★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60 > 517.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
百済(扶余)は日本には来ていなかった
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/517.html
投稿者 元伊勢80社 日時 2011 年 12 月 29 日 10:28:29: QltTAR96mRc1.
 

(回答先: 進化を求める私(その87)・神々の進化論・「日本人は『さまよえる神々』という世界観−Cニギハヤヒ天皇神武とスジン天皇神武 投稿者 元伊勢80社 日時 2011 年 12 月 24 日 17:35:43)

:


@ 313年に朝鮮半島に高句麗が侵入し、楽浪郡を滅ぼした。

 百済(扶余)は、高句麗から分派したのが通説である。

 百済が朝鮮半島に基盤を築いたときに、朝鮮南部に馬韓・弁韓・辰韓などの韓諸国があったのも通説である。

 百済が韓諸国を滅ぼすと同時に、半島東部に新羅が勃興して、百済と対立した。(後に新羅は百済を滅ぼした)。

   『軍学的な考察』
 百済は高句麗から分派した勢力であるから、せいぜい数万から数十万規模に過ぎない。また、韓諸国の平定に追われていたから、日本を侵略する兵力的余裕はなかった。

 また、新羅との攻防戦が繰り返されたから、日本を侵略する兵力的余裕はなかった。
 
 したがって、300年代に百済(扶余)が日本に軍勢を送ることは軍事的にみて無理がある。

A 倭の五王や、日本の高句麗遠征のこと

 400年代になると、『倭の五王』の時代に入っており、既に日本の王権が確立されていた。

 高句麗の『広開土王碑』には倭(日本)の遠征のことが刻まれている。広開土王は好太王とされ、374年 - 412年とされている。

B 日本は朝鮮半島に「ゆかり」があっただけで、百済人そのものではない。

 百済や新羅と日本は交流があったので、後に婚姻関係が成立したと考えられる。

 百済と新羅の軍事対立から、日本に援軍を求めたり、政略結婚が行われたこともあるだろうし、日本に人質を差し出したこともあるだろう。

C 百済の遺民が日本に亡命した。

 百済の滅亡に際して、縁のあった百済の遺民を日本に受け入れたというのが通説である。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
 重複コメントは全部削除と投稿禁止設定  ずるいアクセスアップ手法は全削除と投稿禁止設定 削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告」をお願いします。 最新投稿・コメント全文リスト
フォローアップ:

 

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。

     ▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板

 
▲上へ       
★阿修羅♪  
この板投稿一覧