮中にとどまり、当時の人民にはほとんど影響せず、武帝の頃までに経済力を蓄えることができた。宮中での闘争はさながら、「コップの中の争い」のようなものであり、その間、安定した経済成長を遂げることができたので、漢王朝が長い繁栄を誇った要因となった。「安居楽業(あんきょらくぎょう)」の語のように、社会が平和で、暮らしは安定し、人々は生業にいそしめる状況は重要である。
4) 両者とも極力遠方への旅を避けたこと。権力に対する拘泥から来る用心深さに起因するからである。前者はソ連に行ったのみ、後者は義和団事件で列強に北京を追われ、西安に行ったのが一番の遠出だった。瑣末(さまつ)ながら、両者とも側近に英語を学ぼうとして結局、挫折している。前者は林克・凌星光の前掲書で、後者は徳齢(とく れい)著、実藤恵秀(さねとう けいしゅう)訳『西太后秘話 ― その恋と権勢の生涯』(東方書店、1983年)で紹介されている。
前者は世界に対する一定の関心を有していた。そのために、英語のできる国際秘書として林氏が任用された。英語を学習する熱意はあったものの、多忙な合間を縫っての学習だったので落ち着いた学習は不可能であった。実際、発音がうまくいかなかったり、毛沢東自身の希望で文法を重視したことから日本の英語学習者に多く見られる結果に終わった。後者はイギリスのビクトリア女王への関心と当時、幽閉されていた光緒帝が英語の読み書きををマスターしたというので、その賢明な皇帝への対抗心から英語を学習しようとした。しかし、2時間で頭が痛くなり挫折した。以上の証言を残した著者について、触れる。徳齢は外交官の父を持ち、フランスで教育を受けた後、妹の容齢とともに2年近く西太后に仕えた。宮廷の厳しい掟に従いつつも、西太后について様々な角度から分析し、批評している。それでも、暴露本ではなく、客観的かつ冷静な観察眼からなる筆致なので、当時の清朝宮中を知る上で、貴重な資料である。
ちなみに、徳齢著、井関唯史訳『西太后汽車に乗る』(東方書店、1997年)という興味深い著書もある。この著書は、奉天(現在の瀋陽(しんよう)市)への豪華な汽車の旅について紹介されている。それは宮廷を汽車に移したような豪勢な旅であった。今日で言えば、北朝鮮の金正日国防委員長の豪華列車での旅も、いかに豪勢であるのだろうかと想像してしまう。つまり、両者とも海外に関する関心はあったものの、海外に関する知識は実は豊かではなかった。例えば、前者は核兵器を「はりこの虎」と称し、後者は「異を以って、異を征する」とばかりに、義和団を支持し、列強に宣戦布告した点からも実証できる。逆を言えば、中国の事情や中国人の心情については、鋭い洞察力があった。前者は、文学や歴史書から知識を涵養していた。後者は、歴史書や「筆帖式(ひっちょうしき)」の参考書から知識を涵養(かんよう)した。筆帖式とは、「満州旗人(まんしゅうきじん)に限定された一般事務職で、公文書を作成したり満(まん)漢訳(かんやく)をする書記官である。科挙を合格した官僚から見れば、ノンキャリアに相当する。だが、北京の中央官庁で働くため、要路の人物に顔を覚えてもらいやすく、出世が早い。」(8)つまり、両者とも中国人の人情の機微をわきまえていた。
それでも歴史上の評価は、前者は建国の英雄、後者は亡国の女帝と両極端である。
『マオ』の著者の毛沢東像を一言で言えば、「婬逆暴戻(いんぎゃくぼうれい)」の皇帝と言ったところだろう。中国人民から今でも敬愛されている彭徳懐や劉少奇(りゅう しょうき)といった直言極諫(ちょくげんきょっかん)之(の)臣(しん)を「直躬証父(ちょっきゅうしょうふ)」、とばかりに排斥した独裁者としての一面はある。しかし、夏(か)の桀(けつ)や殷(いん)の紂(ちゅう)のような亡国の王ではなく、建国の英雄であったという事実を、幻想だったとは一概には言えない。例えば、悪逆非道さも顕著な秦(しん)の始皇帝が中国史において貢献したことに関し、始皇帝に変わって同様な事業をなしうる可能性のある人物が当時ありえなかったように、毛沢東以外に中華人民共和国を建国し、統治しうる可能性のあった人物を想像するのは難しい。なによりも国民党政府のままで当時の中国人民は幸福であったとは考えられない。
毛沢東の歴史上果たしてた役割の全てを否定するつもりは小生にはない。ドイツの劇作家、ブレヒトの「ガリレイの生涯」の中には「英雄を必要としている国が不幸なのだ」というガリレイのせりふがある。激動の20世紀においては中国も例外なく、英雄は不可欠であった。問題が多々あっても毛沢東に対する一定の敬意は持ちたい。
21世紀になり、中国においても英雄待望論に頼らなくても問題ないくらい、民主主義国として立派に独り立ちできるほどの大国となった。『マオ』の謝辞の中で筆者は「中国本土の方々については、ここでお名前を紹介できないことをほんとうに悲しく思います。こんな状況がいつか変わる日が来ることを望んでいます。」(下巻、514頁)と記している。小生の知る限り、中国人は本来、陽気で議論好きの性格であるという印象が強くある。
中国人が毛沢東時代を中国人同士にとどまらず、世界の人々と自由に議論できるようになるならば、世界史研究における大いなる発展に貢献することになると考える。それが中国におけるよりよい民主主義への歩みとなるからだ。日本人の一人として小生も、中国人が歴史認識に対して、真摯に直視しようとしている態度を見ならいたい。
『マオ』については、学会を揺るがしかねない程の刺激的内容が豊富であった。だが、全体的に大雑把な記述であり、実証の面で容易に首肯できない。今回の大著はインタビューにより、貴重な毛沢東時代の証言を残すためという性格上、やむを得ないし、また、よくまとめられた労作である。しかし、ユン・チャン氏には気になる発言がある。「批判するなら、その論拠を示さなければ、不公平。知らないものは口に合わないのでしょう。」(9)と。そのインタビューを見た時、正直の所、残念に思った。世界には、毛沢東について語りたくても語れない人や別の視点から毛沢東を知っている人はまだ大勢いるはずである。そうした方々との議論を閉ざすことになりはしないかと憂うからである。むしろ、世界に向けて様々な批評に対し、新著なりでより実証的に答えて欲しいと衷心(ちゅうしん)願っている。勿論、『マオ』を批判する以上、その論者は感情論ではなく、実証的に批判することをせねばならない。そうすることで、より毛沢東研究が促進されるからである。毛沢東は語りつくされたのではなく、これから議論されるべきテーマである。今後の研究を注目したい。
http://www3.ocn.ne.jp/~ishotaru/mao.htm
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毛沢東の真実
1) 国家権力の恐怖
平成9年(1997)にフランスで刊行された「共産主義黒書」によると、中国共産党の専制支配による犠牲者は6500万人だそうだ。
これはヒトラー・ナチズムによる犠牲者2,500万人をはるかに上回って、断然人類史上最悪の数字だと言える。ちなみに悪名たかいカンボジアのポルポトによる犠牲者は200万人だから、その30倍をこえている。
毛沢東は、「1949年から54年までの間に80万人を処刑した」と自ら述べているが、周恩来もこれを受けて、1957年6月の全国人民代表大会報告で、1949年以来「反革命」の罪で逮捕された者のうち、16%にあたる83万人を処刑したと公式に報告している。その後、悪名高い大躍進運動や文化大革命が起こって、2000万人以上が死に追いやられ、その間の失政で、2,000万人から4,300万人がさらに餓死しているらしい。
こうした巨悪の体制を、周恩来は毛沢東とともに実質上指揮してきた。毛沢東が死んだ後は、英雄のように祭られているが、常識的に考えてもこれはおかしい。私はつねづね周恩来こそ人類史上まれにみる極悪人だと考えているのだが、いまだ、彼を賛美する人が絶えない。
1947年3月の動員大会で周恩来は、「われわれには毛主席の直接指導があり、必ず勝ち戦さができる。延安を防衛せよ、毛主席を防衛せよ」という有名な演説をした。毛沢東を神格化した元凶は周恩来である。彼が文化大革命に乗り気でなかったという話があるが、彼がこのすさまじい犠牲を看過し、毛沢東の忠実な下僕であり続けたことはまぎれもない事実である。
なおついでに書いておくと、1997年11月6日、モスクワ放送は「10月革命の起きた1917年から旧ソ連時代の87年の間に6,200万人が殺害され、内4,000万が強制収容所で死んだ。レーニンは、社会主義建設のため国内で400万の命を奪い、スターリンは1,260万の命を奪った」と放送したという。北京放送が真実を伝える日はいつのことだろう。
(参考サイト)「虐殺事件の犠牲者数」http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kak2/1209301.htm
2) 毛沢東の真実
最近、毛沢東に関する興味深い一冊の本を読んだ。「毛沢東の私生活」(文春文庫上、下)である。著者は二十数年間に渡って毛沢東の主治医を勤め、彼の臨終を看取った李志綏という人である。
毛沢東の一番近くにいた人物によって、毛沢東と彼を中心とする中国共産の赤裸々な真実がここに描かれている。彼はこの本をアメリカで出版した。おそらく命がけのことだったと思う。北京政府はただちにこの書物を発禁処分にした。しかし、それでことはすまなかった。
「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」という著者の予言がすぐにほんとうのことになった。著者は本書が発売された3カ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見されたからだ。
毛沢東の前でひざまずく忠犬のような周恩来の姿、そして愛人に溺れ、口げんかをして心筋梗塞におそわれる毛沢東の姿。取り次ぎ役を自認じていたその愛人が昼寝をしているため、2時間も待った後ですごすごと帰っていく華国峰首相の姿。そして文化大革命の嵐の中で、自裁に追い込まれていく人たち。
著者はまた、数千万人が餓死している中で、毛沢東の家で催される豪華なパーティを様子を冷静な筆で描く。この本に描かれてあることを真実と認めるのは、毛沢東や周恩来を崇拝する人には、かなりの勇気がいることかもしれない。
資料1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
産經新聞1994年7月18日付
【ワシントン17日=熊坂隆光】中国で毛沢東主席が実権を掌握していた1950年から76年の間に、急進、過激な経済政策の失敗により伝えられるよりはるかに多数の人民が死亡し、文化大革命の犠牲者などを合わせると死者数は8千万人にも及ぶことが明らかになった。17日のワシントン・ポスト紙が報じたもので、毛主席にその責任があると論評している。
同紙は、この数字について中国や西側学者の研究と同紙独自の調査を総合した結果としており、具体例を挙げて数字の正確さに自信を示している。経済政策の失敗や文革の犠牲についてはこれまでも研究や報道があったが、大幅に塗り替えられることになる。
同紙によると、死者の多くは「人災」と断定できる飢きんによる犠牲者。原因のほとんどは大躍進政策を強引に推し進め、西側に追い付こうと農業生産より工業生産を重視した毛主席の誤りとしている。プリンストン大現代中国研究センターの陳一諮氏によると安徽省の飢きん(59−61年)では、4300万人が死亡したという。
中国社会科学院が89年にまとめた581ページに及ぶ調査資料によると、この飢きんでわが子を殺して食べてしまった例や人肉が商品として取引された例などが記録されているという。このため中国政府自身がある程度実態を把握しつつあるのではないかとみられる。
こうした数字が事実とすると、毛主席はスターリンなどを上回る史上まれにみる残酷な指導者ということになるが、同紙は、毛主席が依然として中国で尊敬され評価されていることに疑問を呈している。
資料2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「愚忠をつらぬいた宰相」 http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc5/mz196.htm
このような周恩来讃歌に真向から挑戦して、周恩来のもう一つの顔を描こうとしたのが、香港の政論家金鐘である。
金鐘によれば、周恩来は遵義会議以後、四〇年間一貫して毛沢東に対する「愚忠」を貫いたという。文革においてもし周恩来の存在がなかりせば、毛沢東、林彪、江青の失敗はもっと早く、かつもっと徹底したものとなったであろう。文革における周恩来の役割は結局のところ、毛沢東の独裁的統治に有利であった。
文革期に湖南省省無聯が「中国はどこへ行くのか?」を書いて、周恩来を「中国の赤色資本家階級の総代表」と攻撃したが、まさにその通りであり、周恩来こそ共産主義官僚体制の集大成者であり、この体制の凝固化を助長した人物であった。
周恩来は自己の私欲を抑えることヒューマニズムに反するほど甚だしく、党派性と徳性のほかには自我のなかったような人物であって、まさに現代の大儒にふさわしい。
金鐘はこのように辛辣な周恩来評価を行っている。実は大陸の知識人の間にも、類似の厳しい周恩来評価が存在している。たとえば呉祖光(劇作家、八七年の胡耀邦事件以後、共産党を離党した)は、かつて来日した際にズバリこう述べている。
「周恩来は宰相であり、皇帝の地位にはいなかったが、宰相としての職責を果していなかった。皇帝(毛沢東を指す)が過ちを犯した場合、宰相(周恩来)が諌めるべきだが、そうしなかった。しかし、諫言していれば、彭徳懐(元国防部長)と同じ運命をたどったであろう」。
奇妙なことに、毛沢東批判に関するかぎり、中国大陸でもかなり深い分析が行われるようになってきたが、周恩来についてはまだ厳しい批判が少なくとも活字には登場していないようである。その理由として考えられるのは、次の事情であろう。
まず第一に、社会主義建設期の二つの大きな誤り(大躍進政策と文化大革命)は毛沢東の提唱したものであるから、この点で毛沢東はいわば「主犯」である。周恩来は「従犯」にすぎない(むろん、ここで周恩来が協力したからこそ、矛盾の爆発、顕在化が遅れたとして、周恩来の役割を強調する、省無聯や金鐘のような見方もある)。
第二に、ソ連では長らく、レーニンの権威に依拠して、スターリンの誤りを批判する時期がつづいた。レーニンを含めてソ連社会主義を、全体として批判的に総括する動きが出てきたのは、ゴルバチョフのペレストロイカ以後のことである。
中国では革命と建設双方の当事者だという意味で、毛沢東はレーニンとスターリンの役割をかねていた。そこで中国ではレーニンの役割をはたした毛沢東を評価しつつ、スターリンの役割をはたした毛沢東を批判するという使いわけがおこなわれてきたのである。肝心の毛沢東評価でさえ、このように曖昧さを残したものである以上、矛先が周恩来まで届かないのも当然であった。
それだけではない。長きにわたって神格化された毛沢東を批判することに伴う心理的動揺を、周恩来の存在によって補償しようとする心理状況が、広範に存在していたことも否めない。この場合、過ちを犯した厳父と対照して、周恩来は慈母のごとくである。周恩来に関してはとくに「棺を蓋うて論定まる」段階にはまだ到っていないことがわかる。
3) 愚忠をつらぬいた周恩来
1953年にスターリンが死んだ後、その後継者となったフルシチョフは1956年2月のソ連共産党第20回大会で、スターリン支配下の個人崇拝と不法な抑圧や処刑を批判した。いわゆる有名な「スターリン批判」の始まりである。
毛沢東はこれに驚いた。なぜなら、彼こそ中国のスターリンであり、スターリン批判は、そのまま毛沢東個人崇拝への痛烈な批判になりかねないからである。事実56年9月の八全大会は、基本的にソ連共産党第20回大会の新政策を是認し、党規約からは「毛沢東思想」という言葉が消えた。これを主導したのは、党内序列のNo2とNo3を占めていた劉少奇とケ小平である。
焦りを覚えた毛沢東は先手を打って、人々から自由な意見を求めるとした百家争鳴・百花斉放運動を始める。ところがこれが裏目に出た。中国共産党や毛沢東に対する批判がさらに吹きだしてきたからである。これに不安を覚えた毛沢東は、態度を一転して、彼を批判する者はプロレタリア革命に対する敵対者だとして、「反動者」のレッテルを張り、弾圧した。これが有名な「反右派闘争」と言われるものである。
さらに1958年、毛沢東はソ連やアメリカに対抗するため、中国の国力の「大躍進」を掲げて、急激な工業化・農業の集団化など無理な政策を推し進めた。その結果、食糧生産力が破局的に低下、中国全土に大飢饉が発生。この飢饉による死者は何千万と言われ、日中戦争(約2000万)を数倍する被害を出した。
これにはさすが身内からも多くの批判が起こった。1959年4月、毛沢東は国家主席および国防委員会主席を退き、党務に専念することとなった。フルシチョフのスターリン批判から3年を経て、中国共産党も毛沢東の個人崇拝からおもむろに劉少奇、ケ小平、周恩来を中心とする「集団指導体制」へと、政治機構の近代化を遂げるかに見えた。
ところが、毛沢東はこの変化をよく思っていなかった。59年から62年にかけては新国家主席劉少奇を中心に、経済復興がはかられ、ようやく安定化へ向かいかけており、劉少奇の現実路線を支持する人々は、ケ小平をはじめ、党中央、政府機関のなかでも圧倒的多数をしめていた。これが毛沢東の孤立感をさらに深めた。
そこでこれに対抗するために、毛沢東は65年10月北京を脱出し、上海において「プロレタリア文化大革命」を発動した。劉少奇路線のなかにソ連におけるような党官僚主義、専門家尊重、経済主義的偏向があるというのである。その後、中国がどんな悲惨なことになったか、映画や小説にも描かれているので説明するまでもないだろう。
こうした中国の現代史を振り返ってみて、そこにうき彫りにされるのは、毛沢東の権力志向のすさまじさである。彼の後継者と目された劉少奇、ケ小平、林彪など、No2はいずれも粛正された。ひとり、周恩来だけが、その荒波をくぐり、何とか晩節を全うすることができたが、その秘訣はといえば、ただ毛沢東を決して批判せず、その忠実な下僕となって、彼をひたすら崇拝し、神格化することによってであった。
周恩来なかりせば、毛沢東の偉業はなかった。と同時に、度を外れた毛沢東の悪行の数々もなかっただろう。私は周恩来をあえて、「人類史上まれにみる極悪人」と呼んだ。なぜ、私が周恩来を毛沢東以上に巨悪だと考えるか、以上に述べたことから、その一端を理解してもらえたらありがたい。
周恩来はなぜこれほどまでに毛沢東に忠愚を貫き通したのであろうか。ここに一つの大きな謎がある。周恩来を擁護する人々は、毛沢東に対する個人崇拝が破られれば、中国は内戦状態に陥っただろうという。しかし、私はそうは考えない。
フルシチョフによる「スターリン批判」があったあと、中国は「毛沢東個人崇拝」を脱却する方向に一時動きだした。これは時代の要請であり、これによって中国はスムーズに国の近代化や民主化をはかることができた筈である。そうすれば、中国の現代史ははるかに明るく、美しいものになっていたし、毛沢東自身も歴史上の偉人として、私たちの胸にいつまでも輝き続けに違いないのである。
その、歴史上のターニング・ポイントを握る人物こそ周恩来その人であった。毛沢東の手足となり、毛沢東の命令を忠実に実行することで、彼は毛沢東と常に一心同体だった。そして国政上の実権を握っていた彼のこうした暗愚が、中国を恐るべき恐怖と貧窮の王国と化したのである。その後遺症は、今も中国大陸に住む十数億の人々の上を覆っている。
4) クーデタ計画の謎(1)
何事もそうだが、歴史も少し視点を変えてみると、また思いがけない真実が浮かび上がってくるものだ。これまで現代中国の政治を論じたほとんどの書物は、毛沢東は問題があったが、周恩来は立派だったという「周恩来善玉説」である。しかし、この通説に私は疑問を呈してきた。今日はこうした立場から、林彪によるクーデター未遂事件を取りあげてみたいと思う。
文化大革命のなかで、一人の人物がのしあがってきた。林彪(1907年〜1971年)である。彼は1969年4月の第九回党大会で毛沢東の後継者としての地位を手に入れ。毛沢東の親密な戦友と讃えられた。ところがその2年後、71年9月に毛沢東暗殺に失敗し、飛行機で逃亡中にモンゴル領内で墜死した。この事件の背後に何があったのか。
毛沢東のすすめた「大躍進」をもっとも痛烈に批判したのは、当時国防部長の要職にあった彭徳懐だった。1959年の夏廬山会議で毛沢東は周恩来と謀って彭徳懐を失脚させ、のちに惨殺させた。そして、その後釜に林彪を据えた。林彪は革命活動の初期から毛沢東のもとで働いており、毛沢東にとっては安心できる腹心だった。
こうして軍事委員会を牛耳るようになった彼は、毛沢東個人崇拝をおしすすめ、毛沢東の庇護のもとに異分子を排除し、軍部を自分の息のかかった部下で固め、実力をつけていった。大躍進路線の失敗が追求された1962年の七千人大会では、「この数年の誤りと困難は毛主席の誤りではなく、逆に多くの事柄を毛主席の指示通りに行わなかったことによってもたらされたものである」と最大限毛沢東を擁護し、周恩来とともに毛沢東を窮地から救った。
1966年5月、政治局拡大会議の席上、林彪は反革命のクーデター計画があると発言し、その首謀者として、彭真(北京市長)、羅瑞卿(総参謀長、副総理、中央書記処書記、国防部副部長)、陸定一(中央宣伝部部長)、楊尚昆(機密、情報、連絡担当、中央弁公庁主任)らの名前を挙げた。
この頃林彪は紅青(毛沢東夫人)など四人組と組んで文革路線を押し進めようとしていた。そのため、その障害になる反文革派のこの4人をまず粛正する必要があった。とくに彼の部下でありながら文革に批判的な羅瑞卿の粛正は、彼が副総理として軍部の実権を握っていただけに絶対に必要なことだった。
さすがに毛沢東もこの主要な実務4部門の責任者を粛正することには反対だったが、彼らを摘発することが修正主義者による奪権を防ぐことになると力説する林彪にしぶしぶ同意を与えた。羅瑞卿は逮捕された後飛び下り自殺を図り、重傷を負った。毛沢東は生まれて初めて意に反して、他人の意見に同意したと、江青に宛てた手紙(1966年7月8日)に書いている。(林彪失脚後、羅瑞卿の名誉は回復された)
5) クーデタ計画の謎(2)
羅瑞卿の粛清は林彪を勢いづかせた。軍内の掌握を完全にしただけではなく、他の指導者たちにも恐怖心を与えることができた。羅瑞卿が勢力を持っていた公安部の副部長、司局長、省市レベルの公安局長も連座し、その職はことごとく林彪の一派で占められていく。
林彪はクーデター計画をねつ造して、その他の有力者も一掃した。そうすると、あと残るのはただひとつである。いうまでもなく、劉少奇国家主席を失脚させることだ。しかし、これはもう時間の問題だった。林彪によって実権派の有力者4名が粛正された時点で、勝負はついていた。手足をもがれた劉少奇に、いかほどの権力も残っていなかった。
1966年7月29日人民大会堂で文化大革命積極分子による一万人大会が開かれ、劉少奇はこの大会でこう述べた。「文化大革命をどうやるのか、君たちが知らないならば、われわれに聞きに来給え。私は正直に言うが、実は私も知らないのだ」
劉少奇国家主席として毛沢東につぐNo2の位置にあったが、決して野心家ではなかった。毛沢東を尊敬することでは他にひけをとらなかった。だから、文化大革命についても、その理想を額面通り受け止めていた。彼が文化大革命が実は毛沢東個人崇拝を復活させ、自分たちを失脚させるための権力闘争だと気付いたとき、彼はすでに完全に武装解除されて包囲されていた。
1966年8月、八期一一中全会が開かれた。毛沢東は「司令部を砲撃しよう──私の大字報」を書いて会議場に掲示させた。砲撃されるべき司令部が劉少奇であることはいうまでもなかった。劉少奇はナンバー2の地位からナンバー8に落ちた。実権派と認定され、実質的にポストを外された。
劉少奇に代わって、No2に昇格したのは、No6の林彪だった。彼には党副主席の肩書きが与えられた。一気に、朱徳、周恩来、陳雲を飛び越えて、59歳の林彪がこの栄誉を手にすることになった。その背景に、彼の熱烈な毛沢東崇拝と、軍事力があった。しかし、かれの毛沢東崇拝がまっかな偽りであったことがやがてあきらかになる。
No2に昇格したとはいえ、彼の権力基盤はまだ盤石とはいえなかった。軍隊の内部にも実務派を支持する勢力はあった。地方の軍司令官もまだ多くはゆれていた。その象徴は1967年5月13日の武闘と7月20日の武漢事件であろう。いずれも実権派と造反派の武力衝突だが、なかでも武漢事件では毛沢東が実権派の軍隊に軟禁されるという不祥事が発生し、周恩来の説得で毛沢東はようやく解放されてことなきを得た。この数年間の中国は、たしかに内乱状態一歩手前といってよかった。
しかし、こうした小刻みな闘争を経て、林彪は確実に勢力を拡大していった。そして、1969年4月の第九回党大会で、彼は生涯の絶頂期を迎える。林彪は軍内を基本的に掌握し、党のレベルでは唯一の副主席として、腹心を政治局と中央委員会に多数配置できた。軍隊だけでなく、党、政府、地方レベルでも、林彪グループに鞍替えするものが続出した。党大会で採択された党規約のなかに毛沢東の後継者として林彪の名前がはっきりと書き込まれた。
八期の中央委員195人のうち、九期中央委員として留任したのは53人にすぎず、わずか27%である。陳雲、陳毅、李富春、徐向前、聶栄臻らは政治局を追われ、劉少奇、Deng Xiaoping 、彭真、彭徳懐、賀竜、ウランフ、張聞天、陸定一、薄一波、譚震林、李井泉、陶鋳、宋仁窮らは大会にさえ出席できなかった。(このとき選ばれた21名の政治局委員のうち、半数以上の12名がのちに林彪、江青グループとして処分された)
第九回党大会でかっての国家主席劉少奇は正式に党を除名された。党内で幹部の審査工作を行ってきた江青グループの康生が、劉少奇が活動中に当局に逮捕されたあと釈放された経歴があることに注目し、これをもとに彼を当局のスパイにデッチ上げた。中央委員会がこれを認め、1969年年11月12日劉少奇は裏切り者の汚辱を着せられたまま惨死した。
これによって、実権派はすっかりなりをひそめた。しかし、実権派が後退した後、林彪の前に、江青グループというあらたな敵が立ちはだかった。そして、このあと彼と彼のグループはアッという間に、権力闘争の罠に落ちて、奈落の底へ転落していくのである。
6) クーデタ計画の謎(3)
1969年末の段階で、林彪グループは軍隊を直接掌握するほかに、中央と国務院の一部部門、一部の省レベル権力を掌握した。これに対して、江青グループは政治局に張春橋、姚文元、汪東興(毛沢東のボデイ・ガード、のち党副主席)を送り込んだものの、国務院や軍内にはいかなるポストも持っていなかった。
しかし、江青はすぐに巻き返しに入った。きっかけは林彪が憲法のなかに、「毛沢東が天才的に、創造的に、全面的に、マルクス主義を発展させた」とする記述を書き込もうとしたことだった。これを「毛沢東を天才としてもち上げることによって、その後継者としての林彪自身の地位をもち上げる作戦」と考えた江青は、この改正に断固反対した。
1970年8月23日の二中全会の冒頭で、林彪は予定どうり毛沢東天才論をぶち、翌日の分科会では、陳伯達、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作がそれぞれれ天才論を支持するとともに、これに反対する江青グループを攻撃した。さらに林彪を国家主席にすることが決議された。
これに対抗して25日、江青は張春橋、姚文元を率いて毛沢東に会い、これが林彪が権力を独占するための野心と陰謀だと訴えた。林彪一派の勢力拡大に脅威を感じていた毛沢東は、すぐに政治局常務委員会拡大会議を召集し、二中全会の休会を提起した。その一方で周恩来と協力して、林彪グループの追い落としに着手した。
31日、毛沢東は「私のわずかな意見」を書いて、陳伯達を名指し批判した。これをうけて、再会された会議で、陳伯達が批判され、さらに呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作の誤りも批判された。こうして9月6日二中全会が閉幕したとき、わずか10日間で情勢は劇的に変わっていた。
合法的、平和的に毛沢東から権力を奪取することに失敗した林彪は、このあと軍部によるクーデタを画策するようになる。一方毛沢東も林彪一派に対する警戒を深め、彼らを名指しで批判するようになる。
翌1971年9月5日、林彪、葉群は毛沢東が彼らの陰謀を察知したことに気づき、毛沢東謀殺を決定した。9月8日、毛沢東は南方巡視中に林彪一派の異様な行動を報告され、旅行中に謀殺される危険があることに気付いた。そこで専用列車を急遽紹興まで運行させ、そこに停止させた。こうして謀殺計画をはぐらかして、12日には北京に無事戻った。
12日に謀殺計画の失敗に気付いた林彪は、翌日広州に飛ぶべく12日夜256専用機を秘密裡に山海関空港に移させた。北戴河で静養していた林彪、葉群、林立果と合流して、翌13日、広州へ飛ぶ予定だった。そこで体勢を立て直して、反撃しようと考えたようだ。
ところが、その夜10時過ぎに、他でもない林彪の娘林立衡が、この逃亡計画を周恩来に密告してきた。周恩来は空港を管理する部隊に256号機の離陸をさしとめるように指示するとともに、毛沢東にこのことを知らせた。
異変に気付いた林彪は予定を早めて、その夜零時ごろ、空港へ向かった。そして、前に立ちはだかる武装部隊の制止をふりきって、256号機を飛び立たせた。飛び立った飛行機は一旦北京に向かったが、すぐに進路を変えて西北をめざした。そして1時55分、256専用機はモンゴル共和国内に進入し、やがてそこに墜落した。
確認されたのは9つの遺体で、林彪、葉群、林立果、劉沛豊、パイロット潘景寅、そして林彪の自動車運転手、専用機の整備要員3名。副パイロット、ナビゲーター、通信士は搭乗していなかった。燃料切れの情況のもとで、平地に着陸しようとして失敗し、爆発したものと推定されるという。
7) クーデタ計画の謎(4)
林彪とその一派は、権力掌握を寸前にして、あえなく費え去った。林彪の権力争奪の企みは紅青グループ、周恩来らの抵抗によって失敗したが、彼らはこれをどのように位置づけていたのか。彼らが残したクーデタ計画書「五七一工程紀要」から一部を引用しておこう。
「毛沢東は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行うものであり、マルクス・レーニン主義の衣を借りて、秦の始皇帝の法を行う、中国史上最大の封建的暴君である。・・・彼らの社会主義とは、実質的には社会フアシズムである。彼らは中国の国家機構を一種の、相互殺戮、相互軋轢の肉挽き機に変え、党と国家の政治生活を封建体制の独裁的家父長制生活に変えてしまった」
この文章を読むと、林彪が毛沢東の暴政をかなり正しく認識していたことがわかる。しかし、わずか1年前に林彪は毛沢東を天才的なマルクス主義者だと讃えていた。毛沢東をもっとも極端に神格化し、個人崇拝をあおっていた元凶が林彪である。それもこれも、ただ自分が権力を握るための企みであったことがよくわかる。クーデターを警戒せよと主張した彼自身が、最後はクーデターを敢行し、毛沢東を抹殺しようとした。
林彪は毛沢東を賛美し、文化大革命を押し進め、修正主義者のレッテルのもと多くの党員幹部を粛正した。そして中国を恐怖と不安のうずまく恐るべき密告社会にした。しかし、最後、彼の野心を砕いたのは、皮肉にも彼の娘による密告だった。林彪は自らが仕掛けた罠に、自ら落ちて自滅した。
さて、最後に周恩来について書かねばならない。林彪事件ではっきりわかることが一つある。それは、毛沢東が最後に頼るのはやはり周恩来だということだ。このことを知っていて、周恩来はつねに気前よく、自分の上位に人を置く。
彼は毛沢東という皇帝に宰相として使えた。毛沢東あっての周恩来であり、周恩来あっての毛沢東である。しかし中国共産党の歴史を見てわかるのは、周恩来は党内序列がNo2であったことはほとんどなく、彼と毛沢東の間には、必ず人がいるのである。そして、その人物は結局毛沢東によって粛正されるということだ。
このことを周恩来は知っていたのではないかと思う。彼はNo1はおろか、No2でさえ目差さなかった。人はこれを周恩来の謙虚さや野心のなさのせいにするが、私の見方はすこし違っている。毛沢東王朝にあって、一番危険なのはNo2であり、毛沢東の後継者と目されることだとわかっていたためだろう。
林彪が粛正された後、いやがうえにも、彼はNo2の位置に立たされた。もはや他に、適当な人材がいなかったからだ。周恩来の前には、秦の始皇帝や随の煬帝を中国の偉大な皇帝だったと讃えて憚らない無慈悲な皇帝毛沢東が聳え、後ろには、さらに恐ろしい陰謀家の江青がいた。
周恩来は苦境に陥り、健康を急速に悪化させる。彼があとすこし生き延びていたら、劉少奇と同じ運命をたどっていなかったと、だれが断言できようか。しかし、それもこれも彼自身の身から出た錆ではないだろうか。周恩来は1976年1月8日になくなった。周恩来は結腸、膀胱、肺を癌に冒されていたという。
しかし、癌に冒されていたのは、中国という国家そのものがそうだった。江青グループも元凶のひとつだが、最大の癌は、いうまでもなく毛沢東その人だった。そして癌をのさばらせた元凶は周恩来その人だった。彼の死後、意外な新人が首相の地位につく。華国峰である。1976年9月9日、毛沢東が死ぬと、彼は早速先手を打って江青グループを逮捕する。こうしてようやく、中国は再生へとその第一歩を踏み出すのである。
(少し長い文章を4回に分けて連載した。推敲をしなかったので、生硬な文章になってしまったが、読んで下さった方々には感謝します。この文章を書くに当たって、横浜市立大学教授の矢吹晋さんのHP、「矢吹チャイナ・ウオッチ研究室」http://www2.big.or.jp/~yabuki/が大いに参考になった)
8) 毛沢東の素顔
毛沢東について書かれた本はあまたあるが、私が読んで一番面白く、また真実らしく感じたのは、毛沢東の主治医で後にアメリカに亡命した李志綏(リ・チスイ)の書いた「毛沢東の私生活 上下」(文春文庫)である。
文化大革命や江青など四人組の活動、周恩来をはじめ共産党幹部たちのすさまじい権力闘争が生々しく描かれ、そしてなによりも毛沢東その人についての科学者らしい犀利な観察が行き届いている。毛沢東に主治医として22年間仕え、常にその身近にいて彼の言動や性癖を知り、臨終を看取った人の文章だけに迫力がある。
<毛沢東に友がなく、通常の人間的接触から孤絶していたというのは事実である。江青とともにすごす時間はきわめて少なく、子供たちにいたってはほとんど顔をあわせなかった。私にいえるかぎりでは、最初の面談で親しみが忘れがたいにもかかわらず、毛沢東には人間的な感情が欠落しており、したがって愛することも、友情をいだき、思いやりをいだくこともできないのであった。
いちど上海で私は主席のとなりにすわり、雑技を見物していたところ、まだ年端もいかない曲芸師が突然足をすべらせて重症を負った。観衆は息をのんで悲劇に立ちすくみ、子供の母親はいくら慰めてもたりなかった。ところが、毛沢東はまるで何事もなかったかのように気遣いさえ見せずに談笑つづけた。いや、私の知るかぎり、幼い曲芸師の運命について問い合わせることさえしなかった。
私はしまいまで毛沢東の冷血漢ぶりが理解できなかった。多分あまりもの多くの死を見てきたために、人間の苦悩に無感覚になってしまったのではないだろうか。最初の妻・楊開慧は国民党政府に逮捕・銃殺されたが、ふたりの弟・毛沢民、毛沢蕈もそうであった。楊開慧とのあいだにもうけた長男の毛岸英は朝鮮戦争で戦死している。ほかの何人かの子供たちは1934,5年頃の長征中に行方不明になり、ついにその所在は発見されなかった。
しかし、毛が子供たちを失しなったことで情のある言葉を口にしたのを私はいちども耳にしていない。多くの人たちが死んでいったなかを自分だけが生きながらえてきたという事実は、自分だけは間違いなく長生きするという毛の確信をまるで確認したにすぎないかのように思われるほどだ。死者については「革命のために人命は犠牲にされなければならない」ただそう言ってのけるだけだった>
1954年10月、インドのネール首相と会談したとき、毛沢東は「帝国主義者との戦いで勝利をおさめるためならば、原子爆弾で数百万の人民を失ってもかまわない」と述べたという。「1千万か2千万の人間が死んだところで恐れるに足りない」という毛の言葉に、ネールは衝撃を受けたという。
1957年11月、毛沢東が政府代表団を率いて訪ソしたおりにはさらにエスカレートして、「自分は3億の人民を失なうことも辞さない」と演説した。当時中国の人口は6億人だったので、これは国民の半分にあたる。これが単なる政治的プロパガンダでなかったことを、李志綏はやがてつぶさに知ることになる。明日、この続きを書いてみよう。
9) 毛沢東の愛読書
大学生の頃、私は一時日本共産党の党員だったが、組織の指導的立場にいるAさんの家を訪れたとき、彼の書架にマルクス・レーニン全集と並んで山岡荘八の「徳川家康」があったのに驚いた。聞いてみると、それが彼の愛読書だということだった。
私が学生時代に感じたのと同様の違和感を、李志綏(リ・チスイ)もまた毛沢東の愛読書が歴代王朝の歴史を紀伝体でしるした「二十四史」だと知って感じている。驚くべきことに、毛沢東がもっとも賛嘆を惜しまなかったのは、悪名高い殷王朝の皇帝紂王(ちゅうおう)だったという。
<毛の歴史観は大多数の中国人とはなはだしく異なるものであった。彼の政治観には道徳など入りこむ余地はなかった。その毛沢東が中国の歴代皇帝におのれを擬すばかりか、最高の敬意を史上最悪の無慈悲残忍な暴君のためにとっておいたことを知って、私は非常な衝撃を受けた。目的を達するためならば、どんな冷酷かつ専制的な方法も辞さない気だった>「毛沢東の私生活」
毛沢東の最大のお気に入りのもう一人の皇帝は、秦の始皇帝だった。ほかには則天武后や随の煬帝、西欧ではナポレオンが毛沢東のお気に入りだったという。いずれも多くの民衆に無慈悲な死をもたらした絶対権力者たちである。李志綏は著書の中で、次のように書いている。
<中国古代の宮廷における権謀術数は、マルクス・レーニン主義よりもはるかに強い影響を彼の思想におよぼしたのではないかと私は信じて疑わない。たしかに毛沢東は革命家であった。中国を作り替えてふたたび富国強兵の国家にするのが目的だった。ところが、どうやって統治すべきかの教えを、つまり最高指導部にはびこる謀議をどう操作したらよいかというガイダンスを過去に求めたわけである>
こうした思想を持つ毛沢東だからこそ、「自分は3億の人民を失うことも辞さない」と演説することができたのだろう。じっさい、毛沢東が権力を握っていた時代、「反革命分子」として処刑されたのが、87万3000人余になることが中国共産党の公式記録路して残っている。
<後年の大躍進になってはじめて、つまり数百万の同胞が餓死しはじめたときになって、毛沢東が日ごろ賛嘆した無慈悲な皇帝たちにご当人がいかに酷似してきたかを、私はやっと思い知らされることになるのだ。主席は人民が数百万も餓死しつつあるのを知っていた。毛はそんなことを少しも意に介さなかったのである>
<文化大革命の絶頂期、天安門広場が熱狂的な大群衆であふれ、市街が混乱をきわめていたときでさえ、毛沢東は皇帝ばりの生活をむさぼりつづけ、大会堂のなかでも中南海の城壁の内側でも、女たちを相手に楽しんでいたのである>
このように主治医としていつも身近に仕えていた李志綏は書いている。なお、もう少し統計を補足しておこう。「大躍進」での餓死者は2215万人、「文化大革命」では13万5000人が処刑、172万人が異常な死を遂げたという。
異常な死を遂げた中には、国家主席であった劉少奇その人までが含まれている。明日の日記で、劉少奇が紅衛兵たちにどのようなひどい待遇を受け、なぶり者にされたか報告しよう。現場を目撃した李志綏の文章を読むと、その非道さが実感される。
10) 哀れな劉少奇
毛沢東が江青と住んでいたのは、中南海といわれる地域である。そこは中海、南海というふたつの湖がある風光明媚な地で、紫禁城を取り巻く同じ朱色の城壁に囲まれた、非公開・機密の別天地である。毛沢東の主治医で中南海診療所の所長だった李志綏(リ・チスイ)もこの地に住居をあてがわれていた。
中南海には朱徳、劉少奇、周恩来、彭徳懐、ケ小平などの要人達も住んでいた。周恩来が首相を務める内閣(国務院)もここにあった。外部からこの地域に入るには厳重に警備されたゲートを通らなければならない。また、域内の通行も制限され、許可証がなければならなかった。党中央警衛団の警備兵が各ゲートの検問当たり、治安に目を光らせていた。こうした中で、李志綏は毛沢東だけでなく、他の要人達や、その家族の健康についても責任のある立場にいた。
林彪と江青が造反派を率いていた文化大革命の最中、中国は大混乱に陥った。党も政府機関も麻痺状態に陥った。中南海の秩序も万全ではなくなった。こうしたごたごたのなかで、毛沢東は中南海を留守にし、地方へ行く機会も多くなった。中南海の警備の責任者である警衛団長の汪東興も毛に随行して、中南海を離れることが多かった。そうすると中南海で江青一派の横暴を止めることが出来る者はだれもいなくなった。
1967年7月13日、毛沢東は武漢へ旅だった。主治医の李志綏はこの旅の随行から何故か外された。こんなことははじめてだった。たぶんそれは江青が毛沢東にすすめたからに違いなかった。
以前から李志綏は江青とそりが合わず、彼女に疎まれていた。警備隊長の汪東興は主席が首都をあければ、江青が指揮権を握り、李志綏はその一派によって拉致されるかもしれないと心配して、「ごたごたに巻き込まれたら、すぐ武漢のわれわれのところに飛んでこい」と忠告した。以下、どのようなことが起こったか、李志綏の文章を引用しよう。
<私は中南海にとどまったが、おかげで汪東興の案ずる最悪事態を目撃する羽目になってしまった。・・・数百人の学生デモ隊が主席が出発したあと西門の外に集まりだし、府右街を中南海の西方まで埋め尽くして、劉少奇打倒のスローガンを口々に叫ぶ。朱色の城壁には大文字の壁新聞がはられ、主席がかって後継者として宣言した人物を攻撃する。・・・
人民共和国の歴史上、中南海が包囲されたことはなかった。汪東興の中央警護団が党幹部の居住区を警備する任にあたっており、デモ隊がふえつづけるのをしり目に警備兵は無表情で立哨する。汪東興がどんな思惑をいだいていようと、この時点ではさしたる重みはなかった。第一、汪は主席と武漢におもむいていたからである。
7月18日、状況は険悪になった。執務室で新聞を読んでいたら警護官がとびこんできて、劉少奇が国務院小講堂の外で「批判闘争」にかけられているという。私はすぐさま現場にかけていった。
人垣ができていた。ほとんどが党中央書記局の下級幹部である。党中央警護団の将校や兵士も見守っていた。劉少奇に少しでも救いの手をさしのべようとする者はいなかった。劉少奇と夫人の王光美は群衆の真ん中に立たされ、書記処のスタッフにこづかれたり、蹴られたりなぐられたりしていた。国家主席のシャツはひきさかれて肌がはだけ、ボタンがいくつかもぎとられている。人々は彼の頭髪をつかんで引きずり回した。
よく見ようとちかづいたとき、劉少奇はつかまれた両の腕を背中にねじあげられ、腰から前かがみの「ジェット式」として知られる姿勢をとらされた。しまいに上半身をたおし、顔が地面にふれそうなところまでぐいぐいおしつけて蹴る、平手でなぐりつける。それでもなお、警護団の警備兵達は介入しようともしない。私はみるにしのびなくなった。劉少奇はすでに70に近く、しかもわれわれの国家主席ではないか。
私は批判闘争の場を立ち去り、まっさきにケ小平・卓琳夫妻の住まいに向かい、ついで陶鋳・曽志夫妻を訪ねた。両夫妻とも批判闘争にかけられていたが、劉少奇の場合ほどすさまじくはなかった。両夫妻は群衆におされ、こづかれ、やじをあびせられていたが、蹴られたりなぐられたりはなかった>
李志綏は党中央警衛団の副団長にこの事態はどういうことかたずねたが、彼はこの事態を予測して昨日のうちに武漢に電話を入れたのだという。しかし団長の汪東興からはその後連絡はなかったという。じつは汪東興じしん、我が身の保身で手一杯だったのである。江青一派の狼藉に毛沢東は暗黙の了解を与えていた。というより、この事件の影の主役が毛沢東自身であることを、汪東興はよく知っていたからだ。
11) 毛沢東の復讐
フルシチョフのスターリン批判は中国共産党をもゆさぶった。その直後、1956年9月に召集された第8会党大会で、集団主義指導体制、個人崇拝の禁止などが確認され、中国はようやく近代国家としての歩みを始めるかに見えた。
そして、この新しい中国を主導する星は、この大会で国家主席に選ばれた劉少奇と、党総書記に選ばれたケ小平であった。この二人を両輪として、中国は近代化の道を歩もうとしていた。しかし、これをよく思っていなかったのが毛沢東だった。
<フルシチョフ演説にならった集団指導体制の賛美は、とりわけおだやかならざるものがあった。もし党が集団指導体制の原則に固執すれば、全党員は対等の関係になり、重要問題はすべて合議制で決定しなければならなくなる。そうなると、いきおい毛沢東の役割は縮小されていく。が、当の毛はあくまで最高指導者としてのポストにとどまりたかった。そのためには個人崇拝がどうしても不可欠だった>(李志綏「毛沢東の私生活」より。以下同じ)
この決定に侮辱を感じた毛沢東は、これに反撃すべく行動を開始する。その手始めに考えたのが、「百花斉放・百家争鳴」運動だった。これは知識人を使って党を自由に批判させ、劉少奇とケ小平が指導する党指導部を解体しようという作戦である。
多くの知識人はおそらく自分の意を汲んで、党の指導部を攻撃するにちがいないと毛沢東は読んでいた。ところが結果は思わぬことになった。知識人の攻撃は党の指導部だけではなく、党そのものの存在に向けられ、ついには毛沢東そのものに向けられ始めた。共産党は僧院のようなもので、毛沢東はその僧院長だというのである。知識人を使って政敵を打倒する作戦は完全に裏目に出た。
<毛沢東はむろん衝撃を受けた。批判が自分に向けられるようにした覚えが全然なかったからであった。また機関として党が攻撃されるようにし向けたつもりは毛頭なかった。会う人ごとからお追従をいわれるのになれていたし、真の敵は抹殺されるか投獄してあると確信していただけに、毛は知識人がいだく不満の深さに気付いていなかったのである>
<毛沢東は大変な計算違いをしたのだった。ベッドに伏せたきりふさぎこみ、どうやら行動の自由を失っているうえ風邪もひいていたし、外部の攻撃が激化しつつある最中に私が呼び戻されたのだ。毛沢東は戦略を練り直し、復讐の手だてを思いめぐらしつつあった。毛は憤懣やるかたなかった>
1957年6月8日、人民日報は「これはどうしたことか」という毛沢東の文章を社説に掲げた。知識人に期待することが出来ないと気付いた毛沢東は、自分の作戦を遂行することができるのは、大衆のみだと気付いた。この社説で、ひとにぎりの分子が社会主義政権の転覆を計ろうとしていると非難した。そして、彼等に対する反撃を開始するようにと人民大衆に訴えた。
知識人を使った作戦が失敗に終わったことを知った毛沢東が次に考えたことは、一般大衆を使うことであった。彼等の間に毛沢東にたいする個人崇拝を根付かせ、熱狂を呼び覚ますこと。この作戦はまんまと成功した。それが「文化大革命」だった。
<全土は毛沢東のバッジをつけて「毛沢東語録」をたずさえ、小冊子にある言葉を暗唱した。商店での単純極まりない買い物をするときでさえ毛沢東語録の暗唱を要した。毛の肖像画はいたるところにあった。全土の何千万という人々が肖像画の前で礼拝し、日々の指示を仰ぐことで一日をはじめた。・・・・
毛沢東の「大躍進」政策は人類史上でも最悪の飢餓をもたらした。今日ではその期間中にすくなくとも2千5百万か3千万人、もしくは4千3百万人が死亡したといわれている。さらに毛沢東の「文化大革命」は中国を大混乱におとしいれ、生命も家族も友情も、そして中国社会の骨組みまでも破壊してしまったのである。
国家主席の劉少奇は、毛沢東が第8回党大会の誤りとみなす責任をそっくりおしつけられ、1968年10月に追放されたばかりか、党を除名されたうえ虐待の限りをつくされた。翌年4月の時点で、劉少奇の消息は一切わからなくなっていたし、知ろうにもこわくてだれにも聞けなかった。第9回党大会が終わってからずっとあとに彼が同年の10月、開封に送られて重病になり、治療も受けないまま11月に亡くなったと知った。
<ケ小平もまた追放されたのであった。党の中枢機関である政治局は壊滅状態にあった。各省の党の指導者の大半が職を失っていた。各省の行政はいまや人民解放軍が支配する「革命委員会」の手中にあった。第8回党大会で選出された中央委員は大多数が追放されていた。第9回党大会は毛沢東にとって、13年にわたる取り組みの総仕上げであった>
<私の気分は落ち込んだ。毛沢東がねらった第8回党大会の原則の破棄は達成された。13年間にわたる闘争が成就したのだった。私がもっとも敬愛していた党の代表たちはことごとく追放され、80パーセントの旧中央委員が解任され、新顔は私にとって馴染みのうすい、江青派か林彪派のメンバーであった。そんな支持者が中国のリーダーシップを引きつぐとあっては、私は祖国の前途に絶望した>
こうして毛沢東は勝利した。もはや彼の前にたちふさがる目障りな人間はだれもいなかった。彼は彼を権力から遠ざけようとした大量の有能な人物をこうして完全に粛正したのである。そしてさらには林彪一派が粛正されて、最後に残ったのは、身内の江青であり、彼の従順な召使いでしかない周恩来その人だった。
<人民大会堂の118号室で毛沢東に自分の考えを説明しようとしながら、周恩来は地図を取り出して床にひろげ、絨毯の上に膝をついて毛沢東に自動車行列の進むべき方向をしめした。毛沢東は突っ立って煙草をくゆらせながら、首相が床をはいまわるのを眺めやった。
かりそめにも周恩来ほどの人物、中国の宰相がそんなふうにふるまうのを前にして私は目のやりばに困った。毛沢東は周恩来が面前で這い回る姿を見て、こばかにしたような優越感を覚えているようだった。・・・
毛沢東は周恩来に絶対的な忠誠を求め、もしそれが得られなかったとすれば、周は間違いなく失脚させられていただろう。ところが、周恩来があまりに盲従的かつ忠実そのものであったため、毛沢東は首相を軽くみるところがあったようだ。
周恩来は江青の前でも卑屈なくらいだった。・・・林彪と江青の権力闘争が表面化したとき、周恩来は江青とその一党と運命をともにしたのだった。江青が彼に向けたあらゆる攻撃にもかかわらずである。
周恩来はぬけめのない政治家であり、毛沢東が江青を批判して不仲がすすんでいながらも、彼女はやはり毛沢東にとってもっとも気心の知れた配下だ、ということをほかのだれもまして見抜いていたのである。毛沢東に真の忠誠をつくそうとすれば、江青の側につくことも必要なのであった>
こうして江青の野心と周恩来の服従を利用し、大衆の心を操作することで、毛沢東の野望は成し遂げられた。彼の絶対権力者としての地位は揺るぎないものとなり、個人崇拝はついに完成したのである。しかし、李志綏が書くように、それは何千万という人々を死の淵においやり、人々の友情と家族を崩壊させ、中国社会の骨組みまでも破壊する悲劇とひきかえであった。
12) 不幸な人間の嫉妬心
「文化大革命」で粛正された劉少奇は毛沢東をどう思っていたのだろう。おそらく、その死の間際まで、毛沢東を信頼していたのではないだろうか。そして自分をこの苦境から救ってくれる唯一の救世主として、毛沢東に一縷の望みを託していたのではないか。毛沢東がこの陰謀の張本人だとは思いもしなかっただろう。
李志綏は「毛沢東の私生活」のなかで、1956年7月下旬、主席とともに河北省にある北戴河に保養に行ったときのエピソードを印象深く書いている。
<劉少奇は背が高くて華奢、白髪、こころもち猫背だったけれど、毛沢東が浜辺にいるとよくたずねてくる唯一の党最高幹部だった。たいてい午後三時か四時頃姿をあらわす。控えめで威厳があるうえすこぶる慎重な劉少奇は当時、毛主席の後継者に指名されていた。党内の序列は毛沢東についで第2位、内政問題の日常業務に責任があった。・・・
劉少奇のいちばん新しい妻、王光美はたいてい夫に同行して北戴河にやってきた。党最高幹部の通例にもれず、妻たちは多くが夫よりもはるかに年若かった。王光美は当時、およそ30歳くらい(夫は58歳)、ふさふさとした黒髪に卵形の顔だち、いささかそっ歯の感があった。美人ではなかったが、魅力にあふれて人ずきあいもよく、次期主席夫人としての脚光を楽しんでいた。
王光美は毛沢東の姿を見かけるとかならず主席にあたたかい言葉をかけ、ときには主席と一緒に筏まで泳いでいった。江青は劉夫人への不快感をあえて隠そうともしなかったが、これはあきらかに江青の嫉妬心だと思われた。
王光美は江青よりかなり年下で、はるかに態度がくつろいでおり、社交性もゆたかだった。江青は浜辺でいつも落ち着きがないように見えた。決して泳ぎを習おうとしなかったし、右足指が6本あるのを気にやんでいた。浅瀬を歩きまわる際には両足にかならずゴム靴をはいていた。
劉少奇はなんどかの結婚で子だくさん、その夏は何人かの子供を北戴河につれてきた。前妻・王前とのあいだにもうけた16歳か17歳の娘・劉濤もなかなかに活発で社交的、毛主席にも親しげに近づいた。娘もときたま主席とならんで筏まで泳いでいったり、週二回のダンス・パーティでは主席にしきりに相手をせがんだ。主席のほうも多くの若い娘なみにつけいるような真似は決してしなかった。にもかかわらず、江青は若い娘のあけっぴろげで馴れ馴れしいたちに腹を立てた。
もっとも、江青はしょっちゅう怒りっぽかったし、そのつど私は彼女の立腹ぶりに自分を馴らそうとつとめたのであった。この牧歌的な魅力ある北戴河の地で、私は夢にも考えたことがなかった。十年後に江青のいじましい嫉妬心や不安感が彼女をかりたてて劉少奇一家をことごとく抹殺しようとする邪悪さと復讐心に導いていくことになるとは>
毛沢東と劉少奇はその家庭的幸福という点で好対照をなしていた。陰惨な陰謀家で、不平不満の固まりのような江青、そして若い女にうつつを抜かし、家族を顧みない毛、これに対して劉少奇は快活でユーモアのある妻や娘に恵まれ、彼自身温厚で高潔な人柄だった。この高潔な人柄と家庭的幸福が、毛沢東と江青にどう映っていたか。おそるべきは人間の嫉妬心である。不幸な人間が権力者であるとき、人々がその災いから逃れることは難しい。
13) 犯罪者の心理
動機なき殺人などという言葉もあるが、犯罪を犯すにあたって、何らかの動機はあるのではないだろうか。生活苦、金銭欲、怨恨、英雄願望、退屈しのぎ、憂さ晴らし、自殺願望、嗜虐趣味、社会的不満、性欲に駆られてなどなど、さまざまなものが考えられる。
犯罪そのものが目的である犯罪もある。何かの手段として人を殺すのではなく、人殺しが楽しいので、それ自身の目的のために人を殺すという訳だ。本能が壊れている人間には、こういうたわけた動機の犯罪も考えられる。
いずれにせよ、犯罪を犯す人には、<自我の構造にゆがみ>がある。たとえば、幼い頃に虐待などにより自我に傷を受けている場合、劣等感やコンプレックスがその人格を支配し、その劣等感の反動として、権力に異常な執着を示すことがある。
脆弱な自我を偽装するために、自分は強者であるという妄想にしがみつき、そしてこれを証明するために実際に殺人行為に走る。いわば<自己の存在証明のための犯罪>である。こうした劣等意識の強い人間は実際、自己の力を誇示することに熱心なので、犯罪者にならない場合でも、人を支配する地位を求めて、権力者になる可能性はある。
犯罪がゆがんだ自我のありかたに関係があるのだと分かれば、犯罪を防止するための対策も浮かんでくる。たとえば幼児教育の充実などだ。強くたくましい自我を育てる条件は何か。それは植物を育てるのと同じく、充分な栄養と日光だろう。つまり、「愛情」が大切だということだ。犯罪の温床は「愛情の欠如」である。自我の健全な社会化は「愛情」という滋養なくしてはむつかしい。
毛沢東の主治医が書いた「毛沢東の私生活」という本のなかに、権力者たちの意外に幼く女々しい幼児的な振る舞いが描かれている。たとえば、毛沢東は特性の木のベッドで一日のほとんどを過ごし、不安でそこから離れることができず、不眠症のあまり極度の薬物依存に陥っていた。妻の目を盗んで若い女をベッドに呼び込み、ときには若い男性の護衛兵にまで自分の性欲の処理をまかせている。
そして文化大革命を遂行し、毛沢東に続くNo2として粛正恐怖政治を実行し、後には毛沢東暗殺未遂まで企てた林彪は、歯が痛いといってベッドですすり泣いて、妻に子供のようにあやされている。周恩来でさえ毛沢東の前ではいつくばり、毛が危篤だと聞いて失禁したりしている。李博士はこれらの様子を見て、国家の将来に暗澹たる不安を覚えたという。
http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/moutaku.htm
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