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(回答先: ど頭かちわってミソとったるでぇ 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 10 日 11:55:07)
八切日本史 4より:
われら日本人
軟弱レジスタンス
「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり考えさせられた。私は米軍進駐の当時の本土は知らないが、満州で、まずソ連進駐、中共軍進駐、国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。
プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。
当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもできるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。
初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従ということへのなれか、てんで邦人の側には、なってくれなかった。
八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。
たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷
りになった。
いま私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、いくらでも無料でくれるが、あれは二十四年前に新聞社や新興亜印刷から、もっていった活字の字母で刷られたものである。
やがて十月。いまは粛清され又復活したとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してきた。
すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」
ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。 十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」
ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」となった。
私は当時(遼陽芸術協会)なる腕章をもらい、旧満映の吉田秀雄に脚本書きをさせられていたが、上演料は一文も渡されず、あべこべに密告される羽目になった。
しかし、のち北春日大隊をおしつけられ、二千余人の女子供をコロ島から博多へつれ戻ってきた時、引揚船の中に事情を知っている女性がいて、私が密告され逮捕された時の報奨が、粟五斤だったときかされた時には、さすがに呆然とさせられたものである。
もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。
そこでもし、改めて今どこかの国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。
日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたして、「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」 と声援してくれるかどうか不安でならぬ。
なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」 この二つは厳然と分かれているという。
さて日本人もかつては勇猛果敢であったそうだが、二十六年前のマッカーサー進駐以降は、「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キャトル」つまり家畜だとさえ放言する。
異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上まことに珍しいそうで他に例もないという。つまり宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう?「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手がつけられぬ」ような、そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、「きわめて国民の資質温順なり」となると、「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」あちらこちらから希望する向きが殺到、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる恐れもある。
この二十六年前に築いてしまった従順という信用が、やがてとんでもない事になりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、「日本人は家畜なみではないんだ」という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者という事にやがてなりかねない。
ひきつげ反逆根性
さてレジスタンスといえば、凄いのが楠木一族である。楠木正行の弟の正儀までは、『太平記』にもでてくるが、事実は、かつての軍部が国民精神作興のため、「楠木一族ことごとく玉砕」と歴史家に書かせたような、あんな生やさしいものではなかった。
なにしろ日清の役はよかったが、日露の役の203高地戦で相手は機関銃で撃ちまくってくるので、「なにがなんでも、召集兵は死なせるしかなかろう」という結論がでてしまったので、その後は、「死んでくるぞと勇ましく誓って家を出たからは」と流行歌にまで唱われるようになった。
つまり、玉砕こそ名誉ある崇高な死という考えそのものが、国民教育の眼目となった時点から、楠木一族もそういう事にされてしまったらしい。時代の都合によって日本歴史はくるくる変る。
しかし楠木正成、正季の末弟の、「楠木正式」は生きていて、河内東條城に後村上帝を奉じ、甥の正儀や和田正忠と共に足利勢に攻められるや、帝にも甲冑をきて頂き、四条隆資ら側近は討死したが、無事に賀名主まで、正式は全身針鼠のように矢を射こまれながら供奉申し上げている。『花営三代記』や『後愚昧話』にはその後、長慶天皇が御即位されると、後亀山天皇派の楠木正儀は北軍に降伏したが、和田正式ら正成の甥共はあくまでも南軍にあって、正儀と戦っている。のち弘和二年には、その正儀も南軍に戻ったが、その倅の、「楠木正秀」が和田正高ら楠木一族と共に、大和にあって北朝の粟をはむを潔しとせず砦をつくって頑張っていたのは、『史籍集覧』に入っている『十津川記』にあるが、これはもう足利義満の頃での話である。
さて金閣寺を造った義満が死ぬと、1408年の応永十五年のこと。吉水院文書に、「上野宮が朝敵となり申し、このため河上三郷村は責をおわされ、伏降参列」とある。
上野宮というのは、御亀山帝のあとの説成(ときなり)親王さまのことである。 吉野吉水院は御醍醐帝の姫がご降嫁された寺で、ここに楠木一族い奉じられて、「反逆」の旗をたてられたが、戦い利あらず、三村の者がそれに連座して罰せられたのだという。
さて上野宮の御子円悟は円満寺門跡とされて、妻帯を許されずここに血脈はたえたが、上野宮の孫にあたられる小倉宮泰成親王は秘かに山中に隠れておられた。よって、「満済準后日記・正長元年七月八日」に、「小倉殿(南方)昨朝御逐電」 とある。この宮は伊勢の国司を願って、楠木党に奉じられ、逃避行されたのだが、「安濃郡岩国(現在三重県津市)にて、美濃守護土岐持益の軍勢に破られ」と『薩戒記』にはあり、南朝の血統をたつために、やはり僧にさせられ、万里小路時房の、『建内記』の同じ1428年10月の状にも、「玉川宮(長慶帝の御子)がやはり寺へ入れられている」といった模様がでている。
いくら楠木一族が正成が湊川で討死してから頑張っても、その後七十三年間の歳月に、持名院統以外の南朝の皇統は、足利政権によって、反体制として葬りさられてしまったのである。
そこで「看聞御記」の1429年9月18日の条になると、「室町殿(足利将軍義教)東大寺の蘭奢待香を切りとるため奈良へおもむく。雨天なり。ところが僧衣にて門にかくれ居りし楠木五郎左衛門光正単身おどり出て天誅と叫び刺さんとす。ならず捕われて京へ引きたてらる」「同二十四日。晴天。召捕られし楠木今夕六条河原にて首をはねらる。楠木党の来襲を恐れ侍所(赤松)所司代番衆紺色装束に楯をみな揃え、その数六、七百人警戒して取りまく」
まるで今日の機動隊の規制の情景のような記載が、伏見宮貞成(さだふさ)親王によって、今日にまで書き残されている。
なお1437年8月6日のその日記には、楠木光正の弟らが河内に挙兵。
畠山持国が室町御所の命令で出動し、その楠木兄弟を捕らえて殺した旨もでている。
こうして並列して買いてゆくと、きりがない位に、楠木党の反乱の歴史は続く。「戦国時代」に入る応仁の乱の終りの頃。
山名宗全が、文明三年(1471)に奉じようと、女装にて迎え奉った小倉宮御孫一品親王さまを守り奉らんとした楠木正憲を、私は『戦国鉄仮面』に書いたが、この年代は湊川で正成が討死後、実に一世紀半後なのである。
最近の歴史家は、楠木正成を、「悪党」「土豪」と解釈するが、もしそんな存在にすぎなかったら、子孫や郎党の裔までが、百五十年間も反逆し続けられる根性を、ひきついでゆけるものだろうか。
また三国干渉に対する復仇の為、頭山満翁が桃中軒雲右衛門に作らせた<義士伝>の、<花は桜木、人は武士>式の、いわゆる、「パアッといさぎよく散れ」と、説く玉砕精神に当てはめるための、<青葉しげれる桜井の>といった小学校唱歌による既成概念も頂けない。
楠木一族の一世紀半に及ぶ反体制蹶起は、仏教や神道ではない<天朝教>といったような、宗教的色彩をおびた信念によるらしい。が、今となってはガタがきているらしい。
だから、チェコのごとく、ある朝突然にキャタピラをならし重戦車隊が入ってきても、「われら日本人」として日本国土を、日本の憲法を、しっかりと守りぬきレジスタンスを続けてゆける根性こそ今や吾々には望ましい。
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