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日・独・伊三国同盟
http://www.asyura2.com/10/senkyo103/msg/915.html
投稿者 新世紀人 日時 2011 年 1 月 08 日 15:41:06: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: 敵は外ではなく、内に在り(上・中・下) (河信基の深読み)…「米韓日三国軍事同盟」に引き込み、財政的軍事的な補完勢力に 投稿者 新世紀人 日時 2011 年 1 月 08 日 15:35:22)

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sanngokudouei.htm

日・独・伊三国同盟

日独伊三国条約締結ノ詔書

1940(昭和15)年9月27日、ベルリンで調印された前文と本文6条とから成る日本、ドイツ(独逸)、イタリア(伊太利)の間の軍事同盟。

交渉は、1937(昭和12)年に結ばれた日独伊三国防共協定の強化を目的に、第1次近衛文麿 (このえふみまろ)内閣の時に開始されたが、1939(昭和14)年8月に独ソ不可侵条約(1939年8月23日モスクワで調印された、東ヨーロッパにおける両国の勢力範囲を画定した秘密議定書が付属されたドイツ・ソ連両国の相互不可侵に関する条約。1週間後ドイツがポーランドに侵入、9月にはソ連軍もポーランドに侵入、両国はポーランドを分割したが、1941年6月のドイツ軍のソ連侵攻により破棄された)が締結されたことにより一時中断した。

だが、ヨーロッパにおけるドイツ軍の圧倒的な勝利と破竹の進撃を目の前にした日本は、対米英関係が悪化していた状況と相まって、1940(昭和15)年9月6日、ドイツのスターマーH. Stamer特使の来日を機会に交渉を再開させ、9月24日に、スターマーと第2次近衛内閣の外相松岡洋右(ようすけ)がベルリンにおいて全面的合意にこぎ着けた。

その内容は、ヨーロッパおよびアジア(大東亜)における「新秩序建設」に関し、ドイツ、イタリアおよび日本は、その「指導的地位」を認め合う(第1〜2条)こと、また日中戦争およびヨーロッパ戦争に参加していない第三国の攻撃に対してあらゆる「政治的、経済的及軍事的方法により相互に援助すべきこと」を誓約する(第3条)純然たる軍事同盟であった。

松岡は、アメリカとの戦争は避けるべきだとの認識を持っており、三国同盟は、対米交渉力を高める手段と考えていたが、結果は逆で、同盟の成立は、米・英を強く刺激し、太平洋戦争開始の大きな要因となった。

同盟は、1943年9月8日イタリア(バドリオ政権)の無条件降伏、1945年5月7日ドイツの敗北(ドイツ軍無条件降伏文書に署名)により、完全に崩壊した(その後、日本も1945年8月15日、ポツダム宣言の受諾により無条件降伏を喫した)。

 なお、三国同盟を推進した松岡洋右(ようすけ)が対米開戦の2日後、言論界の長老だった徳富蘇峰に送った41年12月10日付の便せん14枚に鉛筆書き書簡が、徳富蘇峰(1863〜1957。熊本生まれの評論家。作家徳富蘆花の兄。同志社中退後、自由民権運動に参加。のち民友社を設立、「国民之友」「国民新聞」を発刊し、平民主義を主張。日清戦争後は政府と結び、国家主義の鼓吹者となった)記念館(神奈川県二宮町)の資料から65年ぶりに見つかった。書簡は、冒頭で「開戦第一日丈(だけ)の収穫にても、ど偉い事で、恐らく世界戦史特に海戦史上空前の事」と、真珠湾攻撃の戦果を手放しで持ち上げ、「『ル』(ルーズベルト)大統領色を失ふと、伝ふ。左(さ)もありなん」と記した上で、真珠湾攻撃など緒戦の戦果を「痛快、壮快」と絶賛し、「闘ひ抜ひて勝て」などと強気一辺倒の内容。松岡は対米開戦時、三国同盟が戦争につながったことを悔いて「死んでも死にきれない」と泣いたとされており、専門家は「開戦時の気持ちの変化が分かる貴重な手紙」としている。

だが松岡については、第2次近衛内閣内閣の外相だった40年9月、米国に対抗しようと三国同盟を結び、これが対米戦争への道を開く最大の誤算となって、責任を痛感していたと考えられていた。元外交官の斎藤良衛(りょうえい=1880〜1956。大正から昭和時代の外交官。外務省にはいり26年に通商局長。満鉄理事をへて第2次近衛(このえ)内閣の外交顧問となり、松岡外相の日独伊三国同盟締結交渉などに協力。戦後の51年会津短大学長に就任)が開戦当日、松岡宅を訪ねた際の話は有名で、戦後の斎藤の著書『欺かれた歴史』(読売新聞社刊)によると、病床の松岡は目に涙をため、「三国同盟の締結は、一生の不覚だった。死んでも死にきれない」としるされている。今回の書簡に、現代史家の秦郁彦さんは「緒戦の戦果で強気に戻ったのだろうが、2日間でこんなにも気持ちが変わっていたとは」と驚くと語っている(07年01月08日付『読売新聞』)。


日独伊三国同盟条約調印式


日本国、独逸国及伊太利国間三国条約

       1940年(昭和15)年9月27日

 昭和15年9月27日締結「ベルリン」ニテ日本国、独逸国及伊太利国間三国条約

大日本帝国政府、独逸国政府及伊太利国政府ハ万邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シムルヲ以テ恒久平和ノ先決要件ナリト認メタルニ依リ大東亜及欧州ノ地域ニ於テ各其ノ地域ニ於ケル当該民族ノ共存共栄ノ実ヲ挙ケルニ足ルヘキ新秩序ヲ建設シ且之ヲ維持センコトヲ根本義卜為シ右地域ニ於テ此ノ趣旨ニ拠ル努力ニ付相互ニ提携シ且協力スルコトニ決意セリ而シテ三国政府ハ更ニ世界到ル所ニ於テ同様ノ努力ヲ為サントスル諸国ニ対シ協力ヲ吝マサルモノニシテ斯クシテ世界平和ニ対スル三国終局ノ抱負ヲ実現セソコトヲ欲ス依テ日本国政府独逸国政府及伊太利国政府ハ左ノ通協定セリ

第1条

 日本国ハ独逸国及伊太利国ノ欧州ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

第2条

 独逸国及伊太利国ハ日本国ノ大東亜ニ於ケル新秩序建設ニ関シ指導的地位ヲ認メ且之ヲ尊重ス

第3条

 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付相互ニ協力スへキコトヲ約ス更ニ締結中何レカノ一国カ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依り相互ニ援助スヘキコトヲ約ス

第4条

 本条約実施ノ為各日本国政府、独逸国政府及伊太利国政府ニ依り任命セラルヘキ委員ヨリ成ル混合専門委員会ハ遅滞ナク開催セラルへキモノトス

第5条

 日本国、独逸国及伊太利国ハ前記諸条項力三締約国ノ各ト「ソヴィエト」聯邦トノ間ニ現存スル政治的状態ニ何等ノ影響ヲモ及ホササルモノナルコトヲ確認ス

第6条

 本条約ハ署名卜同時ニ実施セラルヘク実施ノ日ヨリ10年間有効トス

右期間満了前適当ナル時期ニ於テ締結国中ノ一国ノ要求ニ基キ締約国ハ本条約ノ更新ニ関シ協議スヘシ

 

右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本条約ニ署名調印セリ

  

 昭和15年9月27日即チ1940年、「ファシスト」暦18年9月27日拍林ニ於テ本書3通ヲ作成


日独伊三国条約締結ノ詔書 (1940〔昭和15〕年9月27日)

大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カサル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラス人類ノ蒙ルヘキ禍患亦将ニ測ルヘカラサルモノアラントス朕ハ禍乱ノ戡定平和ノ克復ノ一日モ速ナランコトニ軫念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命シテ帝国ト其ノ意図ヲ同シクスル独伊両国トノ提携協カヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌フ所ナリ

惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンセシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚タ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ

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