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(回答先: 「菅・官対決!」・まず社会を混乱に陥れる「特捜検察」の予算を削れ!!(日々坦々) 投稿者 純一 日時 2010 年 1 月 08 日 21:12:28)
長いけど、ここら辺が問題。
> これに対して,疑獄事件や脱税事件,大型経済犯罪等に対しては検察が独自捜査を行うことがあり,こうした独自捜査の担い手が,東京・大阪・名古屋の各地検に設置されている特捜部である。
> こうした,捜査に対して強力な権限を持つ検察のあり方は,多分に日本特有のものであり,諸外国ではむしろ例外的なものに属する。
> フランスやドイツなどの大陸法系の検察官は,自らが被疑者等を取り調べ,証拠を収集することは本来予定されていなかった。実際上も,フランスやドイツでは,検察官が自ら関係者の取調べを行うことは殆ど行われていない。
> アメリカでも,検察官は政府の代理人として訴訟を行う法律家という位置づけであり,自らが犯罪について事実を解明し,証拠を収集することは予定されていない。
> これに対して,韓国ではしばしば検察が政治家や財界人などを逮捕し,取り調べることが行われているようであり,日本型の検察に近いようである。
> 元来,日本の検察制度は,フランス・ドイツの制度を継受したものであり,当初は捜査に対する権限を有していなかった。
> ところが,刑事裁判における起訴率,予審免訴率,無罪率が高いことが問題とされ,明治29年に・・・
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http://d.hatena.ne.jp/anc35697/20090322/1237695303
2009-03-22 日本検察の特質
■[日本政治・社会]日本検察の特質
諸国の検察の本来の職務は,刑事裁判における訴追官としての役割である。即ち,検察官は警察が刑事事件として捜査した結果を引継ぎ,裁判所に公訴を提起するか否かを決し,刑事裁判において訴追側当事者として訴訟活動を行い,検察官としての量刑意見を求刑として述べる。こうした職務は,どこの国の検察官も行っているものである。
こうした訴追官としての職務に加えて,日本の検察は捜査の権限も有しており,現に日常的に捜査に関わっている。
検察官は,いかなる犯罪についても捜査することができる(検察庁法6条1項)。
検察官は,自ら捜査し,又は,警察官を指揮・指示して,捜査を行わせる(刑事訴訟法191条,192条,193条)。
一般の事件では,実際の捜査(証拠収集や被疑者・参考人の取調べなど)の大部分を行うのは警察であって,検察の捜査への関与は公訴を提起・維持するための捜査の方向付け,被疑者に対する取調べの総仕上げという形で行われる。こうした捜査への検察官の関与は,ほぼどのような事件でも行われている。
検察と警察の関係には法制上も実際上も微妙なものがあるが(検察と警察の関係は上命下服関係ではなく,相互協力関係に立つとされている。刑事訴訟法192条),公訴提起の権限が検察に独占されている(刑事訴訟法247条)以上,捜査において検察が警察に対して統制的作用を及ぼしていることは否めない。
これに対して,疑獄事件や脱税事件,大型経済犯罪等に対しては検察が独自捜査を行うことがあり,こうした独自捜査の担い手が,東京・大阪・名古屋の各地検に設置されている特捜部である。
こうした,捜査に対して強力な権限を持つ検察のあり方は,多分に日本特有のものであり,諸外国ではむしろ例外的なものに属する。
フランスやドイツなどの大陸法系の検察官は,自らが被疑者等を取り調べ,証拠を収集することは本来予定されていなかった。実際上も,フランスやドイツでは,検察官が自ら関係者の取調べを行うことは殆ど行われていない。
アメリカでも,検察官は政府の代理人として訴訟を行う法律家という位置づけであり,自らが犯罪について事実を解明し,証拠を収集することは予定されていない。
これに対して,韓国ではしばしば検察が政治家や財界人などを逮捕し,取り調べることが行われているようであり,日本型の検察に近いようである。
元来,日本の検察制度は,フランス・ドイツの制度を継受したものであり,当初は捜査に対する権限を有していなかった。
ところが,刑事裁判における起訴率,予審免訴率,無罪率が高いことが問題とされ,明治29年における起訴率80パーセント,予審免訴率44パーセント,無罪率7パーセントという数字に対し,無辜の者が徒に起訴されていることは不合理であるという議論を踏まえて,明治30年頃以降,検察官自らが被疑者・参考人を取り調べて,起訴前の審査を慎重に行うことが一般化し,その結果,予審免訴率,無罪率が大幅に低下した。大正10年における起訴率は31パーセント,予審免訴率は5パーセント,無罪率は1・6パーセントにまで低下した。
こうした検察の捜査への関与は,被疑者を起訴するか不起訴にするかについて,検察の広範な裁量を認める起訴便宜主義と一体のものである。
現行法上,検察官は,犯人の性格,年齢及び境遇,犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情状により訴追を必要としないときは,公訴を提起しないことができる(刑事訴訟法248条)とされているが,この起訴便宜主義は,単に捜査の結果,犯罪の嫌疑がないか若しくは不十分な場合に起訴しないということに止まらず,犯罪の嫌疑は十分にあっても上に掲げたような事情を考慮して検察官の裁量で起訴を見合わせるということを認めるところに,その本質がある。
こうした起訴便宜主義は,微罪の被疑者を速やかに刑事手続から解放し,併せて,刑務所の過剰収容とそれに伴う収容経費増大を防ぐという刑事政策的考慮から認められるものとされ,大なり小なり,各国の法制上も認められているものである。しかし,日本の起訴便宜主義は,罪種の制限がなく,裁判所その他の関係者の同意が必要とされていないなど,他の諸国に比べて,検察官に広範な自由裁量を認めているという点に特色を有している。
以上の検察官の捜査権,起訴便宜主義に加えて,日本の刑事司法の際立った特色は,警察が被疑者を最大22日間にわたって警察の留置場に身柄拘束し,その間,弁護人の立会いなしで被疑者を取り調べることができ,そして被疑者はこの取調べを拒むことができない(取調べ受忍義務がある),という点にある。こうした日本の捜査の構造は,米国の法学者から,due process(適正手続)モデルに則ったアメリカ刑事手続の対極にある,刑事手続きの目的を犯罪の制圧のみに置き、警察や検察に極めて強大な権限を与え、彼等の判断には絶対的な信頼を寄せ、その反面として、被疑者や被告人には非常に限られた防御の手段しか与えない,黙秘権を実質的に否定ないし敵視する,crime control(犯罪抑圧)モデルの典型であると批評されている(D・H・フット「日米比較刑事司法の講義を振り返って」ジュリスト第1148号)。
以上の被疑者に対する糾問的取調べ,検察官の捜査権限,起訴便宜主義によって支えられる日本の刑事司法制度の下で,有罪率99パーセント超という驚異的な数字が出てくる。これは,日本の刑事裁判で無罪を勝ち取るのは,ゴルフでホール・イン・ワンを狙うようなものだということを意味する。
こうした数字が出てくるのは,上述の起訴便宜主義の下で,検察官が証拠が薄弱な事件については起訴を見あわせ,確実に有罪を取れると判断した事件だけを起訴するという運用をしてきたからである。その結果,日本では,検察官の訴追段階での判断が事実上の第一審に等しい重みを持ち,裁判所での審理は,検察官の起訴段階での判断の当否を事後的に審査するという程度のものになっている。
こういう運用の下では,検察官が起訴する場合には,間違っても裁判で無罪判決が出ないよう,がちがちに有罪の証拠を固めてくるため,これを裁判で突き崩すのは至難のわざである。しかも,日本では,裁判で起訴事実を否認するとなかなか保釈を認めないという,俗に「人質司法」と称される保釈実務の運用がなされているので,被告人としては長期間にわたって身柄を拘束されるという危険性を覚悟しなければ,無罪主張すらできないということになる。その結果,有罪か無罪か微妙な事件で,かつ,有罪を認めれば執行猶予がつく可能性が高い事件では,有罪を認めて早期の身柄解放を目指すことも少なくない。このような事情が,有罪率を更に高めている。
検察の量刑意見である求刑も,裁判実務上,大きな意味を持っている。判決で言い渡される裁判所の量刑は,俗に「八掛け」といわれるように,検察官の求刑の8割あたりを目安として言い渡されることが多く(但し,これはあくまでも目安で,事件により,実際の量刑にはバラツキがある),検察の求刑基準が引き上げられると,裁判所の量刑もこれに引きずられて上がってゆく傾向がある。
以上のような日本の刑事司法の構造は,検察が要の位置を占めているという意味で,「検察司法」と呼ばれることがある。検察は,捜査においては警察をコントロールし,裁判においては裁判所をコントロールして,事実上,刑事裁判のかなりの部分を,自分たちの思うままに動かしている。
現行の刑事訴訟法は,戦後,アメリカ法を継受して,当事者主義的に改正された。この法の建前では,訴追機関たる検察官と被疑者・被告人は対等の当事者であり,被告人が有罪か無罪かは法廷での証拠調べによって決せられるもので,捜査は訴追側による裁判の準備作業に過ぎず,被告人は有罪判決が確定するまでは無罪の推定を受けることになる。
しかし,これはあくまでも建前であり,実際の日本の刑事司法は,捜査段階では警察・検察が被疑者に対して強権的かつ一方的な取調べを行い,裁判の帰結は検察官が起訴不起訴を決する時点で事実上決まり,裁判はこうした警察・検察による捜査・処分に問題がなかったかどうかを事後審査する場所という色彩の強いものになっている。このような日本の刑事司法の実態は,憲法や刑事訴訟法の条文を眺めているだけでは判らない。
こうした日本の刑事司法の現状に対して,高名な刑事法学者であった平野龍一元東大教授は,日本の刑事司法の現状はかなり絶望的であると評したことがあった。
導入が予定されている裁判員制度は,元々は,捜査段階で検察官が作成した書面の法廷への提出を禁止することによって,以上のような日本の刑事司法の現状改革を目指したものであったが,制度設計の途中で異質な原理に立ったものに改変させられた結果,何のための制度改革かがはっきりしない,場合によっては日本の刑事司法の更なる悪化に至りかねないという危惧を抱かせるものとなったのである。
こうした日本の刑事司法の特色を更に補完しているのが,日本のマスメディアの報道ぶりである。
被告人が有罪か否かは裁判での審理と判決によって初めて確定され,それまでは被告人について無罪の推定が妥当するという制度の下では,裁判報道には公平中立性が要請され,場合によっては報道自体を規制するべきだとされ,被告人を一方的に犯人視するような報道は問題視される。
ところが,日本では,上述のような「検察司法」の現状と相応する形で,起訴段階はおろか,被疑者が逮捕された時点で被疑者を有罪と決め付けるような報道が当たり前のようになされており,それどころか,警察・検察の意図的なリークの下,裁判で証拠提出すらされていない「事実」が「関係者の話」によって「判った」ことになり,総理大臣が国会答弁で「違法性は明らか」と述べ,こうした「判った」事実に基づいて,未だ起訴もされていない秘書本人ではなくその使用者である政治家の進退問題が連日のようにメディアをにぎわしている。
ここに露呈しているのは,人の有罪無罪を決めるのは警察・検察とそれに癒着したメディアであるということが信じて疑われない,この国の寒々とした警察・検察国家,プロパガンダ国家ぶりであって,今回の事態が表すものは、この国をになっている与党,検察,メディアらの体制エリートの間では,最早,無罪推定原則,裁判を受ける権利などの刑事裁判を律する近代的諸原則を建前として尊重するつもりすらなくなっているという,信じられないような無惨な光景なのである。