http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/211.html
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もう諦めたのかと思っていたが、なかなか頑張るね
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51718075.html
2011年06月15日 10:20
経済
脱原発は生命を奪う
経済学の重要な(しかも多くの人が理解していない)概念に、機会費用がある。たとえば、あなたが大学に払う学費が年100万円だとしても、大学4年間に失う所得は400万円ではない。大学に進学しないで働いていれば年収300万円を得られるとすると、大学4年間で失われる機会費用は1200万円である。これと学費を合わせた1600万円が実質的な費用だから、それ以上のメリットがなければ進学することは純損失になる。
こうした間接費用は直観的にわかりにくいので無視されやすいが、直接費用より大きいことが多い。原発を停止する作業にかかるコストは無視できるが、日本エネルギー経済研究所によれば、すべての原発が停止して火力発電で電力需要を代替する場合、1年間で3兆5000億円(18%)のコスト増になり、1ヶ月あたりの標準家庭の電気料金が1049円増加する。これが原発停止の機会費用である。
この試算に対して「月1000円程度の電気代は命に代えられない」と反発する向きがあるが、逆である。脱原発は多くの生命を奪うのだ。OECDによれば、5人以上の死亡する原発事故はOECD諸国では1件も起こっていないが、石炭の採掘事故によって毎年、中国だけで3000人が死亡する。大気汚染による死者は、さらに多い。Max CarbonはNRDC(自然資源防衛協会)の次のような試算を紹介している:
Burning fossil fuels including coal, natural gas, oil, diesel fuel, gasoline, and wood is the largest single source of these small particles. Coal-fired power plants are the worst offenders by far. The NRDC estimated that approximately 64,000 people may have been dying prematurely each year in 239 U.S. metropolitan areas due to the particles. [...] Nuclear plants would reduce those premature deaths even more; nuclear plants do not emit such particles.
全米239の都市だけで、毎年64000人が化石燃料(特に石炭)による大気汚染で死亡すると推定されている。WHOの推定では、全世界で1年間に大気汚染によって死亡するのは300万人だから、火力発電による死者は全世界で数十万人と見込まれる。いま日本がすべての原発を止めて火力の運転を18%増やすとすると、これによって1年に採掘事故と大気汚染で1500人以上が死亡すると推定される。これが原発停止によって失われる生命の機会費用である。
エネルギー消費は必ず環境を汚染するので、まったく無害なエネルギーは存在しない。相対的に害の少ないエネルギー源を選ぶしかないのだ。少なくとも死亡率でみるかぎり、Carbonもいうように原子力はリスク最小のエネルギーである。特に石炭はきわめて危険なkiller energyであり、その燃焼を増やすべきではない。「反原発」デモでその即時停止を求めている人々は、環境を汚染して数千人の生命を奪うテロリストに等しい。
追記:「石炭火力」を「火力」に修正し、運転増をエネルギー経済研のデータに合わせて18%増とした。NRDCによると、全米の大気汚染による死者は年間10万人以上なので、化石燃料の使用量がその2割の日本の死者は2万人以上。その18%が増えたとして3600人。採掘事故の死者は世界で毎年5000人以上で、日本の消費量は世界の約5%だから、その18%で45人。化石燃料のすべてが発電用ではないが、石炭のほとんどは発電用なので1500人程度が妥当だろう。
2011年06月12日 12:01
経済
テクニカル
原発の限界費用と外部性
もう原発の話はやめるつもりだったが、専門家も問題を誤解しているようなので、少し補足しておく。林貴志氏の次のようなつぶやきを齊藤誠氏がRTしている。
「原発がなくなって電気料金が高くなったら産業の競争力が落ちる」という類の意見がTLに流れてきているが、外部不経済を内部化した結果そうなるならば、それは所与の条件から得られるものが高々そういうものでしかなかった、ということなのだろう。
これは短期と長期の問題を混同している。長期(設備投資を含めた投資の回収)を考えると「原発がなくなって電気料金が高くなる」かどうかはわからない。核燃料サイクルなどの外部性のコストを内部化すると、原発の発電単価は火力とあまり変わらないので、向こう40年で原発をゼロにしたとしても、それを徐々に化石燃料で置き換えれば、長期の電力コストはそれほど変わらないだろう。
ただし原発は固定費が大きく燃料費が小さいため、短期の限界費用は小さい(おそらく1円/kWh以下)。だから「反原発」デモが主張しているように、すべての原発を即時停止すると、火力の燃料費で電力会社の営業利益が吹っ飛ぶ(中部電力では年間2000億円、東電では1兆円の損失)。したがって短期的には、原発を夏までに再稼働しないと電力不足と電気料金への転嫁が起こることは明らかだ。
このようなコスト上昇によってトヨタやNTTデータが海外に拠点を移すと、将来安くなっても日本には戻ってこない。もともと日本のインフラや規制や法人税のコストはアジアでは最高だから、電力不足というきっかけで空洞化が起こってしまうと、その流れは不可逆なのだ。さらに原子力を再生可能エネルギーで代替することは、きわめて大きな問題をもたらす。河野太郎氏はこう主張している:
原発を40年かけてフェードアウトして、その間に再生可能エネルギーの技術革新を実現させていこう、そのためにその分野に投資をしていこうという議論ではないか。
だから電力会社の地域独占を廃止し、発送電の分離を実現させ、総括原価方式の料金決めをやめるということが必要になってくる。
これは前半と後半が論理的につながっていない。普通に発送電の分離をしたら、再生可能エネルギーはまったく普及しない。その発電単価は化石燃料の5〜10倍だからである。それを普及させるには補助金(FIT)が必要で、それは電力利用者がサーチャージとして負担する。この場合、電気料金は確実に上昇し、日本は国際競争力を失う(これは河野氏もインタビューで認めた)。
だから問題は原発か再生可能エネルギーかという二者択一ではないのだ。電力を自由化すれば、ROAが低くて投資の回収期間が長く、最適規模の過大な原発は投資家にとって魅力がないので比率が下がるだろう。発送電を分離して競争を促進すれば、化石燃料(特に天然ガス)への代替が徐々に進むものと思われる。もちろん外部性を内部化するルールの設定は必要だが、政府が裁量的に特定のエネルギー源を禁止したり補助したりすることは望ましくない。
再生可能エネルギーについては、温室効果ガスという別の要因があるが、スチュワート・ブランドもビル・ゲイツも指摘するように、CO2の削減にもっとも有効なのは原子力である。だから一般に考えられているのとは逆に、原子力は経済的ではないが環境にやさしいクリーン・エネルギーなのだ(それがオバマ政権の方針である)。
したがって環境保護のためには再生可能エネルギーの補助金なんか必要なく、原子力を推進することがもっとも経済的だ。再処理工場などに投じた固定費も大きいので、今後の限界費用だけを考えれば、おそらく化石燃料といい勝負だろう。だから今後のエネルギー政策としては、原発を温存しながら天然ガスの比重を徐々に上げ、再生可能エネルギーの補助金は廃止することが望ましい。
2011年06月19日 17:07
本
テクニカル
カントの「コペルニクス的転回」
純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)原発をめぐる議論が不毛な罵り合いになるのは、推進派と反対派が別の「宗教」で、最初から結論が決まっているからだ。これは極端な例だが、人間が論理的に話し合えばわかるなどというのは大きな間違いだ。むしろ最初からもっている先入観や思考様式の違いが圧倒的に重要で、深刻な問題になればなるほど、その違いを埋めることは困難になる。
カントは、こうした構造は認識に普遍的なものだと考え、経験に先立つ思考様式をカテゴリーと呼んだ。彼はこれをアプリオリなものと考えたのだが、最近の脳科学では空間とか時間とか「私」という感覚などは、幼児期にかなり時間をかけて獲得されることがわかっている。だから他人を理解するためにまず必要なのは、このカテゴリーを共有することなのだ。
レヴィ=ストロースは「超越論的主観性なきカント主義」と自認したが、トマス・クーンは自分の思想を「歴史的カント主義」と呼んだ。科学理論にとって重要なのは内容より形式(パラダイム)だという彼の主張は、最初は科学の客観性を否定するものとして反発を受けたが、今日では常識だ。最近は経済学でも、この点はフレーミングとして知られるようになった。本源的な無限大の情報を処理することはできないので、思考のフレームを設定して情報を圧縮することは「アノマリー」ではなく、むしろ思考の条件なのだ。
政治的な論争では、同じフレームの中で細かいデータの正否が争われることは少なく、むしろ異なるフレーム同士の通約不可能性がデッドロックになることが多い。日本で経済学者が相手にされない原因は、彼らが学界の中で共有しているフレームが一般社会で通用しないからだ。個人が「完全情報」をもとに合理的に行動するという新古典派の仮定は、カントの否定した形而上学である。
もちろん単に不完全だとか不合理だといってもしょうがないので、今後はAkerlof-Krantonのようにフレームがどう形成されるかを分析するメタレベルの研究が必要だろう。イノベーションも本質的にフレーム転換であり、フレームを濃密に共有する日本型組織の特徴が破壊的イノベーションを阻害している。それを政府が業者の「懇談会」で調整することは、かえってイノベーションを殺す結果になる。
カントがこうした問題の答を用意しているわけではないが、形式(カテゴリー)が内容に先立つというコペルニクス的転回を実現したのは彼である。本書は従来、難解で読めたものではなかったカントの理論をていねいに解説した画期的な訳本だ。
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- まぁ、反論をここでしてもしょうがないんだろうけど metola 2011/6/22 01:48:00
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