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いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 03 日 20:58:38: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 湯河原温泉の「指月」は何故山を下りたのか? 投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 03 日 19:52:16)


山口百恵 - いい日旅立ち

http://www.nicovideo.jp/watch/sm10213909
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA
http://www.youtube.com/watch?v=MnIQPFmMM1M
http://www.youtube.com/watch?v=4LLEnfMhmhU
http://www.youtube.com/watch?v=VeMm0PzpRgs
http://www.youtube.com/watch?v=Kmax0DQp8ho
http://www.youtube.com/watch?v=xEu7jtZNUSE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=P7bzhbndQfc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=kwuf6cxxOOk
http://www.youtube.com/watch?v=nkTnTGqtfos
http://www.youtube.com/watch?v=8plYNvu-jTY


雪解け 間近の 北の空に 向かい 過ぎ去りし 日々の夢を 叫ぶ時

帰らぬ 人たち 熱い胸を過ぎる

せめて今日から 一人きり 旅に出る

ああ 日本のどこかに 私を待ってる 人が居る

いい日旅立ち 夕焼けを探しに 母の背中で聞いた 歌を道連れに


岬の外れに 少年は 魚釣り 青いススキの小道を 帰るのか

私は今から 想い出を作るため 砂に枯れ木で 書くつもり さようならと
    
ああ 日本のどこかに 私を待ってる 人が居る

いい日旅立ち 羊雲を探しに 父が教えてくれた 歌を道連れに


ああ 日本のどこかに 私を待ってる 人が居る

いい日旅立ち 幸せを探しに 子供の頃に歌った 歌を道連れに

____________

いい日旅立ち・西へ 鬼束ちひろ

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1913263
http://www.youtube.com/watch?v=gBDVDeupbhc
http://www.youtube.com/watch?v=tTS6V3Z8b40
http://www.youtube.com/watch?v=s-6zpjkDCVk
http://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0

遥かな しまなみ 錆色の凪の海

セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる

いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


蛍の光は 遠い日の送り火か

小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる

いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る

いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


________


1. 日本の何処かで私を待っている人とは…

谷村新司

「歌詞をよく見て下さい。

『いい日旅立ち』は決してそんな祝いの席に歌うような、いい意味の曲ではありません」


925 : 愛と死の名無しさん : 2009/06/25(木) 02:59:26

いい日旅立ち

これは、普通に国語がわかれば、別れを振り切るために一人旅にでる心境を表した歌でしょ。


「帰らぬ人達」の幻影を求めて、旅に出る。
「日本のどこか」でその大切な人に会えるかもしれない。
そんな強烈な願望が「熱い胸をよぎる」。

でも、決して出会えることはない。
大切な人は、「夕焼け」であり、「羊雲」であり、もう決して出会うことのない存在だから。

そして、

「想い出を創るため砂に枯木で書く」
「“さよなら”と」


これは失恋と言うより死別では?
とてもいい曲だけど。

http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/sousai/1009370104/


「いい日旅立ち」について桑田さんが 
 

「死の匂いがする・・」 


って言っていたのを聞いて「あ・・ すごい」 と思ったのと同時に 急にゾッとしてね。僕は今まで 普通に
 
「恋に破れた女が 傷ついたこころを癒すために新しい出会いを求めて ひとり旅に出る・・」 
 
・・そういう詞だと思って聴いていたんだ。 だけど 桑田さんは 


「死地への旅路・・   死に場所を求めてさまよう女の歌」 


だと・・・ そういう風に捉えておられるんだよね・・。

http://jikuhmin.jugem.jp/?eid=241


『いい日旅立ち』の状況設定に一番近いのは、人麻呂が軽の里に住む隠り妻が死んだと知らされた時に詠んだ長歌でしょうか:

柿本朝臣人麿が、妻の死し後、泣血哀慟してよめる歌二首、また短歌


207

天飛ぶや 輕の路は 我妹子(わぎもこ)が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み
数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと
大船の 思ひ頼みて かぎろひの 磐垣淵(いはかきふち)の
こもりのみ 恋ひつつあるに

渡る日の 暮れゆくがごと 照る月の 雲隠るごと
沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去(い)にしと
たまづさの 使の言へば 梓弓 音のみ聞きて
言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば

吾が恋ふる 千重の一重も 慰むる 心もありやと
我妹子が 止まず出で見し 輕の市に 吾が立ち聞けば
玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる

(あの軽の地は私の妻の里だから、よくよく見たいと思うけれども、しょっちゅうその道を行くと人目が多く、度々行けばきっと人が知るだろうから、後にでも会おうとそれを頼みに、心の中でばかりずっと恋しく思っているうちに、

空を渡る日が暮れていくように、照る月が雲に隠れるように、なびき寄って寝た妻は死んでしまった、そう使いの者が来て知らせてきた。

知らせを聞いて、どう言ってよいのかどうしてよいのか分からず、じっとしてもいられないので、自分が恋しく思っている千分の一でも慰められる気持ちにもなるだろうかと、妻がいつも出て見ていた軽の市に行って佇んで耳を傾けたが、懐かしい妻の声も聞こえず、道行く人も一人も妻に似た人が通らないので、どうしようもなく妻の名を呼んで、袖を振ったことだ。)

短歌二首

  208 秋山の黄葉を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも

 
(秋の山に、紅葉した草木が茂っていて、そこに迷い込んだ妻を捜す山道すらわかわない。)

  209 もちみ葉の散りぬるなべに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ


(もみじがはかなく散りゆく折りしも、文の使いをする人を見ると、妻と逢った日のことを思い出す。)


当時、死んだ人は自ら山路に入っていくと信じられていました。208では、まだ妻の死を認めようとせず、山道に迷い込んだだけだと思っている。しかし、時間を経た209では、やっと妻の死を現実のものと認め、静かな回想にふける。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~narara/newpage%202-207.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kome_1937/60599387.html
http://manyo.hix05.com/hitomaro/hitomaro.aido.html
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/mny0202.htm

男の場合は最愛の女性が死んでも後を追う事は考えられませんが、女性の場合にはよく聞く話ですね。 『いい日旅立ち』の歌詞を素直に読む限りは次の様にしか解釈できないと思います:

『帰らぬ 人たち 熱い胸を過ぎる』

は恋人(?)が亡くなったという事、


『雪解け 間近の 北の空に 向かい』

というのは死んだ恋人がまだこの世に未練があって、何処かの山中を彷徨っているという設定でしょう。

『過ぎ去りし 日々の夢を 叫ぶ時』

この女性は死んだ恋人と結婚の約束をしていて、将来の夢についていつも語り合っていた。


『日本のどこかに 私を待ってる 人が居る』

あの人はまだ何処かの山中で私が来るのをずっと待っている。


『砂に枯れ木で 書くつもり さようならと』

私もあの人を追ってこの世に別れを告げよう。

            ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、
          ,. ‐             ヽ
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       /     l  i ! | i  | |l'、ト ヽ iヽ ヽ  ',
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      ! i   ,.|!,.+‐'"| | | |i}  ' ュノェ|i,`i  l.| i
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2. トンネルの向こう側で待っている女性とは…


川端康成「雪国」

http://www.youtube.com/watch?v=pTLocmKL4FA
http://www.youtube.com/watch?v=v8d4ALkhK84

もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、

結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、
はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどろこなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、

ふとその指で窓ガラスに線を引くと、底に女の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。

http://goxdrl5zz3.doorblog.jp/archives/1608409.html


            ̄~^ヽ、;ヽ;;;;ヽ;:ヽ
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              ノ:ノ::ノ;/;;;;;i;;i   あ…ん? ああ…あああ…いや? いや? ダメぇ!
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  /^~"´ ̄-‐‐‐'''"´/:/;ノ;;;;ノ://
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雪国は作者が36歳の時から書き始められたものです。あらすじは、


主人公の島村が芸者・駒子を求めて北国の温泉宿にやってきます。

同じ電車に、美しい眼を持った葉子という女性が乗っていることを知りますが、この葉子は駒子の踊りの師匠の娘でした。

島村と駒子の関係が美しい文章でつづられます。やがて島村は葉子にも魅力を感じるようになります。物語の最後、繭倉(まゆくら)という建物が火事になり、火事の中に葉子がいることに気づいた駒子が葉子を助けに火の中に飛び込みます。

 この作品は冒頭から「宝石」に彩られています。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向かい側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。…

『駅長さあん、駅長さあん。』」

 あまりにも有名な書き出しです。トンネルを抜けると、積もった雪によって夜の底が白くなります。静かな信号所に、「駅長さあん」という葉子の美しい声が響き渡るのです。

 島村は電車の中のことを思い出します。


「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差し指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、…この指だけは女の感触で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、…ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。」(8頁)


 駒子の体を指が覚えていて、その指で窓ガラスに線を引くと、そこに向かい側の座席に座っていた葉子の美しい目が写ったのです。

「殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が震えたほどだった。…娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。」(10-11頁)

 何と美しい表現でしょう。葉子の眼が「夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫」だというのです。葉子の「顔のただなかに野山のともし火がともった時」との表現には、物語終わりの火事の場面が暗示されています。

 島村は村の温泉宿に投宿します。午後、駒子が遊びに来て、二人で外に出ます。

「…島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。…足もとから黄蝶が二羽飛び立った。蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遙(はる)かだった。」(28頁)

 駒子と山を登る。すると足もとから二羽の黄蝶が飛び立つ。蝶たちはまるで島村と駒子のようにもつれ合いながら、国境の山より高く青い空へと白く消えていくのです。作者の美的感覚には尋常ならざるものがあります。

 別の日には、島村が村を散歩していると芸者が5〜6人立ち話をしており、その中には駒子がいました。島村を見ると「咽(のど)まで染めて」しまいます。駒子は走って島村に追いつくと、彼女が住んでいる踊りの師匠の家に案内します。

「右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池(はすいけ)の氷は縁(ふち)に持ち上げてあって、緋鯉(ひごい)が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。」(51頁)

 駒子の部屋ははしごを登った二階の屋根裏部屋で、昔はここで蚕(かいこ)を飼っていたといいます。

「壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、…この部屋が宙に吊(つ)るさっているような気がしてきて、なにか不安定であった。…蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた」(52頁)

 傾いたような部屋はまるで繭のように吊られているようで、そこに駒子が透明な体で住んでいるような気がするのです。
 駒子は島村が泊まっている宿にも出ていますが、ある日駒子の走り書きを葉子が持ってきました。

「『どうもありがとう。手伝いに来てるの?』

『ええ。』と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。…

気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反(かえ)って、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。」(131-133頁)

 島村は駒子に加えて葉子にも魅力を感ずるのです。

 島村はそろそろこの温泉場から離れるはずみをつけるつもりで汽車に乗って、近くの街をうろついてみます。白い山を見て、島村はこんなことを思います。

「…一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴(とおなり)が耳の底を通るようだった。」(156頁)

 この山の遠鳴りは作者に実際に聞こえたようです。50歳の時に書いた「山の音」でそれが描写されています。

「…ふと信吾に山の音が聞こえた。…地鳴りとでもいうか深い底力があった。…音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした」(新潮文庫、2007年、10頁)

 タクシーで帰ってくると、小料理屋の前で芸者が3、4人立ち話をしており、その中に駒子がいます。二人で歩き始めると、「火事だ」との声が聞こえ、二人は駆けはじめます。駒子は踏切の手前で急に立ち止まると、

「『天の河。きれいねえ。』

駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。

 ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。…旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。…島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。」(163頁)

 島村は天の川のあざやかさに驚かされるだけでなく、逆に自分の影が空まで伸び、天の川の形になって夜空にかかる錯覚をみるのです。

 島村と駒子は火事の現場に着きます。

「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。

…落ちた女が葉子だと、島村も分かったのはいつだったろう。

…島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のと  もし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸がふるえた。

 駒子が島村の傍(そば)から飛び出していた。

…葉子を胸に抱えて戻ろうとした。…駒子に島村は近づこうとして、…踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」(171-173頁)

 「雪国」はこの非常に美しい「宝石」とともに終わるのです。

http://www.geocities.jp/hinomanabu/bungaku/yukiguni.html


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   @゙!         |::              !::        ノ

● スキイの季節前の温泉宿は最も客の少ない時で、島村が内湯から上がって来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏む度にガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲がり角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ拡げて、女が高く立っていた。  


● とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも「真面目」なものを受け取って、急いで行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、反って泣き面になったので、なにも言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。  
 

● …なにか彼女に気圧される甘い喜びにつつまれていた


● 女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。


● なにかすっと抜けたように涼しい姿


● 細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。


● …美人というよりもなによりも、清潔だった。


● なんともいえぬ清潔な美しさであった。


● 一人生真面目な顔つきであった。


● 百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上がっていて、なによりも清潔だった。


● 「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」

  「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。」  

 ⇒  十六の時:行男への恋心 今年:島村への恋心


● 「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか。」

  「しようがありませんわ。」

  「徒労だね。」

  「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。


 全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにか反って彼女の存在が純粋に感じられるのであった。

● 駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのであれば、島村の顔にはまた徒労という言葉が浮かんできた。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落としてまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。

 駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにか反って彼女の存在が純粋に感じられてくるのだった。

● (葉子の声の描写) 澄み上がって悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返ってきそうであった。


● (葉子の目つきの描写)それは遠いともし火のように冷たい
  


● そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。「気ちがいになるのかと心配だったわ。」   

⇒ 妊娠の予感→金銭の呪縛、師匠たちに顔向けできない

● (駒子、島村に) 「あんた、いい加減な人ね。」


● 少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、島村の顔を見つめた。 島村ははっと気圧された。

…忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったというよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと見を捨てて浮かぶよりしかたがなかった。  
 


● …だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。


 勧進帳が終わると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情けなかった。

・・・島村には虚しい徒労とも思われる、強い憧憬とも思われる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。

   ⇒  彼女の弾く「黒髪」:一度去って戻らぬ男を待ち暮らす女の悲しみを唄ったもの

● 情景
月はまるで青い氷のなかの刃のように澄み出ていた。 
 

● 「つらいわ。ねえ、あんたもう東京ヘ帰んなさい。つらいわ。」
と、駒子は火撥の上にそっと顔を伏せた。

 つらいとは、旅の人に深はまりしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。


「もう帰んなさい。」

「実は明日帰ろうと思っている。」

「あら、どうして帰るの?」

と、駒子は目が覚めたように顔を起こした。

「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか。」

 ぼうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、

「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」

と、じれったそうに立ち上がって来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、

「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば。」

と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。 それから温かく潤んだ目を開くと、

「ほんとに明日帰りなさいね。」

と、静かに言って、髪の毛を拾った。


● 駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振った。

「お客様を送ってるんだから、私帰れないわ。」

島村は驚いて、

「見送りなんて、そんなものいいから。」

「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私にはわかりゃしない。」

「来るよ、来るよ。」

…葉子「行男さんが呼んでる。」と、駒子を引っ張るのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、「いやよ。」

● 「素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。強情張らないでさらりと水に流せ。」


● 「いや、人の死ぬの見るなんか。」

それは冷たい博情とも、余りに熱い愛情とも聞こえるので、島村は迷っていると、

…「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど。


● 島村はわけ分からぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はいないのだという気がしてくると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。
  

● 無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた非現実的な魅力もあった。


● 「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持ちで生きてる人と違うわ。」


● 「わからないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」

「なにもかも散っちゃってるよ。

「今に命まで散らすわよ。」


●  (酔った駒子の膝の上に頭を乗せて)

目を閉じているとその熱が頭に染み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、だたもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。


● 駒子の愛情は彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。


● 葉子はあの射すように美しい目で島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。
  


● 駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突き当たる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降り積むように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。


● 最終シーン

駒子は芸者の長い裾をひいてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。(駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。)…


「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」

そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱きとろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。

http://home.b00.itscom.net/moonlit/book/novels/yukiguni.htm


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3. 異界の女性に魅せられた男の運命は…

川端康成 『片腕』

「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」

と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。

「ありがとう。」と私は膝を見た。娘の右腕のあたたかさが膝に伝わった。

「あ、指輪をはめておきますわ。あたしの腕ですというしるしにね。」

と娘は笑顔で左手を私の胸の前にあげた。「おねがい……。」


 左片腕になった娘は指輪を抜き取ることがむずかしい。

「婚約指輪じゃないの?」と私は言った。

「そうじゃないの。母の形見なの。」

 小粒のダイヤをいくつかならべた白金の指輪であった。

「あたしの婚約指輪と見られるでしょうけれど、それでもいいと思って、はめているんです。」と娘は言った。

「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようでさびしいんです。」

 私は娘の指から指輪を抜き取った。そして私の膝の上にある娘の腕を立てると、紅差し指にその指輪をはめながら、「この指でいいね?」

「ええ。」と娘はうなずいた。

「そうだわ。肘や指の関節がまがらないと、突っ張ったままでは、せっかくお持ちいただいても、義手みたいで味気ないでしょう。動くようにしておきますわ。」

そう言うと、私の手から自分の右腕を取って、肘に軽く唇をつけた。指のふしぶしにも軽く唇をあてた。

「これで動きますわ。」

「ありがとう。」私は娘の片腕を受け取った。


「この腕、ものも言うかしら? 話をしてくれるかしら?」


「腕は腕だけのことしか出来ないでしょう。

もし腕がものを言うようになったら、返していただいた後で、あたしがこわいじゃありませんの。でも、おためしになってみて……。

やさしくしてやっていただけば、お話を聞くぐらいのことはできるかもしれませんわ。」

「やさしくするよ。」

「行っておいで。」と娘は心を移すように、私が持った娘の右腕に左手の指を触れた。

「一晩だけれど、このお方のものになるのよ。」

 そして私を見る娘の目は涙が浮ぶのをこらえているようであった。

「お持ち帰りになったら、あたしの右腕を、あなたの右腕と、つけ替えてごらんになるようなことを……。」

と娘は言った。「なさってみてもいいわ。」

「ああ、ありがとう。」

 私は娘の右腕を雨外套のなかにかくして、もやの垂れこめた夜の町を歩いた。電車やタクシイに乗れば、あやしまれそうに思えた。娘のからだを離された腕がもし泣いたり、声を出したりしたら、騒ぎである。

 私は娘の腕のつけ根の円みを、右手で握って、左の胸にあてがっていた。その上を雨外套でかくしているわけだが、ときどき、左手で雨外套をさわって娘の腕をたしかめてみないではいられなかった。それは娘の腕をたしかめるのではなくて、私のよろこびをたしかめるしぐさであっただろう。

 娘は私の好きなところから自分の腕をはずしてくれていた。腕のつけ根であるか、肩のはしであるか、そこにぷっくりと円みがある。西洋の美しい細身の娘にある円みで、日本の娘には稀れである。それがこの娘にはあった。ほのぼのとういういしい光りの球形のように、清純で優雅な円みである。娘が純潔を失うと間もなくその円みの愛らしさも鈍ってしまう。たるんでしまう。美しい娘の人生にとっても、短いあいだの美しい円みである。それがこの娘にはあった。

肩のこの可憐な円みから娘のからだの可憐なすべてが感じられる。胸の円みもそう大きくなく、手のひらにはいって、はにかみながら吸いつくような固さ、やわらかさだろう。娘の肩の円みを見ていると、私には娘の歩く脚も見えた。細身の小鳥の軽やかな足のように、蝶が花から花へ移るように、娘は足を運ぶだろう。そのようにこまかな旋律は接吻する舌のさきにもあるだろう。


 袖なしの女服になる季節で、娘の肩は出たばかりであった。あらわに空気と触れることにまだなれていない肌の色であった。春のあいだにかくれながらうるおって、夏に荒れる前のつぼみのつやであった。私はその日の朝、花屋で泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたが、娘の肩の円みはその泰山木の白く大きいつぼみのようであった。娘の服は袖がないというよりなお首の方にくり取ってあった。腕のつけ根の肩はほどよく出ていた。服は黒っぽいほど濃い青の絹で、やわらかい照りがあった。このような円みの肩にある娘は背にふくらみがある。撫で肩のその円みが背のふくらみとゆるやかな波を描いている。やや斜めのうしろから見ると、肩の円みから細く長めな首をたどる肌が掻きあげた襟髪でくっきり切れて、黒い髪が肩の円みに光る影を映しているようであった。

 こんな風に私がきれいと思うのを娘は感じていたらしく、肩の円みをつけたところから右腕をはずして、私に貸してくれたのだった。

 雨外套のなかでだいじに握っている娘の腕は、私の手よりも冷たかった。心おどりに上気している私は手も熱いのだろうが、その火照りが娘の腕に移らぬことを私はねがった。娘の腕は娘の静かな体温のままであってほしかった。また手のなかのものの少しの冷たさは、そのもののいとしさを私に伝えた。人にさわられたことのない娘の乳房のようであった。

 雨もよいの夜のもやは濃くなって、帽子のない私の頭の髪がしめって来た。表戸をとざした薬屋の奥からラジオが聞えて、ただ今、旅客機が三機もやのために着陸出来なくて、飛行場の上を三十分も旋回しているとの放送だった。こういう夜は湿気で時計が狂うからと、ラジオはつづいて各家庭の注意をうながしていた。またこんな夜に時計のぜんまいをぎりぎりいっぱいに巻くと湿気で切れやすいと、ラジオは言っていた。私は旋回している飛行機の灯が見えるかと空を見あげたが見えなかった。空はありはしない。たれこめた湿気が耳にまではいって、たくさんのみみずが遠くに這うようなしめった音がしそうだ。ラジオはなおなにかの警告を聴取者に与えるかしらと、私は薬屋の前に立っていると、動物園のライオンや虎や豹などの猛獣が湿気を憤って吠える、それを聞かせるとのことで、動物のうなり声が地鳴りのようにひびいて来た。

ラジオはそのあとで、こういう夜は、妊婦や厭世家などは、早く寝床へはいって静かに休んでいて下さいと言った。またこういう夜は、婦人は香水をじかに肌につけると匂いがしみこんで取れなくなりますと言った。


 猛獣のうなり声が聞えた時に、私は薬屋の前から歩き出していたが、香水についての注意まで、ラジオは私を追って来た。猛獣たちが憤るうなりは私をおびやかしたので、娘の腕にもおそれが伝わりはしないかと、私は薬屋のラジオの声を離れたのであった。娘は妊婦でも厭世家でもないけれども、私に片腕を貸してくれて片腕になった今夜は、やはりラジオの注意のように、寝床で静かに横たわっているのがいいだろうと、私には思われた。片腕の母体である娘が安らかに眠っていてくれることをのぞんだ。

 通りを横切るのに、私は左手で雨外套の上から娘の腕をおさえた。車の警笛が鳴った。脇腹に動くものがあって私は身をよじった。娘の腕が警笛におびえてか指を握りしめたのだった。

「心配ないよ。」と私は言った。

「車は遠いよ。見通しがきかないので鳴らしているだけだよ。」

 私はだいじなものをかかえているので、道のあとさきをよく見渡してから横切っていたのである。その警笛も私のために鳴らされたとは思わなかったほどだが、車の来る方をながめると人影はなかった。その車は見えなくて、ヘッド・ライトだけが見えた。その光りはぼやけてひろがって薄むらさきであった。めずらしいヘッド・ライトの色だから、私は道を渡ったところに立って、車の通るのをながめた。

朱色の服の若い女が運転していた。女は私の方を向いて頭をさげたようである。とっさに私は娘が右腕を取り返しに来たのかと、背を向けて逃げ出しそうになったが、左の片腕だけで運転出来るはずはない。しかし車の女は私が娘の片腕をかかえていると見やぶったのではなかろうか。娘の腕と同性の女の勘である。私の部屋へ帰るまで女には出会わぬように気をつけなければなるまい。女の車はうしろのライトも薄むらさきであった。やはり車体は見えなくて、灰色のもやのなかを、薄むらさきの光りがぼうっと浮いて遠ざかった。


「あの女はなんのあてもなく車を走らせて、ただ車を走らせるために走らせずにはいられなくて、走らせているうちに、姿が消えてなくなってしまうのじゃないかしら……。」と私はつぶやいた。

「あの車、女のうしろの席にはなにが坐っていたのだろう。」

 なにも坐っていなかったようだ。なにも坐っていないのを不気味に感じるのは、私が娘の片腕をかかえていたりするからだろうか。あの女の車にもしめっぽい夜のもやは乗せていた。そして女のなにかが車の光りのさすもやを薄むらさきにしていた。女のからだが紫色の光りを放つことなどあるまいとすると、なにだったのだろうか。こういう夜にひとりで車を走らせている若い女が虚しいものに思えたりするのも、私のかくし持った娘の腕のせいだろうか。

女は車のなかから娘の片腕に会釈したのだったろうか。こういう夜には、女性の安全を見まわって歩く天使か妖精があるのかもしれない。あの若い女は車に乗っていたのではなくて、紫の光りに乗っていたのかもしれない。虚しいどころではない。私の秘密を見すかして行った。


 しかしそれからは一人の人間にも行き会わないで、私はアパアトメントの入口に帰りついた。扉のなかのけはいをうかがって立ちどまった。頭の上に蛍火が飛んで消えた。蛍の火にしては大き過ぎ強過ぎると気がつくと、私はとっさに四五歩後ずさりしていた。また蛍のような火が二つ三つ飛び流れた。その火は濃いもやに吸いこまれるよりも早く消えてしまう。人魂か鬼火のようになにものかが私の先きまわりをして、帰りを待ちかまえているのか。しかしそれが小さい蛾の群れであるとすぐにわかった。蛾のつばさが入口の電灯の光りを受けて蛍火のように光るのだった。蛍火よりは大きいけれども、蛍火と見まがうほどに蛾としては小さかった。

 私は自動のエレベエタアも避けて、狭い階段をひっそり三階へあがった。左利きでない私は、右手を雨外套のなかに入れたまま左手で扉の鍵をあけるのは慣れていない。気がせくとなお手先きがふるえて、それが犯罪のおののきに似て来ないか。部屋のなかになにかがいそうに思える。私のいつも孤独の部屋であるが、孤独ということは、なにかがいることではないのか。娘の片腕と帰った今夜は、ついぞなく私は孤独ではないが、そうすると、部屋にこもっている私の孤独が私をおびやかすのだった。


「先きにはいっておくれよ。」

私はやっと扉が開くと言って、娘の片腕を雨外套のなかから出した。

「よく来てくれたね。これが僕の部屋だ。明りをつける。」

「なにかこわがっていらっしゃるの?」

と娘の腕は言ったようだった。

「だれかいるの?」

「ええっ? なにかいそうに思えるの?」

「匂いがするわ。」

「匂いね? 僕の匂いだろう。暗がりに僕の大きい影が薄ぼんやり立っていやしないか。よく見てくれよ。僕の影が僕の帰りを待っていたのかもしれない。」

「あまい匂いですのよ。」

「ああ、泰山木の花の匂いだよ。」

と私は明るく言った。私の不潔で陰湿な孤独の匂いでなくてよかった。泰山木のつぼみを生けておいたのは、可憐な客を迎えるのに幸いだった。私は闇に少し目がなれた。真暗だったところで、どこになにがあるかは、毎晩のなじみでわかっている。

「あたしに明りをつけさせて下さい。」

娘の腕が思いがけないことを言った。

「はじめてうかがったお部屋ですもの。」

「どうぞ。それはありがたい。僕以外のものがこの部屋の明りをつけてくれるのは、まったくはじめてだ。」


 私は娘の片腕を持って、手先きが扉の横のスイッチにとどくようにした。天井の下と、テエブルの上と、ベッドの枕もとと、台所と、洗面所のなかと、五つの電灯がいち時についた。私の部屋の電灯はこれほど明るかったのかと、私の目は新しく感じた。

 ガラスびんの泰山木が大きい花をいっぱいに開いていた。今朝はつぼみであった。開いて間もないはずなのに、テエブルの上にしべを落ち散らばらせていた。それが私はふしぎで、白い花よりもこぼれたしべをながめた。しべを一つ二つつまんでながめていると、テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。私は娘の手のなかのしべを受け取ると、屑籠へ捨てに立って行った。

「きついお花の匂いが肌にしみるわ。助けて……。」

と娘の腕が私を呼んだ。


「ああ。ここへ来る道で窮屈な目にあわせて、くたびれただろう。しばらく静かにやすみなさい。」

とベッドの上に娘の腕を横たえて、私もそばに腰をかけた。そして娘の腕をやわらかくなでた。


「きれいで、うれしいわ。」

娘の腕がきれいと言ったのは、ベッド・カバアのことだろう。水色の地に三色の花模様があった。孤独の男には派手過ぎるだろう。

「このなかで今晩おとまりするのね。おとなしくしていますわ。」

「そう?」

「おそばに寄りそって、おそばになんにもいないようにしてますわ。」

 そして娘の手がそっと私の手を握った。娘の指の爪はきれいにみがいて薄い石竹色に染めてあるのを私は見た。指さきより長く爪はのばしてあった。

 私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。

うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。

 私は娘の手に握られていない方の手の、人差し指に娘の小指をのせて、その細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた。いつとなく私の人差し指は娘の爪の廂(ひさし)にかくれた、小指のさきにふれた。ぴくっと娘の指が縮まった。肘もまがった。

「あっ、くすぐったいの?」

と私は娘の片腕に言った。

「くすぐったいんだね。」

 うかつなことをつい口に出したものである。爪を長くのばした女の指さきはくすぐったいものと、私は知っている、つまり私はこの娘のほかの女をかなりよく知っていると、娘の片腕に知らせてしまったわけである。

 私にこの片腕を一晩貸してくれた娘にくらべて、ただ年上と言うより、もはや男に慣れたと言う方がよさそうな女から、このような爪にかくれた指さきはくすぐったいのを、私は前に聞かされたことがあったのだ。長い爪のさきでものにさわるのが習わしになっていて、指さきではさわらないので、なにかが触れるとくすぐったいと、その女は言った。

「ふうん。」私は思わぬ発見におどろくと、女はつづけて、

「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの。そうなのよ、ほんとうに……。」

 不潔とは、食べものが不潔になるというのか、爪さきが不潔になるというのか。おそらく、指さきになにがさわっても、女は不潔感にわななくのであろう。女の純潔の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている。
 女の手の指さきをさわりたくなった、誘惑は自然であったけれども、私はそれだけはしなかった。私自身の孤独がそれを拒んだ。からだの、どこかにさわられてもくすぐったいところは、もうほとんどなくなっているような女であった。

 片腕を貸してくれた娘には、さわられてくすぐったいところが、からだじゅうにあまたあるだろう。そういう娘の手の指さきをくすぐっても、私は罪悪とは思わなくて、愛玩と思えるかもしれない。しかし娘は私にいたずらをさせるために、片腕を貸してくれたのではあるまい。私が喜劇にしてはいけない。

「窓があいている。」と私は気がついた。ガラス戸はしまっているが、カアテンがあいている。

「なにかがのぞくの?」

と娘の片腕が言った。

「のぞくとしたら、人間だね。」

「人間がのぞいても、あたしのことは見えないわ。のぞき見するものがあるとしたら、あなたの御自分でしょう。」

「自分……? 自分てなんだ。自分はどこにあるの?」

「自分は遠くにあるの。」

と娘の片腕はなぐさめの歌のように、

「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

「行き着けるの?」

「自分は遠くにあるのよ。」

娘の腕はくりかえした。


 ふと私には、この片腕とその母体の娘とは無限の遠さにあるかのように感じられた。この片腕は遠い母体のところまで、はたして帰り着けるのだろうか。私はこの片腕を遠い娘のところまで、はたして返しに行き着けるのだろうか。娘の片腕が私を信じて安らかなように、母体の娘も私を信じてもう安らかに眠っているだろうか。右腕のなくなったための違和、また凶夢はないか。娘は右腕に別れる時、目に涙が浮ぶのをこらえていたようではなかったか。片腕は今私の部屋に来ているが、娘はまだ来たことがない。

 窓ガラスは湿気に濡れ曇っていて、蟾蜍の腹皮を張ったようだ。霧雨を空中に静止させたようなもやで、窓のそとの夜は距離を失い、無限の距離につつまれていた。家の屋根も見えないし、車の警笛も聞えない。

「窓をしめる。」と私はカアテンを引こうとすると、カアテンもしめっていた。窓ガラスに私の顔がうつっていた。私のいつもの顔より若いかに見えた。しかし私はカアテンを引く手をとどめなかった。私の顔は消えた。

 ある時、あるホテルで見た、九階の客室の窓がふと私の心に浮んだ。裾のひらいた赤い服の幼い女の子が二人、窓にあがって遊んでいた。同じ服の同じような子だから、ふた子かもしれなかった。西洋人の子どもだった。二人の幼い子は窓ガラスを握りこぶしでたたいたり、窓ガラスに肩を打ちつけたり、相手を押し合ったりしていた。母親は窓に背を向けて、編みものをしていた。窓の大きい一枚ガラスがもしわれるかはずれかしたら、幼い子は九階から落ちて死ぬ。あぶないと見たのは私で、二人の子もその母親もまったく無心であった。しっかりした窓ガラスに危険はないのだった。

 カアテンを引き終って振り向くと、ベッドの上から娘の片腕が、

「きれいなの。」

と言った。カアテンがベッド・カバアと同じ花模様の布だからだろう。

「そう? 日にあたって色がさめた。もうくたびれているんだよ。」

私はベッドに腰かけて、娘の片腕を膝にのせた。

「きれいなのは、これだな。こんなきれいなものはないね。」

 そして、私は右手で娘のたなごころと握り合わせ、左手で娘の腕のつけ根を持って、ゆっくりとその腕の肘をまげてみたり、のばしてみたりした。くりかえした。


「いたずらっ子ねえ。」

と娘の片腕はやさしくほほえむように言った。

「こんなことなさって、おもしろいの?」

「いたずらなもんか。おもしろいどころじゃない。」

ほんとうに娘の腕には、ほほえみが浮んで、そのほほえみは光りのように腕の肌をゆらめき流れた。娘の頬のみずみずしいほほえみとそっくりであった。


 私は見て知っている。娘はテエブルに両肘を突いて、両手の指を浅く重ねた上に、あごをのせ、また片頬をおいたことがあった。若い娘としては品のよくない姿のはずだが、突くとか重ねるとか置くとかいう言葉はふさわしくない、軽やかな愛らしさである。腕のつけ根の円みから、手の指、あご、頬、耳、細長い首、そして髪までが一つになって、楽曲のきれいなハアモニイである。

娘はナイフやフォウクを上手に使いながら、それを握った指のうちの人差し指と小指とを、折り曲げたまま、ときどき無心にほんの少し上にあげる。食べものを小さい唇に入れ、噛んで、呑みこむ、この動きも人間がものを食っている感じではなくて、手と顔と咽とが愛らしい音楽をかなでていた。娘のほほえみは腕の肌にも照り流れるのだった。


 娘の片腕がほほえむと見えたのは、その肘を私がまげたりのばしたりするにつれて、娘の細く張りしまった腕の筋肉が微妙な波に息づくので、微妙な光りとかげとが腕の白くなめらかな肌を移り流れるからだ。さっき、私の指が娘の長い爪のかげの指さきにふれて、ぴくっと娘の腕が肘を折り縮めた時、その腕に光りがきらめき走って、私の目を射たものだった。それで私は娘の肘をまげてみているので、決していたずらではなかった。肘をまげ動かすのを、私はやめて、のばしたままじっと膝においてながめても、娘の腕にはういういしい光りとかげとがあった。


「おもしろいいたずらと言うなら、僕の右腕とつけかえてみてもいいって、ゆるしを受けて来たの、知ってる?」

と私は言った。


「知ってますわ。」と娘の右腕は答えた。

「それだっていたずらじゃないんだ。僕は、なんかこわいね。」

「そう?」

「そんなことしてもいいの」

「いいわ」

「…………。」

私は娘の腕の声を、はてなと耳に入れて、

「いいわ、って、もう一度……。」

「いいわ。いいわ。」


 私は思い出した。私に身をまかせようと覚悟をきめた、ある娘の声に似ているのだ。片腕を貸してくれた娘ほどには、その娘は美しくなかった。そして異常であったかもしれない。

「いいわ。」

とその娘は目をあけたまま私を見つめた。私は娘の上目ぶたをさすって、閉じさせようとした。娘はふるえ声で言った。


「(イエスは涙をお流しになりました。《ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。》とユダヤ人たちは言いました。)」

「…………。」


「彼女」は「彼」の誤りである。死んだラザロのことである。女である娘は「彼」を「彼女」とまちがえておぼえていたのか、あるいは知っていて、わざと「彼女」と言い変えたのか。

 私は娘のこの場にあるまじい、唐突で奇怪な言葉に、あっけにとられた。娘のつぶった目ぶたから涙が流れ出るかと、私は息をつめて見た。

 娘は目をあいて胸を起こした。その胸を私の腕が突き落とした。

「いたいっ。」

と娘は頭のうしろに手をやった。

「いたいわ。」

 白いまくらに血が小さくついていた。私は娘の髪をかきわけてさぐった。血のしずくがふくらみ出ているのに、私は口をつけた。

「いいのよ。血はすぐ出るのよ、ちょっとしたことで。」

娘は毛ピンをみな抜いた。毛ピンが頭に刺さったのであった。

 娘は肩が痙攣しそうにしてこらえた。

 私は女の身をまかせる気もちがわかっているようながら、納得しかねるものがある。身をまかせるのをどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。女のからだはすべてそういう風にできていると、私は知ってからも信じかねた。この年になっても、私はふしぎでならない。そしてまた、女のからだと身をまかせようとは、ひとりひとりちがうと思えばちがうし、似ていると思えば似ているし、みなおなじと思えばおなじである。これも大きいふしぎではないか。私のこんなふしぎがりようは、年よりもよほど幼い憧憬かもしれないし、年よりも老けた失望かもしれない。心のびっこではないだろうか。

 その娘のような苦痛が、身をまかせるすべての女にいつもあるものではなかった。その娘にしてもあの時きりであった。銀のひもは切れ、金の皿はくだけた。

「いいわ。」と娘の片腕の言ったのが、私にその娘を思い出させたのだけれども、片腕のその声とその娘の声とは、はたして似ているのだろうか。おなじ言葉を言ったので、似ているように聞えたのではなかったか。おなじ言葉を言ったにしても、それだけが母体を離れて来た片腕は、その娘とちがって自由なのではないか。またこれこそ身をまかせたというもので、片腕は自制も責任も悔恨もなくて、なんでも出来るのではないか。しかし、「いいわ。」と言う通りに、娘の右腕を私の右腕とつけかえたりしたら、母体の娘は異様な苦痛におそわれそうにも、私には思えた。
 私は膝においた娘の片腕をながめつづけていた。肘の内側にほのかな光りのかげがあった。それは吸えそうであった。私は娘の腕をほんの少しまげて、その光りのかげをためると、それを持ちあげて、唇をあてて吸った。


「くすぐったいわ。いたずらねえ。」

と娘の腕は言って、唇をのがれるように、私の首に抱きついた。

「いいものを飲んでいたのに……。」と私は言った。

「なにをお飲みになったの?」

「…………。」

「なにをお飲みになったの?」

「光りの匂いかな、肌の。」


 そとのもやはなお濃くなっているらしく、花びんの泰山木の葉までしめらせて来るようであった。ラジオはどんな警告を出しているだろう。私はベッドから立って、テエブルの上の小型ラジオの方に歩きかけたがやめた。娘の片腕に首を抱かれてラジオを聞くのはよけいだ。しかし、ラジオはこんなことを言っているように思われた。たちの悪い湿気で木の枝が濡れ、小鳥のつばさや足も濡れ、小鳥たちはすべり落ちていて飛べないから、公園などを通る車は小鳥をひかぬように気をつけてほしい。もしなまあたたかい風が出ると、もやの色が変るかもしれない。色の変ったもやは有害で、それが桃色になったり紫色になったりすれば、外出はひかえて、戸じまりをしっかりしなければならない。


「もやの色が変る? 桃色か紫色に?」

と私はつぶやいて、窓のカアテンをつまむと、そとをのぞいた。もやがむなしい重みで押しかかって来るようであった。夜の暗さとはちがう薄暗さが動いているようなのは、風が出たのであろうか。もやの厚みは無限の距離がありそうだが、その向うにはなにかすさまじいものが渦巻いていそうだった。

 さっき、娘の右腕を借りて帰る道で、朱色の服の女の車が、前にもうしろにも、薄むらさきの光りをもやのなかに浮べて通ったのを、私は思い出した。紫色であった。もやのなかからぼうっと大きく薄むらさきの目玉が追って来そうで、私はあわててカアテンをはなした。


「寝ようか。僕らも寝ようか。」

 この世に起きている人はひとりもないようなけはいだった。こんな夜に起きているのはおそろしいことのようだ。

 私は首から娘の腕をはずしてテエブルにおくと、新しい寝間着に着かえた。寝間着はゆかたであった。娘の片腕は私が着かえるのを見ていた。私は見られているはにかみを感じた。この自分の部屋で寝間着に着かえるところを女に見られたことはなかった。

 娘の片腕をかかえて、私はベッドにはいった。娘の腕の方を向いて、胸寄りにその指を軽く握った。娘の腕はじっとしていた。

 小雨のような音がまばらに聞えた。もやが雨に変ったのではなく、もやがしずくになって落ちるのか、かすかな音であった。

 娘の片腕は毛布のなかで、また指が私の手のひらのなかで、あたたまって来るのが私にわかったが、私の体温にはまだとどかなくて、それが私にはいかにも静かな感じであった。

「眠ったの?」

「いいえ。」と娘の腕は答えた。

「動かないから、眠っているのかと思った。」


 私はゆかたをひらいて、娘の腕を胸につけた。あたたかさのちがいが胸にしみた。むし暑いようで底冷たいような夜に、娘の腕の肌ざわりはこころよかった。
 部屋の電灯はみなついたままだった。ベッドにはいる時消すのを忘れた。

「そうだ。明りが……。」と起きあがると、私の胸から娘の片腕が落ちた。

「あ。」私は腕を拾い持って、

「明りを消してくれる?」


 そして扉へ歩きながら、

「暗くして眠るの? 明りをつけたまま眠るの?」

「…………。」


 娘の片腕は答えなかった。腕は知らぬはずはないのに、なぜ答えないのか。私は娘の夜の癖を知らない。明りをつけたままで眠っているその娘、また暗がりのなかで眠っているその娘を、私は思い浮べた。右腕のなくなった今夜は、明るいままにして眠っていそうである。私も明りをなくするのがふと惜しまれた。もっと娘の片腕をながめていたい。先きに眠った娘の腕を、私が起きていてみたい。しかし娘の腕は扉の横のスイッチを切る形に指をのばしていた。

 闇のなかを私はベッドにもどって横たわった。娘の片腕を胸の横に添い寝させた。腕の眠るのを待つように、じっとだまっていた。娘の腕はそれがもの足りないのか、闇がこわいのか、手のひらを私の胸の脇にあてていたが、やがて五本の指を歩かせて私の胸の上にのぼって来た。おのずと肘がまがって私の胸に抱きすがる恰好になった。

 娘のその片腕は可愛い脈を打っていた。娘の手首は私の心臓の上にあって、脈は私の鼓動とひびき合った。娘の腕の脈の方が少しゆっくりだったが、やがて私の心臓の鼓動とまったく一致して来た。私は自分の鼓動しか感じなくなった。どちらが早くなったのか、どちらがおそくなったのかわからない。

 手首の脈搏と心臓の鼓動とのこの一致は、今が娘の右腕と私の右腕とをつけかえてみる、そのために与えられた短い時なのかもしれぬ。いや、ただ娘の腕が寝入ったというしるしであろうか。失心する狂喜に酔わされるよりも、そのひとのそばで安心して眠れるのが女はしあわせだと、女が言うのを私は聞いたことがあるけれども、この娘の片腕のように安らかに私に添い寝した女はなかった。

 娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次のを打つ、そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまで遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。しかし私は枕もとのスイッチをさぐった。

 けれども、明りをつける前に、毛布をそっとまくってみた。娘の片腕は知らないで眠っていた。はだけた私の胸をほの白くやさしい微光が巻いていた。私の胸からぽうっと浮び出た光りのようであった。私の胸からそれは小さい日があたたかくのぼる前の光りのようであった。

 私は明りをつけた。娘の腕を胸からはなすと、私は両方の手をその腕のつけ根と指にかけて、真直ぐにのばした。五燭の弱い光りが、娘の片腕のその円みと光りのかげとの波をやわらかくした。つけ根の円み、そこから細まって二の腕のふくらみ、また細まって肘のきれいな円み、肘の内がわのほのかなくぼみ、そして手首へ細まってゆく円いふくらみ、手の裏と表から指、私は娘の片腕を静かに廻しながら、それにゆらめく光とかげの移りをながめつづけていた。

「これはもうもらっておこう。」とつぶやいたのも気がつかなかった。

 そして、うっとりとしているあいだのことで、自分の右腕を肩からはずして娘の右腕を肩につけかえたのも、私はわからなかった。

「ああっ。」という小さい叫びは、娘の腕の声だったか私の声だったか、とつぜん私の肩に痙攣が伝わって、私は右腕のつけかわっているのを知った。

 娘の片腕はミミ今は私の腕なのだが、ふるえて空をつかんだ。私はその腕を曲げて口に近づけながら、


「痛いの? 苦しいの?」

「いいえ。そうじやない。そうじやないの。」

とその腕が切れ切れに早く言ったとたんに、戦慄の稲妻が私をつらぬいた。私はその腕の指を口にくわえていた。

「…………。」

よろこびを私はなんと言ったか、娘の指が舌にさわるだけで、言葉にはならなかった。

「いいわ。」

と娘の腕は答えた。ふるえは勿論とまっていた。

「そう言われて来たんですもの。でも……。」

 私は不意に気がついた。私の口は娘の指を感じられるが、娘の右腕の指、つまり私の右腕の指は私の唇や歯を感じられない。私はあわてて右腕を振ってみたが、腕を振った感じはない。肩のはし、腕のつけ根に、遮断があり、拒絶がある。

「血が通わない。」と私は口走った。

「血が通うのか、通わないのか。」


 恐怖が私をおそった。私はベッドに坐っていた。かたわらに私の片腕が落ちている。それが目にはいった。自分をはなれた自分の腕はみにくい腕だ。それよりもその腕の脈はとまっていないか。娘の片腕はあたたかく脈を打っていたが、私の右腕は冷えこわばってゆきそうに見えた。私は肩についた娘の右腕で自分の右腕を握った。握ることは出来たが、握った感覚はなかった。

「脈はある?」と私は娘の右腕に聞いた。

「冷たくなってない?」

「少うし……。あたしよりほんの少うしね。」

と娘の片腕は答えた。

「あたしが熱くなったからよ。」


 娘の片腕が「あたし」という一人称を使った。私の肩につけられて、私の右腕となった今、はじめて自分のことを「あたし」と言ったようなひびきを、私の耳は受けた。

「脈も消えてないね?」と私はまた聞いた。

「いやあね。お信じになれないのかしら……?」

「なにを信じるの?」

「御自分の腕をあたしと、つけかえなさったじゃありませんの?」

「だけど血が通うの?」

「(女よ、誰をさがしているのか。)というの、ごぞんじ?」

「知ってるよ。(女よ、なぜ泣いているのか。誰をさがしているのか。)」

「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」


 今「あたし」と言ったのは、もちろん、私の右肩についた愛らしい腕の母体のことにちがいない。聖書のこの言葉は、永遠の場で言われた、永遠の声のように、私は思えて来た。

「夢にうなされてないかしら、寝苦しくて……。」

と私は片腕の母体のことを言った。

「そとは悪魔の群れがさまようためのような、もやだ。しかし悪魔だって、からだがしっけて、咳をしそうだ。」

「悪魔の咳なんか聞えませんように……。」

と娘の右腕は私の右腕を握ったまま、私の右の耳をふさいだ。

 娘の右腕は、じつは今私の右腕なのだが、それを動かしたのは、私ではなくて、娘の腕のこころのようであった。いや、そう言えるほどの分離はない。


「脈、脈の音……。」

 私の耳は私自身の右腕の脈を聞いた。娘の腕は私の右腕を握ったまま耳へ来たので、私の手首が耳に押しつけられたわけだった。私の右腕には体温もあった。娘の腕が言った通りに、私の耳や娘の指よりは少うし冷たい。


「魔よけしてあげる……。」

といたずらっぽく、娘の小指の小さく長い爪が私の耳のなかをかすかに掻いた。私は首を振って避けた。左手、これはほんとうの私の手で、私の右の手首、じつは娘の右の手首をつかまえた。そして顔をのけぞらせた私に、娘の小指が目についた。

 娘の手は四本の指で、私の肩からはずした右腕を握っていた。小指だけは遊ばせているとでもいうか、手の甲の方にそらせて、その爪の先きを軽く私の右腕に触れていた。しなやかな若い娘の指だけができる、固い手の男の私には信じられぬ形の、そらせようだった。小指のつけ根から、直角に手のひらの方へ曲げている。そして次ぎの指関節も直角に曲げ、その次ぎの指関節もまた直角に折り曲げている。そうして小指はおのずと四角を描いている。四角の一辺は紅差し指である。

 この四角い窓を、私の目はのぞく位置にあった。窓というにはあまりに小さくて、透き見穴か眼鏡というのだろうが、なぜか私には窓と感じられた。すみれの花が外をながめるような窓だ。ほのかな光りがあるほどに白い小指の窓わく、あるいは眼鏡の小指のふち、それを私はなお目に近づけた。片方の目をつぶった。


「のぞきからくり……?」

と娘の腕は言った。

「なにかお見えになります?」

「薄暗い自分の古部屋だね、五燭の電灯の……。」

と私は言い終らぬうち、ほとんど叫ぶように、

「いや、ちがう。見える。」

「なにが見えるの。」

「もう見えない。」

「なにがお見えになったの?」

「色だね。薄むらさきの光りだね、ぼうっとした……。その薄むらさきのなかに、赤や金の粟粒のように小さい輪が、くるくるたくさん飛んでいた。」

「おつかれなのよ。」


 娘の片腕は私の右腕をベッドに置くと、私の目ぶたを指の腹でやわらかくさすってくれた。


「赤や金のこまかい輪は、大きな歯車になって、廻るのもあったかしら……。その歯車のなかに、なにかが動くか、なにかが現われたり消えたりして、見えたかしら……。」

 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとどまらぬ、たまゆらの幻だった。その幻がなんであったか、私は思い出せないので、


「なにの幻を見せてくれたかったの?」

「いいえ。あたしは幻を消しに来ているのよ。」

「過ぎた日の幻をね、あこがれやかなしみの……。」

 娘の指と手のひらの動きは、私の目ぶたの上で止まった。


「髪は、ほどくと、肩や腕に垂れるくらい、長くしているの?」

私は思いもかけぬ問いが口に出た。

「はい。とどきます。」

と娘の片腕は答えた。

「お風呂で髪を洗うとき、お湯をつかいますけれど、あたしの癖でしょうか、おしまいに、水でね、髪の毛が冷たくなるまで、ようくすすぐんです。その冷たい髪が肩や腕に、それからお乳の上にもさわるの、いい気持なの。」


 もちろん、片腕の母体の乳房である。それを人に触れさせたことのないだろう娘は、冷たく濡れた洗い髪が乳房にさわる感じなど、よう言わないだろう。娘のからだを離れて来た片腕は、母体の娘のつつしみ、あるいははにかみからも離れているのか。

 私は娘の右腕、今は私の右腕になっている、その腕のつけ根の可憐な円みを、自分の左の手のひらにそっとつつんだ。娘の胸のやはりまだ大きくない円みが、私の手のひらのなかにあるかのように思えて来た。肩の円みが胸の円みのやわらかさになって来る。

 そして娘の手は私の目の上に軽くあった。その手のひらと指とは私の目ぶたにやさしく吸いついて、目ぶたの裏にしみとおった。目ぶたの裏があたたかくしめるようである。そのあたたかいしめりは目の球のなかにもしみひろがる。


「血が通っている。」と私は静かに言った。

「血が通っている。」


 自分の右腕と娘の右腕とをつけかえたのに気がついた時のような、おどろきの叫びはなかった。私の肩にも娘の腕にも、痙攣や戦慄などはさらになかった。いつのまに、私の血は娘の腕に通い、娘の腕の血が私のからだに通ったのか。腕のつけ根にあった、遮断と拒絶とはいつなくなったのだろうか。清純な女の血が私のなかに流れこむのは、現に今、この通りだけれど、私のような男の汚濁の血が娘の腕にはいっては、この片腕が娘の肩にもどる時、なにかがおこらないか。もとのように娘の肩にはつかなかったら、どうずればいいだろう。


「そんな裏切りはない。」と私はつぶやいた。

「いいのよ。」と娘の腕はささやいた。

 しかし、私の肩と娘の腕とには、血がかよって行ってかよって来るとか、血が流れ合っているとかいう、ことごとしい感じはなかった。右肩をつつんだ私の左の手のひらが、また私の右肩である娘の肩の円みが、自然にそれを知ったのであった。いつともなく、私も娘の腕もそれを知っていた。そうしてそれは、うっとりととろけるような眠りにひきこむものであった。


 私は眠った。

 たちこめたもやが淡い紫に色づいて、ゆるやかに流れる大きい波に、私はただよっていた。その広い波のなかで、私のからだが浮んだところだけには、薄みどりのさざ波がひらめいていた。私の陰湿な孤独の部屋は消えていた。私は娘の右腕の上に、自分の左手を軽くおいているようであった。娘の指は泰山木の花のしべをつまんでいるようであった。見えないけれども匂った。しべは屑籠へ捨てたはずなのに、いつ、どうして拾ったのか。一日の花の白い花びらはまだ散らないのに、なぜしべが先きに落ちたのか。朱色の服の若い女の車が、私を中心に遠い円をえがいて、なめらかにすべっていた。私と娘の片腕との眠りの安全を見まもっているようであった。

 こんな風では、眠りは浅いのだろうけれども、こんなにあたたかくあまい眠りはついぞ私にはなかった。いつもは寝つきの悪さにべッドで悶々とする私が、こんなに幼い子の寝つきをめぐまれたことはなかった。

 娘のきゃしゃな細長い爪が私の左の手のひらを可愛く掻いているような、そのかすかな触感のうちに、私の眠りは深くなった。私はいなくなった。

「ああっ。」私は自分の叫びで飛び起きた。ベッドからころがり落ちるようにおりて、三足四足よろめいた。

 ふと目がさめると、不気味なものが横腹にさわっていたのだ。私の右腕だ。

 私はよろめく足を踏みこたえて、ベッドに落ちている私の右腕を見た。呼吸がとまり、血が逆流し、全身が戦慄した。私の右腕が目についたのは瞬間だった。次ぎの瞬間には、娘の腕を肩からもぎ取り、私の右腕とつけかえていた。魔の発作の殺人のようだった。

 私はベッドの前に膝をつき、ベッドに胸を落して、今つけたばかりの自分の右腕で、狂わしい心臓の上をなでさすっていた。動悸がしずまってゆくにつれて、自分のなかよりも深いところからかなしみが噴きあがって来た。


「娘の腕は……?」私は顔をあげた。

 娘の片腕はベッドの裾に投げ捨てられていた。はねのけた毛布のみだれのなかに、手のひらを上向けて投げ捨てられていた。のばした指先きも動いていない。薄暗い明りにほの白い。

「ああ。」

 私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を唇にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html


山の向こうに住んでいる人間はみんな…

802:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:33:30.90 0

川端康成の「雪国」は死後の世界
みんな幽霊という設定

803:tky10-p121.flets.hi-ho.ne.jp:2011/01/22(土) 22:35:37.56 0

ちなみに千と千尋も死後の世界だね
トンネル抜けるとそこは黄泉の国ということ

http://2chnull.info/r/morningcoffee/1295616090/1-1001


講演の中で、奥野健男は川端康成の「雪国」に触れ、実際に川端康成と話したときのことを語ってくれた。

川端によると「雪国」というのは「黄泉の国」で、いわゆるあの世であるらしい。


  「雪国」があの世であるというのは何となくわかる気がする。島村はこの世とあの世を交互に行き交い、あの世で駒子と会うのである。駒子とはあの世でしか会えないし、この世にくることはない。島村と駒子をつなぐ糸は島村の左手の人差指である。島村が駒子に会いにくるのも1年おきぐらいというのも天の川伝説以外に何かを象徴しているのだろうか。

  とてつもなく哀しく、美しい声をもつ葉子はさしずめ神の言葉を語る巫女なのか。その巫女の語る言葉に島村は敏感に反応するのだ。もしかしたら葉子は神の使いなのかもしれない。

 駒子は葉子に対して「あの人は気違いになる」というのは、葉子が神性を帯びているからではないのか。

 日本人とって、あの世とは無の世界ではない。誰もが帰るべき、なつかしい世界である。あいまいな小説「雪国」がなぜか私になつかしい思いをさせるのはやはり「雪国」が黄泉の国だからなのだろうか。

http://www.w-kohno.co.jp/contents/book/kawabata.html


川端は代表作雪国でトンネルを効果的に使っているが、1953年4月に発表された小説『無言』でも現世とあの世をつなぐ隠喩として名越隧道をうまく使っている。なお、川端が自殺した逗子マリーナには、車で鎌倉から一つ目の名越隧道と二つ目の逗子隧道を抜けてすぐ右折し5分程度の距離にある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E9%9A%A7%E9%81%93
http://blog.livedoor.jp/aotuka202/archives/51017908.html


ずいぶん昔、何かの会合のあと友人数人とスナックで 飲んでいた時、そのうち一人との会話である。

「川端康成の『片腕』はシュールな傑作だね。口をきく片腕と添い寝 して愛撫するとは」と友人。

「あれはハイミナールの幻覚だと言われているがね」と傑作であるこ とは認めつつ、

「川端康成なら君など問題にならないくらい読んでいる がね」と言う代わりに、どうでもいいような不確かなゴシップ を喋る私。


「『眠れる美女』はまさしく屍姦だが、あれもハイミナールの幻覚か い?」

「いや、あれは実際にやっていたと言う話だ。死体愛好癖とロリコンは 川端康成の二大テーマだからね」


渡部直己『読者生成論』(思潮社)の中にある「少女切断」を読みつつ 上記の会話を思い出した。この「少女切断」は非常に刺激的で、一瞬、川 端康成全集を買って読み返そうかなどと思ったくらいだ。

読み返すとは言っても川端康成が少女小説を書いていたのは知らなかった。 昭和十年から戦後四、五年まで数にして二十以上の長短編少女小説を 書き、これらの少女小説は渡部直己によれば読み応えのある傑作である という。またこの少女小説の一つである「乙女の港」には、中里恒子 による原案草稿20枚が発見されているとのことだから、本物の少女小説 である。

今日すでに存在していない、ここで言う「少女小説」とは渡部直己によ れば、次のようなものである。


「 お互いの睫の長さも、黒子の数も、知りつくしてゐたような、少女の 友情……。

相手の持ちものや、身につけるものも、みんな好きになって、愛情を こめて、わはってみたかったやうな日……。(『美しい旅』)


そうした日々の静かな木漏れ日を浴びて、少女たちはふと肩を寄せあい、 あるいは、人垣をへだててじっと視つめあい、二人だけの「友情と愛の しるし」に、押し花や小切れなどさかんに贈りあっては、他愛なくも甘美な 夢にひたりつづける。お互いを「お姉さま」「妹」と呼びかわし、周囲から 《エスの二人》と名ざされることの悦びに、いつまでも変わらぬ「愛」を 誓いあう二人の世界を彩って、花は咲き、鳥は唄い、風は薫りつづける」


この「少女小説」は、現在の ギャル向けポルノ雑誌と同じ機能も果たしていたのであろう。

今日存在する「少女小説」は、だいぶん様子が違ってきている。たとえば 耽美小説と呼ばれる美少年の性愛を露骨に描写した小説も「少女小説」の一種 であろう。この少年とは大塚英志が言うような、少女の理想型としての少年で ある。
実はこのジャンルはまるで苦手だ。子供の頃、少女マンガというのは 実に退屈なものだなと思った。したがって、後年その少女マンガから傑作が 生まれることなど私の想像力の範囲を超えていた。文学が痩せこけていくのに 反比例して、様々な表現分野が豊饒になり、いわゆる文学を超えた傑作が 多く生まれた。それもまた私の守備範囲を超えていたのであった。

友人の一人(男)が鞄の中に常時少女マンガ雑誌を携帯し、赤川次 郎的少女小説なども愛読している。この感性はどちらかといえば少数派に違いない。

時々「わぁーっ、素敵」などとこの男が言ったりするのは少女マンガの悪影響 だろうが、聞いている方にはかなりの違和感がある。これは異化作用とは 言えない違和感である。

渡部直己が模範的反少女小説として詳細に論じているのは『千羽鶴』で ある。
『千羽鶴』の主人公三谷菊治や『雪国』の主人公島村はその年齢に比して ひどく老成した印象を受ける。彼らはテクストから、はみ出さない。

島村は視点に過ぎないし、冥界を往還する傍観者的な過客の分際から踏み 出そうとはしない。『伊豆の踊子』の一高生にとって 伊豆がそうであったように、島村にとって『雪国』は黄泉の国であり異界で あり、彼は 異人の劇に観客的に出演する。異界は彼にとって慰藉であり、生への意志 を充填する場所なのだ。

三谷菊治は、死者が紡ぎだす美に翻弄されるだけで、 自らの欲望を生きることはなく、作品の狂言まわしですらない。彼は 死者と近親相姦的にかかわる。自殺してしまう太田未亡人も文子も、 もともとこの世の人ではなかった。 或いは三谷菊治自身が死者なのかもしれない。

渡部直己によれば、 事態をなかば抑圧し、なかばそれを使嗾する検閲者である栗本ちか子は、 読みの場の知覚をみずから模倣しつつ作品に介入する 人物の典型、作者の分身たちがひしめきあう世界に紛れこんで、むしろ 読者の分身たらんと欲する人物で、小説一般に幅広く散在する。渡部直己 は『千羽鶴』の場合、作品はあげてこの人物を唾棄しようとすると書いて いる。

だが栗本ちか子は此岸の人であり、テクストを抜け出して我々の人生に 顔を出したりする。彼女は物語の検閲者であり、その欲望は使嗾しつつ抑 圧することのように見えて、実は他者を破滅させることにある。

http://homepage3.nifty.com/nct/hondou/html/hondou73.html

そのA病院なんですけど、〇〇の斡旋をしているそうで。 素敵な世界に案内してくれるのは病院の院長さん。

最初は一枚写真を撮られますが、それからは一蓮托生、きっといい仲間となってくれるはずです。まあ、もともと院長の知り合いの方しか呼ばれないようですが、そこは努力と根性でなんとかしてくだい。みなさん名士がそろってらっしゃるそうなので、サロン気分でのご利用などもいかがでしょうか。

気になるお値段の方は、「相手」によっても変わってくるようですが、5万〜10万円が相場なのだとか。そのお相手もある程度限定されていて、事故で死んだ若い女子中高生なんかが人気なようですよ。ちなみに今までの「お相手」の最高金額は一回20万。 7歳の少女の死体だったそうです。

http://unkar.org/r/occult/1201014326


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4. 山は死霊が住む場所


弥谷寺(いやだにじ)。


昔から死霊が行くと信じられている弥谷寺のイヤという言葉は、恐れ、慎むという意味で、敬うのウヤ・オヤなどと同義の言葉。徳島県の剣山麓の祖谷山(いややま)のイヤも同じ言葉で、奥深い山村、吉野川上流地方の人は古くは死霊のこもる山というイメージを持っていた。

弥谷参り。

人が死ぬと死者の霊をこの山に伴っていくのが弥谷参りという。
死後七日目、四九日目、ムカワレ(一周忌)、春秋の彼岸の中日、弥谷寺のオミズマツリの日などに、死者の髪の毛と野位牌(のいわい)などを持っていく。


三豊郡旧荘内の箱浦(詫間町)では弥谷参りを死後三日目、または七日目に行なうことになっている。七日目の仏事のことを一一夜(ひといちや)という。

弥谷参りに偶数で行くというのは、帰りに死者の霊がついてくるのを防ぐためであり、帰りに仁王門の傍の茶店で会食をしてから後を振り向かないで帰ることや、家に帰ってから本膳で会食をするというのは、死霊との食い別れを意味する。

墓に設けた棚をこわすのも、死霊が墓に留まるのを嫌がり、再び死霊が家に帰ってくるのを防ぐための風習。

死んでから後に何年かたって、彼岸の中日やオミズマツリに弥谷山へ行くのは死霊に再会するためのものであるかもしれないが、死して間もない頃に行なわれる弥谷参りの行事は、明らかに死霊を家から送り出すための行事であった。

七十一番の弥谷寺参詣をおもな行事として、四国八十八ケ所寺の中で七十二番の曼荼羅寺、七十三番の出釈迦寺、七十四番甲山寺、七十五番善通寺、七十六番金倉寺、七十七番道隆寺を巡ることが春秋の彼岸の中日に行なわれているが、香川県の西部一帯ではこれを七ケ所巡りと呼んでいる。

七か寺の中で弥谷寺参りだけは欠かせないところから見ると、この行事は新仏のあった家では死者の霊を送り出すため、そうでない家では弥谷山にこもっている死霊に会いに行くためのものであった。

このような寺々をめぐる風習が、やがては四国八十八ケ所遍路の風習にまで広がっていく一因になったといわれている。

埋め墓と弥谷山。


弥谷山は死霊のこもる山であるが、それをはっきりと物語っているのは山麓地方から付近一帯に行なわれている墓制がある。今ではそれは両墓制(りょうぼせい)と呼ばれ、死体を埋める埋め墓と死後一年とか二、三年目に建てられる参り墓(石碑)との二つの墓を有する墓制として知られているが、どちらかというとそれはそれほど古くない墓制であった。

死者の霊はなんということなしにひとりでに弥谷山に上っていくようになっている。弥谷山には死霊の行く山としての信仰が深く、付近の住民にとってはもちろん四国の霊地を遍歴する者にとっても、どうしても立ち寄らねばならぬ霊場なのだ。

http://haruhenro.blog60.fc2.com/blog-entry-46.html


アイヌ人の異界伝説


藤村久和は、アイヌの老人と生活をともにしながら、臨死体験をした人の証言に基づく、あの世に関する伝承を採取した。

それによると、なぜか共通して、眼の前に道があり、そこを歩いていくと、あの世の入り口である洞くつがある。洞くつへ入っていくと、今度は長いトンネルである。なおも進んでいくと、急に道が狭くなり高さも低くなる。その非常に狭苦しいところを通って行くと、やがて向こうにポツンと灯りが見え、先を急ぐとようやくそのトンネルが終わり、新しい世界が眼の前に広がる。

右手は海岸で、左手は山である。道はさらに曲がりくねってうねうねと続き、どんどん行くと一本の小川があり、橋が架かっている。その橋を過ぎると、行く手にポツポツと家が見え、煙が出ている。そこは、まるでどこかの村のようで、この世と違う情景はまるでないという。ここがあの世へ旅立つための準備場所なのである。

霊は、「準備場所」にある一番高い山の頂点まで行き、そこから天空を越えてあの世の山へ行く。

http://www.systemicsarchive.com/ja/a/afterlife.html  

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コメント
 
01. 中川隆 2011年8月05日 07:56:33: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

向こうの世界にも入れず、こちらの世界へも戻れなくなると…

晩年、植物人間になられた写真家の土門拳さんを看病された奥さまが、文芸春秋に書いておられます。


「『植物人間になっているのに、看病しても同じだろう』


と、おっしゃる方もありましたが、主人の死後、医者の解剖所見で、主人の脳はちゃんと働いていたことがわかりました。


こちらに意思が通じなくとも、主人には、判っていたのです」


「・・・同年(1979)、土門先生は今度は脳血栓を起こした。

以来、十一年間、土門先生は意識不明の植物状態となってしまった。

そして平成二(1990)年九月、意識が戻らないまま八十年の生涯を閉じることになる。

日本の写真界をリードした二人の巨匠の死に接して、私はこんなことを思った。


山形県酒田市生まれの土門拳と生粋の東京っ子だった木村伊兵衛。

粘り強い東北人と何事にもあきらめの早い東京の下町人。

その作風にも感じられる気質の違いが、両人の死にも表れていたように思えてならないのだ。」

(木村先生が一週間ほどで逝ってしまったことを述べたあと)

「それに比べて土門先生は、死の淵にいてなお生への執着を見せ続けていたように思えた。こんなことがあったという」

「土門先生の夫人とは結婚前から知己であったデザイナーの亀倉雄策さんから聞いた話だ。 土門さんの枕元で夫人と亀倉さんが、


「みんな困っているんだ.早く死んで呉れよ・・・」


と言った。すると、土門先生の目頭から涙が流れたという。」


「・・・わずかでも土門先生の意識が残っていたとすれば、その無念さはいかばかりのものだっただろう。 病床でも土門拳、その人であり続けた晩年であった。」

http://crishiri.exblog.jp/5426915/

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5. 「いい日旅立ち・西へ」は亡霊が歌う歌

いい日旅立ち 山口百恵
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related

は死出の旅に出る女性の歌でしたが、まだ、ロマンチックな雰囲気を一杯に湛えていました。一方、リメーク版「いい日旅立ち・西へ」 の方は全く救いが無い哀しい歌です。

特に、西方浄土に模した仄暗い黄泉の世界で亡霊が歌う PV は恐ろしかったですね:


http://www.youtube.com/watch?v=xPZXIQdHaZ0
http://www.youtube.com/watch?v=gBDVDeupbhc


歌手の谷村新司(54)が17日、山口(現三浦)百恵さんの大ヒット曲「いい日旅立ち」のリメーク版「いい日旅立ち・西へ」(29日発売)のお披露目会見を都内のホテルで行った。

 同曲はJR西日本「DISCOVER WESTキャンペーン」のイメージソングで、谷村が25年ぶりに新たに歌詞を書き下ろし、歌手の鬼束ちひろ(22)がカバーに挑戦。谷村は「鬼束さんは影のある雰囲気が百恵さんと似ていますね」と笑顔。鬼束は「自分の情感のすべてをかけて歌いました」とコメントを寄せた。
[2003年10月18日6時14分更新]


なるほど。鬼束も分かってますね。この曲の凄さを。楽しみです。

朝日新聞の記事です(2003.10.14)。

……生まれる前の曲だが、

「母が好きで、幼いころ車の中で聞いていた」

といい、

「この曲を歌うのは私しかいない」

というほどのほれ込みよう。録音当日、スタジオで原曲を聞き、

「完璧な楽曲。隅々まで集中して歌いきらないと情感が表現できない」

と感じた。「自分の歌を歌おう」と心がけたCDは29日発売。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5800/003AIW_Tabidachi.html


これは死んだ恋人を追って自殺した女性が歌っているのでしょうか。

鬼束さんはこの曲の意味を正確に把握しています。

自分から望んで向こうの世界へ入って行こうとした女性ですが、遂に死んだ恋人とは再会できず、こちらの世界へも戻れなくなってしまったのです:


『出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く』


死んだ後で、自分の影が消えているのに気付いたのですね。


『影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く』

昔、影絵のきつねを追いかけた様に、幻の様なあの人を探して今度は西へ行ってみよう。


『蛍の光は 遠い日の送り火か 小さく見える景色は 陽炎か』

自殺した女性は幽鬼の姿となって、死んだ恋人の姿を求めて西方浄土へ向かって飛んでいるのでしょうか。

『日本のどこかに 私を待ってる 人が居る』

きっと西の果てにあるという浄土まで行けば、あの人に会えるんだわ。

『今も聞こえるあの日の 歌を道連れに』

昔生きていた時、恋人と一緒に歌った歌でしょうね。


            ,、-'''`'´ ̄ `フー- 、
          ,. ‐             ヽ
         ,.‐´               \
        /      ,l       \     ヽ
       /       l|, 、  、 |iヽ, ヽ \.   ヽ
       /     l  i ! | i  | |l'、ト ヽ iヽ ヽ  ',
       !     |  / | |. i  |.|| i.|ヽ |、 | ',   i  i
      !      ! / |,ャ、メ |i ト十i‐トi、! l  .i|  i
      ! i   ,.|!,.+‐'"| | | |i}  ' ュノェ|i,`i  l.| i
      l i l   l |/;:=ニ|i  l |   /rj:ヽ\ i  l i l
      | | |   ノ '/ iニ)ヽ,ヽ |!.   ' {::::::;、! 〉iー | | |
      | |i. |  !; 〈 !:::::::c!     'ー''(つ }i | i.| |
      | ! | |  ;: (つ`''"    、  //// /;:i | | !. |
       | i,  i. 、////      '     /,ノi,   i. |
       ! .|  | i 、,ゝ、     、─,    /   i |  |. i
       .! |  i |. | lヽ、      ̄   /  l  | i  | !
       ! |  i |i |l l| |`''‐ 、   , イ  |i | |i | i  |. !
       | |  i |i |i .| ノ    ` ''"  ヽ/l| l__,.、-|l l  ! i、
     ,. -'"゙ ゙̄'' ヽi |!l '           ,.--‐' |.i |i | |i ヽ
      /       ! l l ̄ `     、_        | /ノi i.!  |
     ,'          ! |              ,|/ |/i'   |
    i         ` l             .ノ  ノ ' ヽ、 |
    |        ノ     ,...      ヽ、;          ヽ-,
    .!         |::     :..゚..::       i:        ゙゙''i
     |       l::        ゙゙"       |:          |
   @゙!         |::              !::        ノ


「いい日旅立ち・西へ」は能をイメージして作詞されているのでしょうか?

愛に執着する人間は向こうの世界へは入れず、薄明の中を永遠に彷徨い続ける事になります:

能「井筒」
http://www.youtube.com/watch?v=rntfTDRbBqU

http://www.youtube.com/watch?v=ZqVMEQpLp4Y&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=sysOtCBEwiU&feature=related


『筒井筒』/伊勢物語(第二十三段)
http://plaza.rakuten.co.jp/miri3310s/13005


『井筒』のあらすじは、旅僧が在原寺を訪ね、在原業平とその妻になった紀有常の娘の跡を弔っていると一人の女性が現れ、古塚に花と水を手向けます。僧の不審にこたえて女は伊勢物語の歌などを引いて、二人の恋物語を語り、遂に女は実はその女だと名乗り、井戸の陰に姿を隠します。(中入)

夜も更けて僧の仮寝の夢に、業平の形見を身につけた先刻の女が現れ、業平を偲ぶ舞を見せ、やがて寺の鐘の声に夜も明け、僧の夢も覚める、というものです。

http://awaya-noh.com/modules/pico2/content0041.html



業平を想い舞を舞うシテ


「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁

「昔あの人と暮らした在原寺で、こうして昔を今に返すように舞っていると、井筒に映る月影のさやかな事…」

そうつぶやいた彼女の思いは次第に過去へと遡っていった。


「月はあなたのいらした頃の月と同じでしょうか、春はあなたのいらした頃の春と同じでしょうか…、

そう詠みながらあなたを待ち続けたのはいつの事だったでしょうか…」

「筒井筒…」彼女は思い出の歌をくちずさむ。


「…井筒にかけしまろがたけ、生(お)いにけらしな…」

そう詠んだ彼女は、自分がいつの間にか老いてしまった事に気づかされる。

思い出の井筒に姿をうつす

彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃業平としたように、自分の姿を水面にうつす。そこに映るのは、女の姿とは思えない、男そのもの、業平の面影だった。

舞台は一瞬静寂につつまれる。


「なんて懐かしい…」


そう呟いて、彼女は泣きくずれる。 そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。

http://awaya-noh.com/modules/pico2/content0041.html



02. 中川隆 2013年7月15日 02:26:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

能は本来、修善寺あさば旅館の池に浮かぶ能舞台「月桂殿」の様に川や池を隔てて、遠くから見るものだったのですね。 能の幽玄については誤解している人が多いので解説しておきます:


男は男に成るまでの間に、この世のものとも思われぬ玄妙幽艶な一時期がある。
これを美しいと見るのは極めて自然なことであり、珍しいものではない。
http://blog.livedoor.jp/kani16/archives/7800041.html

 将軍足利義満が12歳頃の世阿弥(稚児時代)を寵愛した、「男色」については、野上豊一郎の「世阿弥元雅」(創元社・1938年))や杉本苑子の「華の碑」(講談社・1964年)には出てきますが、昭和48年(1973年)の岩田準一「本朝男色考(私家版)」で広く伝えられました。

 近年は、白州正子の世阿弥のホモ・セクシュアリティー評価が有名で、発展して、

能で男が女を舞うのは、

「(歌舞伎と違って)どこまでも児姿の延長であり、しいていうなら、男女が重なった姿、もしくは男女が分かれる以前の、理想像を目指している」


と。女になってしまうのではなく、あくまでも「中性的な」美を礼賛しています。ドナルド・キーンは、

「ときどき、しろうとの能でほんとうの女の人が舞うでしょう。
ほんとうに気味が悪い」(「日本の魅力」(中央公論社))


と述べています。
http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-87.html


「両性具有の美」 白洲正子著 

さきほどの100分の名著 こころ 漱石著についての島田雅彦氏コメントにホモ・ソーシャルという言葉が出てきた。日本の古典の愛はたしかにホモ・ソーシャル概念,あるいは両性具有の美で説明できるかもしれない。源氏絵巻物見ても男と女の中性的なもののような気がする。

ホモソーシャルという言葉は洋風なので、日本の専売特許ではない。そこを両性具有とすると俄かに日本ぽくなるから不思議。(゜д゜)近松の心中やら吉原やらの色恋は昔から日本にあった。でも近代的恋愛はやはり輸入物で明治以降の話。ひょっとすると戦後の男女平等概念以降のことかもしれない。

スタンダールの「赤と黒」はじめ恋愛論、意外と知られていない。

バルザックの「谷間の百合」ほとんど知られていない。

かく言うわたしも、知らん・・・・別に知らなくても不自由はしません。さらにブラームスやシューマンのように完成された女性への憧れなんて望むべくもなく、切り口変えて「恋愛は美しき誤解」と言う必要もなかった。

 昔流行ったのは、職場結婚、学生時代の腐れ縁、とかせいぜいお見合いとか・・・漱石著の「こころ」の先生同様相手の親のメガネに叶えば、近代恋愛の手続きは不要だったんです。高校は男子校、童貞失ったのも社会人以降と、真面目を絵に書いたようナ、人生。

自慢することはないけど、むしろホモソーシャルな男子同士の友情あるいは女性への憧れへの訣別みたいな女性蔑視ではないけれど、無意識のうちの男性優位の伝統から脱してはいなかった。恋をしようと思うより、真剣な話し合いのほうが価値があると思っていたね。


○ホモではないし、マッチョでもなく、レズでもなく同性愛蔑視もあり、両性具有の世界に生きていた。

やっと本論に着いたけど、むかしむかしの両性具有の世界は、白洲正子の論にくわしくかかれております。


○結論;「男女や、主従を超えたところにある、美しい愛の形」

奇しくも漱石「こころ」(先生と「わたし」)に無意識的に現れた、弟子と師匠の関係。

これ「愛」でしょ。欲望、師匠の欲するところを欲望するのが弟子の欲望の正しいありかた。

これは正子著の西行論「西行」、高野往来に弟子との愛の言葉を含んだ、歌に読み取れると言う。(興味のある人読んでみてね)

正子の出身の薩摩藩自体がそのような文化を具現したとの指摘もあり、女への憧れはなくても、やさ男への憧れはそこここにあったとの・・・・武道剣道がその見本。

ちなみにホモソーシャルをネットで索くと下記の通り。

【homosocial】

セジウィックによる概念。
ホモフォビア(同性愛嫌悪)とミソジニー(女性嫌悪)を基本的な特徴とする男性同士の擬似同性愛的な強い親愛・連帯関係。

それ自体、同性愛と見まがうような強い接触・親愛関係でありながら、同性愛者と女性を嫌悪・蔑視して排除し、異性愛男性同士で閉鎖的な関係を構築する。

※日本以外でもあった、あるんですね。

P.S.
だから性差を超えての愛という思い込みで結婚した結果、結婚してから、妙に卑猥な女っぽい人間に出くわすと浮気をすることがあるようですね。浮気は恋じゃないという安心感でつい騙される。      

ヨーロッパでは昔から結婚してからの方が本当の恋愛ができるとする、文がちらほらあるからカトリック教というのは、離婚否定の文化伝統から、浮気=不倫の是認になっている可能性は大きいと思う。ちがってたらm(_ _)m。

P.S.その2
「西行」。弟子の名は西住という。高野往来の章に出てくる。
二人の贈答が、男女の恋歌のように聞こえることが多い。
終生の心の友だったにちがいない、と正子は言う。


P.S.
アンリ・サルバドールを慕っていたバイオリニスト??誰だっけ出てこない名前。
http://sumeba-miyako375.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-4370.html


世阿弥は、南北朝時代の1363年、大和四座の人気スターであった観阿弥の長男として生まれました。幼名を鬼夜叉、本名、元清といいます。

11歳の時、今熊野での演能で、父・観阿弥と供に獅子を舞ったことがきっかけとなり、世阿弥は一躍人気役者となります。この時、若き将軍義満に出会い、以後、世阿弥は、彼の寵童として、そば近くに召し使われることになりました。当時最高の文化人であった二条良基も世阿弥を贔屓にした一人で、「古今集」などの古典や連歌の知識を授けたといいます。

当時、新興芸術のためには、将軍や公家などのパトロンがとても重要な存在であり、将軍家の眼に留まることは、観阿弥・世阿弥親子にとっては、またとないチャンスでした。

「寵童」という身分について、自らも能を舞った白州正子は、その著書『世阿弥』の中で次のように述べています。


「男色は、当時珍しいことではなく、現代のような不健康なものでもなかったようだ。

性的倒錯というよりは、主従・師弟間の愛情の煮詰まったかたちで、初々しい少年に女性的な美しさを求めるというよりは、若さと美の象徴として、男性の理想を求めたようである。

僧侶の間では、仏道に入る機縁として、美しい稚児に観音の化身を見たという物語もある。」


「世阿弥は、将軍の寵愛におぼれるような人物ではなく、好奇心に富んだ利発な少年だった。書物の中でも、将軍への恩義は示しても、格別それを誇る様子はなく、無論甘えた根性などは見受けられない。」


世阿弥が20歳を少し過ぎた頃、父・観阿弥が旅興行先の駿河で亡くなります。以後、世阿弥は、名実ともに観世座のリーダーとなり、演出・主演を兼ねるシテ役者として一座を束ねていきます。演目でも、父のレパートリーなどの旧作を補綴、編曲するほか、数々の新作も手がけました。

順風満帆な人生を送る世阿弥を悩ませ続けていたのが、後継者問題でした。世阿弥にはなかなか子どもができなかったので、後継者として弟・観世四郎の子、後の音阿弥を養子に迎えました。彼は、この頃から自分の芸の伝承を考え、『風姿花伝』の執筆を開始したといわれています。これは、現在考えられているような純粋芸術論ではなく、自分の後継者たちが第一人者の地位を保ち続けるためにどうすればよいかを教える、いわばマニュアル本のような存在でした。
http://www.the-noh.com/jp/zeami/


世阿弥 元清 1363-1443


父観阿弥の英才教育で猿楽能(物真似が中心の芝居)を学び、1372年、父が京都で名声を得るきっかけとなった醍醐寺7日間公演に9歳で参加している。1375年、「観世座はスゴイ」という噂を聞いた当時17歳の3代将軍足利義満は、京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞し、これにハマった。

観阿弥の演技が素晴らしいだけでなく、共演した12歳の美少年世阿弥の愛らしさにメロメロになった。以降、義満は観世座の熱心な後援者となる。


義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ背後に世阿弥が控えていたという。側近たちはこれを嫉妬し、内大臣は当日の日記に

「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」

と書きつけている。


1384年(21歳)、父が巡業先の静岡で急逝。世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐ。その後もひたすら稽古を重ねて芸を磨いていく中で、彼を刺激したのは父と同世代で近江猿楽のリーダー格・犬王(道阿弥)の存在だった。観世座の能が大衆向けで演劇色の濃い、物真似中心の「面白き能」であったのに対し、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。

義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇する。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人でもあり、世阿弥も素直に犬王を絶賛、もろに影響を受けて自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していった。


1400年(37歳)、

「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」

など父の遺訓をまとめた能楽論書『風姿花伝(花伝書)』を著す。風姿花伝は芸術の技術論ではなく精神を論じた書であり、このような書物は世界にも殆ど例がない---

能役者が観客に与える感動の根源は「花」である。「花」は能の命であり、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることである。

桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。花は一年中咲いておらず、咲くべき時を知って咲いている。能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じることなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。「花」が咲くには種が必要だ。花は心、種は態(わざ、技)。

観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だ。だからこそ、能役者は稽古を積み技を磨いて、何種類もの種を持っていなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせるのだ。
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-baree.htm#zeami

日本における男色の歴史

Homosexual"や" gay" という言葉は近世になって作られ、西洋において“悪”と結び付けられた概念である。  現在において、同性同士の恋愛を表現する言葉としてもちいられるのが、「同性愛」である。

しかし「愛」という言葉自体、日本語元来のことばではない。Homosexual1という言葉ができる前、日本では井原西鶴の『男色大観』のように、「男色」という言葉が用いられた。

 男色とは、男性同性愛を指し、英語でのhomosexualityにあたる。しかし、そこには日本人の男性同性愛への考え方が現れている。すなわち、「色」としての男色である。 


「色」は日本に古くからある概念だが、愛や恋愛という言葉は明治時代の輸入品である。 「愛」はloveの訳語として北村透谷によって定着され、さらに精神的関係をより強調した形の概念として日本に受け取られた。そして現在用いられる「恋愛」という概念は、異性間にしか成立しない言葉でもある。

 他方、「色」という表現は、恋において肉体関係と精神的関係を明確に二分することなく前者をも包含し、かつ、それを抑圧し、低俗と見なさない点に特色がある。そしてまた男と女の恋にかぎらず男と男の恋をも含めたものであった。これをさして「色道ふたつ」という表現が生まれたのもそのゆえんである。


 色道とは無秩序な性の欲望を噴出させる道ではなく、書道、華道、茶道など様々な道を動員し、人生のひとときを美的な、非日常的な時空間にするための手段だったのである。そしてこのことがゆえに性は俗ではなく、聖の領域にあったことを読みとることが求められるのである。

恋としての男色は、僧侶と稚児という形で、中世寺院に多く見られはじめる。稚児とは、寺院において僧の身の回りの世話などをし、仏道に関して学び、また歌舞音曲の伝授を受ける少年を指す。出家を目指す見習い段階であるが、実際には教育のために寺に入れるという意味合いが強い。院政期の院の近臣たちは稚児上がりのものも多く、院と深い関係を持っていた。藤原頼長『台記』にはその奔放な男色関係の多くが描かれる。

ここで注意しておきたいのは稚児=少年を神仏の顕現と見なし(比叡山に初めて登った最澄は十禅師神の化現した少年と出会った。また『稚児観音絵巻』をはじめとしたいくつかの絵巻に見られる)、稚児との肉体的交わり自体を神聖視する宗教的側面もあったことである。このことは宗教が、男色において大きな機能を果たしていることをさらに裏付けよう。

つまり、仏教は性欲の処理としての男色を聖性との関わりの中で許容し、さらに男色の中の美意識にまで介入して行くことで、それを仏教自体の一環となそうとまでする。


 中世の稚児物語においては、主人公(主に僧侶だが)はほとんどの場合、桜の木の下で美少年と出会う。美少年の恋と死が、現世のはかなさのメタファーとして現れているのである。仏教が無常というものを美しい者の滅びやすさという面から説くのに利用されているのである。

 これはそのまま少年愛の美意識、また少年美の追求の大きな要素として後代に受け継がれて行く。すなわち、少年の聖性(両性具有に起因するものともいえようか)と、一過性である。

世阿弥の『風姿花伝』のなかでの「少年は時分の花」という言葉がなによりもその心を表す(世阿弥自身、藤若として足利義満に侍っていたことはすでにあきらかとされる)。桜がその象徴とされている。


 世阿弥が能を大成すると、それをうけて男色とその美意識は、芸能に乗って大衆間に広まる。多数の謡曲が生まれるのもこのころである。

 戦国期に入ると武士たちの間に、男色が目立って流行しはじめる。そこには、女性の排除による男性集団の結束の緊密性の確保、より高度な礼と義の関係を築く、という新しい目的意識=尚武の気風があった。

 江戸時代には、衆道という言葉が用いられるようになってくる。衆道は男色にさらに武士道を加えたものと理解されよう。男色の美意識と思想と武士道の思想は実に近いものがあった。義として浮気を堅く戒め、命を捨てる覚悟(葉隠)。衆道が、義兄弟の形を伴うのもそのためである。

 これは二君に見えずという思想=主君への恋心に通ずる。それゆえに衆道の美意識は、「刀」に尽きるのである。

 桜の下、白い着物をつけた美少年、切腹による赤い血とはまさにその文脈に受け継がれたイメージである。江戸初期、死を賭した恋として、仇討ち、殉死が頻発したのではなかろうか。
http://www.ht.sfc.keio.ac.jp/~kenta/web2.html


中世において、男色は、女を排除していた武士や寺院では一般的なものであったことが知られる。また、公家文化においては「悪左府」と呼ばれた藤原頼長の日記『台記』には彼が複数の男性と同衾していたことが書かれている。

鎌倉幕府の将軍や執権、有力な大名たちも制度的な少年愛を実行していたと推定されるが、歴史的に有名かつ顕著なのは、次の室町幕府3代将軍である足利義満と、その寵愛を受けた能楽師世阿弥の関係である。

世阿弥は後に夢幻能を完成させ、『風姿花伝』を著すが、その書のなかで、「少年の美」についての魅力を述べている。


男色は女色と対になる言葉で、「色の道」は単に肉体的な関係だけではなく、精神的な関係も含み、稚児との男色においては、むしろ「精神性」に重点が置かれていたことからすれば、古典ギリシアのアレテーの教育としての「少年愛」の理念と共通するものを持つ。武士と少年、僧侶と稚児のあいだの男色関係では、愛する年長者は「念者」と呼ばれたが、念は「一念」の念でもあり、倫理性や精神的信頼性が前提にあった。

男色の道は、世阿弥の能芸の流布と、『風姿花伝』における少年の儚さの賛美と相俟って、武士や僧侶階級だけではなく、広く一般庶民にとっても「憧れ」と「美意識」を持って期待される文化風俗となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%B9%B4%E6%84%9B


風景の中の世阿弥


観阿弥は奈良から京へ行くことになる。その頃世阿弥は幼名を藤若といい史実によれば美しい少年であったという。この姿の美しさに将軍足利義満は魅かれ世阿弥は義満の寵愛を一身にうけることになる。

私はかつて肉体には性の両義性(アンドロギュヌス)を飼っていると思っていたことがある。それは記号論的には両性具有的なまなざしを肉体はどこかで意図的に展開し、それらへの体験を通してより中性化する肉体=人間という記号に導かれるように構成されるだろうという意味である。

世阿弥が男色を経験したことは肉体的にも精神的にも、自らの中にあるアンドロギュヌス性を否応なく発見し、発見したことによって、自らすすんでその経験を能芸の中に生かし切っていたのではないか、という想像が働く。考えてみれば演能における男から女への変化、人間から霊的な存在に憑依する形式を世阿弥が演ずる時、男色的な経験はむしろ役に立つことはあっても邪魔なものではない。

経験は想像力にとって最も魅力的な素材であること。見事に変化したことに観客が感じ興奮するのは、そうしたリアリティの官能を敏感に感じとる時でもある。心理的にいうと、精神の深い淵で演者と観客が共に性的興奮を味わっている姿を想像できる。

習慣や風習以上に芸人にとって男色のもたらす経験が大きいのは、舞台の上の物語に華をもたらすためである。そして、その華=花は妖しければ妖しいほど観客を魅了する。こうした常に観客を意識するまなざしの感覚が、世阿弥の花であり上手であるといってもよいかもしれないと思うことがある。それはつまり自らの中にあっては無意識的に両義性に結びついていった経験の意識化である。
http://www.hikuiyama.com/goji-hamada/J-html/gh-j017.html


両性具有の美 (新潮文庫) 白洲正子 (著)

わが国では男色は罪とされておらず衆道として武士のたしなみの一つだとは知ってはいたものの、これほど広がっていたものとは思わなかった。 菊花の契り、や稚児信仰、天狗信仰といった独特の文化などの日本文化の深さを知った作品であった。

白州さんというと能の解説や評論に関する本を愛読させていただいていた。 今回の本を読むまで能の両性具有性がこのようにエロティシズムを含んだものだとは思っていなかったし、題材の根底に流れる同性愛などは想像もしていなかった。


確かに、女性が男装して舞ったり、子方とシテのただならぬ関係を類推させる作品は多い。 少年が男性になるまでの一時期中性的せつな的美しさは、武将や聖職者といえども購い難きものであったのであろう。しかも倫理的、宗教的にタブーとされていなかったのだからなおさらである。

日本の衆道のことをキリスト教圏の友人に話したら非常に驚かれた。キリスト教においては大罪である。 ここ数年は同性愛もかなり容認されるようになってきたものの、やはりかなり偏見もある。

女装した少年ではなく、男性のままで女性の色気を感じさせる両性具有の完璧な美しさを備えた少年が目の前にあらわれたら私もひれふしてしまうかもしれない、そんな完璧な美しさをもった少年の姿を本を読みながら思い浮かべていた。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%A1%E6%80%A7%E5%85%B7%E6%9C%89%E3%81%AE%E7%BE%8E-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%99%BD%E6%B4%B2-%E6%AD%A3%E5%AD%90/dp/4101379084

白州正子 「両性具有の美」

白州正子(1910−1998)は大分、以前からブームになっていますが、どういう人物であるか、一口で説明するのが難しい人です。

一応、肩書きは随筆家ということになっていますが、元華族の令嬢で、能や骨董などに造詣が深く、小林秀雄や青山二郎のような一流の文化人と付き合いがあり、夫は超イケメンで、超カッコイイ白州次郎ということで、「一流」とか「本物」という言葉がこれほど似合う女性はいないでしょう。

本人もすべてにおいて一流好みで、本物指向でした。

彼女は明治43年に東京で華族の令嬢として生まれますが、華族といっても昔から続く公家華族ではなく、薩摩藩の武士であった祖父の樺山資紀が明治維新の勲功により伯爵を授爵されたいわゆる新華族です。

そのせいか、華族の令嬢といっても、淑やかなところはまったくなく、大変、活発な男の子のような子供だったと自伝に書いています。

祖父の樺山資紀は、明治政府で海軍大将や初代台湾総督を歴任した人物ですが、橋口覚之進と名乗っていた幕末の頃、指宿藤次郎という朋友の薩摩藩の武士が京都祇園の石段下で、薩長と対立していた幕府の見廻り組(新撰組と同じような組織)に殺されるという事件が起ります。

このとき、指宿には前田某という若侍が同行していたのですが、彼は指宿を見捨てて遁走してしまいます。

それで指宿の葬儀のとき、橋口は棺の蓋を開けたままにしておいて前田を呼びつけ、「お前が最初に焼香しろ」と命令し、前田が指宿の死体の上にうなだれたときに一刀のもとに前田の首を斬り、首が棺の中に転がり落ちるのを見て、「これでよか」といって棺の蓋をしたといわれています。


当時、薩摩藩には 郷中と呼ばれる青少年の教育機関が存在し、藩士の子弟は八歳のときに稚児(ちご)として郷中に加わり、二十歳で兵児二才(へこにせ)の時期が終わるまで厳しく文武の道を体得させられたそうです。

稚児と兵児二才は男色関係で結ばれていて、薩摩武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされず、武士として鍛えられ、教育されることは、男同士の契りを結ぶことでもあったといわれています。

幕府の見廻り組に殺された指宿藤次郎と前田某はおそらく男色関係で結ばれていて、本来ならば念友である指宿と共に闘うべきであったところを卑怯にも彼を見捨てて逃げたということで、郷中の長として橋口覚之進が制裁を加えたのではないかと正子は推測しています。

こういう野蛮ともいえる武勇伝をもつ下級武士が明治維新に勲功があったとして伯爵を授爵され、華族の仲間入りをしてしまったわけですから、明治維新というのはやはり一種の革命だったのでしょう。

このような過去をもつ海軍軍人が父方の祖父で、母方の祖父もやはり薩摩出身の海軍軍人で、活発な正子を見て「この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに」と、ふた言目には家族たちが残念がっているのを耳にして、自分でも男の子に生まれなかったことを残念に思うようになったと、正子は語っています。

自分が女に生まれたことが口惜しくてしょうがなくて、周囲にあたり散らしていたそうです。

その後、本来は男のものといわれる能を学び、女性として初めて能舞台に立つのですが、これも「男に生まれたかった」コンプレックスのなせる業かもしれません。

学校は華族の令嬢の通う学習院の女子部に入学するのですが、やはりお上品な華族のお嬢さんの多い学習院の生徒の中では浮いた存在だったそうです。

そのせいか、14歳のときにアメリカに留学します。

アメリカには4年間いて18歳のときに日本に帰国し、翌年19歳で神戸の富豪の息子、白州次郎と結婚します。

白州次郎もまた最近、ブームになっているので、ご存知の方も多いでしょうが、17歳のときから9年間、イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業したという経歴の持ち主で、戦後、アメリカ占領下の日本で、英国時代から親交のあった吉田茂首相の懐刀として、GHQ(連合軍総司令本部)相手の交渉にあたったことで知られています。

結婚当時、白州次郎は、貿易の仕事をしていて、正子は毎年のように夫の仕事に同行してヨーロッパに渡り、現地で社交を楽しんだそうです。

白州次郎という人は、長年、イギリスに住んでいただけに、国際情勢に敏感で、かつ先見の明があり、このまま行けば日米開戦は不可避で、当然、日本は負けるに決まっているから、深刻な食糧不足が起るだろうと予測し、太平洋戦争の始まる前の昭和15年に東京郊外の農村に移住して百姓生活を始めます。

戦争中は、東京の空襲で家を焼かれた友人の文芸評論家、河上徹太郎を農家を改造した自宅に引き取ります。

正子はその関係で河上徹太郎夫婦と知り合いになるのですが、戦後、同じ骨董趣味を持つ河上徹太郎を通じて、河上の骨董仲間である小林秀雄や青山二郎に知己を得ます。

正子は、小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎といった男たちが「特別な友情」で結ばれていることを知ると、猛烈な嫉妬を覚え、どうしてもあの中に割って入りたい、切り込んででも入ってみせる、と決心したと自伝に書いています。

子供の頃からの「男に生まれたかった」コンプレックスが再燃したのです。
http://jack4afric.exblog.jp/3620880

小林秀雄や青山二郎、河上徹太郎といった男たちが「特別な友情」で結ばれていたといっても、彼らは武士と違って男色の習慣を持たない文士ですから、男色関係で結ばれていたわけではありません。

「男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことだ」と正子は語っていますが、彼らは、男同士ではセックスできないので、同じ一人の女性を共有して、その女性と性関係を持つことで、緊密に結びついていたといいます。

男が男に惚れるのは「精神」なのであり、精神だけでは成り立たないから、相手の女(肉体)が欲しくなるのだ、と正子は説明しています。

正子はそういう男たちに共有されている女性と知り合い、親しくなりますが、自身は男たちの友情の絆としての女(肉体)になる気は毛頭ありませんでした。

男たちと男女の関係になるのではなく、男たちと対等な一人の人間として彼らの仲間入りすることを望んだのです。

男たちの目には、随分と生意気な、身の程知らずな野心を持った女に見えたに違いありません。

戦後、正子は自分で骨董店を経営するほどまでに骨董に打ち込み、また雑誌に評論を書き始めるのですが、文学や骨董を学ぶために青山二郎に弟子入りし、青山や友人の小林秀雄に徹底的にしごかれます。

この頃の青山の日記には「今日も白州正子泣く」という一文が頻出するそうですが、正子は男たちにからかわれ、罵倒されながらも、必死に耐え、彼らとの付き合いを続けるのです。


昭和28年に元祖ウーマンリブともいうべきフランスの作家、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」が日本で出版され、ベストセラーになります。

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という冒頭の言葉が有名になりましたが、正子はこの冒頭の言葉を読んで、コチンときたといいます。

「女になる」なら、なぜ女でも男でもない「人間」になってはいけないのか、と思ったというのです。

それで、ボーヴォワールの「第二の性」に対抗して「第三の性」を書くのですが、それがこの「両性具有の美」という作品として結実するわけです

この作品は、女装して、九州の蛮族の長、クマソを誘惑して、征伐したというヤマトタケルノミコトの話から始まって、最初から最後まで男色のエピソードが続き、さながら日本男色史ともいうべき内容になっています。

正子は、日本の古典に造詣が深く、この「両性具有の美」で、源氏物語に描かれる光源氏や伊勢物語の在原業平のような女性的男性や、男になる前の男でもない女でもない、人間ばなれした美しさを持つ少年を愛で慈しむ日本人の感性について語っています。

ボーヴォワールにたいして、あなたがた西洋人は、人間を男と女という二元論のレベルでしか捉えることしかできないけれど、東洋には男であると同時に女でもある、性の境界を超越した第三の性という概念があり、私たち東洋人は、そういう両性具有的な存在に美と価値を見出すのだ、と主張しているのです。

正子は、少女時代にアメリカに留学し、結婚してからは毎年のように夫に同行してヨーロッパを旅行して欧米の上流階級と付き合ってきた女性ですから、中途半端な日本のインテリと違って西洋コンプレックスがないんですね。

同時に西洋のことをよく知っているから、西洋というものを相対化して客観的に見ることができ、「あんた達、西洋人はそうかもしれないけれど、我々日本人はそうじゃない」と、ちゃんと主張できるわけです。

「両性具有の美」の終わりに正子は、「私がこの作品で言いたかったのは、女には能を舞えないということだ。50年間、能をやってきて、結局、女には能はできないということを私は悟ったのだ」と書いています。

これはどういうことかというと、50年間、男になるために必死に努力をしてきたけれど、やっぱり男にはなれなかった、ということです。

この言葉にはボーヴォワールのような女を教祖として崇めるウーマンリブやフェミニストなど日本の女権拡張論者にたいする正子の批判が込められているような気がします。

あんた達は、ふた言目には男女平等や男女同権をいうけれど、男と対等になるためにいったい、どれだけの努力をしたというのよ。女であることに甘え、女の特権を保持しながら、男の権利も欲しい、なんて虫が良すぎるわよ。

そんな正子の言葉が聞こえてきそうです。

そこには「この女離れしたところのある私でさえ、いくら頑張っても、男にはなれなかったのよ!」という自負心と悔しさがないまぜになった複雑な心情がこもっているような気がします。

白州正子は、男になろうとして一生懸命、努力して、結局、男にはなれなかったけれど、頑張ったお陰で男っぽい女、つまり両性具有的な人間になることができました。

正子は、青山二郎に「おまえは、俺と小林のおかまの子なんだから、しっかりしろ」といわれたそうですが、これって最高の褒め言葉だと思いますね。

青山二郎と小林秀雄が男同士、愛し合って出来た子供が正子だといってるんですから。
http://jack4afric.exblog.jp/3643212


イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。

”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。

彼らは彼に言った。


”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。

イエスは彼らに言われた。


”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、

そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、

そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、


あなたがたは神の国に入るであろう”。
http://ime.st/emikikuchi.exblog.jp/i40


シモン・ペテロ彼らに言う。

マリアを我らより離れしめよ。女は生命の価値なかりければ。

ペテロは言った。

「マリアを私たちの間から出てゆかせよう。女性は〈生〉に値しないのだから」
                       
イエス言いたもう。

見よ。我マリアを導きて、マリアを男となさん。
マリアまた、汝ら男たちのごとく命ある霊となりぬべし。
おのれを男とせし女らみな、天国に入ることを得たればなり。 


イエス、言う。

「見ていなさい。私が彼女を導く。彼女を男性にし、彼女もまたあなたがた男性と同じように生ける精霊となることができるように。

なぜなら、自らを男性となす女性はすべて天国〈王国〉に入るからである」
http://mahachohan81.blog133.fc2.com/blog-entry-131.html


シモン・ペテロ彼らに言う。

マリアを我らより離れしめよ。
女は生命の価値なかりければ。  

                     
★原始キリスト教を創設したペテロは、マリアを自分たちのところ(イエスの弟子たちによる集団)から出ていかせようとしました。

「女性は悪の根本原因」だとして、拒絶したのです。
生命の価値がないという理由で…。


「女たちは命に値しない」というのは、ユダヤ教、ユダヤ人キリスト教、初期のカトリシズムに見られる女性蔑視が極端な形で表現されたものです。現在のカトリック教会においても、女性は聖職位階制から排除されているようで、女性の法王は存在したことがありませんね。「男性優越主義」が21世紀になっても、相変わらず存在しつづけているというのが、宗教界の実情なのです。


★マリハムとは、マリアのことです。そして、このマリアはイエスの生母ではなく、彼の妻のマリア(マグダラのマリア)のことです。マグダラのマリアは、イエスが初めて心のうちを打ち明けて癒された女性であり、彼が初めて愛した女性でした。


イエスが結婚していたことは、最近(2006年)「ダ・ヴィンチ・コード」が映画化され、ようやく世界中に知らされることとなりましたが、これが事実だと都合が悪いと考える人たちによって、ひた隠しにされてきました。

わたしは、小説「ダ・ヴィンチ・コード」で話題になる20年ほど前から、マグダラのマリアがイエスの伴侶であったことは知っていました。何の疑問もなく、受容していたのです。でも、世界中のクリスチャンはどうだったのでしょうか?

ペテロが発した「マリアを我らより離れしめよ。女は生命の価値なかりければ」ということばは、女性蔑視の骨頂とも言うべき暴言ですが、彼がいかにマリアに嫉妬し、嫌厭していたかがうかがえる箇所です。


宗教を創ったのがみな男性だということは大変興味深いところですが、ペテロは別として、世の男性たちが女性を恐れる理由は面白いと思います。

それは何かというと、女性がそばにいると、神や仏の探求よりも、女性の探求のほうが魅力的になるということです。それでは修行の妨げになるばかりか、面倒なことが発生しかねません。それゆえに彼らは女性を拒み続けなければならなかったということです。


釈迦(ゴータマ・ブッダ)にしても同様です。

ゴータマ・ブッダは悟りを開いた後に釈迦教団を創りましたが、男性の修行者のなかに女性の修行者を入れることはなかったようです。

彼は最初、女性の修行者自体も受け入れていなかったのですが、志願者が増えたため、しかたなく比丘尼となることを認めたのです。でも、男性修行者とは隔離しなければなりませんでした。なぜか、もうおわかりでしょう。
http://mahachohan81.blog133.fc2.com/blog-entry-130.html


河合隼雄先生著の「とりかへばや、男と女」を読んでいると、面白いことが書いてありました。

(以下引用)
いかなる元型もそれ自身はわかるはずはなく、元型的イメージを通して類推されるだけである。今元型Xがあるとしても、元型的イメージというのは自我によって把握されるものであるから、イメージの方に相当の自律性があるにしろ、自我の在り様によって、そのイメージは変わってくるはずである。

そこでたましいの元型というものの存在を仮定すると、それを把握する自我が男性的である場合は、女性のイメージとしてその元型的イメージが生じ、自我が女性である場合は、男性のイメージとして生じると考えればどうであろう。

つまり、アニマの元型、アニムスの元型が存在するのではなく、あるのはたましいの元型というひとつの元型で、それがイメージとして顕現してくるときに姿を変えると考えてみるのである。しかし、それらは、もっと深いところにおいては、両性具有的なイメージとなり、その中間に男女の対のイメージがあるのではないだろうか?


_____


図式的に考えた場合、男性的自我を持つ人にとっては、その対をなす存在として、無意識の領域に女性のイメージ=「アニマ」を仮定できます。

しかし、実際問題として、男性の中に女性イメージの元型があるかというと、実はそうではなくて、男性的自我から、無意識内にある女性的イメージ「アニマ」の方向を向いたところに(あるいは、男性的自我と女性的イメージの間に)、河合先生の言う「たましいの元型」とも呼べる存在があるのではないでしょうか?

あるいは、言い方をかえますと、男性の中に女性のイメージである「アニマ」があり、女性の中に男性のイメージである「アニムス」があるというよりは、「アニマ」「アニムス」と呼ばれるものは、実は同じであり、それは「人間そのもの」とか「人間の本質」と呼ぶに近い(人間)元型なのではないでしょうか。


したがって、

・男性的自我から、その人間の本質である元型を見た場合、それは男性的自我と対立する要素である「無意識の領域の女性的イメージ」の方向にあり、したがって、男性的自我から見れば、それは女性のイメージとして具現化される。

・また、女性的自我から、その人間の本質である元型を見た場合、それは女性的自我と対立する要素である「無意識の領域の男性的イメージ」の方向にあり、したがって、女性的自我から見れば、それは男性のイメージとして具現化される。

――そのようにいえるのではないでしょうか。


つまり、「アニマ」「アニムス」共に、実は同じ「人間そのもの」、「人間本質」の元型であり、その人が立つ位置によって、「自分とは相反する要素=自分に欠けた要素」の方向にあるため、相反する性のイメージであるアニマ・アニムスの姿として現れるということです。


そして、人間は、「自分の持つ要素」と、それとは相反する「対立する要素」とを統合したり、結合させることで、自分に欠けた要素を補い、「本来の人間」とか「人間そのもの」と呼ばれるものに、近づけるのだと思います。

またまた、言い方をかえると、完全なる人間の元型は「自分が今持っているもの」と「自分には欠けたもの」の両方を持っているので、つまり、自分の今いる位置とは相反する位置(対立する位置)の方向にあるわけで、したがって、完全なる人間に導くもの=「魂」は、今いる位置とは相反する位置(対立する位置)に、人間を導こうとするのではないでしょうか?


ここに、「対立する二つの要素と補償作用」、「分離と統合」、「数字の1と2と3と4」などの奥義があるように思います。


ここで、男性・女性の存在と全体性の回復を考えた場合、

・男性的自我だけでは(完全なる人間としては)足りず、その全体性を補ったり、人間の本質へと向かうためには、その対立する要素である無意識内の女性的イメージ「アニマ」との対話・対決を通して、両方の性を包含した人間本質の元型に向かい、それによって「全体性の回復」という仕事は成されるのではないでしょうか。


・女性の場合も、女性的自我だけでは(完全なる人間としては)足りず、その全体性を補ったり、人間の本質へと向かう場合には、その対立する要素である無意識内の男性的イメージ「アニムス」との対話・対決を通して、両方の性を含有する人間本質の元型に向かい、その仕事は成される。


――そう言えるのではないでしょうか。


但し、ここで注意することは、人間の本質(あるいは、その元型)とは、あくまで「男性的自我と女性的イメージ」や「女性的自我と男性的イメージ」の両方を包含するものなのであって、男性が女性化するのでも、女性が男性化するのでもない、ということです。

前の図を見た場合、男性的自我が、無意識内の女性的イメージと対話・対決しながら歩み寄るのが、その間にある「人間そのもの」や「完全なる人間」の元型に近づくことになるのに対し、男性が女性化するのは、単なる「反転」であって、それは人間の本質を大回りに回避し、単に立つ位置が入れ替わったに過ぎない、と言えるでしょう。(女性的自我と、男性的イメージの場合も同じです)

つまり、意識レベルでの反転が行なわれただけで、欠けたものが補われたとか、人間の本質に近づいたとは、言い難いわけです。そして、このような考え方は、実は男性・女性、アニマ・アニムスの考えのみならず、いろんなことに対して、言えそうな気がします。
http://starpalatina.sakura.ne.jp/kouza/11.html

能楽名演集
能「頼政」 喜多流 喜多六平太、森茂好
能「弱法師」 喜多流 友枝喜久夫、松本謙三 [DVD]
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能楽名演集
能 『楊貴妃』
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喜多流 友枝喜久夫 [DVD]
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能「弱法師」1980年放送 カラー

シテ:友枝喜久夫 ワキ:松本謙二 アイ:善竹十郎
笛:田中一次 小鼓:鵜澤速雄 大鼓:柿原崇志 地頭:喜多長世


弱法師は好きな演目ですので、気合いを入れて見てしまいました。友枝喜久夫さんはやはり、すごいですね。ちょっと泣けました。

弱法師は盲目の法師ですから、弱法師という専用面をつけるわけですが、友枝喜久夫の弱法師は本当に目が見えないのでは、と感じさせるものがあります。
(このころは既にお目が不自由でしたかもしれません)


「梅の香が聞こえ候」では、本当に何かの香りが漂うよう。

「日想観なれば・・・」心の目で風景を見ようとする辺りでは、心がふるえるような高揚感を。

「盲目の悲しさは貴賤の人に行きあいの・・・」このあたりも云うことなしの素晴らしさ。

「今よりは更に狂わじ」の諦念と深い内省。


さすがに云うなし。喜多流って、やはり写実的でしょうか。
http://ansam.at.webry.info/200608/article_4.html

友枝喜久夫を聴く


仕事の合間の気分転換に、友枝喜久夫の謡を少し聴く。

一調一声「三井寺」(小鼓:大倉長十郎)と一調「勧進帳」(大鼓:安福建雄)。


「三井寺」は「雪ならば幾度袖を払はまし」から「三井寺に早く着きにけり」までの道行の謡。

「乱れ心や狂ふらん」の後に入る鼓が絶品。友枝さんのテンションも自然と上がって行く。声が大きいわけではないのだが、「志賀唐崎の一つ松…」以下、道行ならではの叙景の言葉が続くが、「風すさまじき秋の水の」で頂点に達する。

テクストは、直接に子を思う母の情を表現したものでなくても、母の情が理屈抜きに聴き手に伝わって来るだけの熱い思いが謡に込められている。

友枝喜久夫は、小柄な人で、必ずしも「安宅」のような曲がニンに合う能役者ではなかったように思うのだが、「勧進帳」は「それ、つらつら惟(おも)ん見れば」から、特に重々しく謡おうという作為がなく、その境地に達するまでに積み重ねられた修練の積み重ねが感じられる。

安福建雄の大鼓も、最近の彼の舞台には見られない気迫で打ち込んで、「天も響けと読み上げたり」と謡い切った時に、有無を言わさぬ説得力が生まれる。つくづく、友枝喜久夫という能役者は、「謡う」ことが好きだったのだなあという感慨が残る。


 国立能楽堂で粟谷菊生が「班女」を舞った時だったが、最晩年の友枝喜久夫は、最初から登場せず、地謡は前列4人だけで始まり、初同(地謡が最初に謡う箇所)の直前に後列の4人が切戸口から出るというやり方をしたことがあった。

異例のことだが、しかし、私がこれまでに見た喜多流の能で、地謡があれほど繊細だったことは他にない。地謡の面々の、友枝喜久夫と謡う機会を大切にしようという思いが結晶したものだったのだろう。
http://eirakukan.seesaa.net/article/36183559.html

「景清」 友枝喜久夫(喜多流) 1991.11.4 友枝会 友枝喜久夫・能舞納め


平家の敗北で自らを盲目にし、日向(宮崎)に流されて侘びしく暮らす平家の武将・悪七兵衛景清の行方を探して娘が訪ねてくる。

初めは応じなかったが会えば親子の情が湧く。かって屋島で兜のしころを引きあった合戦の様子を見せ、我が亡き後の回向を娘に頼み今生の別れを告げる。つかの間に長い時間を押込めた悲劇の能。

この友枝喜久夫の「能舞納め」では能面をつけず「直面(ひためん)」で演じた。

「景清」 友枝喜久夫(喜多流) 1991.11.4 友枝会 友枝喜久夫・能舞納め


シテが幕に消えてゆく。拍手が続く。幕入りまで追ったファインダーが滲み霞んできた。

目を病みよく見えない舞台も大きく舞い、わずかな動きで大きく空気が動く芸。私が理想とする名人の最後の能であった。終曲、舞納めになぜ「景清」を選んだのかが分ったような気がした。
http://www.noh-photo.com/exhibition/08exhibition/08sakuhin.html

昔、友枝喜久夫という能楽師がいた。

いまブームの文筆家、故 白州正子が晩年愛して止まなかった人物。歌舞伎評論家の渡辺保も絶賛を送っていた。様式の完璧を目指す能楽界の中でも、とりわけ強さと形にこだわった故 喜多実率いる喜多流の名家、友枝家の人間。

若い頃は剛直な芸が信条だったけれど、老いて眼病を患い、ほとんど盲目に近い状態になった。ところが、それから彼の芸が大輪の花のように花開いた。

私は彼がほとんど見えない、という前提でしか舞台を観ていないので、若い頃の彼の芸はよくわからない。実際に観たのは、幻想的で夢のような舞台の数々だった。

たまに向きを間違えたりしても、それがなにも傷にならない。
若い頃から鍛え精神と体の奧に備わった「型」。
そして目が見えないからこそ、そこから飛翔できた表現。

なによりも、私は彼の透徹した謡の”声”にしびれて止まなかった。

能の謡は、徹底的に鍛え上げ、一度ノドをつぶしてそこから復活してくる声がいい、という傾向がある。でも、彼の謡は違った。

透明な、あくまでも透き通った音。クリスタルや水晶が口から出てくるようなイメージ。それが単にノドを使っているだけの声ではなく、きちんと鍛えられ胆から出てくるのだから、強靱さが違う。強靱でありながら、ひたすら透明で美しい謡。

この世のものと思えなかった。


白州正子は、彼のために『老木の花』という本を残している。 老木に花が残るがごとく、そこにある美。晩年大輪を咲かせた彼の芸は、次の世阿弥の言葉があてはまる。


「…さりながら、誠に得たらん能者ならば、物数みなみなうせて、善悪見所は少なくとも、花は残るべし。」


確かに、彼の舞台には、まことの花がありつづけた。舞納めの景清まで、ずっと。
http://nohgaku.cocolog-nifty.com/noh/2005/06/post_54b6.html


老木の花―友枝喜久夫の能 [大型本]
白州 正子 (著), 吉越 立雄, 大倉 舜二

大正から昭和の中頃へかけて多くの能の名人芸にふれた著者は、その名人たちの死とともにそれ以降の能に幻滅を感じ遠ざかってしまった。それが友枝喜久夫(81歳)喜多流能の名人が演じた「江口」を観て幽玄という言葉では表現しきれぬ至芸に感動。友枝さんの美しい芸に報いたいという想いで筆を起こした後世に残る一冊。撮影写真は吉越立雄氏と大倉舜二氏による一葉一葉が芸術品と呼べる写真。


さて能「江口」は天王寺詣りの旅の僧が江口の里にやってくる。人の賑わう遊女の里。僧は里人に江口の君の宿跡を尋ねる。その昔、江口の君と呼ばれる遊女がおり、西行法師が雨宿りを請うと、泊めるのを断った。そのとき、西行が詠んだ歌

“世の中を厭ふまでこそかたからめ仮の宿りを惜しむ君かな”

僧はこの歌を思い出し、口ずさむと里の女(江口の亡霊)が現れて、江口の君の返歌を引いて泊めなかった理由を語る。

“世を厭ふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ”

江口の君が宿を断ったのは、西行の僧侶という身を思って断っただけなのに、宿を惜しんだなどと言われては残念と言う。僧は驚いて名を尋ねると里の女は私こそ江口の君の亡霊ですと言い、消えていく。(中入り)

僧は驚き、夜もすがら読経すると川もに舟が現れ江口と遊女が舟遊び。

(ここで絢爛な序の舞)

人間浮き世への執心を捨てれば、菩薩の道はひらくと語るや、江口は普賢菩薩となって白像にまたがり消えていく。


さて、この演能で、白州さんは友枝喜久夫の謡いが水晶の玉のように透明で澄み切った音声。人間の肉声でなく、他界からひびいてくる精霊のささやきのようだと表現する。さらに仕舞い、装束のまといかた、足はこびに幽玄という言葉であらわしきれない新鮮な感動を伝えている。


「この歳になって(来年80になる)、こんな美しいものに出会えるとは夢にも思わなかった。また気が付くと前の席の若いお嬢さんが涙をこぼしている。ジーパン姿の青年、ネクタイ姿の会社員風まで涙を拭いている。」


また白州さんは次のように激しく言う。


「能を難解なものにしたのはインテリが悪いので、世にもありがたい「芸術」に祭あげ、専門家がそれに乗っかって、一種の権威主義を造り上げたのだ」


友枝喜久夫がかくも能に縁遠い若者や外国人に共感を与えるのは、

「ひたすら己を虚しうして稽古に打ち込んでいるいるからで、もはや芸というよりも魂の問題である」


「本当にものを見るとは、こちらから積極的にこうしたものに会うことである。テレビの前に寝そべっていては駄目、こちらから出かけて行ってつかみとらねばならない」

とも言う。世阿弥の言葉「たけたる心位」は茶道の始祖村田珠光の「たけくらむ」、芭蕉の「軽き趣のすじ」とも一脈通じていると解釈する。

最後に題名の「老木の花」が世阿弥が父観阿弥を評した言葉であり、老人になって、人生の最後に咲いた花こそ「まことの花」であると言う。西洋の芸術が「若さと力の表徴」であるなら、日本文化はまさに世阿弥の「老木の花」にあると言えよう。


盲目になってしまった名人友枝喜久夫の心の眼には「人生の経験を積んだ後に到達する事の出来た幸福な境地、若い時には知らずに過ごした様々なものが見えているに違いない」と白州さんは締めくくっている。


名人友枝喜久夫さんも、白州正子さんも鬼籍に入られた。もう二度とみることが出来ない名人友枝喜久夫の能舞台姿を本書で見ることが出来るのは至福の極みである。 また当代きっての名文家にして能を知り尽くした白州正子の能鑑賞の手引きとしても後世に残る秀作である。
http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/e10d804373b8160e0a6739eb56a82d70

《友枝喜久夫の芸は、現代でいえば、まさしく「たけたる位」に相当しているといえよう。といっても、本人が意識して行っているわけではなく、目が見えぬ悲しさといらだちが、「我を忘れる」結果となり、「我を忘れた」時に、思いもかけぬ美しさが火花となって散るのである。

友枝さんの芸が能には珍しくドラマティックであるのは、訓練を重ねた技術の向う側に赤裸々な人間性が現れるからで、そのために、姿勢が崩れる恐れはいささかもない。

今、ドラマティックと私がいったのは、芝居がかっているという意味ではなく、矯めに矯めた感情が、能の型や約束を打ち破って現れる時、強烈な感動を与えるのだ。それは誰にでも理解できる美しさで、美しさというより、魂をゆさぶる衝撃といえようか。今時そんなものに出会うことは稀にしかない。》

(白洲正子『老木の花』より)

《バレエとお能とでは天と地ほどの相違があるが、私にこの世のものならぬ美の神髄を見せてくれたのは、あとにも先にもバレエのアンナ・パヴロヴァと、能楽の友枝喜久夫しかいない。》

(『白洲正子自伝』より)
http://www.buaiso.com/koyu/kokoro/13.html

渡辺保著「能のドラマツルギー 友枝喜久夫仕舞百番日記」(角川書店)、
白州正子さん主催による友枝喜久夫師の仕舞の会観劇記のあとがきです。


ある時「蝉丸」があまりによかったので、

「あの『走り井』のところで、井戸をのぞくのはどういう気持ちでおやりになるんですか」

とつい聞いてしまった。愚問だと思うが、天気の話ばかりしていても仕方がないと思ったからである。笑いながら、友枝さんは少し恥ずかしそうに、

「やはり、そういう気持ちになってやりますね。」

とりつく島がない。そうしたらば、すかさず白州さんが

「ああいうところは型通りやれば、それで生きてくるのよ。現に友枝さんは、井戸の底よりずっと深いところを見ていらっしゃるでしょう」


______


友枝喜久夫さんの「三井寺」

昨日放送のNHK「日本の伝統芸能」の「能」一回目をビデオで観る。はからずも、1日付けの道行で触れた友枝喜久夫さんの「三井寺」の映像を素材とした解説。嬉しい偶然。

清水寺で、息子に会えるようにと願う母の姿。面の表情にその心理が凝縮されていて、シテの心のうちへと引っ張り込まれるような感じ。

友枝喜久夫さんは生の舞台を見たことがなく、それが残念でならない。


_________


立ち姿のこと-写真集「姿」井上八千代・友枝喜久夫-


立って静止しているだけの、その姿に惹かれてしまう、ということが時々ある。たたずまい、という言葉。

京舞、四世井上八千代さんと、喜多流能楽師、友枝喜久夫さんの写真集。白州正子さんの文章に吉越立雄さんの写真(求龍堂)。


能の友枝喜久夫さんは、型がほんとうに美しい。それなのに(それだから??)能には珍しいほどの情がほとばしる。

仕舞の写真は紋付袴なのですが、そのすうっとした立ち姿。なかでも「藤戸」が印象的。また、直面での「景清」が昔語りをする場面はすさまじささえ感じるほど。

そして娘を見送る後ろ姿の余情。
(こういう写真を見るとやっぱり「景清」は、文楽版よりも、娘を帰らせて自分は後に残る、というストーリーがいいなあと思います。)
http://www16.ocn.ne.jp/~kuriy/2002jun.htm

能舞台のある旅館めぐり


日本全国に、能舞台を持った格式高い旅館が数多あることをご存知だろうか?

この3月末、降りしきる雪の中を3泊4日の北陸旅行に出かけた。宿に着くと、白足袋に履き替えて舞台に立たせてもらい、足拍子を踏んだり小謡を謡ったりした。泊まった旅館は

和倉温泉加賀屋、
金沢深谷温泉石屋、
山中温泉よしのや依緑園

の3軒。石川は加賀宝生の土地柄、3軒も揃う県は他にない。この酔狂な旅は03年8月に始め、足掛け3年で全8軒に泊ったことになる。他の5軒を泊まった順に記すと、


03年8月

岐阜下呂温泉水明館、
長野昼神温泉石苔亭いしだ、
静岡修善寺温泉あさば、
渋谷のセルリアンタワーホテル、


05年7月
愛媛道後温泉大和屋本店。


旅館の能舞台は、一般の能楽堂と同じように2タイプ。舞台は庭・見所は座敷というのと、舞台も見所も屋内である。

屋外舞台は修善寺あさば、金沢石屋、道後大和屋の3軒だけ。真冬と真夏は厳しいが、私はこちらの方が好きだ。

宿代を気にしなければ、延宝3年(1675年)創業のあさば旅館が良い。100年前に深川富岡八幡宮から移築された、座敷やテラスから池越しに見る能舞台「あさば月桂殿」は群を抜いている。

年4・5回の定期能や狂言会のために手入れが行き届いているし、後方の竹林や鬱蒼とした樹木、夕方ともされる吊り灯篭も風情があって、世俗を忘れさせてくれる。七代目浅羽保右衛門氏は宝生流だったそうだが、八代目は観世友資師、十代目を継ぐ一秀専務は学生時代から観世暁夫(現銕之丞)師にと、その長い入れ込みぶりは目を瞠る。


寛政元年(1789年)創業の石屋は、七代目社長が大正6年(1917年)に設えたそうだから90年になる。宝生の派手さを嫌った素朴な造りである。用材のくさまき(能登檜)は水に強く、雪深い山奥の舞台に相応しい。普段は雨戸も閉めないため、すぐ側の山に棲む狸が舞台を走り回って腹鼓を打つらしい。泊まった日も、足跡がいくつかついていた。ここは、先に出来た室内の稽古舞台があり、力の入れようが半端でないことが分かる。現在、石屋九代目誠一氏は宝生流佐野由於師に師事。金沢市内から約10kmの、野中の一軒家のような宿には珍しい褐色の温泉が湧き出て、前田の殿様同様ゆったりした気分が味わえる。

明治元年(1868年)創業の大和屋本店は、10年前の96年、改築に合わせて4階の屋上に能舞台「千寿殿」を設えている。松山は高浜虚子の兄、能楽研究家池内信嘉氏の出身地だけに、能楽を地域の伝統文化にと思う気風が強い。喜多流金子匡一師に師事する奥村武久社長は、それを意識して造られたようだ。毎日、宿泊客に能楽体験サービスを熱心に行っている。

残りの五軒は、屋内の能舞台である。最新は、01年5月セルリアンタワーホテル地下2階にできた能楽堂。隣り合わせの料亭金田中の座敷から観ることもできる、200席ばかりのこじんまりした良い舞台であり、唯一のシティホテル能舞台である。着物を着た人々が行き交う大人の街にしたいと考えた、東急のまちづくり構想の目玉になっている。ここの浦潔館長は、金剛流の豊嶋三千春師に習っておられる。

昭和7年(1932年)創業の下呂温泉水明館は、60周年の91年に新館を増築した際、1階「石橋の間」に舞台を設えている。三代目滝多賀男社長のご母堂が観世流関根祥六師に師事していて、下呂の謡曲の会を主宰しておられた関係のようだ。00年頃までは年2回「水明館能」が催されていたが、今は各流派のお素人の会に使われたり、落語名人会や結婚式にも活用しているとのこと。庭に面した幅広のガラスを電動で動かせるのが自慢で、気候の良い時は薪能風にすることもできる。

昼神温泉石苔亭いしだは、2年前のテレビドラマ「温泉にいこう」のタイトルバックに出ていたから、ご記憶の方も多いだろう。中央道園原IC近くにあるこの宿は、昭和59年(1984年)創業と新しいが、4年後の88年、湯治旅館から今の純和風旅館に建替える際に能舞台「紫宸殿」を設けている。石田小夜子女将が観世流浅見重好師に習っていて、能「木賊」に出てくるご当地、園原に相応しいものということだった。大手門のような門をくぐり、玄関に入ると目の前に能舞台があって吃驚する。橋掛と3間四方の奥行が少し短いのが惜しい。柿落しは先代観世左近宗家が務められ、その後も春秋2回「いしだ能」があったが、ここも01年に中止になった。逸見貴子若女将のご亭主が京都の大蔵流茂山千三郎師に稽古に通われたせいか、最近は狂言会が定例になっているようだ。

明治39年(1906年)創業の和倉温泉加賀屋は、今年が100周年。「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」で連続25年1位を誇る、天皇・皇后が何度も泊まられた宿である。規模の大きさやからくり仕掛け、料理や調度、仲居さん達の接遇の素晴らしさには驚くが、こと能舞台に限っては物足りない。舞台構造を知らない設計者に任せたものと思われる。橋掛は1間、鏡の間や楽屋もないため、演能には向かない。空調設備の影響らしいが実に惜しいことである。目付柱や脇柱は取り外しができ、声の反響も良いので謡や仕舞は可能である。

最後は、山中温泉よしのや依緑園。この旅館は、何と建久元年(1190年)創業であり、800年以上が経つ。昭和42年(1967年)、宝生流を習っていた二十五代目社長が、8階建ての長生殿を建てる時、反対を押し切って最上階に能舞台「長生殿」と正面に見所を兼ねた大宴会場を設えている。当時、旅館の屋内能舞台は日本初であり、00年頃まで年3・4回、泊り客向けにプロの演能が行われていたそうである。二十六代目社長は宝生流山田太佐久師のお弟子であるが、今は、大阪音楽大学出身の元ミスユニバース、中曽根有希若女将がクラリネットリサイタル等に使用しているとのこと。淋しい話しである。

以上、加賀屋を除いて、誰かが習っていて造ったか、舞台があるから習っているという旅館ばかり。これからも大切に維持して欲しいと思うが、現在教えておられる先生やお弟子には、このような旅館に泊まって舞台を活用していただきたいと思う。いずれも部屋や料理、露天風呂、仲居さん達は素晴らしいの一語。謡い終わった後も、楽しめること請け合いである。

http://www.hinoki-shoten.co.jp/lesson/ryuyujiteki/nohbutai-meguri/

能が成立した頃は、神社や寺院の拝殿や屋外の仮設舞台などで演じられていた。

その頃の能舞台は基本的に屋外にあり、舞台を取り囲む、または向かい合う位置に作られた別棟の建物から庭を隔てて観る形が一般的だった。

http://www5.plala.or.jp/NATIVE/kyougenraisan/k-keifu/k-noubutai.html

 能と狂言は、能舞台という専有の演技空間を持っています。横浜能楽堂に一歩足を踏み入れるとすぐにお気づきのように、


客席に突き出た三間(約6メートル)四方の本舞台(ほんぶたい)と、向かって左に延びる橋ガカリからなること、

室内でありながら舞台上にも屋根があること、

橋ガカリ奥に5色の揚幕(あげまく)という幕があるのみで、観客と舞台を隔てるものがないこと、

枝振りのよい松が描かれた鏡板(かがみいた)が背景となること


など、横に広く長い日本の大多数の劇場とは随分違っているのです。能舞台は非常に特異な空間ですが、これは能と狂言の演技の本質に深くかかわっています。


 まず本舞台。この正方形の空間は、左右より前後の動きが演技の中心となっていることを意味します。足を一歩出す、一歩引くというほんのわずかな動作が、説得力に満ちた表現になるのです。客席に張り出す舞台では、役者の身体の前から背中まで、すべてが見えてしまいます。「動く彫刻」といわれるように、一分の隙も許されず、全身全霊の力を外に放つ気迫が役者に要求されます。


また能には神、仙人などの超人間的な存在や、あの世の者が多く登場します。人間の生身の肉体である素顔を使わず能面を用いるのはそのためですが、異次元の世界からこちら側へ渡って来るには、果てしなく遠い道のりを辿らねばならないのでしょう。その距離とエネルギーとを象徴するのが橋ガカリなのです。
http://www.yaf.or.jp/nohgaku/98spr/001-2.html

橋掛かりとは、揚幕から本舞台へとつながる長い廊下部分のこと。

ここには、微妙な傾斜がつけられており、観客から見て遠近感が強く感じられるように設計されているそうです。

この橋掛かりを通って、シテは、揚幕から本舞台へと現れ、消えていきます。
それは、亡霊が現れては消えていく、能の物語そのものです。
まるで、橋掛かりが、あの世とこの世を結ぶ道のようです。
http://www.sense-nohgaku.com/noh/articles/whats_no/youhashigakari.php

橋掛りは、異次元とこの世を繋ぐ架け橋です。
http://www.ryosuikai.com/distript.htm

かつて能は、神社の拝殿や芝生の上や屋外の仮設舞台などで演じられていました。

現在のような整った舞台での演能は、室町時代末期から一般的なものになったと考えられていますが、それでも正式な能舞台はすべて屋外に設置されていました。

現存する最古の能舞台は、京都の西本願寺の北舞台です。西本願寺の北舞台の構造は、基本的には現在の能舞台とほとんど変わっていないところをみると、この形式になったのは、かなり早い時期であったと推定されます。

 近代になって生まれた「能楽堂」という劇場においては、能舞台は、かつては舞台とは別棟であった見所(観客席)や舞台と見所との隔てとなっていた白州ともども、すっぽりと建物の中にとり込んだような形、いわば屋外の能舞台を建物で覆った形に変わりました。これは、相撲の土俵を建物の中に取り込んだ国技館とも相通ずるところがあります。今日の能楽堂のように、舞台と客席とが一つの建物の中に収まった劇場形式になったのは、明治14年以降のことで、400年余の能舞台の歴史の中では、まだ新しいものといえます。                    
http://www.janis.or.jp/users/shujim/noubutai.htm


能舞台――叙述の空間 松岡和子


 能楽堂の中へ足を運ぶ。場合によっては入口で穿きものを脱ぎ、あるいは穿いたままで歩を進め、時には階段を昇り時には一階のレベルに続くロビーを抜け、客席に入る。

 能舞台がある。

 どこの能楽堂であれ、私は未だに能舞台を目の前にするこの瞬間に慣れることができずにいる。慣れない、なじまないというのだからこれは一種の違和感にはちがいないのだけれど、その時そこにある能舞台に対して感じるのは、言うまでもなく決して不快な違和感ではなくて、小さな子供ならば恐らく「あっ、おうちの中にまたおうちがある!」という言葉で表現するだろう驚きなのだ。

 いつまでたっても私は、能楽堂の客席に一歩踏みこむ度に小さく息を呑み、すがすがしい驚異の念に打たれる。実際の風雨にも十分に耐えられる堅固な瓦葺きの屋根と柱をそなえた眼前の建ものの中の建ものが、舞台装置ではなく舞台そのものだということに……。

 そして、この建ものはやがて、一夜の能曲の現れにつれて、舞台であり舞台装置であるという融合した場となり、演者たちが静かに姿を消したあとは、再びまた明るい虚空をたたえた舞台として残るのである。


 かつて能舞台の屋根は、本当に雨を受け雪をいただき、外気に触れていた。四季に見合った能曲が演じられる時、梅の季節には梅の香をのせた風が、紅葉の季節には紅葉の色を帯びた風が、能舞台にもそれと相対する別棟の観客席にも、その間に広がる白洲の上にも吹き渡っていただろう。しかし、


「おもだった能役者は自宅の屋内に稽古舞台を持っていたので、明治以後はそこで公開の催しを行うようになった。現在の能楽堂はこの稽古舞台が劇場化したもの」(平凡社刊『能狂言事典』)


だという。だが、能舞台が屋外からまるごと屋内にとりこまれた時、能そのものも徴妙に、そして根本のところで劇としての姿を変えたのではないだろうか。


 日本人でありながら、むしろ西洋演劇を遠い源とする劇やシェイクスピア、そして今日の小劇場演劇の方にずっと馴染んでいる私のような観客にとって、能はハナシそのものの荒唐無稽さは別にしても、そのフィクション性を強く意識させられる演劇形態だ。面をつけたシテと素面のワキが相対することといい、観客席の明るさといい、囃子方が劇中人物と同じ場に坐し後見が出入りすることといい、そこにはいわば「劇」への没入に水をさす一種の異化効果がある。「劇」はあくまでも演じられたものであり、イリュージョンであるということを演じる側も観る側も強く意識しているという意味で、能はメタシアターと言えよう(だが能の場合「劇中人物」にもその意識があるわけではないから、これはあくまでライオネル・エイベルの言うメタシアターの拡大解釈なのだけれど)。
http://www.hashinokai.com/journal/24/24-2-1.htm

 『葵の上』や『砧』といった「室内劇」もあるけれど、能曲は、山中とか野辺、あるいは古塚や川のほとりといった戸外を場とする作品が圧倒的に多いのではあるまいか。これには、専門的な視点から様々な説明が可能なのだろうけれど、本来の能舞台が屋外に建てられていて、「劇」が外の空気と季節にじかに触れ、融け合っていたことと無関係ではないと思う。

 かっては能舞台の屋根の上にも、観客席の屋根の上にも空があった。

 いま、能舞台はそれよりひとまわり大きな建ものの中におさめられている。だが、それが屋根をつけたまま丸ごとそこにおさまった時から、私たち観客の頭上に・広がる天井はただの天井ではなくなった。それは仮想の空になったのだ。つまり、観客席もまたただの観客席ではなく、仮想の外気が流れるフィクションの空間になったのである。
http://www.hashinokai.com/journal/24/24-2-2.htm

自然と共存した能舞台


 演劇の舞台形式として、三方吹き抜けの能舞台は、かなり珍しい形式といえます。江戸時代までは、略式の座敷舞台(室内設置)を除いて、江戸城のそれを正式の規格とする能舞台は屋外に置かれていました。観客は白州と称する空閑地を隔てて、向かいの座敷から見物したのです。

 昔の能は多くは日中の演能でしたから、格別の照明は必要ありませんでした。平安時代の貴族邸宅様式である寝殿造の庭(建物に接近した部分)に白砂を敷き詰めて余計な木々を植えなかったのと同様、一面に白石を撒いた白州は、反射光を舞台に取り込む必須空間なのです。

勧進能(家元役者主催の一般公開能)や町入能(町人を招待する江戸城の祝儀演能)などの祝祭的例外を除けば、白州は見物人を一切入れないことで機能するのです。もっとも、当時の能舞台は北向きを正式としましたから、取り込める光量としては知れたものでした。


薄暗い舞台の上で舞われる能を、10メートル以上も隔てた場所から眺めるのが将軍・大名の観能でした。

江戸時代の劇場照明

 このように自然の光と共存していた能舞台と異なり、劇場組織の発達していた歌舞伎芝居では、照明の発達はそれなりに進んでいました。特に、大坂の顔見世(旧暦11月に行われる、年間契約を結んだ役者の披露祝賀興行)は、江戸と異なり夜間興行を常としました。これは木蝋の原料となるハゼの木が東南アジアから渡来して普及、栽培が盛んになり蝋燭が多く流通する、江戸時代中期以降のことでした。が、和紙を芯とする和蝋燭は、現代の蝋燭に比べてまるで別物、驚くほどの煤(すす)を多く発し、折々は芯を摘まねば炎が衰えます。つまり、夜の芝居小屋は実に煙たかったのです。

夜の能舞台では蝋燭のほかに篝火などを使用、もっとも屋外ですから煙は出るものの多少この弊は免れますが、大敵は灯火を目当てに群がる虫。夏から秋にかけての夜能は、当然歓迎すべきものではなかったため、あまり行われませんでした。(薪能と称する夜間イベントが盛んになったのは古い昔ではなく、ごくごく近年のことです。)

明治維新と能舞台

 明治維新以降、能舞台は室内に置かれるようになりました。靖国神社境内に現存する能舞台は明治11年、芝・増上寺山内(現在の東京タワーの立つ場所)に設置された大社交場・紅葉館の舞台で、偉大な名人が技を競った記念碑的な存在ですが、これが室内能楽堂(そもそも「能楽堂」という呼称もこの舞台が初めでした)のハシリです(現況は屋外)。

ただし、室内に舞台が組み入れられても、演能の頼りは障子やガラス越しの外光でした。正式な番組は戦前まで能五番の長大なものでしたから、早い場合は朝の7時から始まり、日没には終演しました。むろん、外光に頼るためです。

したがって、春たけて日脚が伸びると、能・狂言の番数も少しはにぎわったものでした。大正時代以降、電気照明が当たり前のように能舞台に取り入れられてからも、その明るさを単純に喜びこそすれ、あくまで補助的なものだとの認識は消えなかったためか、あかりの効果は積極的には求められませんでした。

欧米の劇場と照明


  ヨーロッパのオペラでは19世紀中盤、グランド・オペラと呼ばれる、豪華なバレエや派手な舞台装置を組み入れた出し物が流行し、ここに当時普及し始めた電気照明が積極的に取り入れられます。とはいえ、開演中に客席の照明を落とす習慣は、実はそんなに古いものではありません。20世紀初頭、作曲家として有名なヴィーン帝室歌劇場監督のグスタフ・マーラーが断行したと言われていますが、起源はもう少しさかのぼるともいわれます。当時、劇場は社交の場であり、開演中も談笑の声が絶えず、次の間を控えた桟敷では食事や賭博が行われていたのですから、客席内を暗くしたのは、劇場を純然たる藝術鑑賞の場とするのがその意図だったのです。

能舞台でのあるべきあかり


 実態はどうであれ、建前上は端座して「拝見」するものとされた能は、照明の効果による粉飾を嫌い、「ありのまま」の真実を見せるものです。

最近は見所(客席)を暗くする能楽堂もありますが、わたくしは反対です。地肌の美しさを見るべき能に、溶暗による余計な雰囲気づくりは無用だからです。

それはかえって、生一本の気迫で臨む能役者の藝を衰えさせる遠因となるかもしれません。闇や影による日本の美意識をことさらに論じた谷崎潤一郎の名随筆『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』は、一面の文学的真実に過ぎません。能・狂言をそうした雰囲気だけで水増しするとしたら、その及ぼす弊害もまた大きいと言えなくもないのです。

 しかし一方で、能舞台に射し入る自然光の美しさ。これは取り戻さなければならないものだといえます。現在、東京圏の大きな能楽堂で外光が取り込めるのは、東中野の梅若能楽学院舞台のみです。今年の正月、祝典曲として重んぜられる〈翁〉を見ました。ふだんは閉じられている黒幕を除いて、陽光が豊かにあふれる舞台。伝説の能面作者・日光の作と伝えられる、国の重要文化財に指定されている白式尉(はくしきじょう)・黒式尉(こくしきじょう)の面が、外光に照らされてどれほどすばらしい表情を見せたことでしょう。

 能のような強靭な藝術では、人工が自然に及ぶことなどいくらもあろうはずはありません。人工照明でその価値を粉飾するのではなく、自然光の力を積極的に取り入れた室内舞台。これからの能楽堂に求められるのは、こうした「ありのまま」を見せるあかりと舞台のありようだと思います。
http://www.hino.meisei-u.ac.jp/nihonbun/column/vol-08.html


3. 中川隆[2583] koaQ7Jey 2016年5月22日 22:41:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2844]

【日本奇習紀行シリーズ・番外】平安貴族たちの隠された悦楽


奇習! 封印された平安貴族たちの蛮行 ― “恍惚”の赤ん坊レイプ

 かつて、小説家・芥川龍之介は、『今昔物語集』に残る逸話を基に、その著作である小説『羅生門』で、死体から髪を盗んで生業とする老女の姿を描いていた。だが、かつて、京の都が荒みに荒んでいた頃、死人の髪と同様に、常時では考えられぬ需要が生まれていた。それは、生後間もない嬰児の亡骸である。

 以前、世界各地の権力者たちが、幼児の性器から切除した包皮を好んで食していたという内容をご紹介した。

(※【世界の奇習】割礼した幼い女児の性器の包皮を食す―永遠の美と不老長寿を求めて)
http://tocana.jp/2015/10/post_7648_entry.html

その時にも触れたが、嬰児が持つ生命力に魅了される形で、不可思議な行為を密かに行っていた者は、洋の東西を問わず意外と多く存在していたようだ。しかし、彼らの中には、そうした目的とはまた別の意味合いで、乳幼児の肉体を求めていた者も存在していたのだ。それは、その柔らかき肉体が、性的な快楽を得る上で、この上なく適したものであると感じていた人々である。

「現存する史料に乏しいため、正確な部分については不明な点も少なくないのですが、私は確実に“あった”と考えています」

 かつて平安貴族たちを中心に未曾有の大流行となったとされる“ある秘せる儀式”についてそう語るのは、歴史研究家・山種昭三氏(仮名・78)。彼は以前、定説を無視してまで半ば強引に持論を展開し、学会における地位を失った過去を持つ。氏が研究したところによると、今を遡ること900年以上前の1050年頃、京の貴族たちの間では、嬰児の亡骸を密かに買い入れては、それを性的な欲求を満たすために利用する者が続出した時期があったのだという。


「さる筋の傍流にあたる高貴な方が遺した書物によると、

生後3カ月くらいまでの女児の性器は、まるで淡雪のごとく、柔らかき感触である

とのことなのです。またこれは別の史料から少しずつわかってきたことなのですが、ある時、京の北西部にある某寺の僧が、さる雅な血筋の赤子の遺体を弔う際に、なんの好奇からかは知る由もありませんが、その女性器に、自分の指を一本入れてみたそうです。

 すると、今まで感じたことのない感触に驚いたというんです。

それで、その僧は仏罰が当たることを百も承知で、その嬰児の屍を抱き寄せて行為に及んでしまった。

けれども、その行為の最中に見張りの者に見つかってしまい、彼はその場で斬られてしまうんですね。でも、切断されたその首は、とても恍惚に満ちたような表情を浮かべていたとか…。

本当か嘘かはわかりませんが、もしかする当時、こうした逸話に尾ひれがついて、あのおぞましき習慣が広まったのではないでしょうか」

スルジャン・スパソイェヴィッチ監督の映画『セルビアン・フィルム』では、男が赤ん坊をレイプするという、なんとも信じ難い一幕が描かれていた。

山種氏によると、平安の世においては、件の僧にまつわる逸話をどこからか聞きつけた一部の堕落した貴族たちにより、嬰児の遺体を買い集める行為が急速に広まっていったという。

しかし、夜毎の快楽のためにそうした行為を繰り返していたのでは、死体がいくらあっても足りなくなってしまう。それがさらなる悲劇を生んだ。


「遺体が簡単に手に入らなくなると、今度は褒美を出す形で、貧しい庶民の家から生まれたばかりの生きた赤ん坊を買い集めるようになっていったと聞きます。しかしそれだけでは金も赤子も数が足りない。

 そこで結局は押し込み強盗のような真似をしてまで方々から赤子を誘拐しては、自らの屋敷へと運び込んでいく、と。その際に生死の別は問わなかったそうです。

ですが、仮に死後間もない赤ん坊を 1とすると、しばらく経ったものでその半分、逆に生きたままの赤ん坊であれば実に 3倍のもの価値の褒美を惜しげもなく与えていたと言いますから、今風に表現すれば、とんだ赤ん坊バブルですね」


 夜毎、貴族たちの屋敷の裏手には、あちらこちらから赤ん坊を集めてきた者たちが、列を成してその「換金」を待つという、なんとも奇妙な光景が展開されていたという。

折しも、平安時代と言えば、通常の男女であっても、親の承諾が得られない場合などは、誘拐という形で強引に婚姻関係を結んでいた時代。今の時代と比較すれば、いかにこの手の罪に対する意識が緩かったかがわかる。


「まあ、当時は“辻とり”といって、路上で女を浚ってそのまま結婚なんていう時代でしたし、乳幼児の死亡率も極めて高かった時代ですから、今ほど罪の意識はなかったんでしょうね。

ましてや、婚姻対象となる年齢そのものも今に比べて格段に低かった。

現代で言うところの小学生の女の子をいい歳の男が嫁にするなんていうのも当たり前でしたから、性の対象というもの自体が、あまりに自由すぎる時代だったと言えるのかもしれません」

 性に関するタブーという意味では、あまりに無秩序で、開放的過ぎた平安時代。当時の感覚を持たぬ現代の我々から見て、それが理解に苦しむものであることは、ある意味、致し方のないことなのかもしれない。
(文=戸叶和男)
http://tocana.jp/2015/11/post_7743_entry.html


4. 中川隆[-12928] koaQ7Jey 2018年6月09日 11:33:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15082]

「いい日旅立ち」 2018年6月8日


女満別空港にやってきた宮根誠司。

谷村新司は高級外車ではなく赤いプリウスを購入した。
この車を選んだのは20年前谷村新司が出演した初代プリウスのCMがあり、いつか免許を取ってプリウスを運転したいと考えていたそうでその夢が実現した。

谷村新司と宮根誠司の北海道ドライブがスタート。

谷村新司は46年ぶりのドライブ、行き先はどこなのか。

それは斜里、去年通っていた自動車教習所があるそうでお世話になった先生方に免許合格の報告をしたいという。


「いい日旅立ち」は作った時は東北の田園風景を眺めているときに生まれたという。

宮根誠司は谷村新司の一番セクシーな音について「涙の誓い」の「泣きながら」の「な」が凄いと力説した。その後も宮根誠司は谷村新司の横で歌い続けた。
http://kakaku.com/tv/channel=4/programID=12194/page=6575/

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5. 中川隆[-12927] koaQ7Jey 2018年6月09日 11:36:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15082]
谷村新司

今夜斜里町に、親しくしている人たち5人で映画「人生フルーツ」を見に行った。

「人生フルーツ」はなかなかいい話だったんですが

その話じゃなく…

その時に…

清里に谷村新司が住んでいるらしい…

と言う情報 

* Aコープで何度か目撃されている。
* 谷村新司さんですか?と聞いたら、そうだと答えたらしい

エー、本物

そっくりさんじゃないの〜


帰って来て早速検索


《今年、珍しく夏休みが取れたんです。2週間以上、北海道にいまして、それで、なんと、自動車学校に通っていました》

 なんでも、22歳の頃、渡米中に免許を失効し、以来、車の運転はしていなかったという。そして、

《普通ならもう免許返納する年齢なんですよ。もう高齢者に近いんで、(略)そんな時に免許取りに来るって、オイオイオイみたいな感じだったんですけど。(略)だからなんか、記念すべき夏休みでした》


「アリスでブレイクしてからは、自分で運転することもなくなり、この歳まで再取得することなく来ました。ところが、北海道に別荘を持っている友人達がいまして、集まった際農業したり、雪道でも走れるよう、大型や牽引免許を取ろうという話になったのです」

 北海道での移動には車が必要不可欠ということもあって、この際だから免許を取得することに。そうと決めたら翌日から、知人の紹介で北海道の知床にある教習所へ通い始めたという。
それが、7月下旬のこと。

住んでいるわけじゃなく2週間以上清里にいた…って事が分かった。
http://ryujinkai84.blog.fc2.com/blog-entry-825.html

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6. 中川隆[-12938] koaQ7Jey 2018年6月10日 05:37:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15100]

自然と信仰が息づく「生まれかわりの旅」
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/


出羽三山

山形県の中央に位置する出羽三山の雄大な自然を背景に生まれた羽黒修験道では、

羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、
月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、
湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山

と言われます。

三山を巡ることは、江戸時代に庶民の間で「生まれかわりの旅」として広がり、地域の人々に支えられながら、日本古来の、山の自然と信仰の結び付きを今に伝えています。

旅は俗世を表す門前町から始まり、随神門は神域へと誘う境界です。

参道の石段の両側には天を覆うような杉並木が山頂まで続き、訪れる者に自然の霊気と自然への畏怖を感じさせ、心身を潤し明日への活力を与えてくれます。

「生まれかわりの旅」のはじまり

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山(1,984m)・湯殿山(1,504m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。

おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。

修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。

羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、
月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、
湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)

と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼は江戸時代に庶民の間で、現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」(羽黒修験道では「三関三渡の行」と言う。)となって広がりました。


羽黒山の秋の峰入り〜「生まれかわりの旅」の原点〜

はるか昔から人々は、山は神そのものであり神霊の宿る聖地、新たな生命を育む霊地と考えてきました。

山伏がその霊地である山に籠こもるということは、現世の自分を一度葬り母の胎内に宿ることを意味します。

山伏たちは自らを死者とみなして白装束をまとい 「あの世」に見立てた山を駈け巡り、難行苦行をして穢を祓い、わが身に山の神霊をいわい込め新たな魂として再び「生」を得てこの世に出峰します。

山伏の目的は、即身成仏(生きたまま悟りを開く)するための修行であり、山で得た霊力を用いて生きとし生けるものを救済することです。この擬死再生の儀礼を現在に残す唯一の修行と言われているのが羽黒修験の「秋の峰入り」です。

現在は、神仏分離政策により、出羽三山神社が行う明治以降神式に改められた羽黒派古修験道の「秋の峰入り」と、羽黒山修験本宗羽黒山荒澤寺で行う神仏分離以前の法具法灯を継承し神仏習合のまま十界修行を行う古来の「秋の峰入り」の二つが毎年行われています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/reborn/

生まれ変わりのはじまり 羽黒山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/


聖観世音菩薩(現世利益の仏)=補陀落浄土ふだらくじょうど=現在
伊氐波神いではしん(出羽郡の産土神)・稲倉魂命うかのみたま(穀霊の神)
※浄土とは仏の世界

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。

羽黒山は、開祖・蜂子皇子が現在の世を生きる人々を救う仏(聖観世音菩薩)を祀ったといわれ、出羽三山の中で最も村里に近い、人々の現世利益を叶える山であったことから「現在の世を表す山」といわれています。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/羽黒山/

「月」と「黄泉」の清浄なる世界 月山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/

(国指定天然記念物)
阿弥陀如来(死後の救済仏)=極楽浄土=過去
月読命つくよみのみこと (夜を司る神・水を支配する神)

標高 1,984 m、高く秀麗な姿から太古の昔より信仰を集め、「祖霊が鎮まる山」 として「過去の世を表す山」と言われています。

美しい高山植物が咲く山頂 までの道のりは神秘的で、まるで極楽浄土のような光景です。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/月山/

圧倒的な神秘の実感 湯殿山
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/


大日如来(永遠の生命の象徴)=密厳浄土みつごんじょうど=未来

大山祇命おおやまつみのみこと(山の神)・大己貴命おおなむちのみこと(国土の神)・少彦名命すくなひこなのみこと(医薬の神)

全てのものを生み出す山の神「大山祇命」が祭神として祀られる湯殿山は、「未来の 世を表す山」といわれています。

山中で 修行を行う山伏が、生まれかわりを果たす聖地でもあります。
https://nihonisan-dewasanzan.jp/spot/湯殿山/

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7. 中川隆[-12937] koaQ7Jey 2018年6月10日 05:47:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15100]

出羽三山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1


羽黒山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%BE%BD%E9%BB%92%E5%B1%B1

月山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%88%E5%B1%B1

湯殿山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E6%AE%BF%E5%B1%B1


____


月山観光開発株式会社
http://www.gassankanko.jp/index.html

山形県西川町月山朝日観光協会公式サイト ぶらり西川ガイド
http://www.gassan-info.com/

月山情報 月山朝日観光協会
http://whatnew.sblo.jp/category/2464185-1.html

月山 Google マップ
https://www.google.com/maps/@38.523625,140.006476,12z?hl=ja-JP


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8. 中川隆[-12948] koaQ7Jey 2018年6月10日 07:30:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15112]

死と再生というテーマ
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4875/kangae/kangae_02.htm

ユング心理学の本を読んでいて「死と再生」というテーマにたびたび出会うことに気がつきました。

ここでいう「死」は肉体的な死を意味するのではなく、象徴的な「死」のことです。

それは、「ひとつの世界から他の世界への変容を意味し、古い世界の秩序や組織の破壊を意味」しています。

象徴の世界の「死」は肉体の死と直接結びついているものではなく、ある人が象徴的な死を繰り返し体験しても、肉体的生命は生き続けていることが多いのだそうです。

ユング心理学では、たとえば「結婚」は娘にとっては処女性が失われるという死の体験であり、両親にとっては娘が失われる死の体験という、2重の死が含まれていると考えます。


肉体的な死と象徴的な死はかならず結びつくものではないですが、微妙なかかわりを持つものでもあるといいます。

生死をさまよう体験をしたときに、それを転機としてそれ以降の人生が大きく変わるようなことがそうです。

これは特別新しい考え方ではないですよね。夏目漱石が生死をさまよう大病をわずらったあとでその後の作品が変わっていった例、また精神科医であった神谷美恵子さんが若い頃結核になったが自分が死ななかったことが心の中で大きな部分を占めていたこと、作家の辻邦生さんも生死に関わる病気をしていたことがその後の作品に影響を与えていると思います。


このような死と再生のテーマを、河合隼雄さんが自殺との関わりについて述べたものがありました。

自殺しようとする人が、象徴的な意味での死の体験を求めていることについてです。

人は深い意味での死の体験によって、次の次元に生まれ変わることができる。
このような体験を求めたが、しきれなかった(死の体験をしそこなった)ために自殺未遂を繰り返すことになるというものでした。

深い意味での死の体験には充分な自我の力が必要になるといいます。自我の力がそのときに充分強いかどうかで、ひとりでその体験を行ったり、セラピストの力が必要であったり、または今はそのときではないとして、それが肉体的な死の体験へつながってしまうことを予防するのだそうです。

死の体験はいちどすれば終わるのではなく、その体験を繰り返しながら長い成長の過程をたどっていくものでもあるそうです。

自殺が精神の再生や新生を願って行われることもあるという考え方は、自殺がすべてそのようなものと考えるのではないですし、自殺をすすめるものでもありません。ここで私が伝えたかったのは

象徴的な死の体験が、次の次元へ生まれ変わる意味をもっていること、

そう考えることで自分自身の「死」についての考えに何かが加わったように感じたことです。

死と再生についてのテーマは私にはまだよくわかっていなくて説明できない部分も多いです。また、みなさんそれぞれのとらえかたもあると思います。このテーマについてもっとよく知りたい方は、ユング心理学やその他死と再生に関する本を読んでみてください。

私が参考にした本は、少し古い本ですが、

「絵本と童話のユング心理学」(朝日カルチャーブックス)山中康裕/大阪書籍/1986年
https://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B1%B1%E4%B8%AD-%E5%BA%B7%E8%A3%95/dp/4754810678


「カウンセリングと人間性」河合隼雄/創元社/1975年 
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%80%A7-%E6%B2%B3%E5%90%88-%E9%9A%BC%E9%9B%84/dp/4422110209


です。[10.Mar.2002]


「死と再生と、象徴と/考える人 河合隼雄さん」 2008/01/12

大晦日だったか、元旦だったか、
新聞の広告に、大きな笑顔があった。

親しんだ、名前があった。

「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」
(新潮社 考える人 2008年冬号)


その中で、こんな話が出てきます――


今増えてきているのは、抑鬱症(デプレッション)ですね。それはわりと説明が可能なんです、人生が長くなったこととか、社会の変動が速くなったことで。つまり自分の獲得したパターンというのが、意味を持たなくなることが多いんですね。


今まで大丈夫だったものとか、
今まで大切にしてきたものとか、

もっというと、今までそうやって生きてきたものが、<意味を持たなくなる>。

あるいは、通用しなくなる。


たとえば、私が算盤(そろばん)のすごい名人になったとします。算盤さえあれば、と思っているときにコンピューターが出てきますね。そこで自分の持っていたシステムそのものが、まさに行き詰るわけです。そうすると、これはもう抑鬱症になりますね。


自分の大切にしてきたものが、突然、価値を持たなくなる。

いい悪いではなくて、ともかく、そうなる。

それではどうしようもなくなる。

(大丈夫だと思いたい、でも、現実、大丈夫じゃない)
(一部をとったら大丈夫、でも、総体として、危うくなる)
(大丈夫だといえば大丈夫、危ういといえば危うい)

状態というか、環境というか、
取り巻く状況が変化しているのに、
自分というものが取り残されてしまう。

(もちろん、それはいい悪いの問題ではない)

それは、例えば(ヘンテコリンな例だけど)、

厚着をしているうちに、春になり、夏になったようなもので、
薄着をしているうちに、秋になり、冬になったようなもので、

冬に厚着をするのは間違ってないのだけれど、
暖かくなったのに厚着のままでいると、さすがに暑い。
真夏となると、なおさら。

夏に薄着をするのはその通りなんだけれど、
寒くなったのに薄着のままでいると、さすがにつらい。
真冬となると、なおさら。

身体も壊す。
壊す前に、つらい。


ファッションだとか、生き様だとか、
それはその通りで、ある意味、個人の聖域だけど、

だけど、実際問題、
凍えたり、汗だくになったり、
困ったことになってしまう。


気温は測定できて、温度計とか、天気予報とかで、
それを確認できるけれど、

時代の流れとか、社会の流れとか、
己を取り巻く状況とか、
そういうものは、なかなか数字として測定できません。


人生観でもそうでしょう。たとえば節約は第一なんて考えているうちに、息子は全然節約せんで無茶苦茶やっているのに、あれはいい子だ、なんて言われる。そうなると自分の人生観をいっぺんつくり変えなきゃいかんわけです。


こういうことが、14歳(思春期)とか、中年の時期に問題化するのかもしれません。

思春期には、思春期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

中年期には、中年期なりの、<今まで積み重ねてきたもの>があって、
でも、それが行き詰ってしまう。

いいとか悪いとかじゃなくて、
ともかく行き詰ってしまう。(*1

(理由なんかない。ないことはなくても、明確ではない)
(言葉を持たないから、納得も表現も、伝えることもできない)
(つまり、なかなか意識化できない)
(そういう風になっている)

ともかく、通用しなくなってしまう。

こうなると、壊すしかなくなる。


そこをうまく突破した人はすごく伸びていく人が多いんです。突破し損なった場合は、極端な場合は、死んでしまう、自殺するわけです。もう生きていても仕方ないと。抑鬱症というのは、常に自殺の危険性があります。それがわれわれとしても非常に大変なんです。


ここが難しいところで、
根本的な崩壊を防ぎながら、いかに壊すかということが、突破するための必然になるのだと思います。

言葉をかえると、
いかにうまく壊すか、ということになる。

もっと奥に突っ込むと、
いかに生命としての死を避けながら、象徴的な死を経験するか、ということになる。


我々は破壊や死を避けるあまり、<そこを突破すること>まで拒否してしまう。

それは一方で正しく、もっともでありながら、
もう一方では、それだけでは語れない部分がある。

何を壊し、何を殺すか、
生命としては壊さず、殺さず、
(むしろ、生かし、残し)
どうやって、壊し、変革させていくか。

そのために、互いにつながった、深い部分にある、内なるものを、
どう壊し、変容させていくか。

それには、どうしても悲しみというものと付き合わなければならない。

そして、象徴ということが、非常に意味を持ってくる。

実際には壊さず、実際には死なず、殺さず、

それでいて、殆どそれに近い、
それでしか語れぬもの、
それでしか代替が利かないものを、
経験し、経ねばならない。

(ここに象徴の魔法がある)

しかし、そのものは見えず、
(また、見たくないものである場合が多いし)
実際と同じくらいの、悲しみも経験する。

(ギリギリ、皮一枚を隔てて、あちらとこちらが隣接する)

ここに、象徴の意味が出てくる。

実際にはそうでなくて、
しかし、ほぼ実際に近く、

深いところでつながっていて、

実際と同等の悲しみを経験する。

そして、最終的に、実際に変容する。


これをうまく表現するには、
もっと言葉が熟さねばならないのだろうな…。

実際にやらずに、実際にやるというのは、
たいへん意味深い。


(それは安易な代替では行えんことだ)


(*1
環境の変化や、身体の変化が、
生じやすい時期でもありますね。
https://jungknight.blog.fc2.com/blog-entry-819.html


ユングは、「死後の生」のような神秘的な考えがもつ意味について、次のようにも述べます。
彼は母親が死ぬ前日に彼女が死ぬ夢を見ます。
悪魔のようなものが彼女を死の世界へとさらっていったのです。

しかし彼女をさらった悪魔は、じつは高ドイツの祖先の神・ヴォータンでした。ヴォータンはユングの母を、彼女の祖先たちの中に加えようとしていました。

この高ドイツの神・ヴォータンはユングによれば「重要な神」「自然の霊」であり、あるいは錬金術師たちが探し求めた秘密である「マーキュリー(ローマ神話の神)の精神」として、「われわれの文明」の中に再び生を取り戻す存在でした。しかしその「マーキュリーの精神」は歴史的にキリスト教の宣教師たちにより悪魔と認定されていました。

ユングにとってこの夢は、彼の母の魂が、「キリスト教の道徳をこえたところにある自己のより偉大な領域に迎えられたこと」を、そして「葛藤や矛盾が解消された自然と精神との全体性の中に迎えられたこと」を物語っていました。

母の死の通知を受け取った日の夜、ユングは深い悲しみに沈みつつも、心の底の方では悲しむことはできなかったと言います。

なぜなら彼は、結婚式のときに聞くようなダンス音楽や笑いや陽気な話し声を聴き続けていたからです。

彼は一方では暖かさと喜びを感じ、他方では恐れと悲しみを感じていました。

ユングはこの体験から、死の持つパラドックスを洞察します。

母の死を自我の観点から見たとき、それは悲しみになり、「心全体」からみたとき、それは暖かさや喜びを感じさせるものになります。

ユングは「自我」の観点からみた死を、「邪悪で非情な力が人間の生命を終らしめるものであるようにかんじられるもの」と述べます。

「死とは実際、残忍性の恐ろしい魂である。…それは身体的に残忍なことであるのみならず、心にとってもより残忍な出来事である。一人の人間がわれわれから引き裂かれてゆき、残されたものは死の冷たい静寂である。そこには、もはや関係への何らの希望も存在しない。すべての橋は一撃のもとに砕かれてしまったのだから。長寿に価する人が壮年期に命を断たれ、穀つぶしがのうのうと長生きする。これが、われわれの避けることのできない残酷な現実なのである。われわれは、死の残忍性と気まぐれの実際的な経験にあまりにも苦しめられるので、慈悲深い神も、正義も親切も、この世にはないと結論する」(下p.158)。

しかし同時に夢は、母をヴォータンの神が死を通じて祖先たち下へつれていったと教えます。死は、母にとって、またユングにとって、喜ばしいものであると夢は教えます。

「永遠性の光のもとにおいては、死は結婚であり、結合の神秘である。魂は失われた半分を得、全体性を達成するかのように思われる」(下p.158)。
https://blog.goo.ne.jp/vergebung/e/eea5611531d7f83630a078b001261c2c


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

9. 中川隆[-12953] koaQ7Jey 2018年6月10日 08:05:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15118]

日本の伝統的な結婚式に中国人はびっくり!「まるで葬式だな」―中国ネット 2017年1月5日
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html


4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。写真は白無垢。


2017年1月4日、中国のポータルサイト・今日頭条が、日本の伝統的な結婚式について紹介する記事を掲載した。

中国の伝統的な結婚式といえば、新郎新婦が共に赤い衣装を身にまとう。赤色はおめでたい色とされているからだ。記事は、日本の伝統的な結婚式では、花嫁が真っ白な服を着ると紹介。これは白無垢(むく)のことだが、中国では葬式の時に真っ白な服を着るため、中国人からすると非常に違和感があるようだ。

これに対し、中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。

「まるで葬式だな」
「これって結婚式なのか?それとも葬式?」

「結婚はおめでたいことだが、結婚式で喪服を着るのを初めて見た」
「結婚はおめでたいことで、葬式の時にのみ全身真っ白な服を着るものだろ。日本人の世界は全く理解できないな」

「日本人にとっては白黒がおめでたい色なんじゃないか?」
「だったら日本人は葬式で何を着るんだ?」

「日本人は結婚式で白を着るなら、葬式で赤を着るのか?」
「これはだめだ。やはりわれわれの赤色の方がいい」

「まるで中国人は西洋のウエディングドレスを着ないかのような言い方だな」
「でも現代の結婚式では中国人も白いウエディングドレスを着るだろ」

「中国では赤はめでたい色、白は葬式、緑は浮気された男を表すが、日本では赤は血なまぐささ、白は純潔、緑は平和を表すんだな。観念が全然違う」(翻訳・編集/山中)
http://www.recordchina.co.jp/a159976.html

「死と再生」のイニシエーション

イニシェーションは宗教用語で、入会儀礼と訳されている。

仏教の出家もフリーメーソンの入会もこのイニシェーションを通して確実なものとなる。

この儀礼の重要な要素は個人として「死と再生」を象徴的に体験することである。
キリスト教では洗礼をすることで、これまでの自分を清算し、キリスト者として再生する重要な儀礼となる。

この洗礼はもともと川に行き、頭まで水の中に沈めてしまうという力強いものであった。

スタインベックの小説『怒りの葡萄』にも川での洗礼の場面が出てくる。
この水をかける儀礼は、インドの場合には王様の即位儀礼と関係がある。
これを仏教では潅頂といい、王の資格を持つ者の頭頂に頭から水をそそぎかけた。

この水は聖なる力の象徴であり、この水をかけられた瞬間、彼は個人ではなく天国の代理人となるのである。

  残酷な風習と考えられる割礼も、イニシェーションのひとつである。

正式に割礼を受けた者は、それまで母親の所有物であった関係を断ち切り、その象徴である血を出すことで、初めて男の世界の仲間に入るという象徴行為であった。
しかしこうしたイニシェーションの伝統は、地縁、血縁の結びつきが生きている時には効果的に働いていたが、現在ではイニシェーションの伝統そのものが失われ、また維持されているところでもその効果は疑わしい。

それは時代の要請によって、新しく生まれた宗教団体の閉鎖的な空間のなかでしか力を持ちえないのかもしれない。 
http://www.s-net.ne.jp/benri/institut/dw/199606.html


部族社会では危機が訪れるとシャーマンが変成意識状態の中で啓示を受け部族を導き、部族を危機から救おうとする。

 シャーマンのイニシエーションには「シャーマンの病」と呼ばれる精神的な危機がある事が知られている。

その構造は神話の構造と共通している。


1、セパレーション(分離・旅立ち) 
地下世界 天上界 異界への長く苦しい旅立ち


2、イニシエーション (通過儀礼) 

異界で神々、悪霊、祖先霊、動物の霊と遭遇する。
精霊に出会ったシャーマンは苦痛の中で象徴的にバラバラに引き裂かれる。

死と再生のプロセスを通過して シャーマンは深い人格変容をとげる。


3、リターン(帰還)

シャーマンは宇宙の智慧と癒しの力を得て共同体の一員として再統合する。

 現代の、拝み屋、新興宗教の教祖などの霊媒体質のシャーマンに共通するのは人生の中で突然、極端な不幸、災難、困難に出会い、発狂寸前まで追い込まれることだ。

病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。
危機状態を通過したのち霊能力を活かし、相談事を請け負う拝み屋になるのである。

ただし祈祷師、拝み屋、今風にいえばスピリチュアル・カウンセラーにもピンキリがあり、無意識が浄化されていないと物質的な現世利益に走り精神を病んだり、体調を崩したりする者がいる。

シャーマンの危機は現代医学では重度の精神病と診断されている。


精神的な危機に陥った住民を経験豊富なシャーマンは歌や踊り、祈りによって適切な処置を施し共同体の中に着地させる。

精神的な危機を理解できる指導者がいない文化では精神病の患者は共同体から隔離され誰からも相手にされない。

薬づけにされ、病室に閉じ込められる。
シャーマンがいない共同体では危機状態に陥った者の精神の苦しみはより増すばかりである。


 神話に表れる英雄、シャーマン、神秘家の体験、精神分裂病患者(統合失調症)の旅には共通の構造がが見られる。

自我の境界を超えると様々な無意識のイメージやヴィジョンの洪水に襲われる。
同じ無意識の海に飛び込んでも神秘家やシャーマンは泳ぎ、精神分裂病患者は溺れてしまうのである。

 20世紀の初頭イヌイットのシャーマンはデンマークの探検家に偉大な精霊シラについて話した。

「宇宙の霊であるシラは、目には見えない。声が聞こえるだけだ。
わたしらが知っているのは、シラが女のようにやさしい声をしているということだ。

とても上品でやさしい声なので、子どもでさえこわがらない。
そしてシラはこう言う。『宇宙を恐れるな。』」 と


 シャーマニズムの研究によるとシャーマンになるには二つのパターンがある。
召命型と探求型である。

沖縄と奄美には「カンカカリャ(神懸かり)」「ムンスイ(物知り)」「カンヌプトゥ(神の人)」と地域によって呼び名がことなるユタが存在する。
ユタはほとんどが女性であるがカミグルイ、カンブレ、カミダーリィと呼ばれるイニシエーションを経験する。

ある日、結婚生活を送っていた主婦の心身に異常が起きる。
夢や日常の中に神々が表れたりして精神状態が不安定になり、様々な体の不調を訴えるのである。

そのうちに神の歌を歌い一日中踊り続けたりするようになる。
当然、「モノグルイだ」「神グルイだ。」と近所で噂になる。
シャーマニズムの伝統が生きづいている地域ではこれが「聖なる病」であることが理解され家族は精神病院ではなくユタを訪れる。

やはり、カミダーリィとわかり一人前のユタを目指す。
ただしカミダーリィが起きた人が全員ユタになる訳ではないようだ。

「精霊から何代か前の先祖の葬られた場所を探し当てて供養しなければいけない。」

といわれ何年も探し歩いて彷徨しているユタもいる。
精霊にもやり残した仕事があるのだろう。
又、精霊と交流するうちに自分は特別な存在としてエゴがますます強化することもある。

無意識の抑圧に無自覚な人が妄想の中で神社巡りをつづけることもあるのである。
無意識に抑圧や緊張がある者が霊的な能力を得るとその能力故に自滅するケースもある。

突発的に神懸かりになる召命型のユタには人生でさまざまな災難が降りかかり、病気、貧乏、友人、家族、兄弟の死、夫の浮気、離婚などの苦悩と極端な不幸な経験をつむものが多い。

絶望しても死ねないことは普通の人では耐えきれない人生である。
しかし3次元の世界では不幸だがのちに神様の世界から見れば素晴らしい経験だという事を知るのである。

そして超自然的な出来事の中で思考が落ち、神に選ばれた自分の運命を受け入れ自覚した人がユタになるのである。

生まれながらのユタとして人々は「ウマレユタ」と呼び神と直接交流出来る人として特別視する。

ユタには人々をカミンチュ(神の人)に導くことを使命と自覚している人もいる。
カミダーリィを経ないでユタのもとに通っているうちに、ユタのシステムをおぼえていつのまにかユタ稼業を始める者を「ナライユタ」と呼ぶ。
探求、修行型は東北のイタコに相当する。


カミダーリィをシャーマンの病とも呼ぶが召命型のイニシエーションは世界中の先住民の文化に共通してみられる。

変成意識状態の中でシャーマンの今までの肉体は完全に解体される。

頭は切り離され手足と骨盤、関節はバラバラに分解される。
心臓や内蔵が生きたままとりだされる。
筋肉が奇麗にそぎ落とされ目がくり抜かれたりする。
体液が抜き取られ、そして釜で煮込まれたりする。

シャーマンはその間ほとんど息をせず臥せっているのである。
最後に骨が拾い集められ、肉がかぶせられる。

解体と再生は3日から7日続きイニシエーションは終了する。
これらはLSDやメスカリン、アヤワスカなどの向精神物質の摂取でも同様な報告がある。

シャーマンの病とはまさしく跳ぶ前に屈むことなのである。
http://homepage.mac.com/iihatobu/index.html


以前このブログで、私のうつ体験について書いたとき、インディアンのシャーマニズム(呪術的民間信仰)について詳しいある人が、

「先生の体験って、シャーマンのイニシエーション(呪術師になるための通過儀礼)そのものですね」

と話してくれた。


そう言われてみれば、自分ばかりでなく、うつの人のカウンセリングをしていても、自然とシャーマニズムについて話すことが少なくない。

どうやら私の目には、うつの人々とシャーマンとが、重なって見えることが多々あるらしい。

一体なぜそうなるのか、話の流れなどを具体的に思い出し、考えてみた。


シャーマンは、世界各地、特に古くから続く文化を踏襲している地域において、より多く存在し、日本語では「呪術師」あるいは「巫師(かんなぎ)」と訳される。

多くはトランス状態に入り、神の言葉を伝えるという職能の人々のことである。

日本で代表的なものとしては、巫女があげられるが、現在なお実質的な影響力を持つ人々として知られるのは、沖縄周辺の「ユタ」や青森県の「イタコ」が有名である。

青森県の「イタコ」の場合、視力障害を持つ人などが、その職能を身につけるために厳しい修行を行い、その立場を得る。

しかし、沖縄地方の「ユタ」の場合、一部の例外を除き、それまで一般人として生活していた人が、何らかのきっかけで一種の精神病様状態「カミダーリ(神障り)」に陥り、それを克服する中で、自らの「ユタ」としての能力と天命に目覚めていくという経緯をたどる。

イニシエーションにおいてシャーマンがたどるプロセスについて、井上亮(故人)という心理学者から聞いた話がある。

井上氏は大学に助教授として在任中、海外留学先を決める際、周囲の驚愕をよそに、さっさとアフリカはカメルーンの呪術師のもとに留学することを決め、1年を経て、実際に呪術師の資格を得て帰国した人で、さほど口数は多くないが非常に魅力的な人物であった。
シャーマンになるためのプロセスの中では、いくつかの課題を克服せねばならないという。
中でも、特に私の記憶に強く残っているのは、「孤独」と「恐怖」の克服である。

氏自身も、「恐怖」の克服こそがもっとも大きな課題であるとして、通過儀礼の中心に位置づけておられたように思う。

シャーマンの通過儀礼においては、「恐怖」の対象は、単なる観念ではない。

戸のない小屋で、夜一人で睡眠をとることを命じられ、ベッドに横たわっていると、黒豹が小屋の中に入ってくるというのである。

この黒豹は、たしかに実体ではあるが、ある大きな存在の化身らしく、普通に自然の中で生活している生きた黒豹とは違うようだ。

通過儀礼を受ける者は、これから逃げてはならないし、起き上がってもならない。

氏が儀礼を受けていた際も、確かにこの黒豹が、小屋に侵入してきた気配があったということである。

これまで自分が生活していた日常の世界から、未知の異世界へと通路が開かれていくとき、夢や物語の中では、異世界を象徴する存在は、しばしば獰猛な動物的性格を帯びる。

以前、このブログで『こぶとり爺さん』の解釈を試みたことがあったが、爺さんが最初に見た異世界の姿もまた、異形の鬼(妖怪)どもの宴であった。

そして、やはりこの爺さんも、「鬼に食われてもよい、わしは踊るのだ」という形で、恐怖を克服したのである。

ごく普通の人の場合でも、外部からの圧力によって表現することを妨げられた感情は、「怒り」という様相を帯びる。

それは、檻に閉じ込められた、あるいは鎖につながれた獣が、怒りのためにより凶暴になるというイメージに似ている。

異世界も異世界への通路も、潜在的にはとっくに存在していたのだが、ただ人の側にそれを受け入れる準備ができていなかったために、意識の向こう側に閉じ込められていたに過ぎない。

かなり前の放送だが、NHKスペシャル『脳と心』の最終章「無意識と創造性」に、宮古島のユタである、根間ツル子さんという女性が出演しておられた。

先に述べたユタの例に漏れず、彼女もまた離婚という節目をきっかけに精神病様状態となり、他のユタのもとを訪れて、「この人はユタになる人だ」と見抜かれたのだという。

都会であれば、「精神病」あるいは「人格障害」で片付けられてしまう状態だ。

根間さんに初めて神がかりが起きた頃、ある一つのことが強く訴えられた。

番組では、当時の神がかり中の根間さんの肉声が放送されていたが、まさに壮絶なまでの叫びであった。

「ああ私が悪かったぁー!…………
何としてもこの井戸を、これだけは、これだけは頼みます……!」

と、すでに使われなくなり、埋もれてしまっていたある井戸を再び掘りなおすことに、強く執着したのである。

根間さんは実際にこれを実現し、そしてユタとなった。

万物の根底にある地下水脈、地下世界という異界と、この世とをつなぐ通路。

根間さんの魂、あるいは宮古島の人々や自然の魂にとっては、それがその井戸だったと言えるだろう。

この場合、「井戸は、単に象徴に過ぎない」と言うことはできない。

心理的に大きな何かを乗り越えるというのは、単に「心の持ちようを変える」というのとは、まったく次元を異にする。

うつという病を乗り越えるにも、まず例外なく、ある現実との実際の闘いなくして、遂げられることはない。

だから根間さんも、実際に井戸を開通させねばならなかったのだ。

万物の根底にある地下世界のイメージによって表現される領域を、ユング心理学では「普遍的無意識」と呼ぶが、ユング自身もまた、当時ヨーロッパを席巻していたフロイト心理学と袂を分かった後、精神病様状態をともなう極度のうつを経験している。

そののち、ユングはこの考えを体系化するに至るのだが、彼もまた、フロイトとの決別という苦難に満ちた過程を経ることで、普遍的無意識に達する井戸を開通させたのだと言える。


うつの人々の特徴は、一言でいうならば、ものごとの本質・本筋・矛盾を見抜く目に、曇りがないことである。

だから、まわりの雰囲気や、慣習や、馴れ合いに流されず、いつも本当のことが見えてしまう。

要するに、非常にシャーマン的なのだ。

こういった人々の割合は、どれほど多く見積もっても1パーセントくらいではないかと、私は考えている。

はっきり言って、特殊と言わざるを得ない。

そして、そこにこそうつの人々の苦悩と劣等感がある。

一般の人々は、自力では大きな存在とは繋がれない。
それを導き、繋げてやるのがシャーマンである。

本来の姿のままに自然と人間とが有機的に絡み合い、人間性が生き生きとした文化の中であるならば、シャーマンのような立場となるべき人が、うつになるタイプの人々の中には少なくないのではないかと思うのである。

本来ならば、常に真実を見、正しい言葉を語り、尊敬を集めてこそしかるべき人々が、踏みつけにされ、もがき苦しまねばならない社会。

一体われわれは(というよりも私は)、これをどうすればいいのだろうか。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html



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10. 中川隆[-12967] koaQ7Jey 2018年6月10日 11:17:53 : BgUOVZHHUY : PL_HCJslNnw[1]

東野圭吾の『秘密』はこの死と再生を描いた名作でした:

テレビ朝日 テレビドラマ 秘密

動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%A7%98%E5%AF%86++%E5%B0%8F%E8%81%B0+


放送期間 2010年10月15日 - 12月10日(9回)

原作 東野圭吾
脚本 吉田紀子

キャスト
杉田藻奈美・直子 - 志田未来
杉田平介 - 佐々木蔵之介
橋本多恵子 - 本仮屋ユイカ
小坂洋太郎 - 橋本さとし
吉本和子 - 池津祥子


第1話 2010年10月15日 東野圭吾!! 伝説のベストセラー 心は38歳、体は16歳の妻
第2話 2010年10月22日 東野圭吾原作〜今夜16才の妻を抱く!!
第3話 2010年10月29日 東野圭吾原作〜16才の妻、同窓会へ!!
第4話 2010年11月5日 東野圭吾原作〜私の記憶が消える日!!
第5話 2010年11月12日 東野圭吾原作〜妊娠!! 唐木希浩
第6話 2010年11月19日 東野圭吾原作〜許されない恋の始まり
第7話 2010年11月26日 東野圭吾原作〜妻の恋人
第8話 2010年12月3日 最終章〜妻との永遠の別れ…
最終話 2010年12月10日 運命は妻を二度奪う…そして驚愕最終回!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E5%AF%86_(%E6%9D%B1%E9%87%8E%E5%9C%AD%E5%90%BE)


滝田洋二郎 秘密 1999年 東宝
動画
https://www.youtube.com/watch?v=W-N2h-q4Rl0

キャスト
杉田藻奈美・直子 - 広末涼子
杉田平介 - 小林薫
杉田直子(入れ替わり前まで) - 岸本加世子






▲△▽▼

秘密 (文春文庫) – 2001/5/1 東野 圭吾 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%98%E5%AF%86-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%B1%E9%87%8E-%E5%9C%AD%E5%90%BE/dp/4167110067

妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まった。

映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇


運命は、愛する人を二度奪っていく。

自動車部品メーカーで働く39歳の杉田平介は妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美と暮らしていた。

長野の実家に行く妻と娘を乗せたスキーバスが崖から転落してしまう。
妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。
その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密"の生活が始まった。

外見は小学生ながら今までどおり家事をこなす妻は、やがて藻奈美の代わりに 新しい人生を送りたいと決意し、私立中学を受験、その後は医学部を目指して共学の高校を受験する。

年頃になった彼女の周囲には男性の影がちらつき、 平介は妻であって娘でもある彼女への関係に苦しむようになる。

98年度ベストミステリーとして話題をさらい、広末涼子主演で映画化、志田未来主演で連続ドラマ化もされた東野圭吾の出世作。累計200万部突破の伝説のベストセラー。

_____


東野圭吾 秘密 のあらすじ 妻が娘で娘が…???
2016年6月25日 [文学/あらすじ, 東野圭吾]
http://rhinoos.xyz/archives/20387.html


今回は現代日本屈指の人気作家、
東野圭吾さんのミリオンセラー
『秘密』(1998)で行ってみます。
 


もちろんこれ、2010年のテレビドラマ
(佐々木蔵之介、志田未来主演)の
原作ですし、その前には広末涼子さん、
小林薫さん出演、滝田洋二郎監督で
映画化もされています(1999)。


さて、一口に「あらすじ」を、といっても、
話の骨子だけでいいという場合から、
読書感想文を書くんだから分析・解説
つきの詳しいものがほしいという
場合まで、千差万別でしょう。

そこで出血大サービス((((((ノ゚听)ノ

「ごく簡単なあらすじ」と
「やや詳しいあらすじ」の
2ヴァージョンを用意しましたよ~~(^^)у

ごく簡単なあらすじ(要約)
まずはぎゅっと要約した
「ごく簡単なあらすじ」。


杉田平介の妻・直子はバスの転落事故で
死亡するが、その意識は身体だけ
生き残った11歳の娘・藻奈美の中で
生き続ける。

世間的には娘になりすます直子は、
成績優秀で私立中学を経て有名進学校へ
と進むが、男子との交際のことなどで
平介との間に波風が立つ。

  
やがて藻奈美の身体に藻奈美の
意識が復活し、直子の意識と交替
する「二重人格」の状態になる。

藻奈美と直子の2人格は交換日記の
ようなノートで意思を伝え合うが、
直子の意識は徐々に弱まる。

藻奈美は直子の指示通り、二人の
最初のデートの場所へ平介を誘い、
そこで……


どうでしょう?

え? これだけじゃ意味ない?

ハハハ、まあそうでしょうね。

本当は父娘以外にも多くの個性的な
登場人物が絡み合って進む本格的な
長編小説をムリヤリ凝縮し、
しかも一応、ネタバレを避けてますしね。

では、様子見にちょっとだけ
テレビドラマの方を覗いてみて
もらいましょうか。


ん? やっぱりよくわからん?

そういうわけでやはり「やや詳しい」
ヴァージョンのあらす」を読んでいただく
ことになるわけですね、ハイ;^^💦

やや詳しいあらすじ
では始めましょう。

わかりやすさのため「起承転結」の4部に分け、
もちろんラストまで包み隠さず完全ネタバレありで
参りますので、結末を知りたくない人は
読まないでくださいね;^^💦

ひっかかるかもしれない部分には【CHECK!】印で
注釈を入れていますが、うるさいと思う人は
飛ばしてください。

なお「 」内及び「”」印のグレーの
囲みは原文(上記文庫本)からの引用です。


🌓【起】
自動車部品メーカー社員、39歳の
杉田平介は愛妻・直子と11歳の娘・
藻奈美との3人で暮らしていた。

1985年冬、長野の実家に向かう
直子と藻奈美の2人が乗った
スキーバスが崖から転落。

2人は病院に運ばれたものの、
直子は死亡し、藻奈美は一時は
回復不能といわれながらも、
奇跡的に助かる。


が、意識を回復した藻奈美のその
意識は実は直子のものとわかる。

「あたしがあの子の
身体を奪っちゃった。
あの子の魂を追い出して……」

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この信じがたい事態に戸惑いながら、
平介と直子(身体は藻奈美)は、
世間にはあくまで父娘と見せかけて
生活していくことにする。

直子は仏壇の引き出しに入れてあった
結婚指輪を、かつて自分が作り
藻奈美が大切にしていた
テディベアの頭の後ろに縫い込む。

「正体は二人だけの秘密ね」


🌓【承】
直子は小学校に通い始め、平介は
バス事故の「被害者の会」に出席。

会には死亡した運転手の妻である
梶川征子が現れて謝罪するが、
相手にされない。

会の終了後、平介は新宿駅で征子を
見かけ、階段で彼女が倒れたので、
タクシーで自宅まで送る。


その後、連絡を取り合うようになり、
亡夫(梶川幸広)の超過労働や、
札幌にいる前妻とその子に仕送りを
していたことなどを知っていく。

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やがて直子に初潮があり、
「あっちのほう」どうする?
「我慢していられる?」と尋ねる。

「そんな……じつの娘と。
しかも小学生の」
「じゃあほかの女の人と
するってこと?」といった
微妙な会話が交わされる。


藻奈美に自分のようなただの
専業主婦になってほしくないと
思う直子は私立中学受験を目指し、
担任の若い美人教師、橋本多恵子と
平介との接触が増える。

その橋本に気があるのではと
直子はからかうが、それは事実で
平介は欲求不満のとき多恵子を妄想。

橋本の側でも運動会の日に弁当を
用意してくれるなど好意を示す。

    teacher

遺族会が一周忌に企画した事故現場への
慰霊旅行のあと、梶川征子が病死。

その葬儀に出た平介は娘の逸美から
父の遺品として古い懐中時計を
渡される。

蓋が開かないので専門店で開けて
もらうと、蓋の裏に幸広の子らしい
5歳くらいの男児の写真。


札幌出張の際に梶川の前妻、
根岸典子を訪ねるが、息子の
大学生、文也によって拒絶される。


🌓【転】
有名私立女子中学に進学した直子は
そこでも成績優秀で、医学部に
入りたいから、高校は共学の
進学校を目指すと宣言。

その動機には男への欲求も?
と平介は疑うが、ともかく
猛勉強して有名進学校へ進学。

 

高校では体力も必要だからと
テニス部に入り、練習で遅く帰って
食事の支度もするという多忙な生活。

不満がたまった平介はつい「男と
玉遊びをしてる」などと悪態をつき、
二人の間は気まずくなる。


お盆休み、十年ぶりに直子の実家に
帰省した平介は、義父の三郎に再婚
すればいいと言われ、直子自身にも
聞かれて「いいんだ」と答える。


テニス部の一年先輩、相馬春樹から
直子への電話が繁くなり、心穏やかで
なくなった平介はついに電話盗聴
セットを仕掛け、二人の仲を探る。

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クリスマスイブ、平介は盗聴で探知
した待ち合わせ場所にが姿を現し、
直子と相馬を驚かす。

「なぜだめなんですか」と問う相馬に
「世界が違うんだよ」と平介。
「私や娘が生きている世界と、
君のいる世界は、全く別物なんだ」


帰宅後、「あたしはふつうにしてた
だけよ」と訴える直子に、妻である
以上「ふつうにする権利なんかない」
と平介は言い放つ。

「若い身体を手に入れて、もう一度
人生をやり直せるような気に
なっているようだけど、それは
あくまで俺の許せる範囲内
だってことを忘れるな」

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俺は今でも浮気もしていないし、
再婚のことも考えてない。

小学校の橋本先生が好きで
「交際したい」とも思ったが、結局
電話すらしなかったのは「おまえを
裏切りたくなかったからだ」


一月半ば、クラスで行くスキーの
チラシを破り捨ててみせた直子に
「俺のこと、憎んでるのか」と平介。

そうではなく「途方に暮れてるだけ」
「そうだな。俺もだよ」という会話の
あと、「ねえ、あれしようか」と直子。


二人はベッドでふれ合い「あれ」を
試みるが、平介の中の何かが拒否し、
「やめよう」…「そうね」…。


🌓【結】
別用で上京した根岸典子と会った平介は、
梶川は自分が実父ではないことを知り
ながら文也を愛し、大学進学後は毎月
必ず10万円を仕送りするように
なっていたのだと知る。

家族の幸せが自分の幸せだと語っていた
という梶川の生き様に打たれ、平介は
自分も、直子が藻奈美として生きて
いくことの幸せを願う気持ちになる。


帰宅して「長い間、苦しめて悪かった」
と詫びると、直子は泣いて自室へ。

眠って目覚めると、パジャマ姿で
庭を見下ろしていた直子が
「お父さん、あたし、〔中略〕
どうしてここにいるのかな」

 
藻奈美の意識が戻ったのだ。

その後、彼女の身体には直子の意識と
藻奈美のそれとが交互に出入りする。

「二重人格」の状態となったのだが、
直子の人格は出現頻度が徐々に減り、
二人の人格は交換日記のような
ノートで意思を伝え合う。


七月、就活で平介の会社に来た大学院
生の根岸文也が、平介に面会を求め、
以前の非礼を詫びる。

平介が是非にと誘って、夕食を家で
一緒にということなり、藻奈美に電話。

二人で帰宅し挨拶すると、文也と
藻奈美の「視線が空中で絡んだ」。

       097778

勉強も見てくれた文也を見送ってから、
藻奈美は、明日の土曜日、横浜の
山下公園に連れて行ってと頼む。

平介と直子が最初にデートしたこの
場所へというノートでの指示という。


その日、山下公園のベンチで海を
見ながら松任谷由実の曲を流すと、
直子の人格が現れ、「ありがとう。
さようなら。忘れないでね」。


数年後、25歳になった大学助手、
藻奈美と文也との結婚式。

梶川幸広の形見の懐中時計が動かないので
松野時計店へ行った平介は、9年前、
直子がテディベアに縫い込んだ指輪を
藻奈美が取り出して自分用に
作りかえさせたことを知る。

二人の「秘密」を知っていたことから、
直子は実は消えておらず、藻奈美の
演技を続けているだけなのでは
ないかと平介は考え始める。


文也を控え室に連れて行った平介は
「殴らせてくれ」「二発だ」と
拳を固めるが、振り上げる前に
涙があふれ、声がかれるほど泣く。

まとめ
さあ、いかがでした? 

さすがによく出来たミステリーで、
しかも主題は夫婦愛。

さらにそこに父娘間の情愛が微妙に
絡むので、これはもうグッと来て
しまう読者が多いのも頷けます。


直子の意識がほんとうはまだ生きて
いるのか…と匂わせて謎のまま閉じる
オープン・エンデイングもよい。

ただ私個人の感想として言わせてもらえば、
むしろそこ(45章)で終わってしまった
方がよかったのでして、ラストの
46章は蛇足の感が大きいですね。


なぜって、主人公が花婿に言う
「殴らせろ」ってのは、
あまりにも通俗的で古臭い
クリッシェ(決まり文句)。


これを使ってまとめようとしたことで、
作品全体の品性を下げてしまったのでは?
と東野氏のために憂える次第です。


いや、そこでこそ泣ける…という
意見もあるでしょうし、それは
それで結構なんですけどね。


さて、読書感想文を書こうという場合も
ネタはすでに十分ご覧に入れたと思います。

考えさせられる名言やポイントも
泣かされる展開も、いくつも
拾うことが出来ますよね。
http://rhinoos.xyz/archives/20387.html



▲△▽▼




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

11. 中川隆[-12972] koaQ7Jey 2018年6月10日 11:27:22 : BgUOVZHHUY : PL_HCJslNnw[-1]

恐山 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%90%E5%B1%B1

恐山のイタコ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%81%90%E5%B1%B1+%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%B3


水上勉の「飢餓海峡」を歩く 下北半島編 
http://www.tokyo-kurenaidan.com/mizukami-kiga4.htm


下北半島の恐山と犯人が辿った牛滝から野平、川内、大湊を歩きます。


<三途の川(恐山)>

 太田浩児の「夢を吐く 人間内田吐夢」では内田吐夢監督が撮影準備のため恐山を訪れたときのことを書いています。

「…こうして故人の霊を呼び小声で対話する巫女は、昼食後訪れた恐山に多い。恐山は日本三大霊山のひとつであり、大湊から車で三、四十分、北西に向かった地点にある。…… 

山麓の緑の草の中に赤や黄の花が点々とあるかと思えば、その先は一木一草の生存すら許されず、灰色の荒涼とした地肌がむき出しになっていて、無常感を漂わす。そのあたり、地獄からの音信のように、ゴポリゴポリと地底から不気味な音をたてて熱湯が湧き出し、土そのものが靴底の皮を通してぬくみを足に伝える。

修羅王地獄、女郎地獄といった恐ろしい名前の史跡があるが、他にも重罪地獄、血の池地獄、賽ノ河原と続く。傍に神秘的な円形の髄、宇曽利山湖があり、ここに注ぐ細い川を三途ノ川という念の入れようである。三途ノ川に太鼓橋がかかり、一組のアベックが、じっと動かずにいた。「心中じゃあるまいな」 誰かがポッリと言った。…」。


本物の小説「飢餓海峡」では恐山は登場しません。

★左上の写真が恐山の三途の川に架かる太鼓橋です。恐山菩提寺の少し手前に有ります。特に三途の川に架かる太鼓橋の雰囲気はありません。


<恐山菩提寺(青森県下北半島)>

 恐山菩提寺も昭和30年代と比べると立派になっています。中にある山門も当時は無かったようです。


「…風に反る卒塔婆、そして、積まれた小石の山の小さい一粒、二粒がとはされる。それを黙然と見守る苔むした石地蔵。漂白された寺の山門は、数百千年の時の流れに耐えた骸骨の仔立を思わせ、その異様な風景は暫く一行のロを閉ざした。

寺の周辺に、数人の巫女が聞き手とともにしゃがみこんでいるのが、遠く見える。巫女はすべて木綿の和服をまとった老女である。こうした場の中で、私の耳には、さきほど大湊の巫女がぶつぶつ呟いた祈藤の声が復活した。おそらく誰の耳にも、わけても吐夢の耳にそうだったに違いない。後日、この作品のダビングの時に、吐夢は音楽の富田勲と計り、御詠歌のアレンジを主題曲の基調とした。…」。


御詠歌をアレンジしたとは思いませんでした。御詠歌というと今の若い人はわかるかな!賛美歌みたいなものですね。


★右上の写真が恐山菩提寺の山門です。左側の赤い屋根の建物が本堂です。この左側奥に”賽の河原”があります。劇場版「飢餓海峡」でもこの”賽の河原”が使われています(犯人がこの”賽の河原”を歩く場面)。TV版は多くの場面でこの恐山菩提寺が使われていました。まず最初は弓坂刑事が歩く”賽の河原”の場面、次は温泉場の場面です(この恐山菩提寺の中にある温泉場が使われています)。

恐山温泉
http://www.asahi-net.or.jp/~ue3t-cb/spa/osorezan/osorezan.htm
http://www.geocities.jp/oyu_web/t348.html
http://onsen.nifty.com/cs/catalog/onsen_255/catalog_onsen006619_1.htm?area=02&pref=02&sflg=01
http://www.food-travel.jp/aomori/osorezan.html
http://yaplog.jp/gomagoma/archive/921
http://kumaken.3.pro.tok2.com/onsen/aomori/osorezan.html
http://kumaken.3.pro.tok2.com/onsen/aomori/osorezan_yakusi.html

<恐山菩提寺 宿坊 吉祥閣>

 この恐山菩提寺には宿坊がありましたので泊まってきました。禅宗のお寺ですのでお勤めがありますが、私の時は朝だけでしたので30分ほどですみました。宿坊も大変良くなっていて鉄筋コンクリートのホテル並の設備でした。昔は木造の建物で大部屋たったのではないでしょうか。8月末だったのですがガラガラで一泊12千円でした。

温泉は中にもあるのですが、この恐山菩提寺の参道の両側に木造の小屋風の男女別々の風呂場があります。夜の暗い中を入りにいきます。だれも入っていないと自分で電気をつけます。風呂場の中の写真も掲載しておきます。

★左の写真が夕食です(皆で一緒に食べるのですが、お坊さんと一緒に……をしないと食べられません)。精進料理ですがなかなか美味しかったです(すこし味は濃かった)。献立は時期によって変わるとおもいます。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/mizukami-kiga4.htm



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

12. 中川隆[-12977] koaQ7Jey 2018年6月10日 11:38:04 : BgUOVZHHUY : PL_HCJslNnw[-6]

日本の深層―縄文・蝦夷文化を探る (集英社文庫)– 1994/6/1 梅原 猛 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E2%80%95%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4087481786

『日本の深層』梅原猛 松岡正剛の千夜千冊 1418夜
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html

この本は梅原猛の数ある著作を画期する一冊で、
かつ、いまこそ読まれるべき「日本=東北」の深層をあざやかに解く一冊である。
ここには、石巻や仙台に隠された生をうけた梅原の、東北に寄せる深くて熱いまなざしが生きている。

縄文と蝦夷、アイヌと日本人、仏教と修験道、柳田国男の目、啄木の詩、賢治の心、さらには太宰や徳一を通して、 大胆な梅原日本学の入口が次々に示される。


 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。


 けれども両親ともその直後に結核に罹ってしまい、父は辛うじて治ったのだが、母上は悪化したまま1年半もたたずに亡くなった。猛少年はそのまま父上の実家近くの知多の片田舎に送られて、そこで梅原半兵衛の子として育てられた。

 このことは長らく伏せられていたらしい。梅原は仙台に生まれたことも、養父と養母以外に実父実母がいることもずっと知らなかった。梅原の懊悩はこのことを知ったときから始まっているのだという。

 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。

 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」(12夜)をつくるのだ。

 ちなみに父上の梅原半二はトヨタの常務や中央研究所の所長を務めたトヨタを代表するエンジニアで、一世を風靡したコロナなどを設計した。梅原半二をそのように仕向けたのは豊田喜一郎だった。

 そんなことはつゆ知らぬ梅原猛のほうは、私立東海中学から2カ月だけ通った広島高等師範をへて八高へ。ついで西田幾多郎・田辺元の京大哲学科か、和辻哲郎の東大倫理科かのどちらかに行きたくなって、結局京大に進んだのだが、もはや西田も田辺もいなかった。

 こうしてギリシア哲学やハイデガーに向かっていくものの、しだいに虚無感に襲われて、いっときは賭博にはまり、これを脱するためにまずは「笑い」を研究し、ついで和歌論の研究に入っていった。1963年の壬生忠岑『和歌体十種』についての論考は、梅原のその後の日本古典研究の嚆矢となった論文だった。

 あとの経歴は省こう。本書は、そういう梅原が自身の故郷というか、原郷というか、日本人の母国である東北を、かなり本気で旅したときの記録である。紀行ふうになっている。

 梅原自身が本書で告白しているように、それまでの梅原はどちらかといえば「日本の中心の課題」を解くことを主にこころがけていたのだが、本書の旅をする十年ほど前から「辺境にひそむ日本」に注目するようになっていた。とくに縄文やアイヌとのふれあいが大きかったようだ。

 けれども東北にはなかなか廻れない。それが本書をきっかけに起爆した。あえてこの辺境の旅を『日本の深層』と銘打ったところに、梅原のなみなみならぬ覚悟が表明されている。30年前のことだ。1983年に佼成出版社から刊行され、さらに山形や会津の話が加わって文庫本になった。

 文庫本の解説は赤坂憲雄(1412夜)が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。

 梅原の数ある本のうち、今夜、この一冊をぼくがとりあげるのを見て、すでに数々の梅原日本学に親しんできた梅原ファンたちは、ちょっと待った、梅原さんのものならもっとフカイ本に取り組んでほしい、松岡ならもっとゴツイ本を紹介できるだろうに、せめてもっと怨霊がすだくカライ本を選んでほしいと思ったにちがいない。

 それはそうである。たしかに梅原本なら著作集ですら20巻を数えるのだから、『地獄の思想』『水底の歌』『隠された十字架』から『日本学事始』『聖徳太子』『京都発見』まで、なんとでも選べるはずである。しかし、いま、ぼくが梅原猛を千夜千冊するには、この「番外録」の流れからは本書がやっぱりベストセレクトなのだ。

 本書が梅原にとっての初の蝦夷論や東北論になっていること、その梅原がいまちょうど東日本大震災の復興構想会議の特別顧問になっていること、この20年ほどにわたって梅原は原発反対の立場を口にしてきたこと、そしてなにより梅原が仙台や石巻の風土を血の中に疼くようにもっているということ、加うるに、ぼくもまた東北のことを考えつづけているということ、本書が現時点でのベストセレクトである理由はそういう点にある。

 とくに前夜に森崎和江の『北上幻想』(1417夜)を紹介した直後では、梅原が本書で北上川をこそ東北の象徴とみなし、「母なる川」と呼んでいることを心から受け入れたい。

本書の旅程

 春秋2回の旅は多賀城から始まっている。大野東人(あづまびと)が神亀元年(724)につくった多賀城跡を見て、梅原は太宰府との違いを感じる。太宰府は海に向かって開こうとしているが、多賀城は北方を睨んでいる。多賀城の跡には蝦夷と対峙する緊張がある。

 ついで芭蕉(991夜)が「壷碑」(つぼのいしぶみ)と名付けた坂上田村麻呂(1415夜)の碑文を見る。例の「多賀城、京を去ること一千五百里、蝦夷の国界を去ること百二十里‥‥靺鞨を去ること三千里云々」という文章だ。この石碑にはヤマト朝廷の自負と、その管轄から外されている「陸奥」(みちのく)に対する睥睨があった。

 多賀城から石巻に入り、梅原は初めて母の縁戚たちを訪ねた。石川家の檀那寺や石川家の墓にも参った。意外に大きな墓だった。いろいろ自身の来し方は気になるが、そのまま塩釜・松島から大和インターの東北自動車道を一気に走って平泉に行った。

 3度目の平泉だったようだが、それまで梅原は平泉の平泉たる意義をほとんど掴めていなかった。それが今度はアイヌや蝦夷の文化に関心をもったせいか、少しは平泉の意味が見えてきた。安倍一族の奥六郡を藤原清衡が継承して拠点を平泉に移した意味、奥州における金採集がもたらした中尊寺金色堂の意味、そうしたことを背景にしてここにつくられていった“今生の浄土”の意味、そういうものがやっと見えてきた。

 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。

金色堂の一字金輪像

 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄(1415夜)の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。

 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。

 門屋光昭は鬼剣舞(おにけんばい)にぞっこんだった。誘われて、見た。鬼剣舞は、安倍一族の怨霊が一年に一度、鬼となってあらわれて、かつての恨みをはらすことを人々がよろこぶのである。そうであるのなら、東北にさかんなシシ舞もアイヌのイヨマンテの系譜であって、シシとは実は熊のことではないかと梅原は仮説する。そこには縄文があるはずだ。

 案の定、和賀川をさかのぼって沢内へ行くと、そこには太田祖電がつくった碧祥寺博物館があって、マタギの日々が展示されていた。梅原はマタギこそ縄文の民の末裔で、日本神話以前の神々を熊とともに祀ってきたのではないかと思う。

 花巻に戻って、あらためて宮沢賢治(900夜)がどのように東北を見ていたかということを考えた。

 岩手をイーハトブと、花巻を羅須と、北上川の川岸をイギリス海岸と呼ぶ賢治は、東北をけっして辺境などとは見なかった。奥州藤原氏初代の清衡に似て、「ここが世界だ」とみなしていた。梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』を思い出しながら、賢治には民族の忘れられた記憶を呼び戻す詩人としての霊力があったと、語気を強めて書いている。のちに叙事詩『ギルガメッシュ』を戯曲仕立てにした梅原ならではの見方だ。

 賢治記念館から光太郎山荘に向かった。高村光太郎が昭和20年から7年間にわたっていた山荘で、昭和20年4月13日に東京空襲で焼け出された光太郎が、賢治の父の宮沢政太郎のすすめで花巻に疎開して宮沢宅にいたところ、8月10日にその宮沢宅も戦災で焼けた。それで光太郎は佐藤隆房の家に寄寓したのち、この山荘に移ったのだった。

 が、行ってみて驚いた。聞きしにまさるひどい小屋である。杉皮葺の屋根の三畳半の小屋だった。ここで光太郎はすでに死後7年たった智恵子の霊といたのかと思うと、胸つぶれる気になった。

 翌日は遠野に出向いた。案内役は佐藤昇で、続石(つづきいし)、千葉家の曲り家、遠野市立美術館、駒形神社、早池峰神社、北川家のおしらさまなどを順に見た。
 梅原が遠野に来たのは初めてである。あまりに広く、あまりに都会的なのでびっくりしたようだ。自分が読んできた柳田国男の『遠野物語』の世界とずいぶん違っている。それに梅原は、そもそも柳田が『遠野物語』を書いた理由がいまひとつ理解できないままにいた。なぜ柳田が佐々木喜善が語る不思議な話を収集して並べたてたのか。泉鏡花(917夜)には絶賛されたけれど、これが民俗学の出発点というものなのか。

 とはいえ、柳田を本気で読んでこなかった自分にも何かが足りないのだろうとも気づき、本書ではそれなりの取り組みを試していく。

卯子酉様の祠(遠野町)
『図説 遠野物語の世界』より

 柳田は当初は山人の研究をしていた。先住民の研究だ。山人の動向は『遠野物語』では死者から届く声のようになっている。ところが柳田は、山人よりも稲作民としての常民をしだいに研究するようになった。

 村落に定住している稲作民から見れば、遊民としての山人は異様なものと映る。徳川期の百科事典だが、『大和本草』や『和漢三才図絵』の中では、山人はなんとヒヒの次に図示されている。また常民としての稲作民は天皇一族につながる天ツ神を奉じ、これに対するに山人は国ツ神を奉じるものとされ、里人からは異人・鬼・土蜘蛛・天狗・猿などとして扱われた。

 実際の柳田は生涯にわたってこうした山人を重視し、畏怖もしていた。それはまちがいない。しかし研究者として山人を追求しすぎることに不安も感じた。梅原は、柳田がそういう不安をもつにいたったのは、明治43年の幸徳秋水事件の影響があったのではないかと推理する。天皇暗殺計画が“発覚”したという事件だ。柳田はかなり大きな社会の変化を感じたのではないか。山人、国ツ神、鬼、天狗、猿といった「体制からはみ出された民」の復権を学者があえてはかろうとすることは、不穏な思想として取り締まりにあう時代になりつつあったのである。

 こんなふうに、梅原は初めての遠野のことを書いていく。なんともいえない説得力がある。歴史や思想や人物についての自分のかかわりの欠如や希薄を率直に認め、そこから直截にその欠如と希薄を独力で埋めていこうとするところは一貫した梅原独得の真骨頂で、本書は旅の先々での記録になっているため、その“編集力”が如実に伝わってくる。 

 盛岡では県立博物館から渋民村に行った。ここでも梅原は幸徳秋水事件に衝撃をうけた啄木(1148夜)のことを思い、27歳で夭折した啄木に高い自負心と深い想像力があることを考える。それは啄木だけではなく、賢治や太宰治(507夜)に共通する東北性のようにも思えてくる。

 たしかに東北人には想像力に富む文人が多い。たとえば安藤昌益や平田篤胤、近代ならば内藤湖南(1245夜)や原勝郎‥‥。ぼくがついでに現代から加えるなら、高橋竹山、藤沢周平、長嶺ヤス子、土門拳、寺山修司、福田繁雄、石ノ森章太郎、井上ひさし‥‥。

 梅原はつねづね師匠格の桑原武夫(272夜)の口ぶりをついで、こうした風土的事情を「批評は関西、詩は東北」とも言ってきた。では、なぜ詩は東北なのか。啄木の歌や詩はゆきずりの女たちをみごとな恋の歌にしている。そうした女たちから愛されてきたことも歌っている。しかし啄木研究者たちはそれらが想像力の産物でしかなかったことを証した。啄木自身も『悲しき玩具』でこう歌った。

  あの頃はよく嘘を言ひき。平気にてよく嘘を言ひき。汗出づるかな。
  もう嘘はいはじと思ひき それは今朝 今また一つ嘘をいへるかな。

 梅原は書く、「想像力の能力は嘘の能力でもある。嘘は想像力の裏側なのである。東北の人たちの話を聞いていると、嘘か本当かよくわからないことがある。多くの東北人は豊かな想像力に恵まれていて、奔放な想像力のままにいろいろ話をしているうちに、その話に酔って、自分でも嘘と本当のけじめがわからなくなってしまうのであろう」。

 8月になって、ふたたび東北を訪れた。今度は花巻空港まで飛んで、そこから岩洞湖や早坂自然公園を抜けて岩泉に入った。このあたりの岩手県は何時間車をとばしても、集落に出会わない。日本列島でもこれはめずらしい。北海道を除いて本州ではあまりない。

 佐々木三喜夫の案内で龍泉洞へ行って湧窟(わくくつ)を見た。ワクはアイヌ語のワッカ(水)、クはクッ(入口)だろう。どうやら八戸の閉井穴(へいあな)という洞窟まで通じているらしい。東北は土と水でつながっている。

 宿に戻って、岩泉民間伝承研究会の『ふるさとノート』を読んでみると、畠山剛の『カノとその周辺』がおもしろかった。カノとは焼畑のことである。縄文中期に始まって今日まで至っている。このあたりではいまでも山を焼いて灰の上に種を蒔き、蕎麦や粟や大豆や小豆を栽培している。やっぱり東北は土と水の国なのだ。

 翌日、葛巻町から浄法寺町の天台寺に向かって、あらためて北上川の大いなる意味を感じた。

 ふつう、日本の多くの川は真ん中の山脈や高地から太平洋か日本海かに流れるようになっている。けれども北上川はちがっている。東北をタテに流れている。東の北上山脈と西の奥羽山脈のあいだの水を集め、長々と南下する。

 それゆえにこそ縄文・弥生・古代の東北はこの北上川によって育まれ、蝦夷の一族たちもここに育った。まただからこそヤマト朝廷はこの北上川にそって、多賀城・伊治城・胆沢城・志波城・徳丹城などを築いた。

 北上川こそ東北の「母なる川」なのである。安倍一族も藤原4代も、啄木も賢治も、この母なる北上川に母国の面影を見いだしたのだ。

 この北上川は七時雨山(ななしぐれやま)のあたりで、東と西に分かれていく。梅原が向かった浄法寺町は七時雨山の北にある。ここでは北上川は馬渕川・安比川になっている。奥六郡のひとつにあたる。蝦夷の本貫の土地であり、安倍氏の大事な土地だった。アッピとアベはつながっていた。

 浄法寺町の天台寺はこうした背景をもって、おそらくは安倍氏の力によって建てられたのであろう。天台寺というからには比叡の天台を意識したのだろうし、比叡山延暦寺のほうも、奥六郡を治める安倍氏の金や馬に目をつけたのであろう。

 ところが、いざ天台寺に入ってみて梅原が注目したのは、山門の仁王像に白い紙がいっぱい貼られていたことだった。顔にも胸にも手足にも紙が貼ってある。なんだか痛々しい。

 聞くと、この地方の人々は病気にかかるとここに来て、自分の病気の患部を仁王に当てて貼っていくのだという。なるほど関西にも、たとえば北野天神の牛のように悪いところを撫でるという習慣はある。けれどもこんなふうに紙をべたべた貼ることはない。

 こういう信仰は仏教そのものにはない。これは土着信仰がおおっぴらに仏教のほうへ入ってきているせいだ。おまけに天台寺の中心仏はナタ彫りの聖観音と十一面観音なのである。ナタ彫りの仏像も関西にはない。特異なものである。しかし梅原は一目見て、これは一代傑作だと感じた。亀ケ岡式土器につながる芸術感覚がある。

 このように奥六群の周辺の信仰感覚を見ていくと、ここはやはり縄文時代からの霊地であったろうという気がしてきた。

十一面観音体(左)聖観音(右)
『図説 みちのく古仏紀行』より


 国道4号線へ出て十和田市を通っていよいよ青森に入った。まずは成田敏の案内で県立郷土館の風韻堂コレクションを見た。亀ケ岡土器を中心にした縄文土器1万点のコレクションだ。溜息が出るほどすばらしい。

 郷土館では田中忠三郎が待ってくれていた。田中忠三郎といえば、ぼくには「津軽こぎん刺し・南部菱刺し・サキオリ(裂織)」などの東北古布のコレクターとしての馴染みがあるが、梅原には『私の蝦夷ものがり』の著者だったようだ。縄文文化の話の花が咲いた。

 そもそも縄文文化には大きく二つの興隆期がある。ひとつは縄文中期で約五千年から四千年前になる。諏訪湖を中心に中部山岳地帯に燃えるような縄文エネルギーが爆発した。神秘的な力をもっていた。

 もうひとつは後期の縄文文化で、東北と西日本に遺跡がのこる。こちらはエネルギーの爆発というより、静かで深みのある美を極めた土器群である。「磨消(すりけし)縄文」という。いったん付けた縄文を消した部分と縄文とのコントラストが美しい。亀ケ岡式土器は磨消縄文である。天台寺のナタ彫りはこの磨消縄文に通じるものだった。

 亀ケ岡文化を飾る遺品に、もうひとつ、土偶がある。遮光器土偶や女性の土偶が有名だが、梅原は弘前の市立博物館で見た猪の土偶と郷土館で見た熊の土偶にいたく感銘している。まことにリアルな模造なのだ。人体をデフォルメしてやまない縄文人がこうした動物をリアルにつくったことに、梅原は新たな謎を発見していく。

猪の土偶(上)と熊の土偶(下)

津軽こぎん刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

南部菱刺し
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より

サキオリ
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』より


 8月は東北の祭の季節である。恐山の大祭(地蔵会)、秋田の竿燈、岩手の鹿踊り、山伏神楽‥‥。

 いずれも盆の祭であって、死霊を迎え、それを喜ばせ、それを送る。そこで8月末に津軽に行った。ねぷたの里である。この里は新たに造営されたところで、毎年のねぷたの良品を展示している。

 ねぷたの起源は坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあるという。東北には田村麻呂伝説と義経伝説がやたらにあるが、なにもかもが田村麻呂のせいではあるまい。もともとは精霊流しが母型だったはずである。しかしねぷたの狂騒的熱狂やそのディオニソス性を思うと、そこには田村麻呂と蝦夷との闘いがよみがえるものもある。

 青森のねぷたと弘前のねぷたはちがうらしい。青森の連中は青森ねぷたが本物で、弘前ねぷたはダメだと言う。弘前では青森ねぷたは下品で弘前ねぷたが昔のままを継いでいると言う。こういう津軽人の相互に譲らない自信は津軽の風土から来ているのであろう。

 梅原は津軽を一周することにした。10時に青森を発って外ケ浜を北上し、蟹田(かいた)で西に入って今別から三厨を通って竜飛岬に向かう。そしてふたたび今別から南下して、今度は西に行って市浦(いうら)から十三湊(とさみなと)を見て、金木町・五所川原に着く。実はこのコースは太宰治の『津軽』のコースにもなっていた。金木町は太宰の故郷である。

 太宰は『津軽』で書いている。津軽の者はどんなに権勢を誇る連中に対しても従わないのだと。「彼は卑しき者なのぞ、ただ時の運の強くして、時勢に誇ることにこそあれ」と見抜くのだと。その一方で、太宰は津軽人があけっぱなしの親愛感とともに、無礼と無作法をかこっていることを書く。あけっぴろげにするか、すべて隠すか、二つにひとつなんだとも書いた。

 もう少し正確にいえば、津軽の親愛の力は相手にくいこむ無作法によって成り立っているのだ。梅原はそこに、啄木にも賢治にも感じられる真実と想像とを区別しなくなる東北的詩魂のマザーのようなものを見た。

たちねぷた 毎年1体が新調される
『東北お祭り紀行』より

 金木町には太宰の生家の斜陽館がのこされている。観光客はみんな行く。しかしこの町で梅原を驚かせたのは川倉地蔵のほうだった。

 何百という地蔵が並んでいるのだが、そのすべてが赤や青の現色の着物をまとい、顔に白粉や口紅をつけている。まことに不気味。これは生きている人間ではない。死んだ人間たちだ。

 太宰はイタコについては何も書かなかったけれど、梅原はイタコの力を思い出し、さらに以前、弘前の久渡寺(くどじ)で見た数百体のおしらさまを思い出していた。そのおしらさまたちも金銀緞子の衣裳をつけ、信者たちは手に手に長い箸をもって祈っていた。

 久渡寺は密教寺院だから、僧侶がやることは真言密教の儀式にもとづいている。しかし、おしらさまの前で信者たちが見せている祈りの姿は、もっと以前からの母型性をもっている。

 実は梅原はこの旅の20年ほど前に、恐山のイタコに母親の霊をおろしてもらっていた。梅原の母上が梅原を生んで1年ほどで亡くなったことはすでに紹介しておいたが、そのため、梅原には母の顔や母の声の記憶がない。その母の声をイタコは乗り移って聞かせたのだ。

 津軽弁だったのでよくは聞き取れなかったけれど、よくぞおまえも大きくなったな、立派になったな、わたしも冥土でよろこんでいるというところは、辛うじてわかった。

 梅原はこの声が母の声だと感じた。同行していた友人たちは、終わって3倍の料金を払おうとしていた梅原の頬に、何筋かの涙が流れていたと言った。

 生者と死者は切り離せない。そこに大地震や大津波があろうとも、切り離せない。イタコとゴミソとおしらさまもまた、これらは切り離せないものたちなのである。

家にイタコを呼び、おしらさまを遊ばせて1年を占った
それが久渡寺に数百体も集まっている
『東北お祭り紀行』より


 次の旅は秋田の大館、能代から酒田に向かう旅である。途中に八森(はちもり)に寄った。加賀康三所有の「加賀家文書」を見るためだ。

 加賀家文書というのは、幕末に加賀屋伝蔵という者が蝦夷地に渡って、そこで蝦夷(エゾ)の通訳をしていたのだが、その伝蔵にまつわる文書のことをいう。松浦武士郎が伝蔵に宛てた手紙なども含まれているのだが、梅原が見たかったのは伝蔵がつくったアイヌ語の教科書だった。

 梅原がアイヌ文化に関心をもったのは、昭和54年に藤村久和と出会ってからのことである。以来、蝦夷の文化は縄文の文化で、その蝦夷の文化をくむのがアイヌ文化だという考えをもつようになった。ところが、このような見方は学界ではまったく否定されてきた。アイヌ人と日本人は異なる種族で、アイヌ語と日本語もまったく異なっている。

 これは金田一京助が確立した大きな見方で、アイヌ語は抱合語であるのに対して、日本語は膠着語であって、仮に類似の言葉がいくらあろうとも、それは一方から他方への借用語か、文化の濃度差による移入語であるというものだ。金田一によってアイヌと日本は切り離されたのである。

 しかしながら梅原はこの見方に従わない。屈強に抵抗をして、縄文≒蝦夷≒アイヌという等式を追いかけている。その後も、いまもなお――。学界的には劣勢であるが、学界というところ、けっこうあやしいところもいっぱいあるものなのである。

 八森から男鹿半島に入って寒風山に登った。このあたりはなまはげの本場である。祭の中心には真山神社がある。

 なまはげは坂上田村麻呂に殺された蝦夷の霊魂を祀るとも言われている。またまた田村麻呂の登場だが、もしもそうなのだとしたら田村麻呂以前に秋田に遠征した阿部比羅夫についてはそうした反抗の記憶がのこっていないので、やはり田村麻呂には強い中央に対する反発が残響したのだということになる。

 しかしこれをもっとさかのぼれば、ここには蝦夷やアイヌがそのまま残響しているとも考えられてよい。アイヌ語でパケは頭のことをいう。なまはげとは生の頭、生首のことなのだ。証拠も何もないけれど、そういうふうなことも思いついた。梅原は本書のみならず多くの著作のなかで、こういうツイッターのような呟きを欠かさない。のちのち別の著作を読むと、その呟きがけっこうな仮説に成長していることも少なくない。

 秋田、本庄を素通りし、この夜は酒田に入った。土門拳(901夜)の故郷である。しかしこの夜はアイヌの夢を見て眠りこんでいたようだ。

ケデ、腰ミノ、ハバキ、面をつけて、なまはげに変身する
『東北お祭り紀行』より


 次の旅では妻子とともに出羽三山をまわった。海向寺で忠海上人のミイラに直面し、羽黒山で正善院に寄り、湯殿山では総奥之院を詣でた。ここでの体験と思索は、ふたたび三たび、梅原が新たな“深層編集”に挑むためのものだった。

 仏教の研究から日本思想に入った梅原にとって、修験道はただただ奇異なものにすぎなかった。吉野大峰であれ、英彦山であれ、出羽三山であれ、仏教や仏教思想とはなんらのつながりのない土俗的な呪術に見えていた。こういうところは、ぼくと逆である。ぼくは早くに内藤正敏と出会って遠野や出羽三山に親しんだ。桑沢デザイン研究所で写真の講師をしていたときは、学生たちに真っ先に勧めたのは出羽三山旅行だった。

 そういう梅原ではあったらしいけれど、縄文にさかのぼる日本の深層に関心がおよんでからというものは、修験道は梅原の視野を強く刺激するようになってきた。このへんの事情も正直に本書にのべられている。

 羽黒山の開祖は能除太子で、崇峻天皇の第二皇子だとされている。蜂子皇子ともいわれた。しかしその像の容貌は容貌魁偉というどころか、ものすごい。あきらかに山人の顔だ。けれども羽黒山が能除太子を開祖にもってきたことには、深い暗示作用もある。崇峻天皇は仏教交流に大きな役割をはたしながらも、蘇我馬子に殺された。その皇子が祀られたのには、遠い山人との交差がおこっているはずなのだ。

 湯殿山の御神体は湯の出ている岩そのものである。岩も重要だし、湯も重要だ。とくに東北においては、縄文以来、湯を大事にしてきた。

 その湯は岩とともにある。縄文遺跡の近くに温泉が湧いていることが多いのも、東北の本来を物語っている。

 帰途は最上川をさかのぼって、天童、作並温泉をへて仙台に出た。空港では源了圓(233夜)夫妻が待っていた。源はこのころは東北大学の教授で、梅原が信頼する数少ない日本学の研究者だった。

 こうして春秋2度にわたる東北の旅が終わり、仙台空港から梅原は機上の人となって関西へ、京都へ帰っていくのだが、この紀行文が『日本の深層』として佼成出版社から刊行されると大きな反響になったとともに、山形や福島の読者から、これではわれらの故郷がふれられていない、残念だという声が寄せられてきた。

 そこで、この文庫版には別途に書かれた会津の章と山形の章が入れられた。あらかた次のようなものになっている。

 会津についての地名伝説の一番古いものに、『古事記』にのっている話がある。崇神天皇が大彦命(オオヒコ)を高志道へ、その子の建沼皮別命(タヌナカワワケ)を東国に遣わして、まつろわぬ者たちを平定するように命じた。そのオオヒコとタヌナナカワワケが父子で出会ったのが会津(相津)だったという記述だ。高志道は越の国のこと、東国は「あづま」で、関東を含めた北寄りの東国をいう。

 越の国にも東の国にもまつろわぬ部族たち、すなわち蝦夷(エミシ)がいて、これを平定しようとしたという話だが、そしてどうやらその平定ができたという話だ(ちなみに、それでもまだまつろわぬ者たちがいたのが陸奥と出羽だった)。もっとも、これは表向きの話だ。

 崇神天皇の時代はだいたい4世紀前半にあたる。梅原はこの古代エピソードには、会津地方が縄文文化と弥生文化の出会いの場所であって、二つの文化が重なっていった場所だという暗示がこめられていると見る。

 よく知られているように、越後には火焔土器が目立つ。越の蝦夷による造形だったろう。記紀神話に登場する須勢理媛(スセリヒメ)はこの越の蝦夷たちの後継者で、かなり神秘的な地域を治めていたのだと思われる。会津地方は阿賀川などの水系交通でこの越とつながって、縄文土器の国々をつくっていた。火焔土器に似た土器が出る。

 その一方、会津地方は弥生文化が早くにやってきた地域でもあった。盆地のせいだったろう。弥生中期の南郷山遺跡に出土する弥生土器はそうとうにすばらしい。こうして、縄文と弥生がここで交わった。それは「日本」の成立というにふさわしい。

 梅原は他の著作でも何度も書いているのだが、縄文が終わって弥生が栄えたとは見ていない。農作の文化が広まって、政治制度や社会制度に大きな変化があらわれていても、信仰や習俗はかなり縄文的なるものを継続していたとみなしている。倭人とは縄文人と弥生人の混血でもあったのだ。ただ、その「日本」や「倭人」のその後の継続のかたちや活動のしかたが、西国と東国、また畿内と東北ではかなり異なったのだった。

 会津を象徴する人物に徳一がいる。古代仏教史上できわめて重要な人物で、最澄と論争し、空海(750夜)が東国の布教を頼もうとしたのに、その空海の真言に痛烈な文句をつけた。

 南都六宗の力が退嬰し、道鏡などが政治的にふるまうようになった奈良末期、この古代仏教を立て直すにあたっては、二つの方法があった。ひとつは旧来の仏教を切り捨てて新たな仏教を創造していく方法だ。これを試みたのが最澄や空海の密教だった。

 もうひとつは、旧仏教が堕落したのは組織と人間がよくなかったのだから、別の土地に新たな寺院と組織をつくって、倫理的回復をはかるという方法である。前者がカトリックに対してプロテスタントがとった方法だとすれば、後者はイエズス会がとった方法で、徳一はこの後者の方法でイエズス会が海外に布教の拠点を求めたように、東国や東北に新たな活動を広めていった。

 時代が奈良から平安に移ると、都を中心に最澄と空海の密教が比叡山や高雄山(神護寺)や東寺などに定着していった。このままでは奈良仏教は旗色が悪い。しかし最澄と空海の論法に旧仏教はたじたじだった。そこで東北の一角から徳一がこの論争を買ってでた。

 最初は最澄を相手にした。このとき徳一は牛に乗り、その角のあいだに経机をおいて、最澄の教義を破る文章を書き上げたという。日本ではめずらしい激越な論争であるが、このときの徳一の文章はのこっていない。

 空海のほうは徳一の才能を認めて、むしろ北への密教の拡張を託したかった。しかし徳一はこれを拒否して、痛烈な批判を書いた。この批判は『真言未決文』としてのこっている。ぼくも読んだが、11にわたる疑点をあげたもので、まことにラディカルだ。

 平安期以降の会津は、この徳一のおこした恵日寺を中心に仏教文化を広げていった。まさにイエズス会である。恵日寺は磐梯山信仰ともむすびついたようだ。火山爆発に苦しむ住民の救済力として信仰されたからだ。同じく常陸の筑波山寺も徳一によって新たな拠点になっていく。

 恵日寺のその後について一言加えると、いったんは会津仏教王国のセンターとなるのだが、源平の合戦のとき、恵日寺の僧兵たちが越後の城氏とともに平家側についたため、木曽義仲によって滅ぼされるという宿命になっていく。だからいまはその七堂伽藍の偉容は拝めない。

 梅原はこうした徳一の断固たる活躍や恵日寺の宿命には、その後の会津が奥羽列藩同盟や戊辰戦争で背負った宿命のようなものを感じると書いている。白虎隊の滅びの精神は夙に徳一から始まっていたわけなのだ。

 古代の奥羽は陸奥国と出羽国から成っていた。出羽の中心に山形県がある。梅原は山寺や、小国町を見て、最後に福島の高畠町の日向窟に向かい、自身の内なる東北を埋めていく旅となった。

 この旅では、芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだ山寺についての随想がおもしろい。まず慈覚大師円仁が建立した経緯の背後を調べた。円仁が朝廷の意向を携えて東北の布教に向かったのだとして、その宗教イデオロギーの背後にひそむものを見つけたいからだ。

 調べてみると、ここが立石寺として「立て岩」を重視してきたことが見えてくる。立て岩は縄文以来の日本人の崇拝の対象である。ストーンサークルは東北各地にのこっている。円仁はその立て岩に香を炊いて天台仏教の色に染め上げようとした。そのため、いまではこの岩は「香の岩」とよばれる。しかし、そこにはさまざまな軋轢があったはずである。

 伝承では、この地を所有していたのは磐司磐三郎というマタギの親分だった。そこへ円仁がやってきて、説得されてこの地を譲った。磐司磐三郎はそのため秋田のほうに移ったことになっている。そこでこの地は聖地となって、山の動物さえ円仁に感謝したという昔話になった。

 が、これはもともとがマタギの聖地だったから、それを消すわけにはいかなかったのである。梅原はそのように見て、結局は京都の朝廷が仏教的自己聖地化をはかったのだと考えた。

 山寺の奥の院には、絵馬と人形がたくさん納められている。その絵馬には結婚した若い夫婦が描かれている。

 この息子や娘は、実は幼いときか、子供の頃に死んだ者たちなのである。それを両親が自分の子が結婚をする年頃になったろうとき、絵馬に花嫁あるいは花婿の姿を描いて納めたのだった。顔はおそらく亡くした子の面影に似ているのであろう。

 このように死んだ息子や娘の結婚式をするという風習は東アジアにもあるようだが、これは決して仏教の思想によるものではない。仏教ではこの世は厭離穢土であって、だからこそ死ねば極楽浄土に行けると説いていく。こういう仏教観にもとづけば、死んだ息子も娘も浄土に行ったと考える。ところが、ここには失った哀れなわが子を、この世と同様の幸せでうめあわせてあげたいという気持ちが溢れている。このような感じ方を円仁が広めたはずはない。

 このように見てくると、山寺は死の山でもあったのである。ここは死の国の入口でもあったのだ。マタギはそのことをよく知っていたのであろう。

 そして、そうだとすると、梅原には「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句も別の意趣に感じられたのである。芭蕉が奥の細道を通して把えようとした意図が、日本の深層への旅だったと思えてきた。

 ぼくも想うのだけれど、3月11日で失った子供たちが結婚する年頃になったとき、今の東北の人たちが何をどのように手向けるか。将来の日本の心が、そのようなところにもあらわれるのではないかと予想する。
https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

13. 中川隆[-10320] koaQ7Jey 2019年5月19日 10:51:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2006] 報告


「適当」について - 内田樹の研究室 2019-05-19
http://blog.tatsuru.com/2019/05/19_0956.html


去年の11月3日に金沢の能楽美術館で安田登・藪克典両氏と行った『申楽免廃論』をめぐる鼎談をまとめたリーフレットを昨日、司会をしてくれた学芸員の山内さんが持ってきてくれた(森永一衣さんのソプラノリサイタルのために凱風館にお見えになったのである)。朝起きてぱらぱら読んでいたら、ちょっと面白いことを自分が言っていたので、そこを採録。


 とにかく変な本なんですよ。こんな変な能楽の本、僕は読んだことがない。だって、「能楽は健康にいい」っていう本なんですよ。能楽について書かれたものって多々ありますけれども、能楽が健康にいいということを、そのことだけひたすら書いているんですよ。変わった本です。

 能は非常に厳しいもので、その厳しさは武道に通じるということは、実は誰でも言っているんですよね。能楽の喩えを用いて、武道を論じた人ってたくさんいるんです。柳生宗矩も、宮本武蔵もそうです。『兵法家伝書』にも『五輪書』にも能の喩えは頻繁に出てきます。

 たしかに能における能楽師同士のやりとりは非常に厳しいものです。わずかでも拍子を外したり、ずらしたりすると、絶句してしまう、立ち往生してしまう。だから、能舞台は真剣勝負に喩えられることがある。でも、それはいわば「クリシェ」なんです。江戸時代の始めの頃から、いろいろな人が言っていることなんですよね。だから、申し訳ないけど、さっき引用された部分も、斉泰の独自の知見というものではない。「ありもの」を引っ張ってきて、貼り付けたような感じがする。そこはぜんぜん「ふつう」なんです。

 でも、僕は読んでいて、「変な本」だなと思った。能楽が健康にいいということに力点を置いているところなんです。ふつう能について語る場合、芸術としてどう評価するかから始まりますよね。審美的な関心がまず第一に出てくる。能楽師たちはこの所作や謡を通じて、能舞台にいかなる「美しきもの」を出現せしめようとしているのか。あるいは能楽の宗教性とはどういうものなのか、なぜ能楽には死者や幽霊や天神地祇ばかりが出てくるのか。あるいは能舞台はどのような宇宙論的な構造を持っているのか、とか。そういう芸術論とか、宗教論とか、哲学的な関心がふつうは能楽を語る時に、まず出てくるはずなんです。ところが『申楽免廃論』には、驚くなかれ、「美」についての言及が一行もないんですよ。「幽玄」という文字も「花」という文字も出てこない。能楽だけを論じた、こんな分厚い中に、能楽の美的価値についての言及が一つもない。本当にプラクティカルな本なんですよ。むしろ自然科学の論文に近い。まず仮説を立てて、いろいろな証言を集め、サンプルを集めて、反証事例を点検して自分の仮説の妥当性を検証する。手続き的にはほぼ自然科学なんです。

「お能の稽古をすると脚気が治る」という仮説を証明するためだけにこんなに分厚いものを書いているとしたら、まことに変な話だと思ったんです。そんな変な話があるものかと思って、もう一度読み返してみたんですけれど、やっぱり健康論なんです。 

 でも、斉泰の健康についての考え方って、よく読むと、かなりユニークなんです。「健康原理主義」じゃないんです。こういうふうにすればみんな健康になれますという話じゃない。そうじゃなくて、健康というのは、人によって違うし、要は程度の問題だというんです。斉泰は「度」という字を使うんですけれど、「程度」のことです。一番大事なのは「何を」するかではなくて、「どのぐらい」するかだ、と。健康とは原理の問題ではなくて程度の問題なんだ、と。そのことを繰り返し語っている。

 パフォーマンスがどういう条件で最高になるかは人によって違う。だから、自分のパフォーマンスが最高になる個人的な条件というものを見極めろ、と。それを知ることが大切であると言うのです。

 例えば、歩くことは健康にいい。一般的にはそうです。でも、足の弱い人間がたくさん歩いたら体を壊す。足の強い人が少しだけ歩いたのでは効果がない。大切なのは、自分の体が「一里の体」か「十里の体」か、それを見きわめることである、と。僕はこの考え方は実は武道的ではないかと思いました。

 武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。能のシテも同じです。地謡や、囃子方や、お相手をするワキ方や、作り物や、装束や面や、所作や道順や、演じている役など、様々なものによってその動きが制約されている。その所与の環境の中で、最適解を選ぶことを求められる。いつ、どの位置にいて、どういう所作をして、どういう声で、どういう言葉を発すべきか。そこには必然性がなければいけない。

 武道の型稽古の場合、打太刀・仕太刀とか、打太刀・仕杖とかいうふうに言いますけれど、ある条件の下で、打太刀に切りかけられて、最適解によって応じる人のことを「仕」と呼ぶ。能のシテも「仕手」と書くことがありますけれど、やはり「仕太刀」や「仕杖」と同じように、与えられた条件下で、最適解を出すことがその任だと思います。

 でも、話はそれほど簡単じゃなくて、じゃあ、最適解って何だ、その条件下でのベストの解答って何だというと、これが簡単には答えられない。

 僕は杖の稽古もやっているんですけれども、つい先日も、稽古で教えながら、「その動きは違う」「必然性がない」と門人たちにさかんにうるさく注意をしていた。そのときにふと「段取り芝居をするな」という言葉が口から出て来た。言ってから、自分で「なるほど、そうか」と腑に落ちた。「段取り芝居」というのは、要するに「次のせりふが何だか知っていてなされる」芝居のことです。そうするとどんなせりふにも動きにも、必然性がなくなってしまう。リアリティーがなくなる。だって、誰が次に何を言うかを事前に知っていて何かを言うということは、現実には起こらないことだからです。台本に書いてある通りにものごとが生起すると思っていて、演技すると、薄っぺらなものになる。何の感動も与えない。それはそんなことは現実では起こらないからです。

 武道的な立ち会いの状況では、次に何が起きるか誰も知らない。でも、次に何が起きるかわからない時にでも、僕たちは何らかの選択をしなければならない。果たして、次に何が起きるかわからないときに、人間はどう動くのか。これは考えればそれほど難しい話じゃないんです。「自由度が最大になるように動く」に決まっているから。その後の可動域が最大化するように動く。その次の動作の選択肢が最大化するように動く。そうするに決まっているんです。自分が最も自由になるようななするところに必ず行くはずなんです。わざわざ自分を狭いところに追い込み、動きの選択肢がより少なくなるようなところに行くわけがない。次にわが身に何が起こるかわかってないんですから。

 現実の世界ではそうしているはずなんです。危機的状況に際会した人間は、「次の選択肢」が最大化するように動く。だから、未来の未知性に直面した時には、もっとも自由度の高いところを目指す動きにのみ必然性がある。そのような動きに、僕たちはリアリティーを感じ、強さを感じ、美しさを感じる。生き延びるために適切な戦略を選択している生き物を見たときに僕たちはそう感じるんです。生物として、そういう動きに惹きつけられるように構造化されている。それは生存戦略上当たり前のことなんです。

「段取り芝居」に説得力がないのは、未来の未知性という、僕たちにとってきわめて切実な現実を切り捨てているからです。次に何が起きるかもうわかっている人間は、単一の正解を目指して動く。それが「単一の正解」である以上、それは他の選択肢を想定していない動きになる。いわば、袋小路に自分から入り込んで行くような動きになる。それが美的な感動をもたらすということはあり得ません。

 実際には、能舞台の所作でも、武道の型稽古でも、もちろん全部シナリオはできているわけです。手順、道順が決まっている。だから、次にどういうお囃子が入って、地謡が何を謡って、シテがどこでなにをするかは全部わかっている。でも、そこで先のことまで全部わかっているかのように動くと演劇的な感動がなくなってしまう。同じ能を何百回舞った場合でも、シテがある位置からある位置に行き、ある所作をするときには、生まれて初めてその道順を歩くかのように歩かなければならないし、その所作をその場で思いついてしているかのように演じなければならない。シテが演じている虚構の人物は、生まれて初めてその道を歩くわけですから。生まれて初めての経験を演じなければならない。「あ、いつものあれね」というふうな感じになってはいけない。定型をなぞりながら、決して「定型をなぞっている」ように見えないようにふるまわなければならない。その呼吸は能楽でも武道の型稽古でも変わらないんじゃないかと思います。

 僕は『申楽免廃論』を書いた人はかなり「できる人」じゃないかなと思うのですが、それは「一番大事なのは、原理じゃなく程度だ」という見識を持っているからです。ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。これを武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。これは柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。この場合の「なすべきこと」というのは、僕の考えでは、自分が生き延びる可能性が最大化する所作ということです。それは、能舞台でも、型稽古でも変わらない。

 能舞台の上で、シテは自分の体が最も美しく、力強く見える形をするわけですけれども、その形というのは、たぶん人間の自由度が最大化するものじゃないかと思うんです。次の行動の選択肢、次に選ぶことのできる動線が最大化する。つまり、それだけ自由だということですね。自由だけれど、自由度が最大化する形であるという点では条件は厳密に決定されている。決定されていて、かつ自由である。それが武道的な達成だと思います。

『免廃論』を読んで、僕は自分のスキーの先生の言葉を思い出しました。以前その先生から「大事なことは、スキー板の上の正しい位置に立つことだ」と教わりました。僕はその時すぐに「先生、『正しい位置』ってどこですか?」と質問した。すると、先生はにっこり笑って、「『正しい位置』にすぐ戻れる位置のことです」と言われた。僕はこれは至言だと思いました。「正しい位置」というのは固定的にスキー板上にあるものじゃないんです。次の瞬間に雪面とスキー板と身体の関係がどう変わるかは誰にも予測できない。でも、どんな状況に遭遇しても、そのつどの最適解が「次の選択肢」のリストに入っていれば、それに応じることができる。次の瞬間の最適解が手持ちのリストに入っているような立ち位置のことを「正しい位置」であると先生は言われたわけです。深いなあ、これはと思いました。これは能舞台の上であっても、あるいは武道的な立ち会いの場であっても、原理的には同じことだと思います。どこに立つべきか、それはあらかじめ決まっているわけじゃない。いつでも正しい位置に立つことができるという自分自身の未来についての解放性のことを「正しい」と呼ぶ。そのような立ち位置にある人を見ると、僕たちは「リアルだ」とか「強い」とか「美しい」とか「正しい」と感じる。

『免廃論』は「程度の問題」がたいせつだということを後半の三分の一くらいは書き続けている。でも、これはなかなか理解に難い話なんです。だから、「あとがき」を書いた人は勘違いして、「武道の稽古をやると体が固くなってよろしくない」というような原理主義的なことを書いていまっている。これは明らかに読み違いで、斉泰はそんなこと書いてないんです。武道の稽古をやってもいいけど、自分に合った程度でやりなさいと言っているんです。「適当」なところまでやって、「適当」なところで止めておきなさい、と。

「適当」という日本語は両義的で、「正しい」という意味と「あまり正しくない」という二つの意味を含んでいます。「適当な答えを選べ」という時は「正しい」という意味で、「適当にやっておいて」という時は「それほど正しくなくてもいい」という意味です。「適当にやっておいて」というのは、まさにその時点では正しいかどうか確定しないけれど、結果的にはそれで正しかったことが分かるというようなふるまいをしろということですよね。

「正しく」かつ「それほど正しくない」ということが一語で言い表せるのは、別に背理的なことじゃなくて、時間系列に配列すれば合理的なことなんです。未来は未知だから、ある時点では「先のことなので、それが正しいかどうかわからない」。でも、少し時間が経過すると事後的には「それで正しかったことがわかる」ということはまさに僕たちにとって日常茶飯事なわけです。それが「適当」という言葉の意味です。「適当」というのは、選択肢が複数あり、その中に最適解が含まれていたことが事後的にわかるような選択のことです。だから、この一語で「正しく」かつ「それほど正しくない」を同時に表現することができる。

 そういう人事の本質について書かれた本だなというふうに思うと、前田斉泰って、大人だなと思いました。以上です。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/19_0956.html

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14. 中川隆[-9107] koaQ7Jey 2019年7月13日 09:44:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3582] 報告

世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい) - 内田樹の研究室 2019-07-12
http://blog.tatsuru.com/2019/07/12_1105.html


 世阿弥とマーク・トウェインについて「明日続きを書きます」と予告してから、5カ月も経ってしまった。書くつもりはあったのだが、他のことに気を取られて世阿弥まで手が回らなかったのである。さいわい、本日、湊川神社神能殿で映画『世阿弥』の上映会があり、私は25分間の前説を担当することになっている。どうせメモを作らなければいけないのだから、それをブログ記事として公開しておけばよい。

 世阿弥はどうして「日本のマーク・トウェイン」なのか?という話をしているところだった。

 マーク・トウェインが「アメリカの国民的分断を和解に導き、死者たちを鎮魂する物語」の鼻祖であるということはもうお分かり頂けたと思う。フィッツジェラルドも、ヘミングウェイも、西部劇映画も、エルヴィスのロックンロールも、国民を分断している「壁」を打ち砕いた功績によって「オールアメリカン」なものとなった・・・というお話を先にした。

 日本でその役割を果たしたのは何か。

 古くは『古事記』がそうだ。日本列島に渡来してきた人たちと先住民たちの間の対立と和解のドラマは「天つ神・国つ神」の神統記や「国譲り」神話によって語られている。もちろん『平家物語』がそうだ。そして、世阿弥作の能がそうである。

 どうして世阿弥が国民的分断の和解の物語を書かねばならなかったのか。それについては観世家の系譜について少し触れておく必要がある。

『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥が伊賀の服部氏一族の末裔だという記述がある。

 1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証に、この記載を真とする意見がある。

 しかし、文書の信憑性を巡っては実は異論がある。梅原猛は『うつぼ舟』で観阿弥と正成の関係を主張したが、能楽研究者の表章はこれを「空論」と退け、伊賀観世系譜が後代作成の「偽文書」と論じた。

 専門家ではないので、楠木正成と観阿弥が実際に伯父甥の関係であったのかどうかについて私には判定することができない。だが、伊賀の服部家と観世家の間にかかわりがあったことは間違いない。

 伊賀の服部家と言えば、ご案内のように、服部半蔵を出した伊賀忍者の家系である。

 初代服部半蔵は伊賀忍者として室町十二代将軍足利義晴に仕えたが、のち主を替えて三河の松平清康に仕えた。清康は徳川家康時の祖父である。だが、徳川家に仕えて伊賀同心を率いたのは三代服部半蔵正就までで、四代正重桑名藩で二千石の扶持を得て、代々家老職を幕末まで務めた。

 幕末では堂々たる侍になっていたが、室町時代末期までは数十人の伊賀衆を引き連れて、主君を替えて、そのつど特殊な任務を果たした一種の「傭兵集団」だったのである。

 服部氏は発生的にはいわゆる「悪党」に分類される。

 歴史的術語としての「悪党」が意味するのは、発生的には、荘園体制の崩壊期に、本所(名目上の荘園領主である京都の権門勢家)の支配権を脅かした在地領主(荘官)のことである。のちに「悪党」概念は拡大されて、海民、山賊、蝦夷、さらには遊行の芸能民や勧進聖たちまでも含むことになった。つまり、荘園公領制にうまく帰属できない人たちは総じて「悪党」と呼ばれることになったのである。外部性を記号的に表象するために彼らは「異形」をまとった。

「悪党」というカテゴリーで見る時に、間違いなく楠木正成と観阿弥世阿弥は同類である。

 楠木正成は後醍醐天皇の呼びかけに応じて、河内で挙兵し、赤坂城の戦い、千早城の戦いで勇名を馳せて、建武の新政では顕官に累進し、湊川の戦いで弟正季と刺し違えて自害するが、もとは「出自不明」の「悪党」である。

 伊賀観世系譜を信じるなら、元弘3年(1333年)生まれの観阿弥は三歳のとき(建武3年/1336年)の湊川での縁者である正成の死を知ったことになる。

 世阿弥が観阿弥に連れられて今熊野での能舞台に登場し、その美貌によって足利義満の目に留まったのは、永和元年(1375年)、世阿弥12歳のとき。湊川の戦いから40年後である。

 世阿弥は義満の寵愛を受け、二条良基に就いて仏典漢籍や歌道を学んだ。のちに世阿弥は『平家物語』に取材した作品を多く書いた。

『屋島』『實盛』『忠度』『敦盛』『清経』『鵺』

の六曲が世阿弥作と認定されているが、そのほかに現行200曲には

『船弁慶』『橋弁慶』『安宅』『正尊』『大原御幸』『経正』『大仏供養』『景清』『俊寛』『紅葉狩』『二人静』『藤戸』『朝長』『盛久』『頼政』『千手』『七騎落』『兼平』『巴』『鞍馬天狗』『俊成忠度』『通盛』

などがある。

 これらが源平合戦という日本を分断した戦いの死者たちを悼む「国民的な和解の物語」である所以についてはこれまで縷々述べて来たので繰り返さない。

 だが、世阿弥にとって直近の「戦い」はもちろん南北朝の戦いである。南北朝の並立は1936年から1392年まで52年間続いた。63年生まれの世阿弥は30歳まで、二人の天皇が京都と吉野に並立するという深い対立と分断を生きたのである。

 芸能は「リアルタイムでの政治的事件は取り扱わない」というのは日本の古典芸能の基本ルールである。事件を扱う場合も時代をずらしたかたちで虚構化する。だから、世阿弥は元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲を作ることができなかった。

 だから能には元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲がない。唯一の例外は、楠木正成・正行の桜井の別れを主題にした『楠露』という曲だが、これは後年の「新作能」である(明治31年/1898年)。遠い曲で今はほとんど上演されることはない。

 世阿弥の青年期に南北朝の争乱が終わり、ある意味で勝敗が確定した。和解と鎮魂の物語はそれから書き始められることになる。

 だから、観阿弥は歴史的事件に取材した能を書いていない。現在、観阿弥作として伝わっている曲は『自然居士』『卒塔婆小町』『通小町』の三作だけである。いずれも名曲であるけれど、歴史的現実とは触れ合うことがない。クリエーター観阿弥にはそのような政治的関心はなかったのか、あるいは「まだ」そのような物語を書くだけ状況が熟していなかったか、そのいずれか判断してよいだろう。

 一方、世阿弥はいままさに南北朝の争乱の渦中にある将軍義満の傍らにあり、良基に就いて日本の歴史と文学を学んだ。「現代において芸能が果たすべき役割は何か」「芸能の歴史的使命は何か」ということについて熟考しなかったはずはない。

 まして、南朝のヒーロー楠木正成の血族であるという意識を持っていれば、世阿弥が彼の庇護者である義満の手によって吉野の王朝が南北朝合一によって消えることに複雑な感動を覚えたのは当然のことである。世阿弥の創作意欲を駆動したのは、南北朝の争乱によってもたらされた国民的分断を癒すことであり、とりわけ「滅びてゆく人たち」に一掬の涙を注ぐことであった。

 そのときに『平家物語』が素材として選好されたことには十分な理由がある。

 それは一つには『平家物語』が敗者の文学であるからである。とりわけ、能が源平合戦について扱うのは平家の人々と源義経だけである。能は敗者の物語をしか語らないのである。

 もう一つは敗者である平家が「海民」の系譜を継ぐ一族であったことである。これまで繰り返し書いてきたように、源平合戦は「海部」と「飼部」という二つの職能民の間のイニシアティヴ争奪戦である。そして、海民が敗れたのである。海民は悪党や芸能民や遊女や巫覡や勧進聖と同類である。能楽師が海民に自分たちと同じ運命を感知するのは、当然のことなのである。

 網野善彦『異形の王権』によれば、後醍醐天皇は元弘の乱において、呪法僧や異形異類の悪党たちを総動員した。それができたのは「無縁者」たちに対する支配権は平安・鎌倉期には天皇に掌握されていたからである。

 無縁者たちは生業を営むために広範囲で移動しなければならない。だから、関渡津泊・山野海河・市・宿の自由通行権が必須であった。彼らにそれを与えていたのは天皇であった。多くの職能民が「供御人(くごにん)」として形式的には天皇直属のものとなっていたのはそのせいである。

 後醍醐天皇の時代は、無縁者が歴史の表舞台に登場した例外的な一瞬であった。そして、建武の新政が破綻するや、この「聖なる異人」たちは一転して社会的差別と迫害の対象となった。

 それゆえ、芸能民たちはこの時期に、それまでの保護者であった天皇やあるいは寺社から離れて、将軍や大名の庇護下に入ることになった。観阿弥世阿弥が足利将軍の庇護下に入ったのはそのような歴史的文脈においてであった。

 世阿弥は後醍醐天皇とそれを支えた異形の悪党たちの政治的衰微、そして、無縁者たちの無権利状態への頽落という大きな「流れ」の中で、いわば「同族たちへの惻隠の心」に駆り立てられて能楽を完成させた。そして、能楽は以後「権力者に庇護されて生き延びる敗者の芸能」という逆説的なポジションに身を置くことになったのである。
http://blog.tatsuru.com/2019/07/12_1105.html

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