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記者の目:大先輩・大森実さんの「遺言」=小倉孝保(毎日新聞) http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/267.html
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100408k0000m070097000c.html 記者の目:大先輩・大森実さんの「遺言」=小倉孝保 戦後の日本を代表する国際ジャーナリスト、大森実さんが3月25日、88年の生涯を閉じた。国際報道に携わる者にとって、はるかかなたに峻厳(しゅんげん)とそびえる山のような存在だった。ジャーナリストとして半世紀以上を日米のはざまに生きた大森さん。私への「遺言」は、「日本はそろそろ真に独立すべきだ」だった。 私が大森さんを訪ねたのは08年1月。ニューヨーク特派員として赴任して8カ月になるころだった。ロサンゼルスから車で1時間半ほどの高級住宅地、ラグナビーチの高台にある自宅に入ると、大森さんは介護のフィリピン女性に連れられ、ゆっくりと姿を現した。酸素を送り込むチューブを鼻に入れている。00年に心臓まひを起こし医師から「臨終宣告」されたが、手術で一命を取り留めた。 ◇国際報道で圧倒 しかし、実際に記者になって特派員の道に進むと、大森さんの成し遂げたことの大きさに圧倒された。60年のアイゼンハワー米大統領の訪日(安保闘争の混乱で途中で中止)に同行して特ダネを連発、ボーン国際記者賞(現在のボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。65年1月からの連載「泥と炎のインドシナ」で新聞協会賞に輝いた。インドネシアのスカルノ大統領(当時)と会見してハノイ訪問のあっせんを依頼、同年9月、西側記者として初めて北爆下のハノイからリポートした。このうちのどれか一つでも、記者としては評価されるはずだ。まさしく近寄りがたいほど大きな先輩だった。 だが、眼下に太平洋の広がるリビングで話す老ジャーナリストは最初から、親しみのこもった笑顔で応対してくれた。私は関西生まれで、学生時代を関西で過ごし、入社後も大阪本社社会部から外信部に移りニューヨーク特派員になった。大森さんの跡をなぞるような「後輩」であることを喜んでくれたようだった。 最初は穏やかだった大森さんだが、1時間ほどすると話に熱が入った。米国の「対テロ戦争」や米大統領選挙について目を輝かせた。そして、話題が退社経緯に及ぶと、さらにヒートアップし、40年以上前の出来事にもかかわらず、当時の会社幹部の名前を挙げて不満をぶちまけた。大森さんは、ハノイ報道をライシャワー駐日米大使(当時)に名指しで批判され、その際の社の対応に抗議して退社している。大森さんの執念と、会社への愛憎を感じた。 話は3時間以上になり、口からは何度も、長いよだれが流れ落ちた。大森さんはそれに気づかないようだった。話は明快だが、体力の衰えは隠せなかった。疲れを心配した私が辞去を申し出ると、大森さんは話し足りないのか、「まだ時間あるでしょう」と夕飯に誘ってくれた。 妻恢子(ひろこ)さんの運転で、近くのレストランに向かった。車から降りる大森さんの体を外から抱き上げると、思いのほか軽かったのを覚えている。ローストビーフを食べながら大森さんはここでも終始上機嫌。常に酸素を鼻から注入しなければならない体となったため、「もう二度と日本に帰ることはできない」と言った。 ◇祖国にいら立ち 戦後、国家の安全保障を米国に委ねる一方、米国の世界支配の一端を担い続ける日本。ベトナムからイラクまで、米国の政策に翻弄(ほんろう)される祖国に、両国を熟知するジャーナリストとして、強いいら立ちを感じているようだった。 昨年暮れ、2年ぶりの再訪を思い立ち電話を入れたが、大森さんは風邪をこじらせ、面会はならなかった。普天間問題などで揺れる日米関係を、大森さんならどう考えただろう。答えが聞けない今、失ったものの大きさを改めて感じている。(外信部) 毎日新聞 2010年4月8日 0時07分
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