http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/503.html
Tweet |
:
@ ニギハヤヒが「真実の神武天皇」であり大国主の子の事代主でもある。崇神天皇は重複する神武天皇である。
A ニギハヤヒの年代測定
『漢王朝からの類推』
(漢の皇帝の寿命)...1代・劉 邦(61歳か52歳) 2・恵帝(22歳) 3・少帝 恭(不明) 4・少帝弘(不明) 5・文帝(46歳) 6・景帝(47歳) 7・武帝(69歳) 8・昭帝(20歳) 9・劉賀(不明) 10・宣帝(42歳)
20・殤帝(1歳) 21・安帝(31歳) 22・少帝懿(不明) 23・順帝(29歳) 24・冲帝(2歳) 25・質帝(8歳) 26・桓帝(35歳) 27・霊帝(33歳) 28・少帝弁(17歳) 最後の皇帝29・献帝(53歳)
(漢の帝位の年数)...1代-11年 2代-7年 3代-4年 4代-4年 5代-23年 6代-16年 7代-54年 8代-13年 9代-0年 10代-25年で、平均在位は15年程度。
20代-1年 21代-19年 22代-0年 23代-19年 24代-1年 25代-1年 26代-1年 27代-22年 28代-0年 最後の皇帝29代-11年であり、平均在位は7年程度。
(太祖高帝の紀元前206年から 29代の 献帝 の220年間では、「新の王莽」を含む426年間の29代で、平均在位は15年程度)。
★ 日本の古代人の平均寿命は20歳に満たない。乳幼児の死亡が非情に多く、15歳に達する者は少ない。庶民は20代で死に、ほとんどが30代までに死んだ。栄養状態の良い王族・貴族は40代50代まで生きるものもあった。
『北朝イスラエル王国の王の在位年数からの類推』
ヤロブアム1世-21年 ナダブ-1年 バシャ-23年 エラ-1年 ジムリ-0年 オムリ-7年 アハブ-19年 アハズヤ-1年 ヨラム-7年 イエフ-27年 ヨアハズ-14年 ヨアシュ-15年 ヤロブアム2世-40年 ゼカリヤ-0年 シャルム-0年 メナヘム-7年 ペカフヤ-1年 ペカ-5年 ホセア-10年
北朝イスラエル王国は紀元前922年から紀元前722年までの200年間で19代の王が即位したが、平均在位年数は10年くらいである。
★ 漢王朝でも同じだが、政権の混乱期には1年2年の在位年数しかない場合も多い。
『アマテラスから、ニギハヤヒ、推古天皇までの年代の特定』
313年に朝鮮の楽浪郡に高句麗が侵入する前にアマテラスが北九州に渡ったとして、アマテラスの即位を300年と仮定する。推古天皇の即位が592年であるから、アマテラスから推古天皇まで292年である。
天皇の兄弟相続を2世代分として計算し、第2代から9代までの『欠史八代』を無いものとし、神武天皇と崇神天皇を重複するものとすると、アマテラスから推古天皇まで、およそ20世代程度になり平均在位年数は15年程度になる。
安定期の前漢の平均在位年数が15年程度であり、後漢の不安定期の平均在位が7年程度であり、北朝イスラエルの平均在位も10年程度であるから、アマテラスから推古天皇までに15年程度で皇位が継承されても、別段の問題は無い。
すると、アマテラス-西暦300年 オシホミミ-315年 ニニギ-330年 ホホデミ-345年 ウガヤフキアエズ-360年 神武天皇-375年が当てはまる。
B ニギハヤヒ天皇神武と『欠史八代』の年代測定
『アマテラスとスサノオとの相関』
アマテラス-スサノオ オシホミミ-大国主 ニニギ-ニギハヤヒ(事代主・ニニギの兄の天火明命に組み込まれた説) ホホデミ-? ウガヤフキアエズ-? 神武こと崇神天皇(神武天皇の二重性)が成り立つ。
ニニギ-ニギハヤヒが西暦330年頃として、神武天皇が375年頃とするなら、その間に『欠史八代』が即位したと考えられる。
(『欠史八代』の45年間は尾張系・磯城系・春日系・物部系などが権力闘争に明け暮れており、短期間で皇位が代わったと推測される。それは北朝イスラエル王国の権力闘争のコピーでもある)。
C 神に祝福された者 (旧約聖書の「油を注がれた者」)
『スサノオは神に祝福された盟主である』
スサノオは神の祝福を受けてイスラエルの遺民グループの盟主となったから、ユダ族遺民のアマテラスは服従して日向に「都落ち」した。
『大国主はスサノオに祝福され、神に祝福されたイスラエルの盟主(大国主)である』
スサノオの子の大国主はスサノオに祝福され、神に祝福された。
スサノオの娘の須勢理毘売と母親の違う大国主は兄弟結婚した。(古代世界において、兄弟結婚は常識である)。
大国主の母親は日向のアマテラス系の可能性がある。(真偽不明)。
(古代の職制で、大国主は王ではない盟主、大物主は軍司令官、事代主は預言者・祭司を意味すると考えられる。これはイスラエル王国の王・軍司令官・預言者に対比される)。
『ニギハヤヒは大国主に祝福され、神に祝福された大王であり、初代天皇に即位した。
ニギハヤヒは事代主のことであり、母親は河内方面の豪族の三島溝杭の娘の勢夜陀多良比売であり、「国譲り神話」の敗戦のあとに、母方の河内方面に帰り、尾張方面や奈良・河内・山城方面などの豪族の支持を得て、初めて王(天皇)に就いた。(このことは日向のアマテラス族も「神の裁き」として了承せざるを得なかった)。
(これは旧約聖書の「士師」の時代から、ベニヤミン族の出身のサウルが初めて王位に就いたことに対比される)。
また、大国主の子である建御名方は「国譲り神話」の敗戦のあとに、父の大国主の妻になった北陸・諏訪方面の豪族の娘である母親の沼河比売の領地に帰った。
『スジン天皇神武は神に祝福されて即位した』
奈良王権が収集不能の権力闘争を繰り返し、飢饉が続出し、民心は乱れ、神は怒り、ついに日向のスジンに託宣が下されて、スジンが即位するために東征に出陣した(これが本当の神武東征のことである)。
奈良王権はスジンを支持する弟宇迦斯(オトウカシ)や熊野の豪族や、反対する兄宇迦斯(エウカシ)や登美毘古(ナガスネヒコ)などに分裂しており、九州王権と大和王権の決戦ではなかった。
政権抗争の混乱を鎮めて、スジンが第10代の崇神天皇として正式に即位した。
『二人の初代天皇』
10代崇神天皇は、『御肇國天皇(はつくに・しらす・すめらみこと)』であり、初代天皇である。
★ 神武はアマテラスを祭っていない。アマテラスが登場するのは崇神天皇になってからである。神武がアマテラスの子孫なら「天照大神」を祀るのが当然だろう。実に不自然だ。
『天皇系図と血統系図の違い』
崇神天皇はユダ族系アマテラスであり、ニギハヤヒはスサノオ系であり、血が繋がらない(ただしアブラハムの子孫という意味では繋がっている。
そこで、職制である天皇系図は単なる王名表であり、血統図ではないから、ニギハヤヒ天皇神武を初代天皇とし、スジン天皇神武を10代の崇神天皇として記録した。
(それは、ヘブライ王国の初代王がベニヤミン族のサウルであり、2代王がユダ族のダビデでも構わないし、北朝イスラエルの王の出身部族が様々に異なっても構わないのである。要は、王名表に過ぎないのである)。
『アマテラス系図に統合された出雲王族』
ニギハヤヒ天皇神武は神に祝福された初代天皇であるから切り捨てることが出来ず、特別にアマテラス系図に組み込まれ、ニニギの兄の天火明命にされた可能性がある。
大国主はよく分からないが、アマテラスの子の誰か、たとえば天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の誰かかもしれない。
D 万世一系の記紀神話
記紀神話の作成で一番苦労した点は、年代の誤魔化しと、大和イスラエル王権と日向ユダ王権の一元化であろう。大和イスラエル王権がイスラエルと無関係なら抹殺できたが、イスラエルの同族であったから無視できないし、第一、神に祝福された王(天皇)であったから、神の許しなく抹殺すると神の怒りに触れるかもしれなかった。
『紀元前660年の神武天皇即位の可能性』
年代については、神武天皇即位の紀元前660年は、北朝イスラエルの滅亡が紀元前722年ごろであり、船を使った移動であれば十分に日本に上陸することは不可能ではないから、日本上陸を紀元前660年とするなら、矛盾するわけではない。(ただし、その後に中国に転出した)。
E 全国の熊野神社のこと
日本全国に熊野神社があり、特に多いのは新潟と東北太平洋側・関東・東海方面である。
これは、熊野神社の起源が出雲のイザナミを祀るらしいが、国譲り神話によるアマテラス勢力による「国津神」への弾圧が激しかったために東海・東北方面へ逃げたのであろう。
★ 古代において、おびただしい血が流されたであろう。たとえ、そうであったとしても国を一つに統一しなければ、中国に飲み込まれて、国はおろか民族も残らなかったであろう。
神が日本民族を後世に残すために行った、愛ある裁きであったと私は理解する。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- 百済(扶余)は日本には来ていなかった 元伊勢80社 2011/12/29 10:28:29
(0)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ60掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。