http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/415.html
Tweet |
だれにも、勝負どきがある。民主党の岡田克也幹事長は、いまがそうなのだろう。
面白みの薄い頑固者といわれてきた。いっぷう変わっている。
「私、割と頑固なので、(大学受験の)歴史なんかも『絶対年号は覚えないぞ。そういう無意味なことを強いる教育はおかしい』って決意して覚えなかった。
東大を受けたのは、過去の出題を見ると、年号が出ていないのが大きかった。うちは代々、早稲田で、『なぜ官学に』と怒られたんですが」
とかつて語っているが、並の一徹ではない。
師走政局をにぎわしている小沢一郎元代表の政治倫理審査会出席問題も、<策謀の小沢>と<頑固の岡田>による一騎打ちの様相だ。老と壮の因縁の対決という感じもある。
というのは、2人の衝突は2回目になる。岡田は政界入りして約20年、自民、新生、新進、国民の声、民政、民主と六つの政党を渡ってきたが、最初の衝突は1997年12月、小沢が唐突に新進党の解党を宣言した時だった。
小沢は鹿野道彦(現農相)と党首選を争い、当選してわずか9日後の異変だ。理由は諸説あったが、岡田には身勝手な暴挙と映り、怒りを燃やす。解党の議員総会の会場前で、1人反対ビラを配り、総会では、
「解党後、新進党ではなく、まったく別の党ができるのだとすれば、それはいわばクーデターだ。政党の乗っ取りと言ってもおかしくない。先の総選挙で新進党を選んでくれた有権者への大いなる裏切りだ」
と小沢に激しく詰め寄った。しかし、新進党は崩壊する。3年の寿命だった。
当時、岡田は44歳、小沢について自民党を離党した後、政権担当能力のあるもう一つの政党をつくろうという一念でひた走ってきたが、虚脱感にとらわれ、
<もう政治家を辞めようか>
と思ったという。2年前に出版した「政権交代−−この国を変える」(講談社)の中で、岡田は当時を振り返り、
<解党の本質は、より主義主張が近い者同士が政党を構成するべきだという、いわゆる純化路線である。細川政権以来、困難な連立の舵(かじ)取りに精力をそがれてきた小沢さんとしては、このままいっても展望がないと判断されたのではないだろうか。
とにかく、議員総会での主張は、小沢さんに初めて公然と異を唱えた瞬間だった>
と書いた。小沢のやり方に一応の理解を示したようにも受け取れる。
だが、13年前の解党劇はいまもトラウマになって残っている。
「あんな荒っぽい運転手の車にはとても乗れない」
と9月の代表選で菅直人首相に1票を入れた議員も少なくなかった。
結局、新進党は六つに分裂した。小沢は自由党を結成、岡田は鹿野の国民の声に参加、野党勢力は一時細分化される。
98年4月、民主党の統一大会で再結集した時、岡田は
<これが最後のチャンス。もし民主党で失敗したら、政治家を辞める>
と言い聞かせたという。03年9月の民主・自由合併で5年後に再び小沢と巡りあう。
ところで、政権交代は成功したものの、交代後の民主党政権は失速につぐ失速だ。<失敗したら>という岡田の懸念は、必ずしも杞憂(きゆう)とは限らない。
失敗を食い止める手立ての一つは、党として小沢問題にけじめをつけ、国民の声に応えることだ。頑固幹事長の踏ん張りどころである。(敬称略)=毎週土曜日掲載
==============
岩見隆夫ホームページ http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
毎日新聞 2010年12月18日 東京朝刊
岩見 隆夫(いわみ・たかお)
毎日新聞客員編集委員。1935年旧満州大連に生まれる。58年京都大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。論説委員、サンデー毎日編集長、編集局次長を歴任。
http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- 小泉時代に圧力をかけられ、CIAの走狗と化した大手マスコミ、火中の栗(機密費中毒の老害・岩見も米国のパシリのようです) 小沢内閣待望論 2010/12/18 15:51:55
(0)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK102掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。