http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/275.html
Tweet |
http://amesei.exblog.jp/12330528/
「ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」の「2010年 11月 22日チャルマーズ・ジョンソンが死んだ。」から下記転載@を、
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun116.html
「副島隆彦の論文教室」の『「0112」 論文 日本政治研究の学者たち:チャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティス(1) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月12日 』から下記転載Aを、
投稿します。
=転載@開始=
昨日(21日)の夕刻、アメリカの日本研究家の一人、チャルマーズ・ジョンソン教授が死んだ、という報に接した。チャルマーズ・ジョンソンは拙著、『ジャパン・ハンドラーズ』(日本文芸社・2005年)では私は彼に着目して筆を進めた。いわばあの本のキーパーソンの一人であった。
それはチャルマーズ・ジョンソンが、もともとは“アメリカ帝国”の建設者の一人でありながら、途中であることをきっかけに、その成員の中から離脱していったという特殊な思想遍歴をたどっていたからである。もっと具体的に言うと、チャルマーズ・ジョンソンは、アメリカのCIAによる90年代の「対日封じ込め戦略」のメンバーの一人であったのだが、やがて彼はアメリカの世界支配に根本的な違和感を感じるようになった、ということだ。
チャルマーズ・ジョンソンは、晩年はその流れからアメリカの外交安全保障政策を徹底的に批判する側に回った。2001年にアメリカで同時多発テロが起こったとき、彼はその少し前に発表していた『ブローバック』(揺り戻し)という本のとおりのことが起こったと発言した。ブローバックとはスパイ用語であり、諜報機関が仕掛けたトラップが逆に諜報機関の側にしっぺ返しの様に跳ね返ってくるということをいう。アメリカの同時多発テロはアメリカがこれまで世界で行って来たことへの報復だという意味である。(本書の日本語版は『アメリカ帝国への報復』だった)
彼にはたくさんの弟子がいた。そのなかの一人が現在「新アメリカ財団」の研究員をしている、スティーブン・クレモンスである。クレモンスについてはこのブログでも普天間問題を取り上げたときに取り上げた。リベラル派の代表的な政治ブロガーである。そのクレモンスが長めの追悼文章を書いている。
彼は、思想遍歴も複雑である。当初は「ゾルゲ事件」についての研究をしていたりすることから、根っこは左翼だったと思われる。しかし、ベトナム戦争は強く支持していた。クレモンスによると、チャルマーズはベトナム戦争当時は「ゴリゴリの安全保障タカ派」(hard-right national security hawk)であり、その立場から中国の共産主義革命を研究した。中国の革命の原動力が階級闘争や共産主義の魅力にではなく、熱烈な農民たちのナショナリズム(Peasant Nationalism)にあると論じたところが注目を集めた。(このテーマでUCバークレーの博士論文を書いている)
だが、晩年は最左翼ともいうべき安全保障問題ではアメリカの外交政策を批判する側に回っている。なぜその変貌が起こったのか。拙著を書いたとき、私は過去に彼が書いた雑誌寄稿文などを細かく調べた。そこで行き着いたのは、米雑誌「ナショナル・インタレスト」の論文である。この論文は、読売新聞社の言論誌である「THIS IS 読売」にも掲載されていた。この論文は発表されるや、アメリカの社会科学論壇で論争を巻き起こした。論争のポイントは、アメリカの学問は、「地域研究」をないがしろにして、アメリカ発の学問を唯一の真理であるように押し付けていっていいのか、というものだった。専門的に言うと「地域研究」と「合理的選択論」のどちらが妥当なのかという問題だ。
これは政治学やその他の社会科学の研究で、地域研究と計量分析のどっちのアプローチが偉いのかという論争である。チャルマーズ・ジョンソンは、日本語をきっちりと学んだジャパノロジストであるから、経済学に見られるような新自由主義的なトレンドでもてはやされた計量分析を用いた学派が支配的になっていた風潮に危機感をいだいていた。異文化のもとにある国家の政治研究をやる場合、まずその国の言語や風俗をしっかりと研究する必要があり、それを無視した計量分析には限界がある、という立場だ。
クレモンスはジョンソンから「UCサンディエゴの国際関係太平洋研究大学院ではもう本当の意味での国際関係論や太平洋地域研究を教えていない。学生が入学して最初の年にやるのは経済学と統計の技術を磨くことだ」と不満を吐露されたことがあるという。言語や文化、歴史の研究よりも、計量経済的アプローチが優先される状況は、まるでアメリカの文化帝国主義を象徴しているとも語ったという。アメリカ型の学問がすべての文化に当てはまるのであれば、それ以外の国の言語も文化も学ぶ必要はないということになる。
グローバリズムというものを、錦の御旗にして日本にアメリカ化を迫った竹中平蔵のような構造改革論者たちがアメリカ留学をしたときはそのような環境であった。もっと言えば、アラブ人の文化や言語を学ばないできたことがアメリカの今の中東アフガン政策の混迷をもたらしている原因でもある。冷戦に勝ってアメリカは驕ってしまったということだろう。
クレモンスは、チャルマーズのもっとも重要な研究業績として、「開発=発展指向型国家」(developmental state)モデルを挙げている。
「国家がどのように政策の条件や環境をコントロールして経済発展につなげていくか」ということを彼は概念としてモデル化したとものだ。クレモンスは、チャルマーズは、シカゴ大学で新自由主義者が群れを成していたような時代には、政治経済学界では背教者であり異端者であったと述べている。
しかし、リーマン・ショックを起点にした先進国でも見られる国家主導の経済政策が明らかにしているように、新自由主義の時代は終わったわけである。クレモンスの書くように、「国家資本主義」の概念が注目を集めている。国家主導の経済政策といえば正しく中国。
アメリカモデルが全てに妥当するとする「新自由主義」のおごりが中国研究をおろそかにしたという焦りがアメリカの内部にはあるだろう。日本研究や中東研究よりも一番ホットなのが中国研究なのだろう。そう考えると、チャルマーズ・ジョンソンの投げかけた問題に答えてこなかったことが今のアメリカの安全保障政策の混迷を生み出しているとも言える。
ところで、日本でチャルマーズ・ジョンソンの訃報を伝えたのは共同通信と時事通信だけのようである。海外でもクレモンスや同じくその仲間のジェイムズ・ファローズ以外の一般メディアはこの訃報を伝えていないようだ。アメリカは週末にあたるので記事が出ていないだけなのかもしれないが、気にはなる。
というのも、チャルマーズ・ジョンソンは長い間、主流派の政治学者たちからは「リビジョニスト」と言われてきたからだ。リビジョニストとは修正主義者、異質主義者という意味で、例えば「歴史修正主義者」のように使う。歴史修正主義とは歴史学の世界では相手にされていないという意味に近い。こう呼ばれてしまうと村八分のような状態になる。
ジョンソン含め、ファローズ、プレストウィッツ、ウォルフレン(そういえば最近、ウォルフレンもチャルマーズと似たような陰謀論一歩手前と評価されかねない本を徳間書店から出版していたなあ)、パット・チョート、ターガート・マーフィといった学者たちはアメリカの日本政策におけるリビジョニストと呼ばれた、とクレモンスは書いている。彼らは「日本という国はアメリカと違ったやり方で政治経済を動かしている」というアタリマエのことを書いただけで学界で仲間はずれにされた。日本異質論というのは、安全保障政策エリート同士が慣れ合う(そして、日本の政治学者をおだてる)というのが主流だった、「菊クラブ」のやり方とは異なったからである。
この視点は、今の中国とアメリカの関係にも言える。今は従来の「菊クラブ」のような「G2」がお互いのエリートの間である程度の影響力と説得力を持っても、この二大大国がいつまでもそのクラブに安住するかといえばそれは分からない。力関係で中国が上回ればその関係に主従関係ができてしまうかもしれない。
しかし、リビジョニストこそが真実を伝えていたともいえる。「ワシントンコンセンサスと北京コンセンサス」のせめぎ合いが国際秩序を作ると言われている21世紀初頭。アメリカ帝国主義を批判したチャルマーズ・ジョンソンは左翼として死んでいったと評価されるのだろう。しかし、リージョナル・スタディーズをないがしろにしたことによる「ブローバック」はじわじわとアメリカの基礎体力を落としているようにみえなくもない。
このことを今の日本の外交政策について当てはめるとどうなるだろう。アメリカをもっと突き放して研究することは重要だろう。そして、今の日中関係も同じではないか。お互いがお互いの行動原理をもっと理解する必要がある。それこそが「危機管理」にとって必要なことなのかもしれない。
(余談)
クレモンスのチャルマーズ・ジョンソン追悼文の中で私にとって重要だったのは以下の下り。
<チャルマーズは、「フォーリン・アフェアーズ」という政治雑誌を厳しく批判していた。この雑誌は、彼に言わせれば、くだらない国家主義の因習にとらわれたハッタリでしかなかった。彼はもうこの雑誌やそれを発刊している外交問題評議会と関わるのはもう沢山だと考えた。それで、彼はCFRに電話して、受付の若い女性にCFRを退会したいと告げた。
ところが、その係の女性は、「ジョンソン教授、申し訳ありません。CFRを退会することは出来ないのです。CFRは終身会員制なのです。会員でなくなるのはその人が死んだ時です」と答えたのだ。
チャルマーズ・ジョンソンは、間髪入れず、「じゃあ、もう死んだものとみなしてくれ」と告げた。>
CFRは一度入会すると脱退できない、ということである。そんな組織は聞いたことがない。
<参考記事>
「日本異質論」のC・ジョンソン氏死去
チャルマーズ・ジョンソン氏(米国際政治学者)米メディアによると、20日、カリフォルニア州サンディエゴ近郊の自宅で死去、79歳。
アリゾナ州出身。カリフォルニア大サンタバーバラ、サンディエゴ両校教授を経て、民間シンクタンク「日本政策研究所」を設立、所長を務めた。1982年に「通産省と日本の奇跡」を出版。旧通商産業省(現経済産業省)主導による独特の閉鎖的な産業構造が日本の高度経済成長を支えたと分析し、「日本異質論者」の代表格とされた。 (ワシントン時事)(2010/11/22-10:51)
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2010112200199
Chalmers Johnson, author of Blowback; The Sorrows of Empire, Dead at 79
The Impact Today and Tomorrow of Chalmers Johnson
by Steve Clemons
Published on Sunday, November 21, 2010 by The Washington Note
http://www.commondreams.org/headline/2010/11/21-3
「0112」 論文 日本政治研究の学者たち:チャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティス(1) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月12日(古村さんには『ジャパン・ハンドラーズ』の時にいろいろ教えてもらいました。彼はチャルマーズ・ジョンソンの家にも行った。だから、以下の古村さんの文章は必読です。)
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun116.html
=転載@終了=
=転載A開始=
今回は、日本政治研究の大物二人についてご紹介します。その二人とは、チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)とジェラルド・カーティス(Gerald Curtis)です。副島隆彦先生の著書や文章を読まれてきた方々は、よくご存じの名前だと思います。
日本政治研究は第二次世界大戦後から始まったと言えます。それまで日本の歴史や文学について少数の学者たちが研究していただけでした。戦後、冷戦が始まり、アメリカ政府は外国研究に多くの予算を投入するようになりました。そして、冷戦の舞台であるアジアや南米の研究が開始されました。
日本研究もそうした中で多くの予算が投入され、数多くの若者たちが日本研究を始め、彼らがのちのち著名な日本研究化となっていきました。その代表格がチャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティスです。今回の文章では、彼らがどのような主張をしているのか、彼らのバックグラウンドも含めてご紹介します。
==========
■チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson):日本研究の本物の大家
チャルマーズ・ジョンソン
●海軍将校として日本へ:中国と日本に興味を持つ若き日のジョンソン
チャルマーズ・ジョンソンは一九三一年にアリゾナ州フェニックスで生まれた。カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)に入学後、米海軍に入隊し、将校として日本を初めて訪問した。一九五三年のことだった。米海軍に勤務している間、日本を旅してまわり、日本語の勉強を行った。除隊後の一九五五年に大学に復学した。
チャルマーズ・ジョンソンは、復学後、日本と中国を研究テーマにすることを決め、日本語の学習とともに中国に関する研究を開始する。一九四九年に中華人民共和国が建国され、一九五〇年に朝鮮戦争が勃発した。アメリカ政府や多くの財団は、外国研究に多額の資金を供給した。こうして多くのアメリカの若者たちが中国や日本に関する授業に集まるようになった。
チャルマーズ・ジョンソンは大学卒業後、そのまま大学院に進学した。ジョンソンがテーマに選んだのは、中国の農民の間に形成されたナショナリズムだった。ジョンソンは図書館で一人、旧日本軍の残した中国の農民たちの反乱などの報告書など資料を読み漁った。中国語と日本語両方の資料を使えるのはジョンソンの強みだった。
チャルマーズ・ジョンソンは渉猟した資料を駆使し、一九六二年に博士論文「一九三七年から一九四五年にかけての農民のナショナリズムと共産主義の力(Peasant Nationalism and Communist Power: The Emergence of Revolutionary China, 1937-1945)」を完成させ、博士号を取得した。
ジョンソンは、博士論文の中で次のように主張している。「共産中国が成立したのは、農民間に育ったナショナリズムが基盤としてあったからだ。そして、日本の中国侵略が農民間のナショナリズムを醸成し、中国共産党を希望の星として支持するようになった。こうしたナショナリズムの高揚と共産主義体制の樹立は二〇世紀のアジアの大きな流れとなる」彼の主張は、そのままベトナム戦争とベトナム統一を予言していたと言えるだろう。
ジョンソンはそのままカリフォルニア大学バークレー校の準教授に採用された。チャルマーズ・ジョンソンはその後、一九六〇年代には研究の傍ら、香港や日本、ベトナムを訪問している。香港には長期滞在し、「中国観察(China-watching)」をしていたと書いている。ジョンソンは、一九六七年から一九七三年にかけて、大学教員の傍ら、アメリカの情報機関であるCIA(Central Intelligence Agency, 中央情報局)の中国担当コンサルタントとして活動していた。
一九六〇年代はアメリカがベトナム戦争の泥沼にはまり込み始めた時代である。そして、リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)大統領が「偉大な社会(Great Society)」計画をぶち上げ、多くの社会科学者たちが政策策定や決定に関与し始めた時代である。この時代、ジョンソンは、知らず知らずのうちに「アメリカ帝国」のお先棒を担いでいた、と著書『ブローバック』(Blowback)の中で書いている。当時のジョンソンはベトナム戦争を支持していたという。あるインタビュー記事で、チャルマーズ・ジョンソンは自分のことを「冷戦の闘士(Cold Warrior)だった」と振り返っている。
リンドン・ジョンソン
ジョンソンはアメリカでも指折りの中国研究の専門家となった。36歳のときにはカリフォルニア大学バークレー校の中国研究センターの所長に就任して、精力的に研究を行っていた。その多くが、アメリカ人は立ち入ることが許されていない中国国内の政治状況を調べ、論文やプレゼンテーションの形で発表することであった。しかし、ジョンソンは中国研究への熱意を失っていく。それは、一九六六年から続いていた文化大革命が残虐性を帯び、共産革命の意義が失われたと感じたからだと書いている。そして、ジョンソンは中国の隣にある日本に注目するようになる。
●「日本の奇跡」はどのようにして起きたのか
「アメリカでは誰も注目していなかったが、日本では大変興味深いことが進行していた」とチャルマーズ・ジョンソンは『ブローバック』で書いている。一九七二年に再来日したジョンソンは日本の高度経済成長の成果に驚愕した。それ以前、一九六一年に妻シーラと共に来日したジョンソンは、東京都三鷹市に居を構えたそうだ。「その当時、三鷹市にもかやぶき屋根の古い家や畑がたくさん残っていたよ」とジョンソンは私に述懐した。
一九七二年に再来日したジョンソンは、一九六〇年代から一五年にわたり、毎年一〇パーセント以上の経済成長を続ける日本を目の当たりにした。そして、日本こそが社会主義の成功例だと考えるようになった。ジョンソンは、『ブローバック』の中で次のように書いている。
(引用はじめ)
中国研究の専門家として、私は文化大革命の野蛮さを知るにつけ中国に幻滅していた。それに対し、日本は一国社会主義(socialism in one country)の成功例であると私は考えた。国家官僚(state bureaucracy)が経済を指導・管理し、社会全体の目的を設定する。国家官僚は原材料の配分を間違わず、モチベーションと過剰なまでの自己抑制を保っていた。これらの特徴は以前のソ連と中国にあった特徴である。(一七ページ、訳文は引用者)
(引用終わり)
ジョンソンは、通産省を研究するに至った経緯を述べている。ジョンソンは指導教授であった升味準之輔東京都立大学教授(現名誉教授)に、日本の経済成長における通商産業省(Ministry of International Trade and Industry)の役割を研究してみてはどうかと勧められたそうである。升味教授の勧めでジョンソンの通産省研究は始まったのだが、「余計なことを言いやがって」と嘆いた通産省幹部がいたそうである。
一九六〇年代、西洋の日本研究者たちは、学生運動や市民運動ばかりを研究していた。それは、「日本が西洋と同じ、市民社会を基盤とする民主政治体制になりつつあり、その萌芽が学生運動や市民運動である」という考えがアメリカの日本研究者たちにあった。だから、学生運動や環境保護運動などに参加する日本の若者たちを観察するという研究が流行した。
そうした中で、日本が奇跡的な高度経済成長を達成しているのは何故か、とジョンソンは考えていた。そんなある日、指導教授であった升味教授から、「外国の研究者たちは日本政治を本当に動かしている組織を研究していない」と言われ、「その組織とは官僚だ」という助言を得て、通産省の研究することに決めたのだそうだ。通産省の幹部の嘆きも分かる。通産省の幹部が嘆いたのは、「せっかく秘密にしていたのに、アメリカに知られてしまえば、そこを攻撃されるではないか」ということからだと思う。
そして、ジョンソンはその後、通産省の研究を進め、その成果を一九八二年に『通産省と日本の奇跡』(MITI and the Japanese Miracle: The Growth of Industrial Policy, 1925-1975)として発表した。ジョンソンの業績について簡単にご紹介したいと思う。
『通産省と日本の奇跡』
チャルマーズ・ジョンソンは、日本がアメリカ型の市場経済(market economy)ではない、ということをアメリカとの比較で説明している。アメリカは市場合理性国家(market-rational state)であるとジョンソンは述べている。これは国家(政府)が、経済において市場での競争を促進するために規制やルールを決める役割のみを果たすということだ。ジョンソンは次のように書いている。
(引用はじめ)
アメリカは規制志向(regulatory orientation)国家の好例であり、日本は発展志向(developmental orientation)国家の好例である。規制志向、市場合理性を重視する国家は、経済上の競争のための形式、手続きやルールを重視する。しかし、そうした国家は、経済における実質的な問題については感知、関与しない。(一九ページ、訳文は引用者)
(引用終わり)
一方、日本は計画合理性国家(plan-rational state)である。これは、国家が、経済発展の目標を設定し、その実現のために産業政策(industrial policies)を策定・実行するというものである。国家の立てた目標の達成のためにその担い手が国家官僚であり、日本の場合は通産省ということになる。ジョンソンは次のように書いている。
(引用はじめ)
計画合理性国家では、政府は産業政策に最も重きを置く。産業政策とは、国内産業の構造と国内産業の国際競争力を強化する構造について配慮するものだ。(一九ページ、訳文は引用者)
(引用終わり)
日本の発展志向型国家について、ジョンソンは次のようにぴったりの表現をしている。
(引用はじめ)
日本の通商産業省(Ministry of International Trade and Industry)に真に匹敵するアメリカの政府組織は商務省(Department of Commerce)ではなく、国防総省(Department of Defense)である。米国防総省は、通産省と存在、機能、目的を共有している組織である。アメリカで日本を非難する際に使われる、「日本株式会社(Japan, Inc.)」という言葉は、アメリカ国内で使われる「軍産複合体(military-industrial complex)」によく似ている。軍産複合体という言葉は、政府と民間企業が、国防に関する諸問題について緊密に協働することを意味する。日本株式会社という言葉もまた政府と民間企業の緊密な連携を意味する。(二一ページ、訳文は引用者)
(引用終わり)
ジョンソンは通産省が立案、実行する産業政策について次のように説明している。
(引用はじめ)
産業政策は、国内産業の保護、戦略的に重要な産業の発展、経済構造の調整といった目的のために行われる様々な政策をまとめたものを意味する。産業政策は、国内、国外の様々な変化に対して通産省が国益に適うとして立案され、実行されるものだ。ここで言う「国益」とは通産省の幹部たちの理解の範囲内の意味である。
(中略)
産業政策は経済的ナショナリズム(economic nationalism)を反映したものだ。経済的ナショナリズムとは、保護主義、管理貿易、経済戦争のような過激な形態を必ずしもとることはない。しかし、ある国の国益を最大限追求することではある。(二六ページ、訳文は引用者)
(引用終わり)
ジョンソンは産業政策について、具体的に研究を進めている。そして、日本の経済発展に貢献した産業政策を@外国為替管理、A海外からの技術移転の管理、B日本開発銀行(Japan Development Bank)による低利融資、C優遇税制、D関税(tariff)、輸入規制(import restriction)による国内産業の保護、E系列関係カルテルの復活、F行政指導(administrative guidance)による競争の規制、G外国為替の免許制として挙げている。通産省は、国益の追求、具体的には高度経済成長を達成するために戦略的に重要な産業を選び、その政調目標を設定した。そして、その目標が達成されるように、民間企業を指導し、監督し、効率の良い産業の発展を行った。城山三郎著『官僚たちの夏』は、小説の形を取っているが、そうしたことが具体的に書かれている。
『官僚たちの夏』
チャルマーズ・ジョンソンが『通産省と日本の奇跡』の中で提唱し、その後、世界で使われるようになった概念が、「発展志向型国家(developmental state)」である。この概念について、カリフォルニア大学バークレー校の日本政治研究者であるT・J・ペンペルは、日本研究から生まれた唯一の概念であるとし次のように評価している。繰り返しになるが、ジョンソンもまたバークレー校の教授であった。ペンペルはジョンソンの後、バークレー校の教授になった。
T・J・ペンペル
(引用はじめ)
この概念(訳者註:発展志向型国家)は他国を対象とする後続の研究を誘発し(その顕著な例は韓国 と台湾である)、同時にその概念構成・対抗仮説・説明力をめぐって継続的な理論的論争を引き起こしていったことである(日本政治学会編、『日本政治を比較する』五七−五八ページ)
(引用終わり)
「発展志向型国家」という概念はその後、台湾や韓国の経済発展を研究する際にも使用された。また、『通産省と日本の奇跡』は、1980年代から1990年代初頭にかけて、アメリカの知識人たちが「効果的な産業政策」について研究するきっかけとなった。そうした知識人の代表がローラ・タイソンである。タイソンは、クリントン政権下で、大統領経済諮問会議の委員長を務めた。タイソンは日本で成功した産業政策をアメリカでも実施できないかと研究を始めた。
●リヴィジョニストというレッテル貼り
一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、「チャルマーズ・ジョンソンは、日本の異質性をことさらに取り上げ非難する「リヴィジョニスト(Revisionists)」である」、というレッテル貼り(レイベリング)をされた。ジョンソンは、クライド・プレストウィッツ(Clyde V. Prestwitz, Jr.)、ジェームズ・ファローズ(James Fallows)、カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)といった人々とまとめて「リヴィジョニスト四人組(ギャング・オブ・フォー Gang of Four)」と呼ばれた。
リヴィジョニストというレッテル貼りをされた人々は、「日本は欧米諸国とは違う制度や規範を持つ国だ。だから欧米の基準で判断、対応してはいけない」ということをやや人目を引きやすい表現で書いた。その当時、日本脅威論を唱えていた、アメリカのマスコミがリヴィジョニストたちの主張を面白おかしく取り上げた。その結果、日本研究のもう一派である(エドウィン・ライシャワーたち)、「日本は、アメリカの指導のおかげで欧米諸国と同じ価値観や制度を持つ国だ」と主張する日本研究家たちから「マスコミ受けのための日本叩きが酷すぎる」という批判を受けた。確かに、プレストウィッツやウォルフレンなどは、日本の膨大な貿易黒字(アメリカからすれば貿易赤字)の解消を主張し、日本の政治・経済システムを「東洋の神秘」として、おどろおどろしく書いていた。
しかし、チャルマーズ・ジョンソンは日本の真の姿をそのまま伝えていたにすぎない。彼の主張は、「日本はアメリカのような規制志向国家ではなく、発展志向国家である」というものだった。それを、「通産省は日本の経済侵略の参謀本部だ」と面白おかしく、おどろおどろしく、欧米のマスコミは報道した。
ジョンソンたちに修正主義者とレッテル貼りし、「マスコミ受けのために日本叩きをするな」と批判した日本研究の専門家たちは一見すると日本に対して優しいように見える。しかし、彼らの方がもっと恐ろしい。彼らの論理はこうなる。「日本は西洋諸国と同じ近代国家になりつつある。これは素晴らしいことだ。しかし、近代化はまだ完成していない。近代国家であるアメリカやヨーロッパ諸国にはない、独自の前近代的な制度や規範がまだ残っている。これらを除去しなければならない」こうした論理の延長戦にあるのが、アメリカが日本に毎年押し付けてくる「年次改革要望書」なのである。
●田中角栄を評価する
田中角栄
チャルマーズ・ジョンソンは、田中角栄についても論文を書いている。その論文は、一九九五年に発表された『日本:誰が統治しているのか?―発展志向国家の興隆』(Japan: Who Governs? The Rise of the Developmental State)という本の中の一章である。タイトルは、「田中角栄、構造汚職、日本におけるマシーン政治の出現(Tanaka Kakuei, Structural Corruption, and the Advent of Machine Politics in Japan)」だ。この論文の中でジョンソンは、次のように主張している。「田中角栄はロッキード事件が逮捕され、汚職政治家と非難されるようになった。
しかし、田中のやったことは大企業から政治資金を受け取ったことだが何も特別なことではなく、官僚出身で首相になった政治家たちは全員やっていることだ。田中が逮捕されたのは、うまく逃げ切る方法を知らなかったからだ。日本政治は構造的にお金のやり取りがある。それは日本社会にはお中元やお歳暮があるのと同様だ。それを一括りにして汚職とすることはできない」と。
ジョンソンは、田中角栄が官僚出身の多い自民党の政治家の中で、本当に地元の人々を代表し、地元の人々を後援会(Diet members’ local organizations)としてまとめ、要望を聞きそれらを実現していった政治家であると評価している。彼は文章の最後を次のように書いている。
(引用はじめ)
本書の前書きで書いたとおり、私は田中角栄の研究を始めた時、「田中角栄は日本の政治システムの民主化を進めると思われていた」と考えた。私は今でも自分の考えは部分的に正しいと考えている。田中は戦後日本の官僚が主導する発展志向国家において、有権者の代表として最も効率よく有権者たちの要望を実現した政治家である。しかし、彼の方法は族議員を使って国会をコントロールすることだった。族議員とは官僚たちのやっていることに精通した、田中に忠誠を誓った政治家たちのことだ。問題は、族議員は官僚たちをつけ上がらせけがれた存在したことと、族議員たちが官僚たちの指導監督する大企業から政治資金を受け取るなど汚れてしまったことだ。その結果、政治システムは汚染されつくし、改革は非可能であると多くの国民たちが思うようになってしまった。そして、国民は議会制民主政治体制に幻滅してしまった。田中は多くの業績を残したが、国民に説明するという政治体制を構築することはできなかった。(二一〇−二一一ページ)
(引用終わり)
ジョンソンは田中角栄を官僚出身の政治家たちとことごとく対比させている。田中は大学を出ていないが、裸一貫から事業を成功させたという彼の経歴が、官僚出身者たちとは違う。加えて、田中は、地方の人々、特に彼の選挙区の貧しい農民たちの要望を後援会という組織を使って通じて吸い上げ実現し、その実績で当選していくという形を確立したことを高く評価している。ジョンソンは、田中角栄がロッキード事件で逮捕されているのに、その他の歴代の総理大臣たちが同じようなことをして逮捕されていないのは、彼らが「逮捕を避ける方法を知っていたから」だとジョンソンは書いている。ジョンソンは、歴代首相は東京帝国大学、京都帝国大学卒業の高級官僚出身者たちで彼らが官僚組織をコントロールしていたので逮捕されることはなかったが、田中にはそうしたバックグラウンドがなかったために逮捕されることになったと考えていると、私は思う。
●九・一一事件を予言した慧眼
チャルマーズ・ジョンソンは二〇〇〇年に『ブローバック』という衝撃の書を発表した。本の題名となっているブローバックというのは、CIAの職員たちの間で使われる用語で、「CIAが外国で行った秘密工作の結果、本来の意図に反して、自分たちに危害が跳ね返ってくる」ことを意味する。
ジョンソンは自身も中国や日本の専門家として、知らず知らずのうちにアメリカ政府、特にCIAのために働くことになっていった。それは冷戦下、止むを得ないことではあっただろう。しかし、ジョンソンは一九九〇年代、東アジアに今も残る朝鮮半島分断、沖縄の過重な米軍基負担の現実に接し、自己批判を始めた。そして、著書『ブローバック』の中で、第二次世界大戦後、アメリカがいかに欺瞞に満ちた秘密工作を世界各国で行ってきたかを赤裸々に暴露した。
『ブローバック』
『ブローバック』の中でジョンソンは、「ここまで酷いことを外国に行ったアメリカに対して、強烈なしっぺ返し、ブローバックが起こるだろう」と書いていた。そして、本の出版から約1年後の二〇〇一年九月一一日に、九・一一同時多発テロ事件が発生した。ジョンソンの予言は的中した。
私は二〇〇四年にカリフォルニア州サンディエゴ近郊にあるチャルマーズ・ジョンソンの自宅兼研究所を訪問したことがある(その時の様子は、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」内「今日のぼやき」の「669」 カリフォルニアのチャルマーズ・ジョンソン邸を、副島隆彦が訪問したときの対話録を一つの記録として載せます。2005.6.11、をご参照ください。こちらからどうぞ。)。 そこでジョンソン博士からいろいろとお話を聞くことができた。ジョンソン博士は物静かで、自己主張の強くない、隠者のような風格を持っていた。このような穏やかな人が、ひとたび筆をとると舌鋒鋭く相手を完膚なきまでに打倒してしまう。その落差に驚いた記憶がある。日本に関わり続けて五〇年以上たった今でもやはり要所となると意見を聞かれるのは、ジョンソン博士が日本研究の本物のゴッドファーザーであることを示している。
(つづく)
=転載A終了=
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- スティーヴ・クレモンスのチャルマーズ・ジョンソン博士追悼文をご紹介します。(古村治彦の酔生夢死日記) 五月晴郎 2010/11/24 12:25:35
(0)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK100掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。