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今回の大統領の突然の逝去について友人と議論をしていたところ、「これで3人になった」と言う。【ワルシャワ26時発深夜便】 http://www.asyura2.com/10/warb4/msg/115.html
(回答先: ロシア西部でポーランド大統領機が着陸失敗、87人死亡(worldtimes他:国際) 投稿者 傍観者A 日時 2010 年 4 月 10 日 22:49:34)
http://d.hatena.ne.jp/czarnykint/20100410 2010-04-10 3人の大統領の死−カチンスキ大統領逝去 ■[カチンスキ大統領逝去]2010年4月10日ワルシャワ時間午前8時56分、ロシア領スモレンスク近郊でカチンスキ大統領ら一行を乗せた政府専用機が墜落、大統領夫妻を始めとする96人の乗員全員の死亡が確認された。 01:05
一人目は、1956年3月12日、モスクワで謎の死を遂げたボレスワフ・ビェルト(Boleslaw Bierut)大統領、二人目と三人目は、共に今回の飛行機事故で亡くなったリシャルド・カチョロフスキ(Ryszard Kaczorowski)前ロンドン亡命政権大統領およびカチンスキ現大統領ということになる。
当時、ポーランドでは、ビェルトの死に際して、「毛皮を着て行って、箱に入って帰ってきた」(ポイェーハウ・ヴ・フテールクゥ・ア・ヴルーチウ・ヴ・プデーウクゥ)、「サロン付きお召し列車で行って、トネリコの木(棺おけの隠語)で帰ってきた」(ポイェーハウ・ヴ・サローンツェ・ア・ヴルーチウ・ヴ・イェスィオーンツェ)などの政治ジョークが人口に膾炙したと言う。 二人目のカチャロフスキ大統領は、第二次大戦中の独ソによるポーランド分割後に英国にわたったロンドン亡命政府の最後の大統領(在1989年7月19日〜1990年12月22日)を務めた人物で、政権亡命時にロンドンへと一緒に渡っていたポーランドの国璽を社会主義政権の崩壊後、初めて民主的に選ばれた大統領であったワレサに手渡すことにより、戦後も長らく形式上だけ存続していた「ロンドン亡命政府の幕引きを行った人物である。彼は1940年にNKVDに逮捕され、死刑判決を受けるものの、10年の強制労働に減刑、更には特赦を受けてイタリア戦線の激戦地であったモンテカシノの戦いなどに連合軍兵士として参加、戦後は英国へと亡命し、当地でのボーイスカウト活動の振興に功績があった。彼は、あくまでもロンドン亡命政権という云わば仲間内の社交クラブのような場で、名誉職以上の実質的意味を持たない「大統領」に指名されただけの人物であったにも関わらず、大統領辞任後もポーランド政府よりロンドンの事務所賃貸料の支払を受け、ポーランド入国時には政府要人警備隊(BOR)のエスコートを享受するなど、何とも不思議な「元大統領」でもあった。 三人目のカチンスキ大統領は、ワルシャワ大学法・行政学部を卒業後、グダニスク大学で労働法の講義を長く担当する傍ら、筋金入りの反体制派として、労働者擁護委員会(KOR)やグダニスク造船所での工場間ストライキ委員会(MKS)、連帯などで活動後、体制転換後には政治家に転身、大統領に就任してからは、グルジアやウクライナ等の反ロシア的な新興国家を強力に支援する姿勢が注目されていた。 小生も今日はワルシャワ中心部、旧王宮から程近い大統領宮殿まで出向いて、バラの花を献花してきた。周囲はカチンスキ大統領夫妻の死を悼む人々で溢れかえっており、道路も一部交通止めになり、あたかも歩行者天国のような様相を呈していた。その後、19時からはワルシャワ蜂起像前の、軍人に捧げられたカトリック教会でのミサに参加したのだが、外の道路まで人で埋まり、やはり、何か国家の大事があると、とにかく教会に行ってみるというポーランド人の行動様式はまったく変わっていないという事を再確認したのだった。 彼はポーランド国家がたどった苦難の歴史について、国民に対して思い起こさせようとする言動を良くする人物でもあった。
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