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岩上安身・渡辺乾介対談 2010年12月15日
第一部
岩上(以下、発言者略):渡辺さん、お久しぶりです。体調を崩されていたとの事ですが?
渡辺(以下、発言者略):大丈夫ですよ。
渡辺さんは長年、小沢一郎氏をフォローされてきておられ、票田のトラクターでも有名であられるので、今日は小沢氏について色々伺いたいと思います。
はいはい。
今、民主では小沢下ろしが盛んです。何故、今、身内でこんな見苦しい争いがされているのか、それを考える為に遡って1989年あたり、小沢さんが頭角を現わした頃のお話から伺いたいと思うのですが。
そうですね、その頃というと竹下内閣が退陣した頃ですね。宇野内閣がそれに続いた。女性スキャンダルの人ですね。で、宇野内閣は不人気で選挙でボロ負けをする。そこで出て来たのが海部氏で当時、小沢氏は幹事長になりこれは47歳で自民党では最年少の抜擢だった。実は金丸信氏などが強力に後押しをしたんです。当時、小沢氏は実力は認められていたが政治的手腕は未知数だった。私自身、とりたてて注目はしていなかった。
七奉行と言われた?
その頃はまだそういう言い方は無かったんですが、当時、自民は国会では議席が少なく、今以上にねじれだった。そこに小沢が登場した訳です。野球で言うならワンポイントですかね。
駄目なら彼に責任取らせると。
そうそう。それで茨城の参院補選が小沢氏の初仕事だった。で、選挙対策本部などに行ってもいない。はてどこに行ったのかと皆が探す訳ですね。当時、大新聞の記者は威張ってましてね、政治家がへいこらしていた。記者が政治家に公然とたかってた時代です。ところが小沢氏はそうした記者を相手にしないでどこかに姿をくらましてた。記者も行方をつかめない。
じゃ、記者達は面白くないですよね。
あの若造、生意気だと思ってたでしょうね。ただ、小沢氏は記者会見などの公式な仕事はちゃんとやる訳です。でも接待をしない。だから記者は自民惨敗というつもりで記事を書いてた。ところが自民候補がトップ当選しちゃった。これが小沢氏が注目された最初の出来事です。
良く角栄仕込みだと小沢氏は言われますが?
小沢氏は40歳の頃、自民党総務局長やってたんですが、当時から田中角栄氏に小沢氏はとても可愛がられてました。で、田中派の総会の木曜会てのがあって、それは派閥の総会だから絶対出席なものなのですが、小沢氏は総務局長になったらそこに出なくなった。これは授業をサボるとかいうのとは訳が違う凄いことです。私が小沢氏に興味を持ったのはその頃でしたか。
しかし、何故小沢氏はそんな事が出来たんですか?
当時の田中派は、大平氏が倒れ、鈴木善幸氏が総理になってました。で、その次を誰にするかということで、中曽根氏を指名したんですね。ところがアンチ中曽根てのが大勢いて、一部が大反対をした。で揉めた時に金丸信氏が立上がり「会長が決めたんだぞ。親分が黒を白と言ったら白なんだぞ」と一喝して決まった。
有名な話ですよね。
うん。で、小沢氏はその頃は衆議院運営委員長で、まあ色々と中曽根総理と対立するわけ。中曽根氏が当時、「なんだ、少年探偵団みたいなあの野郎」と言ったと伝えられてます。第二次中曽根内閣の時、嫌がる中曽根を金丸が説得して小沢を自治大臣にさせた。
小沢氏唯一の閣僚経験ですよね。
要するに小沢氏は派閥の指示があると、それに従ってどんな仕事でもこなしていたんです。結構、「この仕事はやだ」とか言うのがいるんですが、小沢氏はどんな仕事でもうまくこなしていた。つまり派閥の総会に出なかったのも、当時、自民党の党務をこなしていたから派閥の会合に出る訳ではない、というのが彼流の考え方だったんでしょう。
なあるほど。
こうした彼の姿勢、つまり与えられた仕事をきちっとこなしていくという事が、彼の評価をじわじわと高めていったわけです。これで有名な話があります。例の日米貿易摩擦が激しい頃、アメリカの建設業界が日本参入を迫った事があった。で、当時の竹下総理は小沢官房副長官をアメリカに派遣した。そしたら小沢氏は米国製携帯電話の日本進出問題も含め、1年半ほどでこれらを丸くまとめてしまった。
そんないきさつがあって幹事長になったんですね。
で、なった後、茨城の選挙で勝ちまして、その時、小沢氏は3つの事をやってるんです。一つは国会の与野党有力議員を引き連れてベルリンの壁崩壊の現場を視察している。これがねじれ国会を乗り切る事に繋がった。
世界が大きく変わるのを見せつけた。
そう。で、それからやったのが選挙制度改革。例の小選挙区制です。当然、反対意見が多かったのを「ベルリンの壁すら崩壊した」と与野党両方を相手にして説得した。そのまた後、湾岸戦争の時も「世界が大きく変わる時だ」と判断したんでしょう。
当時、小沢氏は結構アメリカの要求に従ってますね。
あれはね、日本で出来る事をなるべくやろうとした。自衛隊を派遣したり金を出したりしたのも、これによって日本は国際社会での発言権を獲得しなくてはならない、という考えだったんでしょう。当然、自衛隊派遣には外務省からも防衛庁からも大反対が出る。結局、自衛隊は出せずに金を出した訳だが、この事がずっと小沢氏のトラウマとなっていた。あとあとしこりとならなければ良いが、と思った訳ですがその通りになった。
解放されたクェート政府の出した感謝状に日本が入ってなかった。
後日談もありますけどね。
いずれにしても日本の評価ははっきりとはしなかったですよね。
その頃、小沢氏が自民党総務会で話した内容が国連の決議の下、侵略された国を助ける為に自衛隊を出すという論法だった。しかも攻撃部隊ではなく輸送や邦人保護など後方支援をとなえていたんです。
小沢氏はそのように湾岸戦争の時は自衛隊を出そうとしていたのに、イラク侵攻の時には反対しましたよね。これは何故なんですか。
小沢氏の考え方には、対米隷従というようなものはない。冷戦が終わり、国際社会に日本が一つのポリシーを持って出ていく第一歩として、湾岸戦争の時に参加出来ないかと考えた。あの日本改造計画という本でも、日本は独特な道を歩むとは言えないのであり、国連の決議に沿って国際貢献をすべきだと述べている。決してアメリカの為ではない。日本はかつて戦争をした国だから軍を出してはいけないという「常識」が一般にまかり通っている中、彼はそう唱えた。ところがイラク侵攻はアメリカによるアメリカの為の戦いだし国連決議もないから、小沢氏は自衛隊派遣に反対したんですよ。
なるほど。
湾岸戦争の時には小沢氏の自衛隊派遣論に反対して外務省などの官僚が苦情を言いに来たらしい。ところがイラク侵攻の時には特に憲法解釈の変更などがあった訳でもなく、今度は同じ外務省などが「何故自衛隊派遣に反対なのか」と文句を言いに来たんだそうだ。この官僚の日和見主義に小沢氏は凄く腹を立てていたね。これが後の脱官僚主義の出発点になってるんだな。それが党として自前の立案能力を持つ話に繋がり、官僚による斡旋を防ぐ為に党が自前で資金を集めなくてはならないという考え方になって、これが政党助成金に繋がる。
これまでの政治家に求められていたのは、そうした金と人の流れを調整する事だったですね。
これが小沢的な論理だと、官僚からの自立というより国民個人が自立しないと駄目だとなる。個人の自立があってこそ、国も自立出来るという訳だな。
つまり、小沢氏の唱える事は昨日今日出て来たものではなく、こうした早い時期からの思想的背景がしっかりあるのですね。
そうそう。
ここで湾岸戦争の頃に話を持って行きますが、当時はバブルが崩壊する寸前であったのに金さえあればいいだろうという考え方が多くて、金で解決しようとした。
海部内閣の頃だよね。小沢氏によれば仕方ない選択肢でもあった。喜んで金を払った訳ではない。当時、アメリカだって双子の赤字を抱えていたんだ。最初はもっと小さい金額だったんだけど、小沢氏がどうせ金払うのにケチケチしたら逆効果だから思い切って行けと判断したんだよ。あまり知られてないけどね。
つまり、小沢責任論ってのは一応根拠がある訳ですか。
で、小沢氏はその時の経験から後にPKO法案を通す事になる。ねじれ国会の中、これだけの事をやったんですよ。
さてさていよいよ盛り上がる二人の対談は、このあと更なる小沢氏秘話に。→第二部へ
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投稿者 まりお 日時 2010 年 12 月 18 日
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