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保守論壇の重鎮・渡部昇一の「昭和史」のデタラメを読み解く。
http://www.asyura2.com/10/senkyo91/msg/261.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 7 月 24 日 13:35:29: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 小沢一郎が地検や米国に嵌められていると考える人間は、頭を冷やせ!『「歴史から壊れていく日本」渡部昇一(徳間書店)』を読む 投稿者 Ddog 日時 2010 年 7 月 24 日 12:19:41)

渡部昇一は、現在、保守論壇の重鎮という位置に祭り上げられているらしく、本人も満更でもないらしく、すっかりその気になって、いかにも「保守論壇の重鎮」風の言動を繰り返しているらしい。

僕に言わせれば、まさにそこに、つまり渡部昇一ごときが、「保守論壇の重鎮」であるかの如く振舞えるところに、昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムの劣化と知的退廃の病根があるのだが、誰もそれには気付いていないらしい。渡部昇一が、「沖縄集団自決裁判」に関連して、「騒げば金が手に入ることがわかったから騒いでいる」というような、読むのもはばかれるようなデタラメ発言を繰り返してきたことは、すでに何回か検証したから、繰り返さないが、渡部昇一の中心的な仕事と言えば、おそらく「英語学」とか「英語学史」というようなものではなく、やはり「昭和史」なのではないかと思う。

渡部昇一が、どれだけ「昭和史」なるものを深く広く探求、解明しているかは知らないが、渡部昇一の「昭和史」は、一種の政治漫談としては面白いが、とても思想史や政治学、歴史学、あるいは国際政治学の問題として扱うにははばかれるようなシロモノである。

僕は、今、手元に『東条英機 歴史の証言』(詳伝社、平成18年)と『昭和史 松本清張と私』(ビジネス社、2005年)の二冊を置いているが、渡部昇一の「昭和史」は、簡単にまとめるならば、「受動史観」だと言っていいと思う。

「受動史観」とは、悪いことは、全部、他人の責任に転嫁し、「自分は悪くない」「日本は悪くない」と言いつつ、「中国が悪い」「ロシアが悪い」「アメリカが悪い」…そして「日本は仕方なく戦争に巻き込まれただけだ」と言うような「子の論理」、あるいは「被害者の論理」、つまり「負け犬の遠吠え」的史観である。

僕は、そこのところに渡部昇一的「昭和史」の思想的弱点、あるいは昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムに蔓延している思想的弱点があると思う。

渡部昇一の「昭和史」やマンガ右翼・小林よしのりの『戦争論』を適当に「いいとこ取り」して、それをアレンジしたのが、田母神俊雄の『日本は侵略国家か』というエッセイらしいが、それも、渡部昇一同様の、同じような思想的弱点を内包していることは言うまでもないし、また一時的とは言え、「田母神俊雄ブーム」なるものを巻き起こした保守論壇や保守ジャーナリズムの思想的限界も、そして今や解党的危機に追い込まれ、断末魔の迷走を続ける自民党の、安倍晋三や中川昭一等を筆頭とする「真正保守派」(笑)の政治家たちの思想的限界も、明らかである。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090718/1247895431

渡部昇一・竹中平蔵対談「霞ヶ関『ナチス』化への暴走」(『ボイス』2008/8)を読む。

渡部昇一氏が、『ボイス』(2008/8)で、トンデモ経済学者として世間の指弾を浴びている竹中平蔵氏と対談しているが、予想通り、二人は意気投合しており、二人が普段から何を考えているかがよく分かるという意味で、なかなかいいコンビの対談であると思う。渡部昇一氏は、冒頭で、こう言っている。

いま世間では

「最近、ここまで不景気やリストラが吹きあれているのは、みんな小泉・竹中改革が悪かったからだ」などとささやかれています。

しかし、世界中が不況という状況を見ていると、何でもかんでも小泉・竹中改革のせいにするのは、いくらなんでも無理がありますね。(笑)(中略)

日本の゛すからね。景気だけが悪くなったのならば、日本の政策が悪かったといえるかもしれませんが、世界中で同時に景気が悪くなったのですからね。


渡部昇一氏の分析は、なかなか分かりやすい論理だが、ここには根本的な論点のすり替えがある。

「小泉・竹中構造改革」が原因の「不景気やリストラ」は、昨年のアメリカの金融危機に始まる世界不況とは、そもそも関係ない。。

むろん、「小泉・竹中構造改革」が、昨年のアメリカの金融危機をもたらしたわけでもない。

昨年のアメリカの金融危機が、「小泉・竹中構造改革」に酔っていた大衆までが分かるように、それ以前から始まっていた「小泉・竹中構造改革」がもたらした悲惨な実態を赤裸々に暴き出したというだけのことである。

竹中平蔵氏等が推奨し、小泉純一郎元総理らが、追従したアメリカ発の新自由主義経済学の実態が、アメリカの金融危機と、それに続く世界不況で明らかになったということに過ぎない。

渡部昇一氏は、例によって誰にも見破られるような幼稚な詭弁を弄しているにすぎないい。それに対して竹中平蔵は、こう言っている。

いまの経済状況の分析について、皆ムードだけで議論しているように思います。(中略)

では、いったい何が起こってたのか。

たしかにアメリカでは不動産バブルが起きていました。そして同様にヨーロッパもユーロ高で不動産バブルになっており、・・・・(中略)

そして日本でも、考えてみたらバブル状態でした。

円安バブルです。輸出産業は円が安すぎたことによって利益が水ぶくれして、水ぶくれした利益によって日本が支えられていた。

いうなえば、いま起こっていることは、世界的規模におけるバブル同時崩壊なのです。そういう事実認識に基づいていいえば、小泉改革によって日本が悪くなったというのはありえないんです(笑)。


竹中平蔵氏が渡部昇一氏以上に「詭弁の達人」であることは承知しているが、竹中氏がここまで、露骨に、ミエミエの「詭弁を弄する」のを見ていると、さすがに、「お前は、何処まで、詐欺師なのだ?」とでも言いたくなるわけだが、

ちょっとここで解説すると、竹中氏が言っていることは、アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の話であって、いわゆる竹中平蔵氏等が先導してきた「小泉改革」なるものとその悲惨な結末とは、直接には何の関係もない話だということである。

このことを理解できない日本人が何人いると、竹中氏は思っているのだろうか。

おそらく、アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の話と、竹中平蔵氏等が先導してきた「小泉改革」なるものとその悲惨な結末の話とを混同する日本人は、渡部昇一氏と竹中平蔵氏の二人ぐらいだろうと思う。

要するに、今、「小泉・竹中構造改革」の政治責任が厳しく問われているのは、「郵政民営化」や「道路公団改革」、そして「緊縮財政」「小さな政府」…というような竹中平蔵氏等が主導してきた「構造改革」の成否なのである。

アメリカのサブプライムローン破綻に始まる「世界同時不況」の原因などを問うているわけではない。繰り返すが、「世界同時不況」の原因が「小泉・竹中構造改革」にあるなどと、言っている訳ではない。ところで、渡部昇一氏は、ここでも「昭和史」の話を持ち出しているので、見てみよう。


歴史を見てみると、不況になった際に、その原因を捉えそこなうと、大変なことになってしまうんですね。

大恐慌の後も、「あれはホーリー・ストーム法のような保護主義が悪い」と原因を喝破できればよかったのですが、そうではなくて「金持ちがけしからん」「マルクスのいったとは本当だ」という意見が勝って、社会主義的な勢いが強くなり、世界中が国家統制への動きが加速していきました。当時、ソ連は共産主義で大粛清の真っ最中むでしたし、ドイツで台頭したナチスもまさに「国家社会主義労働者党」だった。

日本でも、5・15事件にせよ2・26事件にせよ、それを起こした連中の考え方は「社会主義」でした。

彼らの考え方は、「天皇陛下は自分たちが担いで、上流階級をやっつけろ。資本主義も何も要らない」というものでした。

これが、結局日本を戦争に引き込みました。

当時の経済学者が「悪いのは保護主義だ」という世論をつくっていれば、要人を暗殺するような事件は起こらなかったと思うのです。


渡部昇一氏が、いつも何を考えているかは、この会話から、一目瞭然だが、それは「国家統制=悪」「自由放任=善」という単純な二元論である。

それが、渡部昇一氏の「共産主義」や「社会主義」への恐怖に満ちた嫌悪へとつながっている。

したがって、たとえば「国家」が経済に口出しをし、管理や規制、保護を強めることを、「悪」として退け、ひたすら「自由」であることが、素朴に肯定されていることが分かる。しかし、「自由」を維持し守るためにも「国家」の管理や規制や保護は必要なのだが、

そうした「自由主義」を守るための「国家統制」には関心はないらしいのが、不思議なところである。

「小泉・竹中構造改革」は、市場原理主義という自由主義を実現するために、国家権力という様々な暴力装置を発動して、強引に日本の社会構造を解体し、崩壊させていったわけだが、その場合の「国家暴力」は、放置していいものらしい。

ところで、渡部昇一氏が信奉するハイエク教授は、共産主義や社会主義と同様に、自由を抑圧する経済学として「ケインズ経済学」を厳しく批判し続けた人だが、渡部昇一氏もまた、「ケインズ経済学」の批判者なのだろうか。それならば、「共産主義」や「社会主義」「ナチス」「5・15事件や2・26事件の首謀者」と並べて、「ケインズ経済学」も、一緒に批判してもらいたい。そうすれば、渡部昇一氏の思考が、さらに明確になるはずである。

つまり渡部昇一氏の思考は、単なる素朴な自由主義、自由貿易主義、市場原理主義、言い換えれば、素朴な古典派経済学の焼き直し、あるいは大正教養主義の劣化コピー…に過ぎないということが、誰の目にも明らかになるはずである。

渡部昇一氏が、今になって、竹中平蔵氏と意気投合した上で、「小泉・竹中構造改革」なるものを必死で擁護しなければならない理由が分かろうというものだ。渡部昇一氏も、これ以上、耄碌したトンチンカン発言を繰り返す前に、竹中平蔵氏や小泉純一郎氏にならって、そろそろ退場なさった方がいいのではないのか。

しかし、それにしても、こんな渡部昇一氏が、昨今は、「保守論壇の重鎮」だというのだから…。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090724/1248419355

保守論壇の御用文化人どもが自民党を崩壊させた


自民党を現在の崩壊的危機に導いたのは、自民党を甘やかし、それと同時に自民党の政治家たちに迎合し、ひたすらゴマスリを続けてきた保守論壇の御用文化人たちだが、ささしずめ渡部昇一はその筆頭だが、東條英機について、こう書いている。


東條さんが陸軍次官になったのは昭和十三年(1983年)ですから、支那事変勃発の翌年です。

ですからここで注目しておきたいのは、東條さんは、支那事変が起こったことには何の責任もないということです。

支那事変はアメリカとの戦争につながる一番の大きな要因ですが、それには東條さんは何の関係もなかったということは指摘しておくべきでしょう。

それから昭和十一年(1936年)の日独防共協定にも、昭和十二年(1937年)の日独伊三国防共協定にも関係しません。全く関係がなかったということを強調しておかねばなりません。(『東條英機 歴史の証言』)


渡辺昇一の『東條英機 歴史の証言』は、こういう言葉に溢れているが、こういう言葉が、何を意味しているかは、渡部昇一には分かっていないようだが、明らかである。

昭和十五年の陸軍大臣就任から昭和十九年総理大臣辞任までの四年間、東條英機は、政権の中枢にいたわけだが、肝心の戦争責任、ないしは政治的責任は東條英機にはないと、渡部昇一はいっているわけだが、それなら、渡部昇一は、何故、戦争責任も政治責任のない東條英機をわざわざ取り上げるのか。東條英機は無罪だと言いたいのか。

そしてついでに、渡部昇一は、日本も無罪だと言いたいのか。東條英機は、東京裁判法廷で、今次の戦争は、「自存自衛の戦争だった」と主張したらしいが、渡部昇一も、それが言いたいらしい。次のようなことも言っている。


しかし日本の場合はナチス・ドイツとは異なり、一つの党の党首が独裁的にすべてを計画し遂行したわけではない。東京裁判の範囲に入れられた最初の年である昭和三年(1928年)から、日本の内閣や方針はしばしば変更され、しかもその変更はたいてい受動的に体外的情勢に応じたものであった。


渡部昇一が何が言いたいのかは、ここでほぼ分かるが、渡部昇一は、馬鹿正直に、さらに次のように言って、念押ししている。


大陸政策はコミンテルンの暗躍に応ずるものであり、満州国誕生後は清朝の最期の皇帝であった溥儀が日本公使館にころがりこんだことから始まった。

日本の経済的苦悩はホーリー・スムート法によるアメリカの保護貿易、それに続くイギリスのブロック経済圏(アウタルキー)のためである。

 
これでは、我々の父母の世代は、大東亜戦争において、徹底して無能で無策だったと言っているようなものだが、渡部昇一は、そうは思わないらしい。さらに次のように言っている。


シナ事変は今では明らかになったようにコミンテルンの手先が始めたものである。その事変が日本陸軍の切なる願いにもかかわらず終息しなかったのは、ソ連、アメリカ、イギリスが中立国の度を越え、シナに対し、参戦同様の支援をしたからであった。


アメリカ・イギリスとの開戦は、マッカーサー証言の如くその包囲網により、日本の全産業・全陸海軍が麻痺寸前まで追い詰められたから余儀なくされたのである。すべて日本のやったことは受動的反応であった。


「コミンテルンが…」「アメリカが…」「イギリスが…」「ソ連が…」「中国が…」、次々と謀略を仕掛けてきた…、そして日本は悪くなかった…、日本は仕方なく戦争に巻き込まれただけだ…、ということだろうが、そもそも戦前の日本人は、そんなに無知・無能だったのか。

「世界革命」を目指すコミンテルンや、独立を目指す中国、そして米、英、ソが、新興の帝国主義国家・日本を、様々な謀略を駆使して追い詰めていくことは当然ではないか。それに対して、「英米中心主義を排す」と言い、「大東亜共栄圏」構想を宣言し、そして「我が帝国陸海軍は、米英を相手に戦闘状態に入れリ…」という臨時ニュースを聞き、「来るべきものが来た」と興奮し、歓呼し、必勝を誓ったのは、日本国民ではなかったのか。しかし、渡部昇一が言いたいことは、東條英機を筆頭に、戦前の日本人は、無能無策な、そして清く、正しい、美しい「弱者」だった、ということだろう。

つまり、渡部昇一が言いたい事は、僕なりに言い換えると、戦前の日本国民は馬鹿だった、だから許してください、ということだろう。

少なくとも、渡部昇一の思考法は、ニーチェが言う「力の政治学」、あるいは「力の哲学」「超人の思想」とは対極にある思考法と言うべきだろう。こういう「弱者の政治学」を恥ずかしげもなく、というより得意になって公言する人が、保守論壇や保守ジャーナリズムの「重鎮」だというのだから、保守論壇や保守ジャーナリズムが劣化・退廃し、そしてその保守論壇や保守ジャーナリズムの言説を熟読し、その影響を受け、「弱者の政治学」に落ち込んだ自民党が、自滅・自爆するのは当然だろう。

「弱者の政治学」を自ら公言するようなホンモノの軟弱な「弱者」たちは、政治権力を持つべきではないし、さっさと政治権力の中枢からは去るべきだろう。

山奥に引き込んで、静かに家庭菜園か盆栽でもやっていればいいのである。そういう「清く」「正しく」「美しい」…弱者は、政治家であってはならない。国民を泣かせるだけである。

http://www.asyura2.com/09/warb0/msg/189.html

まあ、日中戦争を起こしたのも、太平洋戦争を起こしたのも、南京大虐殺は731部隊に生体実験を命じたのもすべて昭和天皇、

東條英機や陸海軍の軍人は全員昭和天皇の指示に従って几帳面に動いて、最後は昭和天皇の悪事の責任まですべてかぶって、戦犯として秘密をすべて墓場まで持って行ってくれたそうですけどね。

詳細は:


君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

戦争に行ったら こんな事もしてみたい あんな事もやってみたい__わくわく どきどき
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/313.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html

こんな女に誰がした_1 (天皇陛下を恨んでね)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

あなたは日本がなぜアメリカと開戦したか全く理解できていないですね
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/265.html

アホ?
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/267.html

必死だね_俺は忙しくてアホの相手してる暇無いんだけど
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/269.html

Re:必死なのはどっち?
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/271.html

本当にアホだねえ、悔しかったらまずこれを否定したら
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/272.html

アホに広田弘毅が、長州憲法(明治憲法)が元凶と言った意味を教えてやるよ
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/278.html


 

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コメント
 
01. 2010年7月24日 13:59:49: q1gf0gzNbs
 左翼歴史観の持ち主だから、偽保守の内容がよく見えてしまう。
 当時は植民地支配が事実であり、更に、世界各国で謀略で動いた。その中で、日本は、阿片戦争を見て、中国が負け、それで、それらを防止する目的で正義の開放の戦争を行った。だから、受動的な意味はない。明らかにインドの解放の目的で行った内容だから。それは、昭和天皇陛下ではない。昭和天皇陛下は英国との戦争を一番反対した人間だ。御前会議などでも出ている内容だ。それを昭和天皇陛下に責任転嫁する事が工作員だ。そして、日本が出ていなければ、更に暴力団国家の野望をそのまま実行させようとしているそちらも筋金入りの工作員だ。
 大東亜戦争を行ったからこそ。今の植民地支配の悪質の内容から解放ができたその歴史的事実を無視するそちらも筋金入りの暴力団の仲間でしょう。

02. 中川隆 2010年7月24日 14:23:19: 3bF/xW6Ehzs4I: MiKEdq2F3Q
(大東亜戦争を行ったからこそ。今の植民地支配の悪質の内容から解放ができた)

あほ?

20世紀に入って経済が発展したのが植民地がなくなった原因さ。

軍隊を派遣して人民を力で抑えつけて直接搾取するより、傀儡政権を作ってスマートに収奪する方が有利になっただけさ。

今の日本を見ればわかるだろ。

マスコミを抑えて、渡部昇一や竹中の様な御用学者を使えば自民党でも民主党でも簡単に傀儡政権にできるのさ。


03. 2012年9月25日 03:34:55 : 61NUfDH4sA
人を批判したいのなら、もっとよ〜く読めや!
素人以下の読解力・・・それでよく人を批判できるね〜
煙に巻くような論法・・・嘘八百・・・幼稚な批判もどき・・・
もっとも、それでこそ左翼の証明なんだけどね!中国や北朝鮮と同根よの〜
というわけで、あんたの嘘デタラメ読むより
あんたの親の顔が見たい・・・それの方がよっぽど勉強になるっての!!
どうやったらアカができるのかってことよ!!
意味なし!存在意義なし!世のためにも長生きしない方がいいよ!

04. 2013年2月01日 00:25:38 : 9TYzniwcUE
中川氏は渡部氏の「いわゆる従軍慰安婦」の問題に対してではなく、同氏の人格否定にスポットを当て、問題の核心には迫らない・・・否、迫ることが出来ないのですね。

ひたすら感情を剥き出しにして、この長々としただけの駄文から読み取れるのは、中川氏のお粗末な人間性、ただそれだけです。

もっと人としての在り方を胸に手を当て考えてみるべきでしょう。

あなたの、この問題に対する無知さと同時に、渡部氏の精査された論理が如何に正しいかが、よく理解できました。

中川氏は渡部氏の引き立て役になったみたいですね。


05. バイク乗りの流浪人 2013年8月27日 00:34:58 : B/csDM0pqrQHg : PzJPaX9sjw
>02-03は
渡部本人ですか?WWWW評論家なら評論家らしく異なる批判も
受けいるべきだ。其れが文化人ってもんだろ?素性の分からぬチンピラ猶太白豚白人奴隷の博奕打売国奴経済ゴロとグルになって左翼だのと短絡的な攻撃をするとは幼稚としか言い様がないなWWWW2chの馬鹿ウヨと同じである。類は友を呼ぶである。お前のやってることは保守ではなく似非保守。要するに猶太白豚白人様に反応するパブロフの犬だ。

06. 2014年4月28日 18:07:46 : bQ7gR1EI9w
何というか、あまりにも支離滅裂で笑える文章ですね。
文章で人を笑わせられるというのは一つの才能だと思いますよ。

7. 中川隆[7696] koaQ7Jey 2017年4月12日 17:35:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8184]

渡部昇一の流した悪質なデマの例


●重要なことは、蒋介石も毛沢東も誰も「南京大虐殺」を言った人はいないという事実。

「南京大虐殺」が最初出てきたのは東京裁判。それが忘れられた頃に騒ぎ始めたのは朝日の本多勝一で、それに乗ったのが当時の社会党の田辺誠と言われている。   
    《渡部昇一 「こんな日本に誰がした」》

実際は

1938年7月(南京陥落後)日中戦争1周年に蒋介石は「日本国民に告げる書」で日本軍の放火・略奪・虐殺を非難している。

「南京」という名指しはないが、この時点で中国大陸における大規模で集団的な略奪・虐殺は南京以外に考えられない。

蒋介石はこのことを念頭に書いている。次のように書かれている

「・・わが婦女同胞に対する暴行がある。

10歳前後の少女から5,60歳の老女までひとたび毒手にあえば、一族すべて逃れがたい。ある場合は数人で次々に辱め、被害者は逃げる間もなく呻吟して命を落とし、ある場合は母と娘、妹と兄嫁など数十人の女性を裸にして一同に並べ強姦してから惨殺した。・・・

このような軍隊は日本の恥であるだけでなく、人類に汚点をとどめるものである・・・」


毛沢東は1938年1月週刊誌「群衆」で「南京大虐殺は人類に対する犯罪」と述べている。その内容は次の通りである。

「・・・9・18に敵軍がわが東北・華北ではたらいた残虐な行為は、すでに世のともに知るところとなっている。しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未嘗有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。

これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。・・・」
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html


8. 中川隆[7698] koaQ7Jey 2017年4月12日 18:00:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8186]

渡部昇一の流した悪質なデマの例 2

●東京裁判における最重要証人たるマギー牧師(安全区の委員で、南京占領後も市内を自由に歩けた立場)の証言は、南京における膨大な殺人・強盗・強姦・暴行・累々たる屍…について見てきたようなものだった。2日間にわたり法廷で詳細な証言をした。

●しかし、マギーはブルックス弁護人から「あなたは具体的に虐殺された一般市民を何人見たのか」の問いに、「見たのは1人である」と答えた。その1人とは、日本兵が警備しているところを1人のシナ人が通りかかって誰何され、途端に逃げ出して撃たれた、というものだった。歩哨が誰何して逃亡した人を射殺するのは殺人ではない。これは全く合法な戦闘行為。

●強姦らしいものを1件見たとも証言した。それは現場を見たのではなく、マギーが通りかかると1人の日本兵が走り出していき、そのあとを見ると女がいたから、あれは強姦されたに違いないというものだった。日本兵がアイスボックスを民家から持ち出すのを1件見たとも証言している。

…マギーが自分の目で見たものは、たったこれだけなのである。このどこをどうこねくり回せば、大虐殺という言葉が出てくるのだろうか。 

●戦時プロパガンダというのは、事実か嘘かは問題ではない。国際世論を味方につけ、自国民の戦意を高揚させ、敵の意欲を喪失させればいいのである。
  《渡部昇一 「渡部昇一の時流を読む知恵」》
http://kenjya.org/nankinkyogen.html


実際は

マギー牧師はけが人や強姦の被害者の救済をしていた。
殺害現場に立ち会わなかったのは当然。

いわゆるマギーフィルムが殺害現場そのものの映像がないのは当然のことである。

もし殺害現場を撮影していたら、日本軍はマギー牧師をそのままにしておかなかっただろう。むしろたくさんの被害者の映像記録を残している。このことの方が重要な証拠となっている。

 東京裁判でも11人の証人が証言し、南京安全区文書・南京裁判所検案書・慈善団体の埋葬記録・ラーベの書簡・アメリカ大使館の文書・在中国ドイツ外交当局の報告書などが東京裁判で採用された。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html


9. 中川隆[7700] koaQ7Jey 2017年4月12日 18:09:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8188]

渡部昇一の流した悪質なデマの例 3

●私にとって印象深いのは、本多勝一氏と山本七平氏の「百人斬り論争」です。72年に『諸君!』誌上で半年ほど続き、あとはそれぞれの著書で持論を展開する形となりました。南京入りに際しての野田少尉と向井少尉の「百人斬り」を、本多氏は事実だと、山本氏は戦意高揚のためのフィクションだと主張しました。

●私が感心したのは、山本七平氏が『私の中の日本軍』(文芸春秋 1975年)で披露した卓論です。野田少尉は大隊副官でしたが、向井少尉の職務は新聞ではボカされていました。山本氏はそれが歩兵砲の小隊長であったことをつきとめます。だとすれば、2人は指揮系統も職務もまったく違います。

●日本軍は厳格な縦社会であり、軍人とは、直属の上官の命令以外、絶対に聞いてはならない存在です。実戦の最中に向井少尉が砲側を離れ、小隊長の職務を投げ出して、横の関係でしかない野田少尉と私的な百人斬り競争をすることなどありえない---山本氏はそう結論づけたのです。戦場経験のある山本氏ならではの、説得力のある議論に私は感心し、論争は山本氏の完勝だと思いました。
   《渡部昇一 「朝日新聞と私の40年戦争」》
http://kenjya.org/sonota4.html


実際は


百人斬り -- 『南京大虐殺のまぼろし』の嘘


1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。

このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。

この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。

鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。

下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。

『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/hyaku.htm


野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。

鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。

この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、

「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」

という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。

というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。
百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。

例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。

ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。


(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に

「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」

とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。


(2)鈴木氏紹介の手紙には

『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』

と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。


(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には

『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』

という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。

洞氏は、

『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。

…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。

フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』


と述べていますが、私もまったく同感です。


また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。


肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという

『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』

とか

『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』

などという話は出てこず、逆に

『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』

とか

『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』


といった証言が得られています。


鈴木氏が石氏の証言として

『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』

などと書いているにもかかわらず、判決書によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。

いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm

望月五三郎手記


 望月五三郎氏は事件当時両少尉と同じ部隊におり、両少尉による「競争」を目の前で見ていた当事者である。望月氏は1985年に私家版として刊行した手記『私の支那事変』の中でこの事件についても触れており、この「競争」の実態が、捕らえた罪もない農民を二人で争って斬り殺した殺人競争であったことを赤裸々に描き出している。志々目証言とこの手記によって、百人斬りの真相はほぼ明らかになったと言っていいだろう。作り話でもなければもちろん戦闘行為でもなく、無抵抗な捕虜や農民に対する虐殺だったのである。

 ちなみに、この手記は刊行後埋もれたままになっていたが、歴史否定勢力が両少尉の遺族を原告に仕立てて本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞などを「名誉毀損」で訴えた裁判の過程で、新資料として発掘された。愚かな否定派の策謀も真相究明に役立つことがある、という好例であろう。


百 人 斬 り     昭一二・一一・二七 〜 昭一二・一一・二八


 線路に沿って西へと進む。無錫の手前八kmあたりで、敵の敗残兵約ニケ中隊に遭遇し、激戦の末、約三○名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
 無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。

 速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。

 やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。

 常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。

 「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。

 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第一一中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。

 この人が百人斬りの勇土とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。

 「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。

 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。

 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの埋由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。

 その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。 両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

 この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。

 今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。(後略)
(季刊『中帰連』2004年秋号)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mochiduki.htm


向井氏の遺書


百人斬りの実行当事者である向井氏は処刑前に遺書を残しているが、この遺書には、東京日日新聞による報道は彼ら自身の話した内容を記事にしたものであることが明記されている。つまり、向井氏本人が、記事は浅海記者による捏造などではないと言っているのである。更に、「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります」と述べているとおり、向井氏は記事に書かれた百人斬り競争を行ったこと自体は認めている。(それは戦闘行為であって虐殺ではなかった、と言っている訳だが、銃器で武装した敵兵を戦闘中に何人も日本刀で斬り殺すことなどできるはずがないことは言うまでもない。)

以下、この遺書の一部を再録する。

この向井氏の遺書では、百人斬り競争を新聞記者に話したのは野田氏ということになっているが、野田氏の方は、話したのは向井氏だと父親への手紙に書いている。


なお、「百人斬り」を捏造だと主張する鈴木明氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』に向井氏の遺書を引用しているが、なぜかそれは下記の「辞世」の部分だけで、都合の悪い後半部分は無視されている。


[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房(1999) p.111
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋(1973) p.77


  辞 世

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。

 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。

 中国の御奮闘を祈る
 日本敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明


  遣 書

 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽しましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐しい国です。

 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託ぴして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。(後略)

巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 (1953年)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mukai.htm


志々目証言


帰国した野田少尉が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰氏が聞いたもの。勇猛な白兵戦として報道された「百人斬り」の実態が、実は捕虜虐殺の据え物斬りであったことが、本人の口から率直に語られている。


 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」


 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」

という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。

 そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受けいれることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。(後略)

志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(『中国』1971年12月号)

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm

報道関係者の証言


浅海一男 元東京日日新聞特派員 (第1報〜第4報共同発信者)


(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。(中略)筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。(中略)

両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。

(中略)
 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。

 例えば確か丹陽の少し手前(上海寄り)にあった中華民国歩兵学校が占領されたとき、その裏手の広場に、数十体の国民党軍の兵士の遺体が横たわっていて、それらの遺体にどれひとつとして頚部から上の部分が見られなかったときの筆者の驚ろきと暗澹たる心情は忘れがたいのです。

(中略)

 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。(後略)

浅海一男「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.340-347)


鈴木二郎 元東京日日新聞特派員 (第4報共同発信者)

(前略)わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の百人斬り競争≠ニいう特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。

 この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。
 南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの百人斬り競争≠フ始末をのべてみる。

(中略)
 検事の喚問は、やはりこの競争≠『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の競争≠フ真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの競争≠計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、

二人とも逃げるのは斬らない

 といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、

『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』

 と強調した。

 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。

 しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)

鈴木二郎「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊『丸』1971年11月号)
(本多『殺す側の論理』p.190-191)


そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。

本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36


(前略)一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中にゴール#翌チた二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。南京入城の際私は三十歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮かに脳裡に浮かぶのである。

(中略)
 しかし、残念な事に、資料Cとして紹介された月刊誌『中国』の一九七一年十二月号にある志々目彰氏の「日中戦争の追憶」――百人斬り競争≠フ文が、私を愕然とさせた。その文章には、鹿児島県出身のN少尉が小学校での講演で「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……」とまず、私ども東京日日新聞(現毎日新聞)の百人斬り競争%チ電を裏付けた発言が紹介されていたのは当然の事ながら、つぎのような驚くべき発言があった。

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかってニーライライ≠ニ呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

二人で競争したのだが、あとで何ともないか、とよく聞かれるが、私は何ともない……

とあり、更に志々目氏は、つぎのようにつづけている。


「ニーライライ≠ニいうと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる」という言葉は今でもはっきり覚えている。ニーライライ≠ニいうのは、お前来い来い、という意味だそうだ。(中略)

だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士の体験談は、私にはショックだった、云々。


 志々目氏が小学生のころ、本人から聞いて知って受けたというこのショック≠ヘ、二将校の「逃げるのは斬らない」という言明を深く信じていた私どもには、あの特電≠ゥら四十年にもなろうとする現在、大変なショックを覚え、「裏切られた」という感じで一パイである。

 戦後、浅海一男君ともどもこの百人斬り競争≠フ特電をもとに、市ヶ谷台の東京裁判で、南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際、特に二人が強調したのは「二人とも逃げるのは斬っていない、立ち向かう敵だけを斬った、虐殺ではない」ということだった。そしてまた、その事を信じての特電だったからだ。
 志々目氏の聞いたN少尉の講演は、或いは同少尉が、戦捷のさ中に、帰国して勇士≠ニして歓迎され講演を頼まれ、いささか調子に乗って、話を面白おかしく(当時として)する気持ちで話したのかも知れないが――

聖戦≠信じ、勝つある事を信じて、夢中で戦場を馳け回り、九死に一生を得て、今日ある時、今更ながらわれらの「特電」の空しさに反省させられたのである。

鈴木二郎「当時の従軍記者として」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.356-358)


佐藤振寿カメラマン (第4報掲載写真撮影者)


とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。

私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。 “へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ。


 あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35

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据え物斬り体験者の証言


鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。(小見出しは高橋による。)

________________________________________


1942年5月、最初の斬首体験


 竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……

苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――

「エイッ!」

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。

(略)

御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――


一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。刃こぼれや目釘損傷なし。

二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。

三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。


1944年、民間人9人の連続斬首

 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……

つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。

(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)

 目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。

(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)

 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。

(失敗だ!落ち着け!)

 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。

「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」

 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。

(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)

 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。

「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」

 だが不安がふとよぎった。 ――

(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……

そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)


 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。

 血の匂いはしばらく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。

 この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、

「ウン、馬鹿に派手にやったな……」

と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。


「百人斬り競争」に対する鵜野氏の感想


昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。

しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。

要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に

「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」

とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。

私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。

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その他の大量斬殺例


「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。

 隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。

 彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。八路軍は、遂に彼を取り逃していた。「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。

熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社 1974年)p.348


自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。


 そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……

「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。ホラ見てください、これを……」

 藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――

「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。

刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……

まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。

……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。あれなら殺れますね。

……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」


 私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)

 昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。

あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」

(本多勝一編『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 p.379-380)

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日本刀の殺傷力

刀剣研究家成瀬関次氏は、戦時中刀剣修理の技術者として大陸に渡り、多数の損傷刀の修理を行った。氏は、実戦で使われた軍刀を修理した経験から、「研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼きつぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ」と断りつつ、「概して日本刀は強靭なものである」とその実用性を保証している。以下、氏の著書『戦ふ日本刀』からその一部を引用する。


 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人という敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、部下のかうした武功談を屡々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、5月初旬、蘭陵鎮へ行軍途中、左荘といふ部落の近くで、刀疵で倒れてゐる敵の死体十幾つかを見た事があつた。
 …

 蒙橿の天鎮城内で敵と戦った時、逃げようとすれば十分に逃げられるのに、日本軍の抜刀突撃にあつて、一たまりもなく気が挫けて了つたのか、城門際に折り重なつてひしめいてゐたので、敵が多すぎて斬るのに骨が折れたと、或る兵隊は語つてゐた。(p.25)

 面白い事は、兵種、戦闘の難易、地形其の他によつて、刀の損傷に共通点のある事で、例へば文字通りに血戦した部隊の刀を手にして見ると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸の磨り切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左に曲がつてゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり…(p.36)


 自分は、日本刀の鑑識者ではなく、さうした知識には浅い者である。元来、古武道の内にくるめて、武用的方面から日本刀を見て来たのであるが、弾雨下の一線に従軍して、さうした所でなくては見られない血と泥≠フ破損刀を手がけ、二十数回の斬撃を目のあたりに見て、戦場で使ふ日本刀は、かうしたものでなくてはならぬといふ、本当の業物の姿をとらへて来たのである。(p.37)


 斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。

 概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
 刀身の選定については、ただ名のある人といふよりも、刀の売買に関係のない、軍人などの鑑定家とか、実戦に経験のある人に見てもらふのが第一である。(p.40)


 今、全国に残つてゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百万振といふのである。
 …

 右の内の約六七割までは、新刀新々刀とはるる刀であつて、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機会はなかつた。

 日清日露の両役にしても、今次の事変に比較して見ると、物の数でもなく、彼の天草の乱、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。
 …

 今次の事変では、…一面恐ろしい器械化戦が行はるると共に、他面一騎打の原始戦が盛んに行はれ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのやうなところさへある。その上、未曾有の廣い戦線で混戦的に戦ひつつあるのと、昭和九年来日本刀そのままでの使用が、事実上復活となり、戦線では軍の中堅をなす下士官全部が兵種を問はず佩用する事となつた等から、爾来日本刀が実戦に於いて有史以来の使用量を見せるに至つたのである。(p.41-42)


 八木工兵中尉(此の人は静岡県相良町の名望家で、徐州戦当時筆者は共にその北部戦線に居た。)最近中支奥地からのお便りの中に、


……あつけない程脆く首が落ちた。昔からぬれ手拭いをはたく様な音がすると云はれてゐるが、まさにその通りでハツフツといつたとたんに四尺もすつ飛んで一声もない。(中略)この一戦で非常に大なる信念を得た。自分の刀で敵を斬り、その刀に信頼を持つた時から、武術が生きてくる。つまり刀も武術の内だ。云云。

 中尉の佩刀は、大阪石堂康廣の若銘安廣で、二尺三寸余、自分には見覚えのある刀である。(p.57-58)


 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつて来た。…無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。


 …

 刀を見ると、血糊で白くなつてゐる。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刃まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刃こぼれも三ヵ所、刀全体がジツトリしてゐた。(p.77)


…陣中では、修理に出てくる刀の十振が十振いづれにも目釘の故障がある。それを一本一本竹を割つて削つてゐたのでは、徒に時間がかかつて急場の間に合わない。竹箸だと一寸削つて切つただけで用に立つ。しかも、何処の竹だか非常に堅くて、なかなか折れさうにもない。これは天が与へてくれたものと、自分はいまでもさう信じてゐる程である。

 …

 それから、最初自分の見込みでは、軍刀の故障は、刀身が六分外装が四分といふ考へで行つたところが、全くの反対であつて、殊に柄の故障の多かつたのは屡々発表したところであるが、それが為め早くも材料がなくなつてしまつた。(p.126-127)


 さすがに第一線の戦闘部隊だ。一寸見ただけで其の損傷状態がまるでちがつてゐる。試みに手にした一刀、何げなしに抜いて見ると、刀身は鍔元から血糊でそれが稍褐色がかり錆のやうになつてゐる。プンと臭い。目釘が折れるか飛ぶかしたと見え、生木の小枝を打ち込んである。指先でつまんで抜くと。そこから黒褐色の悪臭をもつ汁がポタリと一滴落ちた。血の腐つたやつだ。戦ひの最中に、血が刀身をつたはつて、(金+祖)のすき間から柄の中に入り、それが間隙にたまつて腐つたのだ。柄木を抜いて見ると、その汁がダラダラと落ちる。

 …
 これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に溯つて見て、実際乱戦中に敵とわたり会つて血戦した事実は、小説や講談にあるやうにザラにあつたものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るといふやうな場合が多く、実際十人も二十人も斬つたといふやうな話は、例へば敵を城壁域内際とか袋路地のやうな所に追ひつめ、ひしめき合ひわめき合ふ処を片つ端から滅多斬りにした時などの事で、さうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いて見るに、四五人斬つたかと思ふ頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝はつて来る。斯様な時に、昔の柄巻の有難さが本当にわかるもので、殊に小倉木綿をそのままたたんで巻いたのなどは、手がすべらなくてよい。(p.153-154)


成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 昭和15年
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』にも一部引用あり)


成瀬氏が指摘しているとおり、日中戦争では将校はもちろん下士官までが日本刀を戦地に持参した。彼らが、持参した日本刀の切れ味を試してみたくなったであろうことは想像に難くない。そしてそれを試すための最も容易な手段は、抵抗することのできない捕虜や住民を使った据え物斬りだった。これほど大量の日本刀が人間相手に実際に使われ、膨大な量の生き血を吸ったのは、有史以来このときだけなのである。
(2000.07.02)

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日本刀VSピストル真剣勝負(笑)

ゴールデンウィーク最終日、普段は見ない『トリビアの泉』をボーっと見ていたら、「テレビ史上最も危険な実験 日本刀VSピストル真剣勝負の衝撃映像!!」というのをやっていた。日本刀とピストル、どっちが強いか実験して確かめる、というのである。

その方法は、日本刀をほぼ垂直(やや刃面が上向き)に固定しておき、その刀身の中央部に向かって銃器射撃装置で水平に固定したピストルから弾を発射する、というシンプルなもの。射撃距離は5メートル。

実験に用いた日本刀は、特別なものではない平均的な日本刀、ということで、市販価格90万円程度を目安に現代の刀工(小田九山さん)に作製してもらった新作刀。ピストルはかつての米軍制式拳銃であり、強力な大口径拳銃の代表とも言えるコルト1911ガバメントモデル(45口径)である。

結果は……日本刀の完勝だった。超高速カメラを用いた撮影により、日本刀の刃に命中したピストルの弾が真っ二つに切断され、泣き別れになっていくさまが克明に映し出されたのである。日本刀には刃こぼれ一つなく、弾が当たった部分に指先大の鉛がこびりついた痕跡が残っただけだった。この結果に納得できないアメリカの銃砲店主(実験に用いたピストルの提供者)からの要請で実験は数回繰り返されたが、結果は同じだったという。

これだけなら「日本刀は凄い!」で終わってしまうところだが、この実験には番組作成者がまったく意識していなかった重大な意味がある。言うまでもなく、百人斬り事件との関係である。

百人斬り殺人競争を虚報と決め付け、それを突破口として南京大虐殺を否定しようとする勢力は、執拗に日本刀の脆弱さを主張してきた。日本刀の威力などというのは伝説に過ぎず、とても百人もの人間を斬ることなどできない貧弱な代物であり、だから百人斬りなどありえない、というのである。偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平など、自分の戦場体験からの結論だとして、一本の刀で斬れるのはせいぜい三人、と断言していた。

時速900キロで鉛の弾を撃ち込まれる衝撃に耐え、その弾を両断して傷つきもしない日本刀が、わずか三人の人間を斬っただけでダメになるものだろうか。要するに山本七平は、戦争体験者は黙して語らず、戦場体験のない世代には確かめようもないのをいいことに、大嘘を吐いたのだ。

フジテレビ(あのフジサンケイグループの)が全国に放映してくれたこの実験は、日本刀の性能に関する否定派の嘘を文字通り一刀両断にしてしまった。

まさに快挙である。
(2004.05.09)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/trivia.htm


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまっていない長文

10. 中川隆[7702] koaQ7Jey 2017年4月12日 18:28:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8190]

渡部昇一の流した悪質なデマの例 4


本多勝一を証拠なしで朝鮮人認定

【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日

【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw

ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」

渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。

不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。

日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
  
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。

それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
  
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。

だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html


【拡散】南京大虐殺を捏造した朝日新聞の本多勝一は【 在日 】確定!!! 2014.09.21


「俺は知っている。やつは在日だ。」
で、なんの証拠も提示しないというw
渡部もこのサイトも訴えられればいいよ。
Posted by 名無し at 2014年09月22日 10:05


○○は在日詐欺もう飽きた
つか、明確なソース無しかよ
Posted by 名無し at 2014年09月22日 11:31


権威のある人の意見を鵜呑みにして、無条件で信じてしまういい例だと思います。

教授も「友人が調べたら在日らしい〜」と言ってる時点で、ソースが不確かな情報でしかないと言い様がありません。

別に自分は本多勝一を擁護するつもりは一切なく、単に間違っているのではないかと思うのでから書かさせてもらいます。

本多勝一は日本人です。
ソースは小学生の頃、本多勝一と同級生だった自分の父親。

自分の父親は昭和6年生まれで、信州伊那谷のとある町の出身。

本多勝一が子供の頃に在日だからいじめられていたという事実は一切無いそうです。
いじめられていた理由は、妹が障害者であったため、それが原因でいじめられていた事はあったそうです。

戦前の生まれで、排他的な地域の出身である事を考えると、在日である可能性は極めて低いです。

ちなみに親父の実家周辺がどれくらい排他的な所かと言うと、自分が25年ほど前レーサーレプリカのバイクで皮つなぎを着てツーリングがてら親父の実家に立ち寄った事があったんですが、それを見た近所の人が「○○の家にチンピラが来た!」と、その後に噂になったと、祖母から文句を言われました。
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 08:06


父親が本多勝一の同級生で、彼を日本人だと書いた者です。

自分の父親が本多勝一と同級生であったと言うソースは父親の証言だけでなく、以前に父親が出席した同級会から帰ってきた折、

「おまえ本多勝一って知ってるか?」

と聞いてきたので、自分が知ってるという旨の発言をした所、おもむろに同級会で貰ってきたお土産の中から「六十歳の記念に登った山山 本多勝一著 悠々社」の本を取り出し、

「こいつ同級生で、同級会でみんなにこの本を配ったんだよ」

と見せてくれました。

その本には、直筆サインと本多勝一の落款が・・・って落款押してあるって・・・。

これこそ父親と本多勝一が同級生だった事を思わせる一品だと思います。

今も自分の手元にあるので直筆サインと落款に興味がある方がいたら写真に撮ってどこかにうpしてもいいかなw
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 20:10
http://www.news-us.jp/article/405772710.html


[32初期非表示理由]:担当:言葉使い

11. 中川隆[-7728] koaQ7Jey 2017年5月08日 05:19:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

本スレの続きは


朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/705.html

[32初期非表示理由]:担当:アラシ

12. 中川隆[-12218] koaQ7Jey 2019年2月12日 21:55:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2019.02.09
【トンデモ】渡部昇一「日本は植民地を解放した」『正論』1994.5
https://rondan.net/533


Contents

1 「知の巨人」は何を語るか。
2 日本は植民地を解放した
3 満州事変において日本側に侵略意図が無かった
4 結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった
5 まとめ:虎の威を借る狐


「知の巨人」は何を語るか。

一部界隈から「知の巨人」と崇められた故・渡部昇一氏は、刊行した書籍・論文の量からしても、保守論壇に最大級の影響力を持った人物であったと評価できるでしょう。

ただし、渡部氏の日本近現代史に関する膨大な業績は、歴史の専門家からは批判どころか、ほとんど等閑視されているという状況です。このような無視されている状況を、もちろん保守の方々は「WGIPと東京裁判史観の結果だ!」と怒られるかもしれません。

しかし、歴史専門家から相手にされる、信頼できる保守論客の一人・秦郁彦氏も、渡部昇一氏の歴史観を「アマチュア」「事実や因果関係の論証よりも、汚名返上とか精神覚醒といった政治的次元でのキャンペーン」と評価して、ほとんど一笑のうちに付していることは忘れてならないでしょう
(『陰謀史観』新潮社, 2012, p. 135, p. 152)。

そこで今回は、早川タダノリさんがTwitterで呟いていた資料を入手することが叶いましたので、それを紹介したいと思います。



日本は植民地を解放した

今回取り上げるのは、渡部昇一「日本は植民地を解放した」(『正論』1994.5)です。もちろんタイトルからも明らかなように、大東亜戦争は解放戦であり侵略戦争ではなかったと主張する内容です。

この様な言説は本記事を書いている2018年現在でもあるのですが、その論証方法がやや異なります。現在では「解放されたアジア諸民族の声」などとして当時から現在にいたる「解放してくれて日本ありがとう!」を列挙したり、「マッカーサーは日本の戦争目的が自衛だと言った!」としてお決まりのsecurityの語をあげて「大東亜戦争(or近代日本のアジア進出)は自衛(security)とアジア解放が目的だった」論を展開します。しかし、その様な言説は本論文には確認されません。

本論文で強調される点は、@満州事変において日本側に侵略意図が無かった、A結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった、という二点のようです。このニ点を続いて詳しく見ていきたいと思います。

満州事変において日本側に侵略意図が無かった

まず、渡部氏は「満州事変において日本側に侵略意図が無かった」ことを次のように説明しています。


1満州人が満州に独立国を持つのは当然、日本はそれを手助けしたに過ぎない。

2満州国が日本の傀儡政権であるというアメリカからの批判は不合理である。なぜならアメリカはハワイ王朝に侵略戦争をして、傀儡政権すらたてず征服した。ある意味で、日本もアメリカの傀儡政権であった。そして当時、パナマや中南米諸国もアメリカの傀儡政権であった。

3日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件において、日本(および石原莞爾)に侵略意図はまったくなかった。

4盧溝橋の北に日本軍がいた理由は国際協定に基づいたものである。それが悪いというなら、韓国駐留アメリカ軍や、日本駐留アメリカ軍も批判の対象になる。

5盧溝橋事件の後、戦線が拡大した理由は通州事件で日本人200人が殺されたからであり、居留日本人を保護するためである。日本や韓国にいるアメリカ人が200人も殺されたら、アメリカはすぐに日本や韓国に派兵するだろう。湾岸戦争では、アメリカ人が殺されたわけでもないのに戦争を始めた。日本も同じようなことをしただけ。

6当時の満州の状況を知るには、トレビニアン著の小説『しぶみ』(1979年発表)が参考になる。その小説では当時の資料を丁寧に扱い、蒋介石軍が日本を戦争に巻き込むために自国の百貨店まで爆破して戦乱を拡大させていく様子が描かれている。

ここで興味深いのは、これまでのアメリカの歴史を振り返って、「日本もアメリカと同じようなことをしたまでだから批判される筋合いはない」理論を展開している点です。しかし結局、満州国が日本の傀儡政権であることを否定できてはいません。よって、「日本に侵略意図はなかった」ことの証明は実はできていません。

また、Eにおいて1979年に刊行された小説『しぶみ』が根拠とされていることは失笑を禁じ得ません。

そして、在留邦人の保護のために軍隊を送るというのは、戦争を起こす口実としてよく用いられるものです。中東戦争においては在留自国民保護などの大義名分を掲げてイギリスやフランスはエジプト領内に軍を進め、スエズ運河を支配しました。しかしこんな大義名分を信じる人はほとんどいないわけで、両国とも侵略的行為だとして国際社会から非難され、結局、スエズ運河の実効支配権を失いました。これと同じことが渡部氏にも言えるでしょう。どうして、渡部氏は、自らの思想信条に合致する大義名分を盲目的に信じて、「非侵略的だった」と主張することができるのでしょうか。

結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった

このように満州事変に関して日本に侵略意思はなかったと強弁した後、「結果論的には大東亜戦争は植民地が独立する契機になった」論を展開します。

すなわち、大東亜戦争で宣戦布告した相手は植民地支配国であり、植民されている民族に宣戦布告したのではない、満州人のために満州国をつくってやったようにこれら諸民族を独立させてやった、そして結果的にこれら諸民族は第二次世界大戦後に欧米諸国から独立した、です。

しかし大東亜戦争下でアジア諸民族を独立させたといっても、大東亜共栄圏・八紘一宇の属国な訳で、結局のところ日本の傀儡政権でしかないわけです。先ほども述べたように、この難点を渡部氏は全く弁護できていません。

そして渡部氏の想像力は広がり、二十世紀までは白人を主人とした世界であったが、日本のおかげで、アパルトヘイトがなくなり、アジア諸国が独立し、はてまたアフリカ諸国までも独立し、さらにアメリカでの黒人解放の市民権運動にまで波及したと述べています。二つの出来事の間に無理やり因果関係を見出すことは、保守論壇の常套手段ですが、十分な客観性が確保されているとは言い難いでしょう。

また、独立した東南アジア諸国は日本をモデルにしており、日本が手本になったとも強弁していますが、これも渡部氏の想像の産物であり、何の根拠も示されておらず客観性があるとは言い難いようです。

まとめ:虎の威を借る狐

このように渡部氏の「日本は植民地を解放した」論の問題点を指摘してきました。小説を根拠にしたり、自分に都合のいい大義名分だけを錦の旗にしたりする議論に妥当性があるとは言い難いでしょう。

渡部氏自身、満州国が日本の傀儡政権であったことを暗に認めている以上、日本に侵略意思が無かったことを証明できていません。この問題に関して渡部氏は、「アメリカも同じことをしてきた、アメリカに文句を言われる筋合いはない」という逆ギレ的論調を展開しています。虎の威を借る狐とはまさにこのことでしょうか。

なお近年では「日本に感謝するアジアの声!」というやり方で、大東亜戦争は侵略戦争ではなかった論が主流になっています。

https://rondan.net/533

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