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記者の目:大先輩・大森実さんの「遺言」=小倉孝保(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/10/senkyo84/msg/267.html
投稿者 gataro 日時 2010 年 4 月 12 日 10:35:54: KbIx4LOvH6Ccw
 

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100408k0000m070097000c.html
ウェブ魚拓:http://megalodon.jp/2010-0412-1034-37/mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100408k0000m070097000c.html

記者の目:大先輩・大森実さんの「遺言」=小倉孝保

 戦後の日本を代表する国際ジャーナリスト、大森実さんが3月25日、88年の生涯を閉じた。国際報道に携わる者にとって、はるかかなたに峻厳(しゅんげん)とそびえる山のような存在だった。ジャーナリストとして半世紀以上を日米のはざまに生きた大森さん。私への「遺言」は、「日本はそろそろ真に独立すべきだ」だった。

 私が大森さんを訪ねたのは08年1月。ニューヨーク特派員として赴任して8カ月になるころだった。ロサンゼルスから車で1時間半ほどの高級住宅地、ラグナビーチの高台にある自宅に入ると、大森さんは介護のフィリピン女性に連れられ、ゆっくりと姿を現した。酸素を送り込むチューブを鼻に入れている。00年に心臓まひを起こし医師から「臨終宣告」されたが、手術で一命を取り留めた。

 ◇国際報道で圧倒
 大森さんは終戦と同時に毎日新聞記者になった。大阪本社社会部を経てニューヨーク、ワシントンの特派員を経験、66年に退職している。その2年前に生まれた私は、外信部長として指揮した連載「泥と炎のインドシナ」に代表される大森さんの記者としての実績を同時体験しているわけではない。しかし、学生時代から国際報道に関心を持ち、どこかで大森さんの存在を漠然と意識し、入社の動機の一部には、「泥と炎のインドシナ」があったように思う。

 しかし、実際に記者になって特派員の道に進むと、大森さんの成し遂げたことの大きさに圧倒された。60年のアイゼンハワー米大統領の訪日(安保闘争の混乱で途中で中止)に同行して特ダネを連発、ボーン国際記者賞(現在のボーン・上田記念国際記者賞)を受賞。65年1月からの連載「泥と炎のインドシナ」で新聞協会賞に輝いた。インドネシアのスカルノ大統領(当時)と会見してハノイ訪問のあっせんを依頼、同年9月、西側記者として初めて北爆下のハノイからリポートした。このうちのどれか一つでも、記者としては評価されるはずだ。まさしく近寄りがたいほど大きな先輩だった。

 だが、眼下に太平洋の広がるリビングで話す老ジャーナリストは最初から、親しみのこもった笑顔で応対してくれた。私は関西生まれで、学生時代を関西で過ごし、入社後も大阪本社社会部から外信部に移りニューヨーク特派員になった。大森さんの跡をなぞるような「後輩」であることを喜んでくれたようだった。

 最初は穏やかだった大森さんだが、1時間ほどすると話に熱が入った。米国の「対テロ戦争」や米大統領選挙について目を輝かせた。そして、話題が退社経緯に及ぶと、さらにヒートアップし、40年以上前の出来事にもかかわらず、当時の会社幹部の名前を挙げて不満をぶちまけた。大森さんは、ハノイ報道をライシャワー駐日米大使(当時)に名指しで批判され、その際の社の対応に抗議して退社している。大森さんの執念と、会社への愛憎を感じた。

 話は3時間以上になり、口からは何度も、長いよだれが流れ落ちた。大森さんはそれに気づかないようだった。話は明快だが、体力の衰えは隠せなかった。疲れを心配した私が辞去を申し出ると、大森さんは話し足りないのか、「まだ時間あるでしょう」と夕飯に誘ってくれた。

 妻恢子(ひろこ)さんの運転で、近くのレストランに向かった。車から降りる大森さんの体を外から抱き上げると、思いのほか軽かったのを覚えている。ローストビーフを食べながら大森さんはここでも終始上機嫌。常に酸素を鼻から注入しなければならない体となったため、「もう二度と日本に帰ることはできない」と言った。

 ◇祖国にいら立ち
 別れ際、大森さんからの遺言のつもりで、「日本人に言っておきたいことはありますか」と聞くと、答えは間髪を入れず返ってきた。「日本はまだ、米国から完全に独立していない。戦争の清算は済んでいないんだ。そろそろ真の独立をするべきだね」

 戦後、国家の安全保障を米国に委ねる一方、米国の世界支配の一端を担い続ける日本。ベトナムからイラクまで、米国の政策に翻弄(ほんろう)される祖国に、両国を熟知するジャーナリストとして、強いいら立ちを感じているようだった。

 昨年暮れ、2年ぶりの再訪を思い立ち電話を入れたが、大森さんは風邪をこじらせ、面会はならなかった。普天間問題などで揺れる日米関係を、大森さんならどう考えただろう。答えが聞けない今、失ったものの大きさを改めて感じている。(外信部)

毎日新聞 2010年4月8日 0時07分


 

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コメント
 
01. 2010年4月12日 13:35:49: RumzxWsQt2
すばらしいお話です。読んでいて涙が出て来ました。何時からジャ−ナリストの話で感動する事が無くなったのでしょう。お二人とも毎日新聞だそうですが、こんな記者を産んだ毎日新聞の最近の記事は何なのでしょう。恥を知るべきです。

02. 2010年4月12日 15:58:38: DmCC9k6hHM

 私は大学入学前に、大森実氏の名前を初めて知った。当時、わたしの父は大森実氏のことを「大した男だ。こんな凄い記者が日本にいることは、世界の誇りだ・・」と、興奮して語っていた。
そんな毎日新聞社だったが、創価学会の新聞を受託印刷しだしてから堕落が始まり、坂を転げ落ちるように経営が行き詰まり出した。今や見る影も無い体たらくである!

03. 2010年9月11日 22:29:25: yDFjSmx2yb
幼友達がパソコン購入してメールのやりとりが始まった。そのK君が大森実氏の国際問題研究所にいたときの「東京オブザーバー」や「太平洋大学」の話を書いてきた。自分は残念ながら勉強不足でこれらの活動のことが不明であった。そこでGoogle検索していろいろ読んでいて、このブログにたどり着いた。
みなさん、大森実氏の氏を偲んで懐かしみ想い出にふける文章の中で、最晩年の実像が伝えられていて感動とともに読ませてもらった。
毎日新聞退社に対する大森氏の怒りが伝わってくるし、ジャーナリスト魂が失われていず弁舌爽やかに議論したがる様子が伝わり、自分にはない人間のある生き様を感じられました。それはとりもなおさず、当時われら若者に与えたベトナム戦争のむごさの伝達の偉大さのお陰なのかも知れないが・・・。

04. 2011年4月03日 14:16:35: qvFI0psQIs
2011年4月3日付朝日新聞に小倉孝保氏著作の「大森実伝 アメリカと闘った男」の書評が掲載されています。大森氏は1965年10月3日毎日新聞掲載の「米軍機の病院爆撃」(北ベトナム側の記録映画をみる)の記事が元で当時のライシャワー駐日大使から徹底的な批判を受け翌年1月毎日新聞を退社しました。私も業界紙記者でしたが私が書いた記事がもとでスポンサー筋から徹底的な批判を受け期間制限無しの大幅な減俸という制裁を受け最終的には56歳で退社した経験があります。毎日新聞は西山事件でもそうですが時の政府というか政治権力に屈するような社風がありませんか。大森さんの記事も45年たって小倉さんがハンセン病院を訪問して爆撃が事実だったことを確認しています。西山事件でもそうでした。沖縄返還協定で交わされた密約があったことが最近証明されました。二人の優秀な記者を政府や米国の圧力で抹消するような新聞社では明日はありません。業界紙も同様です。有力スポンサー次第で踊るようなチョウチン記事に将来性はまったくないと言いたい。

05. 鴨東酔人 2011年7月04日 10:13:56: ueBebqzcvGH26 : D9i5eJ6o0g
 私は1951年生まれですから、大森記者の「泥と炎のインドシナ」、岡村昭彦記者の「南ベトナム解放戦線従軍記」、本多勝一記者の「戦場の村」を出版された同時期に読んだ最後の年代かと思います。三記者ともに故人ですが、もう一人故田英夫氏を思い出します。
 小倉記者の「大森実伝」も読みました。大森記者が毎日新聞社を追われる理由となった米軍によるハンセン氏病院爆撃は事実であったか否かを知りたかったからです。やはり事実でした。アメリカはベトナムと国交再開後も同病院爆撃への謝罪をしていないことも改めて知りました。
 大森記者を追放した毎日新聞社の体質は次の西山太吉記者追放へとつながったと思います。歴史の皮肉ともいうべきでしょうか、二記者の記事が正しかったことが証明されたのですから。
 「独立ほど尊いものはない」「自分の目、耳で確かめよ。そのための役割を新聞記者は付託されている」と思います。以上

06. Dr横浜 2012年11月15日 13:02:36 : wfalIxZlqWs86 : GZXPNSWayA
大森氏の逝去を最近知り、感慨に堪えません。
氏が毎日新聞を退社し東京オブザーバを発行されたのは、私が中学2年の時ですから40年以上前のことでした。政治的な背景はよく分からないものの、その毅然とした生き方に感銘を受け、同紙の購読者となり週1度の郵送を楽しみにしてました。
当時では珍しい青色の印刷がしてあり、大変新しい印象でした。
内容も世界に視点をむけた幅ひろいもので、その後の私の考え方に大きな影響を与えてくれたと思います。
その東京オブザーバーも数年で廃刊となり残念な結果となりましたが、その後も大森氏の活躍は週刊誌テレビで拝見し、意を強くしておりました。
私の父は氏と同年でかつ神戸に育ったためか、氏を高く評価しておりましたが、その父も既に鬼籍に入り、さらに大森実氏も逝去され時代の流れを感じます。
現在私は政治とは無縁の医療の世界で働いておりますが、大森氏からのメッセージ
は今も心の中に生きています。大森実さん、ありがとう

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