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(回答先: 今日の過酷事故への強い予感を抱いていた故・高木仁三郎 投稿者 短足鰐 日時 2011 年 9 月 16 日 20:15:34)
高木仁三郎「原発事故はなぜくりかえすのか」岩波新書 2000年より抜粋
1 議論なし、批判なし、思想なし
安全を第一に考えるというような態度を企業がとるのであれば、商業機密というのは、非常に下位に置かれなければならない。求められた情報は、基本的に提出されなければならない。だから私は政府に情報を要求したのですけれども、出てきません。
先述の飛岡利明氏はなかなか立派な人で、原子力反対側がちゃんと議論をする必要があると常々言っておられます。しかし彼によると、その議論をするときに反対側の議論は弱い。なぜ弱いかというと、反対側にそれなりの能力と志のある人がいたとしても、圧倒的に情報が少ないから、非常に稚拙な議論しかできないのだということを、私などに厳しく語っておられました。
そこで私は、それだったらきちんと情報を出してほしいと言い、彼も情報のギャップがあることを認めていて、最大限努力すると言ってくれました(その後、フランスから帰ってくるガラス固化体の詳しい仕様書の公開を要求したが、商業機密で出せないということだった)。
その後もいろいろと言いましたが、結局何度言っても出ないものは出ない。政府が非公開にしている情報は出ない。
〔原子力産業の状況〕
まず原子力産業の問題点として「議論なし」ということを私は言いたい。私が若いころ、日本原子力事業という会社に入って痛感した現場の状況というのは議論なし、批判なし、思想なし、だったと言えるでしょう。
日本の原子力開発は、1954年に当時青年議員だった中曽根康弘氏が頑張って、だれもよくわからなかった原子力予算というものを通して、強引に原子力研究が始まったという、それ自身非常に不幸な歴史を持つのです。あるいは、非常に非文化的は歴史を持つとも言えるのです。(翌1955年には原子力基本法が成立)。
今から考えるとそれは非常に怖いことで、そういう意味では1960年代、60年から65年くらいまでの間の原子力企業にいた期間は、日本の原子力産業の基礎を築く一番大事な時期だったはずなのに、恐ろしく真空状態でした。また、原子力文化をいったいどのように創造するのかという思想もありませんでした。議論なし、批判なし、思想なし、の状態だったのではないかと思います。
〔原子力村の形成〕
したがって、徹頭徹尾、科学という実態もなく、技術という実態もないまま、あるいは産業的基盤もないままに、上からの非常に政治的な思想によって、さらにそれに乗った(あるいは乗せられて)三井、三菱、住友といった旧財閥系絡みの銀行を中心とした金融資本系列によって、原子力グループができました。そして、そこで何かやって原子力を商売にしろ、みたいな話で原子力開発が進んでいったのです。
産業の歴史としてはある意味では特異な、ゆがんだ歴史であったと思います。私は理学志向の人間で、工業開発などということをまったく知らないで産業界に入ったのですが、そういう人間にもはっきりとそのことがわかるくらい現場の無方針ぶりは顕著でした。
・反原発の思想とは?ーイデオロギーレベルまで位を上げる必要があるのではないか/試論
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/470.html
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