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八切止夫著: 徳川家康 1より
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さて、この当時駿府の牢は横田町にあったが、現今のように刑務所内で印刷をやらせたり家具を作らせて収益をあげられる時代ではなかった。だから、早く叩き殺して解体した方がそれだけ食い扶持が助かったし、もうかった。どんどん捕えたものは早く殺していたが、またこれにはわけがあった。
なにしろ今と違って薬がなかったこの時代は、唐人や韓人が関西から駿府へも入りこんできていて、「生血は卒中や中風の特効剤」「生肉は天刑病や労咳(肺結核)の薬」「生き肝は腹の病用」「生きた脳味噌をまるめた六神丸は気つけの妙薬」と売りひろめ、原料のはいりやすい処刑場の側で小さな薬品製造業をやっていた。
----今でも漢方薬を「生薬(きぐすり)」というのはこの頃の名残りで、黒焼として売り出したのは生肉では遠くまで売りにゆけぬから、営業上これをかえ、明治以降は取締まりがうるさいから、猿の黒焼、いもりの黒焼となった。しかしまだ明治中期までは、レプラには生きた人間の尻の肉が特効薬であると、刀をもって斬ってまわった野口男三郎というのがいて、世間でも業病には生肉と思っていたから、その点をおおいに同情され、「ああ世は夢か幻か‥‥」といった演歌が流行して、当時の女性を失神させるくらいに、おおいにみなを泣かせたものである。
さて横田町の牢から狐ガ崎の河原にある斬首場へ、囚人をつれて行っては斬首し、「落し頭ごと、こみでいくら」と唐人に払下げをするのだが、そう一日に何人もあるものではない。だがそれでは製薬工場の唐人が原料難で困る。そこで今日の血液銀行みたいに生きているのを引っ張ってきて、脳味噌をとったり、生の肉をはぐというような事になるが、いくら唐人に、やれやれといわれても、そう通行人を物陰にかくれて、ぶん殴って連れてこられるものではない。
〜〜〜
思わず笑ってしまった。
近代史板より:
史疑・徳川家康 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/556.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 21:36:43
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