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(回答先: 小沢一郎に依存する方法論は「(国家)戦略」足り得ない! 投稿者 仁王像 日時 2010 年 7 月 05 日 05:56:49)
『地政学〜アメリカの世界戦略地図』奥山真司/五月書房‘04年から抜粋
【プロローグ】
・日本人が好むと好まざるに関わらず、地政学を知らずして、これからのグローバル化した国際社会の中で生き抜いていくことは不可能に近い。地政学は軍事オタクのための難しい学問というイメージがあるのだが、これは大きな間違い…日本人は地政学を学ぶ環境に恵まれていなかっただけ…。
地政学(Geopolitics)とは、「地理概念上に展開される国家政治戦略の学問」であり、国家間のネチネチ、ドロドロとした争いの秘密が隠されていて、…宗教的な思想を利用しながら世界情勢を動かしてきた恐ろしい学問のことである。
現在の日本では、この地政学という学問は、死んだも同然である。しかしながら、実は潜在的に最も求められている知識であり、「思考体系」である。この学問は、西洋の列強が19世紀中ごろから現代に至るまでの間、いかに世界を区分けして定義し、そして支配・統治していこうとしていたかを、学問的な冷静な視点でその大枠を教えてくれるからだ。…少し大袈裟に言えば、西洋諸国の外交戦略の政策の秘密を分析することである。
実は戦前・戦中には、日本においても地政学の真髄を理解している人はたくさんいた。敗戦のショックから戦後…軍事戦略と密接に関係している、このような危険なニオイのする学問を「平和を乱す学問である!」として毛嫌いして暗闇へ葬り去ってしまったのだ。
まず地政学は、地理学と共にドイツから生まれ、イギリスなどヨーロッパ内の、特にゲルマン系の国々において発展し、ドイツではナチスに利用されて独自の発展をした。終戦後はその秘密がなんとアメリカの手に渡り、冷戦終了まで連綿と利用され受け継がれてきた。
恐ろしいことに、現在でも地政学の伝統に忠実に従って戦略を立て、なおかつ実践している国家こそアメリカなのである。極論すれば、現在のアメリカの戦略は、地政学の伝統によってつくりだされたモンスターなのである。
日本は、戦後の平和ボケ・記憶喪失状態から脱却し、国の生存をかける覚悟で地政学を理解する知識人を大量に育てるべきであり、アメリカの戦略の大枠から分析し、多少ないりとも自立へ向けて独自の国家戦略を考えていくべきである。
【ケナンの「封じ込め」論文】
・トルーマン・ドクトリン(冷戦政策を公表し、アメリカが世界の警察官であり、世界の盟主であり、正義の味方であるという立場を世界に表明)とほぼ時を同じくして、ケナンはモスクワからの長文電報で超有名な論文「ソビエト行動の源泉」(X論文)をフォーリン・アフェアーズ誌に発表した(‘47年7月)。
ケナンの主張で「コンテイメント(Containment)」は「封じ込め」と訳されているが、英語ではそれほど圧迫的な感覚のある言葉ではなく、もっと弱い「せき止めておく」「囲い込んでおく」という感覚に近い。…ケナン自身は軍事力ではなく経済力や政治力で封じ込めるという想定をしていたらしいのだが、「断固たる抵抗力」というアイディアが抽象的なので、皮肉なことに、ケナンの意図とは反対に、アメリカ政府はこの「封じ込め」をただ純粋に「ソ連を《軍事的に》封じ込めよ」という解釈をして、その後の外交の柱にしてしまったのだ。アメリカは「十字軍」になってしまったのである。これに対してケナンはかなり失望したようで、後の回顧録で「誤って解釈して政策にされてしまった」と文句を言っている…。
【リップマンの「冷戦」】(略)
【フランシス・フクヤマの地政学】(略)
【「文明の衝突」、ハンチントンの地政学】
【日本の地政学】
・日本でも、地政学が国家事業のひとつとして、マジメに研究され、その水準が世界でもトップレベルだったことがある。第二次世界大戦終了までの時代である。ところが、戦争に負けてしまったために、…研究はタブーになってしまった。
【地政学から見た日本の未来の選択】
・最後に日本が将来迫られる選択を、地政学の観点から見てみよう。日本がとるべき道は究極的には三つしかないということだ。
@ アメリカの核の傘の下で保護国を続ける(日米安保堅持/シーパワー連合)
A 日本が軍事的に独立する。もちろん核兵器を持つ(日米安保破棄)
B 中国の核の傘の下で保護国になる(日中安保?/ランドパワーへの組込)
最初の選択は簡単である。今のままで行けばいいのである。政治はアメリカのいいなりだし、お金もふんだんに取られるが、「平和憲法」(?)も守れる。一番気楽である。
二番目だが、これが一番難しい。
三番目は、自国よりも経済的に劣る国の保護国になることを意味する。これはかなり屈辱的だろう。…アメリカが黙っていないはずだ。ここに至るまでにかなりの混乱が予想される。
現実的なのは、一番目であろう。ところが問題なのは、アメリカの覇権力落ちている、という事実である。学者によっては覇権のピークは70年代だったという人もいるほどだ。アメリカの覇権はいつまでも続くわけではないのである。アメリカの衰退、中国の勃興、ロシアの野心。それらを踏まえて日本の戦略をどう考えていくのか。日本が一極支配構造のなかでしたたかに生き残るためには、…地政学の基礎から再び学びはじめるときが来ている。日本は戦後の平和ボケ・記憶喪失状態から脱却し、国の生存をかける覚悟で地政学を理解する知識人を大量に育てるべきである。
(奥山真司;1972年生。カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大学入学。地理学科および哲学科を卒業。米国地政学研究家。)
『テロ世界戦争と日本の行方』副島隆彦/弓立社 ‘01年から抜粋
【安全保障を自前で考える〜ドイツに学ぶ、日本の安全保障の自立への道】
・日本は、自国の安全保障を、今こそ自前で考える時期にきたのではないか。…その場合、ドイツが大変、秀でたお手本となる。ドイツのこの30年間の外交・安全保障政策の流れを…みると、ドイツ人がいかに賢明かつ深慮遠謀であるかが分かる。
ドイツは、実に慎重に、かつ用意周到に、アメリカの戦後の管理と支配から少しずつ脱しつつある。アメリカが主導する、ヨーロッパの集団安全保障体制であるNATOの枠組みの中にありながら、その枠組み自体を、自らの国益と安全保障を達成するために、実質的に下から掘り崩して、自分を中心とする、ヨーロッパの地域全体の安全保障体制に変換しつつある。ドイツは、実に強力に、自国の外交と安全保障を、自分たちの手中に収めつつある。決してアメリカと喧嘩したり、アメリカを怒らせたりする事無く、一歩一歩、着実に、自分にできる限りの範囲で、足元から現実的に、自国の安全を確保しつつある。私たちはいまこそ、ドイツに学ぶべきである。
1997年秋に、ドイツ連邦議会の議員調査団が日本を訪れた。…ところが、国会の中には、議員たちが日常的に安全保障問題を検討し、情報を収集・分析している機関が無いことが分かり、彼らはビックリした…。全て、外務省や防衛庁の官僚たちに任せっきりである。国会の中に、内閣を監督する目的を含めて、自らスタッフを抱えて、議員たちが自国の安全保障を調査分析する機能がない。そのことに、ドイツの国会議員は驚き呆れたという。
【ドイツが持っている国防外交戦略】
・ドイツ連邦議会は、政府とは全く別個に、議員たちによる安全保障のための恒常的な情報委員会を持っている。…このドイツ議会の情報委員会では、長期に亘る国防外交戦略が検討され、ヨーロッパ圏からロシアに至る、軍事情勢に関する細かな情報収集と分析研究が行われている。それは、議員たちが、たとえ所属政党が違っても外交・安全保障問題におけるドイツ人としての共通の理解と団結力を持っているからでできることだ。
・ドイツは、この30年間、着々と、外交・安全保障政策の自立を計ってきた。その手始めは、1981年のINF(中距離核戦力制限交渉)の時からだ。当時の首相はヘルムート・シュミット。シュミットも、その前のウェリー・ブラントも、SPDドイツ社会民主党だ。その後を引き継いだ、現在のコール長期政権は、CDUキリスト教民主同盟であり保守党だ。老練な政治家ブラントよりも、軽量級、アメリカ寄りだと評価されてきた。しかし彼は、そのような簡単な評価で済む男ではなかった。
・発端は、1977年10月に、シュミット首相が、ロンドンで講演し、アメリカを突然激しく批判した時だ。その頃アメリカは、ソビエトとの核軍縮交渉にINF(中距離核戦力)を含める気がなかった。ソビエトは1970年代半ばから、当時最新式の中距離核弾頭である「SS20型ミサイル」を東欧諸国に配備し始めていた。アメリカは、このソビエトのINF(地上配備型・移動式、飛距離500Km〜Km)は、どうせアメリカまでは届かない、と国民も騒がなかった。政府高官も無視していた。このことにヨーロッパ各国は強い不安を感じた。その不安を一心に集めて、シュミット首相がアメリカの態度を強く非難した。
【シュミット首相の対米戦略】
・ドイツのシュミット首相は、「アメリカは、INFが自分たちの脅威ではないからといって、この問題を放置し、ヨーロッパを見殺しにする気か」と迫ったのである。この時、ドイツは、アメリカから「反米の意図あり」という言質を取られることなく、INF問題を国際政治の重点課題に押し上げた。
そして、ドイツは、‘79年12月に、NATO理事会を動かして、二つの決議を同時に行った。一つは、アメリカの中距離核ミサイル「パーシングU」を、欧米各国に積極配備することを求める。と同時に、二つ目は、米ソは、INFの軍縮交渉を直ちに開始せよ、という決議だ。これが後に「NATOの二重決議」と呼ばれるものだ。…この「二重決議」のしたたかさを推進したのが、首相シュミットだ。
・これを受けて、’81年11月、レーガン大統領が「ソ連がSS20を東ヨーロッパから撤去するなら、アメリカもパーシングUをヨーロッパに配備しない」と提案した。このあと、二大国の交渉は困難を極めたが、シュミット首相は(核軍縮)を頑強に主張しつづけた。その一方でソ連を牽制するために、実際にパーシングUを国内に配備したりした。…’86年4月、チェリノブイリ原発事故が起き、…核軍縮交渉に拍車をかけた。
・そして’87年6月、INF全廃を意味する「ダブル・ゼロ提案」を双方が呑み、12月にINF全廃条約が調印された。この軍縮交渉の過程で…ソビエト・ロシアが瓦解を始めた。’91年、ソビエト共産主義はここで、ものの見事に崩壊したのである。
ドイツはこの時期に、息もつかさぬ早業で、一気に両ドイツの統一を成し遂げた。…かつてのドイツ機甲師団の電撃作戦を、現代の外交政治によみがえらせたとも言うべきだろう。
ドイツ人は、日本などと違って、グズグズと内部で対立し合わない。…比較的小さな問題には足を取られなかった。指導者たちの強い力に導かれ、国民が一丸となって、素早く動いた。…大きなところでは意思一致していた。
こうやって、ドイツは領土分割・民族分割という、先の戦争での処罰という性質を持つ悲劇を、うまく解決したのである。
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