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(回答先: チャルマーズ・ジョンソンが死んだ。 (ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 ) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 23 日 12:37:32)
http://suinikki.exblog.jp/15504933/
「古村治彦の酔生夢死日記」の「スティーヴ・クレモンスのチャルマーズ・ジョンソン博士追悼文をご紹介します。」を
下記のように転載投稿します。
=転載開始=
2010年11月20日、日本政治研究の泰斗、チャルマーズ・ジョンソン博士が79歳で亡くなりました。ジョンソン教授については、これまでも、当ブログ、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」でご紹介してきました。ジョンソン博士について書かれた様々な文章の中で、出色なのが今回ご紹介する、スティーヴ・クレモンス氏の文章です。これを読めば、ジョンソン教授の業績や残した衝撃が良く分かります。ジョンソン教授の逝去に伴い、いくつか文章が発表されましたが、どれもクレモンス氏の文章を超えるものはありませんし、中には彼の文章の物まねであるものがあります。
それでは拙訳をお読みください。
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チャルマーズ・ジョンソンが現在と未来に残した影響と衝撃(The Impact Today and Tomorrow of Chalmers Johnson)
スティーヴ・クレモンス(Steve Clemons)筆
2010年11月21日
ザ・ワシントン・ノート(The Washington Note):クレモンスのブログ
来週、「フォーリン・ポリシー」誌(Foreign Policy magazine)上に、編集長であるスーザン・グレイサーが選んだ、「外交政策における、世界で最も偉大な思想家と実践家たち」のリストが発表される。この試みは年に1回行われるもので、今年で2回目となる。私はリストを見た。選ばれた人々のリストは、創造的で、様々な角度から多様な人々が選ばれていることが良く分かる。
フォーリン・ポリシー誌が選ぶ100人に名前があるべきなのに、掲載されていない人が一人いる。それはチャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)だ。私は、チャルマーズ・ジョンソンはヘンリー・キッシンジャーに比肩する人物であると思う。ジョンソンは、現在のアメリカの外交政策の範囲や目標を定めることができる、アメリカにとって最重要の知識人だった。
チャルマーズ・ジョンソンは、2010年11月20日に79歳で亡くなった。ジョンソンは、「発展志向型国家(developmental state)」の概念を生み出した。この概念を初めて聞いた読者の方々のために簡単に説明をする。ジョンソンが生み出した「発展志向型国家」という概念によって、いかにして国家が経済成長の速度を速めるためにその国の現状に沿った形で政策を実行していくのかという大きな動きを理解することができるようになった。シカゴ大学を中心にして、当時の学界にはネオリベラル派の学者たちが多くひしめき合う中、チャルマーズ・ジョンソンは、政治経済学の分野で、変節者で異端者となった。ジョンソンは、弟子たちと一緒に、これまで常識とされてきた定説に挑んだ。代表的なジョンソンの弟子と言えば、E・B・キーン、デイヴィッド・アラセ、マリー・アンコードギ―、マーク、ティルトンが挙げられる。彼らは海外、特にアジア諸国で実施されている、国家主導の産業政策、通商政策、金融政策についての重要な研究を次々と発表した。
今日、「国家資本主義(State Capitalism)」という概念は、世界経済の最新の、そして最重要の特徴を議論する上で、当たり前に使われている。チャルマーズ・ジョンソンは、政治経済学において、発展志向型国家の概念を生み出すことで私たちに国家の重要性を認識させ、アメリカ以外の国々が自由主義的な、いわゆるアメリカ・モデルに収束せず、模倣をしない理由を学問的に解き明かしたのだ。
ジョンソンは日本の政治経済研究の成果である『通産省と日本の奇跡』を発表した。ジョンソンについて、「ニューズウィーク」誌のロバート・ネフは、日本研究の「修正主義者(リビジョニスト、revisionists)たちの親玉」と決めつけた。ネフは、クライド・プレストウィッツ(Clyde Prestowitz)、ジェームズ・ファローズ(James Fallows)、カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)、R・タガート・マーフィー(R. Taggart Murphy)、パット・チョート
( Pat Choate)たちを日本異質論を広める新しい動きのリーダーたちだと決めつけた。日本異質論とは、日本の政治経済は、アメリカとは違う様式で組織されているという主張のことだ。リビジョニストというレッテル貼りは大きな反応を引き起こした。ジョンソンをはじめとするリビジョニストと呼ばれた人々は、アメリカの学界から袋叩きにあった。また、アメリカのジャパン・ハンドラーズ(Japan-hands)は、日本の経済官僚は環太平洋にある世界経済をけん引する国、日本の国家安全保障をも担うエリートである、経済力によって国家の安全を図るエリートであるという事実に焦点を合わせるよりも、ジョンソンたちの主張を捻じ曲げることに躍起となっていた。そして、アメリカのジャパン・ハンドラーズたちはリビジョニストたちを攻撃したのである。
1980年代、ジョンソンは、日本が採用している、国家が主導する資本主義は、日本の経済力と富を向上させるだけでなく、日本の「力」自体を増大させていると主張した。キッシンジャーや地政学を基にした戦略家たちは、国際通貨と核弾頭の数と破壊力でしか国力を考えなかった。リビジョニストと呼ばれる人々は、国力と国益の経済的な要素が一国の世界的な地位を考える上で重要であると主張した。そして、実際に国益や国力を考える際に経済的な要素が取り入れられるようになった。
中国はグーグルのような勢いのある国であり、アメリカはジェネラル・モータースのような国である。アメリカは、ブランドイメージが良く、巨大な国ではあるが、実力はお続けている、そんな国になっている。中国の台頭を理解するためには、ジョンソンの発展志向型国家の概念に戻らねばならない。
ジョンソンが残した業績を詳しく調べ、1960年代、70年代彼が行ったことを見ていくと、ジョンソンは、その当時、国家安全保障に関して強硬な立場を取るタカ派(hard-right national security hawk)であったことは分かる。ジョンソンは中国の共産主義革命を分析した。そして、中国の共産主義革命の原動力が階級闘争や共産主義のアピールではなく、燎原の火のごとく農民たちの間に広がっていったナショナリズムであったことをジョンソンは示した。ジョンソンは中国と同じダイナミズムがベトナムで起こっていることを誰よりも早く気付いていた。彼の研究は『農民のナショナリズムと共産主義の力』としてまとめられた。この研究によって、カリフォルニア大学バークレー校に在籍する一介の大学院生だったジョンソンは、アメリカ国内のアジア研究専門家たちの仲間入りをすることができた。
ジョンソンは、友人であっても敵であっても、学問的な誤りを犯していれば、簡潔で、相手をやりこめる攻撃をする能力に長けていた。だから、彼は、そうした姿勢や能力のために常に論争の中にあった。ジョンソンは、ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)がリードしていたカリフォルニア大学バークレー校のアジア研究プログラムに対して不満を持っていた。ジョンソンはスカラピーノを日本研究者のグループである「菊クラブ(Chrysanthemum Club)」の指導的な立場にいる人物だと考えていた。「菊クラブ」に属する研究者たちは、日本を賞賛していたが、彼らは日本を過大評価したり、日本の国家主導の資本主義の持つ様々な特徴に目を向けない人々だった。ジョンソンは大学院生たちに対して選択を迫った。その選択とは、次の2つの選択肢から1つを選ぶことであった。
@日米間の関係を力の強い兄と兄に従うべき弟と見立て、そうした日米関係を保つために、事実を語るのではなく、様々なことを弁護して回る、汚れた研究者となるか、A研究者として、経験から得られる事実として、日米が共通の経済的利益を得ることができないということを認める立場を取るか。
ジョンソンはスカラピーノに対して激しい批判を行ったが、ロバート・スカラピーノは、自分の立場を変えることを拒否した。ジョンソンは、カリフォルニア大学バークレー校の中国研究プログラム長の立場を捨て、大学を去った。そして、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部へと移り、そこでスター教授となった。学部が国際的な評価を得たのは、ジョンソンが移籍したからであることは疑いないところだ。
しかし、潔癖で、政策、理論、実行に情熱的なジョンソンは、これまでと同じように、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部を運営する官僚たちと衝突することになった。学部の主流となっていったのは、「合理的選択論(rational choice theory)」を信奉する人々であった。合理的選択論は政治学をはじめとする社会科学に拡大していった。社会科学は、いわゆるソフトな科学と呼ばれていたが、人間の行動に関して、ハードな科学である計量経済学で使われていたモデルを吸収し、適用しようとしていた。
ジョンソンと愛弟子の一人である、E・B・キーンは、共同して合理的選択論に対して厳しい批判を展開した。合理的選択論が現代における最大のイデオロギー的な幻想の一つであることを彼らの批判が明確にし、合理的選択論についての賛成、反対の議論が今でも続いている。私もまた合理的選択論に関する論争に参加した。私は合理的選択論の持つ限界について書いた。私は、合理的選択論が幅を利かせるようになり、大学のカリキュラムから、外国語の授業、文化に関する授業、そして、政治学で言えば、政治システムを理解するために重要な、機構・構造分析アプローチの授業が減らされていると主張した。
私はジョンソンの家を訪ねたことがあった。彼の傍らには、彼の長年にわたる相談相手、知的活動のパートナー、そして妻であるシーラ・ジョンソン(Sheila Johnson)がいた。ジョンソンは私に次のような話をしてくれた。「カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部では、もはや国際関係も、太平洋諸国の関係についても教えなくなってしまった。学生たちが一年目に習うことは、経済学や統計学で開発されたスキルだよ。外国語、歴史、文化、政治システムよりも計量経済学の公式を重視する傾向が学問の世界で強まっているが、こうした傾向は、膨張し続けるアメリカの文化帝国主義(America's growing cultural imperialism)の表れだと思う」と。
私がジョンソンから話を聞いた夜、チャルマーズ・ジョンソン、シーラ・ジョンソン、そして私は、日本政策研究所(Japan Policy Research Institute)を設立することに決めた。ジョンソンは所長になり、私はディレクターになった。私たちは日本政策研究所の仕事を12年以上にわたって共同で行った。1日おきというわけにはいかなかったが、私は、毎週、ジョンソンと話をした。私たちは、日本について、日米関係について、アジア全体について話をし、先進的な考えをまとめ、出版しようとしていた。私たちは研究所の理事となり、有名な学術誌では掲載してもらえないような、リスクのある内容の、アジアについての研究成果を出版した。そして、現在、太平洋地域における経済、政治、そして軍事に関する評論や研究において、日本政策研究所は重要な役割を果たすようになった。現在、研究所長をしているのはチホ・サワダで、研究所自体は、サンフランシスコ大学を拠点にしている。
ジョンソンは、日本政策研究所を根拠地としてアメリカの諸政策について大きな貢献を行った。ジョンソンは世界各国の政治経済に精通し、冷戦( Cold War)を戦う米ソ両超大国の軍備についての知識も豊富であった。それらを使い、ジョンソンはアメリカがソビエト連邦と同じように、世界各国、特に日本とドイツを、従属国として思うように利用することができるような体制を作っていると喝破した。これは他の誰もできなかったことだ。アメリカもソ連も敵対していたが、お互いは良く似ていた。両国とも帝国であった。ソ連が崩壊したとき、ジョンソンは私に次のように語った。「アメリカは崩壊しない。今のところはね」と。
1995年9月、沖縄で12歳の少女が3人のアメリカ兵に暴行される事件が起きた。その直後、アメリカ軍の司令官は暴行した兵士たちは売春婦でも買えば良かったのだと発言した。沖縄での悲しい事件と司令官の傲慢な発言を聞き、ジョンソンはアメリカの外交政策とアメリカ帝国に対する強力な批判者となった。ジョンソンはベトナム戦争を支持し、カリフォルニア大学バークレー校の反戦運動と対決した人物であった。そんな彼が批判者となった。
ジョンソンは次のように主張した。「アメリカが世界中に数多くの基地を展開し、日本のような外国を占領し続けることを正当化する論理はもはや存在しない」と。ジョンソンは、沖縄だけで39以上の米軍基地、関連施設が存在すると指摘している。アイゼンハワーが警告した、アメリカの軍産複合体(military industrial complex)は、ジョンソンにとって無視をすることができない存在となり、冷戦終結後、ジョンソンが書いた数多くの文章に登場している。
ジョンソンはアメリカの外交政策とアメリカ帝国を批判する4冊の強烈な内容の本を上梓した。これらの本は、ニューヨークやワシントンといった権力の中枢に近い場所で書かれたのではない。ジョンソンは、カリフォルニアの海に近い、カーディフ(サンディエゴ近郊の小さな町)の小さな自宅兼事務所で本を執筆した。ジョンソンは、アメリカの外交政策に関して、最も成功を収めた年代史家、評論家となった。
2001年9月11日の同時多発テロ事件が発生する前、ジョンソンは、『ブローバック』を上梓した。2001年のニューヨークとワシントンに対するテロ攻撃の後、ブローバックは話題をさらった。出版社は注文に対応しきれず、入手困難な本になった。国家安全保障分野で、人々が最も読みたい本になった。
それから、ジョンソンは、『帝国の悲しみ』、『ネメシス』、最新刊『帝国の瓦解』を次々と世に送り出した。ジョンソンは、CIAのアレン・ダレスの顧問だったこともある人物だ。それがアメリカ政府に対する強力な批判者となった。ジョンソンは、国家の安全保障についてゴリゴリの保守派であったが、今や政治的に左翼の重要人物の一人に数えられるようになった。、
ジョンソンは、自分自身をノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)やゴア・ヴィダル(Gore Vidal)に対比させていたようだ。しかし、私は、ジョンソンは、彼らよりももっと真剣で、経験を大事にし、政治的考えや思想の細かい点までよく知っていたと考えている。彼は様々な政治思想や考え方を遍歴したのだ。
私は南カリフォルニア・日本・アメリカ協会に勤務した。当時、チャルマーズ・ジョンソンは理事会のメンバーだった。ジョンソン、私、奥様のシーラ、そして世界で最も有能な編集者であるトム・エンジェルハートで、日本政策研究所を創設した。私がニクソン・センターの立ち上げ責任者となった時、ジョンソンは顧問の一人になってくれた。私たちは長年にわたり、建設的な関係を築いてきた。ジョンソンは私のキャリアアップと思考の深化の手助けをしてくれた。ここ数年は、関係が緊密ではなくなっていた。それは、ジョンソンのように、ワシントンを捨てる準備が私にできなかったからだ。
ジョンソンを支持する人々の多く、そしてジョンソン自身が、「アメリカは民主政治体制ではなくなってしまった、アメリカは帝国となってしまったために共和国ではなくなってしまった」と考えた。そして、アメリカ国民はそれに全く気づていないとも考えていた。ジョンソンの考えは正しい。しかし、私は、ブログ、動画サイトなどの新しいメディア、ワシントンに拠点を置くシンクタンクであるニュー・アメリカ・ファウンデーションを使って、アメリカ政府が現在行っている外交政策を何とか変更させたいと考えている。チャルマーズ・ジョンソンは私がやっていることに反対するだろうと思う。しかし、最後には理解してくれると思う。私は、ジョンソンが持っていた「アメリカは世界で何と酷いことをしているのか」という怒りを共有している。
チャルマーズ・ジョンソンとシーラ・ジョンソンは、ジョン・ボルトンの国連大使就任に対する上院の承認について反対する活動を展開していたことを知っている。ジョンソンのアメリカが帝国化するのを阻止したいという大きな希望から見れば、ボルトンは小物で、攻撃目標にするには物足りないと考えたようだ。ジョンソンの考えは正しかった、と今の私は思う。
「チャルマーズ・ジョンソンが死んだ」。いまだに信じられない。ウソだと思いたい。私には彼との楽しい思い出もあるが、同時に激しい政治的議論をしたり、日本政策研究所の研究成果の発表の締め切りをめぐり怒鳴り合いの喧嘩をしたこともある。私は、ジョンソンのように激しく率直な物言いをする、強力な力を失ってアメリカ政府や学界に挑むことを想像できないし、したくない。
数世紀も前なら「魔法使いだ」と呼ばれるような業績を残す学者や研究者はほとんどいない。社会や人間に関する法則を発見した人は多くの追従者と敵対者を生み出すことになる。
魔法使いは決して死なない。私はこの文章を読んでいる人々や彼の名前だけは知っている人たちが、ジョンソンの残した著作を読んで欲しいと願う。ジョンソンの著作を読んで、怒る人がいるだろう。多くの示唆を得る人がいるだろう。ショックを受ける人がいるだろう。非難や批判をする人がいるだろう。賞賛をする人もいるだろう。
チャルマーズ・ジョンソン、シーラ・ジョンソン夫妻については楽しい思い出ばかりだ。そのうちの一つは、二人が飼っていたロシアンブルーの猫の名前だ。猫にはそれぞれ、MITI(通産省)とMOF(大蔵省)と名付けられていた。名前の由来は、日本の政治経済をけん引した2つの省の名前だ。
チャルマーズ・ジョンソンは、外交誌である「フォーリン・アフェアーズ」誌を激しく非難していた。彼は、フォーリン・アフェアーズ誌がつまらない内容の、因習にこだわった、新味に欠ける雑誌に成り果てたと考えた。ジョンソンはフォーリン・アフェアーズ誌とそれを発行する組織である外交評議会(Council on Foreign Relations)にうんざりしていた。そこで、ジョンソンは、外交評議会に電話をし、応対した若い女性に退会を申し出たのである。
その女性は「ジョンソン教授、大変申し訳ございません。外交評議会の会員資格は終身のものですので、どなたも中途退会はできないことになっております。会員の方がお亡くなりになった時に、会員名簿から除外されることになっています」と答えた。
チャルマーズ・ジョンソンは間髪いれずに次のように言った。「私は死んだものと思ってください(Consider me dead)」と。
私はジョンソンが死んだとは信じられないし、信じたくない。ジョンソンは現代の知の巨人(intellectual giant)であった。これから何百年経っても、この時代の知の巨人と言えばチャルマーズ・ジョンソンだ、ということになるだろう。ジョンソンの業績はアメリカとは何で、アメリカはどうあるべきだということを示している。彼の業績の素晴らしさはヘンリー・キッシンジャーの業績を凌駕している。
私は、シーラ夫人と家族同様の存在であった全ての方々に対し、衷心からお悔やみを申し上げる。特にジョンソンの弟子や同僚たちにもお悔やみを申し上げたい。彼らは、ジョンソン王朝とも言うべき学統に連なる人々である。そして、サンディエゴ在住のジョンソン夫妻を手助けしてくれたご近所や友人の方々にもお悔やみを申し上げる。
(終わり)
=転載終了=
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