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(回答先: 進化を求める私(その87)・神々の進化論・「日本人は『さまよえる神々』という世界観−Cニギハヤヒ天皇神武とスジン天皇神武 投稿者 元伊勢80社 日時 2011 年 12 月 24 日 17:35:43)
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@ 313年に朝鮮半島に高句麗が侵入し、楽浪郡を滅ぼした。
百済(扶余)は、高句麗から分派したのが通説である。
百済が朝鮮半島に基盤を築いたときに、朝鮮南部に馬韓・弁韓・辰韓などの韓諸国があったのも通説である。
百済が韓諸国を滅ぼすと同時に、半島東部に新羅が勃興して、百済と対立した。(後に新羅は百済を滅ぼした)。
『軍学的な考察』
百済は高句麗から分派した勢力であるから、せいぜい数万から数十万規模に過ぎない。また、韓諸国の平定に追われていたから、日本を侵略する兵力的余裕はなかった。
また、新羅との攻防戦が繰り返されたから、日本を侵略する兵力的余裕はなかった。
したがって、300年代に百済(扶余)が日本に軍勢を送ることは軍事的にみて無理がある。
A 倭の五王や、日本の高句麗遠征のこと
400年代になると、『倭の五王』の時代に入っており、既に日本の王権が確立されていた。
高句麗の『広開土王碑』には倭(日本)の遠征のことが刻まれている。広開土王は好太王とされ、374年 - 412年とされている。
B 日本は朝鮮半島に「ゆかり」があっただけで、百済人そのものではない。
百済や新羅と日本は交流があったので、後に婚姻関係が成立したと考えられる。
百済と新羅の軍事対立から、日本に援軍を求めたり、政略結婚が行われたこともあるだろうし、日本に人質を差し出したこともあるだろう。
C 百済の遺民が日本に亡命した。
百済の滅亡に際して、縁のあった百済の遺民を日本に受け入れたというのが通説である。
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