http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html
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(回答先: 経済コラムマガジンの荒井彰先生も脳動脈硬化症? 投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 14:30:58)
牡牛座―レーニンの肖像
Taurus (Telets) Dir. Aleksandr Sokurov, 2000
http://www.youtube.com/watch?v=2vnQvemqnTY
2001年 ロシア・日本
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:レオニード・モズゴヴォイ
マリヤ・クズネツォーワ
ナターリヤ・ニクレンコ
レフ・エリセーエフ
セルゲイ・ラジューク
http://www.rosianotomo.com/mostoday/telets.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/kansyoki/oushiza.htm
1922年、かつての革命家は今は健康を害し、静かな村に身をおいていた。
右半身は麻痺し、「17×22」の計算もできない。自分の妹も認識できずにいる。
そんなレーニンの晩年を描いた作品。
『太陽』で日本天皇を、『モレク神』でヒットラーを扱ったソクーロフは、その「時の人たち」を等身大の目線で見つめる。一人のただの男として。普通に愛する者がそばにいる人間として。
ここでも、献身的にレーニンの世話をする妻が登場する。レーニンの妹と牽制し合いながらも、彼の容態を真に心配しているのはこの身内の二人だけだ。
護衛局長のパーコリも、ドイツ人医師も、秘書も、やるべきことはやっていても、その行動にレーニンに対する尊敬の念はもはや見当たらない。新聞を放さない主を、だだっこにするように手をピシリと叩いて没収したり、終始挙動不審にケタケタ笑い転げていたり。だから余計に妻の愛は深く感じられる。
雑草ののびきった草原(とは云え、長くのびた白い花をつけた雑草は可憐で美しい)の中でピクニックをする夫婦。
周囲を銃を持って警戒に当たる従者とは対照的に、二人はゆったり寄り添って語り合う。「ただの人」であり、ボケも入ってきた病人をやさしく包み込む妻の姿が大自然の悠然とした感じと融合する。
けれどレーニンは、その後訪れたスターリンの名前も思い出せず、不意に正気に戻って、人民が苦しんでいるというのに自分だけ瀟洒な邸宅で贅沢な食事にありついていることに猛然と怒りを顕わにする。彼の平穏はなかなか訪れない。
だからラストで、自然の中で一人取り残される(党からの電話に妻が急いで走るのも、もうレーニンが政治的なことから除外されたという象徴的なシーンであるのかもしれない)彼が、風の音を聞き、今にも雨が降りそうな空を見るところでうっすら微笑むのが印象的。
彼は人生の斜陽を見、また瞼にやきつけたい、えもいわれぬ美しさを見た。「ただの人」に対するソクーロフの視線はいつでもひどくやさしい。
http://blog.livedoor.jp/cocoroblue/archives/51148967.html
別荘に一人の男がレーニンを訪問した。
自ら権威を誇示するかのような立ち居振る舞いをするこの男。劇中では名前は出てこないが、その容貌、そして、男が帰った後レーニンが妻に「訪問した男は誰か?」という問いに「あなたも指名した書記長です」と答えていることから、その男がスターリンであることがわかる。
レーニンはこの男に質問をする。道に大木が倒れていて通行が邪魔だった時「大木をどかせるか、あるいは、その大木が朽ちるまで待つか、あなたはどうするか?」
レーニンのこの問いに、その男は「大木を切り刻む」と第3の答をレーニンの耳元で囁く。
レーニンは男が帰った後、男の名を尋ねる。何を思ったのだろう。ロシアの未来に不安を持ったのだろうか。
「彼は誰を脅そうとしているのだろうか?」
ロマノフ王朝による絶対君主支配から、ロシア人民の手に国家を奪還した、そのものが目の前にいるこの男の手で新たな権力となって、自分をこのような状況に閉じ込め、そしてトロツキーを放逐しようとし、ロシアの民を支配しようとしている。レーニンはこの時「権力」という魔物の正体を見たのだろう。レーニンは男が訪ねてきた翌年1923年に、その男スターリンの書記長職の解任を覚え書きで提案している。
そして、レーニンの悲劇は、自らもまた、その権力の手の中で堕落した存在となってしまっているという事実を知る。レーニンが療養している別荘は、革命により貴族から没収した(奪った)ものであるということ。「このスプーンは? この食器は? このピアノは? 人民のものか? 人民が飢え苦しんでいる時に、私は安穏と暮らしている。堕落した私が恥ずかしい!」憤りと自責の念で、持っていた杖でそれらのものを叩き潰す。
「パンと平和」を合言葉に、支配者たちから奪還した「権力」が、新たな支配関係を生み出している。「権力」というものが作り出す支配と抑圧の飽くなき連鎖。
ソクーロフ監督は、本作完成後に語っている。
「どうして権力は、その手中に落ちた人間をあれほど辱めるのでしょうか?
どうして人間を…知性的な面でも道徳的な面でも…あれほど痛ましく唾棄すべきものに変えてしまうのでしょうか?
どうして権力は、ほとんど必ずといっていいほど、精神の堕落と結びついてしまうのでしょうか?」
http://yorimichim.exblog.jp/6623935/
レーニンは梅毒だった?英国の医療専門誌
ソ連建国の父、レーニンは不治の病とされた梅毒で死亡したとする説を、イスラエルの医師団が英国の医療専門誌「欧州神経学ジャーナル」で公表した。
レーニンは1924年、脳梗塞(こうそく)による動脈硬化症で死亡したとされているが、医師団がカルテや検視解剖書、主治医らの回想を基に「再診」した結果、梅毒治療薬「サルバルサン」を投与されていたことが判明した。
同誌は、レーニンが晩年苦しんだ頭痛や神経障害、思考力低下は梅毒患者の症状と合致すると述べた。
また、専属の医師団の中に性病専門家が含まれていたことや、血液検査の結果がすべて焼却されていたことも分かったという。
http://2009.itainews.com/archives/cat62/5306
レーニンは暗殺の試み、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。
モスクワ郊外のゴールキ(現在のゴールキ・レーニンスキエ)の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、海外からオトフリート・フェルスター、ゲオルク・クレンペラーらの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として臭化カリウムなどが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。
動脈硬化がかなり進んでいた!?
右手と右半身の麻痺、そして言語障害。レーニンの病気はその症状から見て脳血管障害であったことは確かなようです。脳の血管が破れる脳出血か、脳の動脈が詰まる脳梗塞のどちらかであった可能性が高いでしょう。右半身に麻痺が出たことから、左側の脳に障害が生じたと考えられます。左側の脳は、体の右側の運動機能と言葉の発声や理解を司っているからです。言葉が思うように話せなくなることは、政治家として致命的なダメージで、レーニンの無念さはどれほどだったでしょうか。発作を起こした8ヵ月後に第4回コミンテルン大会で演説したとき、レーニンは口ごもりながらぎこちなく話し、動作も鈍くてロボットのようだったと出席者は伝えています。脳血管障害は動脈硬化が引き金となりますが、それは、塩分の取りすぎ、高血圧、高脂血症、糖尿病、喫煙、心臓疾患などが原因で悪化していきます。レーニンの場合は、父親も脳卒中で55歳の生涯を閉じていますから、この遺伝的要素も原因の一つでしょう。
ロシア人は、質素な食事に、酒、タバコ?
極寒の地で、その日の食べ物にも事欠く貧しい農民があふれていたロシア。レーニンの革命の背景には人々の困窮する姿がありました。彼自身は決して貧困層ではなく、母方の祖父は医者であり、父は小学校の校長にまで上り詰めています。それでもロシアという土地全土が、豊かな農作物を1年中手に入れられる気候ではなく、家畜の飼料さえも乏しく、ごく一部の特権階級をのぞいては本当に質素な食事をしていたようです。
正義感の強かったレーニンも、栄養たっぷりのバランスがいい食事を贅沢に取っていたとは思えません。ロシアには「シチ(キャベツのスープ)のためなら人は結婚する」という諺があるとか。レーニンが生きた1850年〜1930年頃のロシアでは、きのこやジャガイモなどの野菜、わずかな肉、穀類などが中心。一見すると健康的ですが、血管を強くするたんぱく質の量がかなり少なかったようです。
そして寒さをしのぐウォッカ、長い冬を紛らわせるタバコ、重ねて運動不足。レーニンもこの例に漏れなかったとしたら、そして過度な政治的ストレスが加わり続けていたとしたら、動脈硬化への道を突き進んでいたことは間違いないでしょう。
レーニンの治療とリハビリは?
レーニンの最初の発作は51歳ですが、実はその前から目立ったヒステリーのような症状があったとポルシェビキの元幹部で医師でもあった人物が記録しているそうです。それは革命を成し遂げたその翌年、47,8歳の頃。レーニンは議会のあと奇妙なヒステリー状態に陥り、数時間笑い続けていたといいます。また同年の夏にある蜂起を鎮圧し、その直後にもヒステリーを起こして何時間も、ただただ笑い続けていたとか。何かの兆候が、発作の2〜3年前から現れていたのでしょうか。この頃すでにレーニンは頭痛や神経衰弱のつらさを訴え始めていたようです。
最初の脳卒中の発作後、レーニンのために国内外から神経科医、精神分析医、脳外科医などが高額な報酬で招かれ診察を行った記録が残されています。しかし、時すでに遅し。症状は悪化の一途をたどりました。晩年のリハビリには、小学校低学年レベルの二桁掛け算問題を日課にしていたようですが、一問解くのに数時間はかかったといわれています。
もしレーニンが動脈硬化の予防知識をもっていたら、脳血管障害の適切な治療がなされていたら、スターリンによる独裁へは至らなかったのでしょうか。「歴史は動脈硬化によって変わる」なんて、レーニンは夢にも思わなかったでしょう。
http://sageru.jp/lsd/episode/003.html
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ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。
レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち検死報告書に署名をしたのは8人だった。この事は梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。
フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている。
なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ(1864年 - 1935年)、弟ドミートリー(1874年 - 1943年)はいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。
レーニンの実像
ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。
これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。
22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。
<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>
<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>
おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。
アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。
まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。
「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」
「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。
<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>
ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。
「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。
「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」
レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。
<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。
一、出荷量を増やすこと。
二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>
「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。
<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>
レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。
この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。
「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」
内部に胚胎していた冷血
ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。
――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。
いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。
話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。
「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。
『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」
ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。
また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。
「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)
『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)
『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)
『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」
「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。
(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」
彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。
よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。
何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。
「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」
レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。
頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。
懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。
そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。
ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。
「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。
レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」
たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。
「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)
彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」
あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。
「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」
こんな明快な定義が他にあるだろうか。
法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。
ラトゥイシェフはこう述べている。
「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。
彼の命令書には
『誰でもいいから、100人殺せ』とか
『千人殺せ』とか
『一万人を「人間の盾」にしろ』
といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。
人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」
ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。
暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。
レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった
ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。
<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか?
そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。
しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。
5月19日 レーニン>
この書簡には、さらに続きがある。
<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>
自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。
こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm
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