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[1932年][第一次上海事変]戦争賛美に転じた与謝野晶子
http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/146.html
投稿者 除痲 日時 2010 年 11 月 21 日 18:51:48: eXUdZ8zfKw9/I
 

与謝野晶子と言えば日露戦争に出征した弟を思い、「君死にたまふことなかれ」という反戦歌を書いたことで知られているが、この上海事変の頃には天皇崇拝に傾倒し、戦争賛美に転じている。

「君死にたまふことなかれ」は1904年9月に「明星」に発表された歌であるが、当時の与謝野晶子は28歳ごろ、身近な肉親が激戦地である旅順攻略戦に送られていることから肉親の情から素直に反戦の感情を示すことが出来たのであろう。

また、日露戦争当時は言論統制が厳しくなく、反戦の声が少なくなかったこと、旅順攻略戦での膨大な日本軍の損失に対して内地国民に司令官乃木希典への怨嗟の声が広がっていたこと、なども反戦歌を出しやすい環境を作っていたと言える*1。

しかし与謝野晶子の場合、30代後半になると天皇崇拝の感情が歌に表れるようになる。大正デモクラシーの時代でありながら天皇崇拝に傾倒したのは、大正デモクラシー自体が天皇制を否定できるまで成熟した民主主義にまで到っていなかったことの証左でもある。

大正時代は、案山子のよう形骸化した大正天皇を担ぐ右翼勢力が伸張し民権思想と対立したが、民権思想側は当局の弾圧を避けるため正面から天皇制を否定できず中途半端な形とならざるを得なかった。1918年11月23日の右翼団体・浪人会を率いる内田良平と民権思想の吉野作造の公開討論での対決が、天皇制容認で一致し尻すぼみの結果に終わったことは象徴的である。

大正デモクラシーの中で天皇制の”毒”が、民主主義思想を蝕み続けたのである。

昭和天皇が即位した直後の1927年、与謝野晶子は50歳ごろ既に天皇崇拝に強く傾斜し歌の中に次のような文句すら現れる。

 我等は陛下の赤子、

 唯だ陛下の尊を知り、

 唯だ陛下の徳を学び、

 唯だ陛下の御心に集まる。

 陛下は地上の太陽、

 唯だ光もて被ひ給ふ、

 唯だ育み給ふ、

 唯だ我等と共に笑み給ふ。

日露戦争は天皇崇拝を利用して兵士を戦地に送った戦争ではなかった。当時はまだ天皇の威光を圧力として使えるほど浸透してはいなかったのだ。与謝野晶子らが日露戦争で反戦的態度を取ったのは、徴兵した兵士を戦地に送る”狡猾な大臣”に対する素朴な反感が生きていた時代だったからかも知れない。神聖不可侵な天皇と奸臣という民衆的かつ素朴な政治観が、大正デモクラシーを通じて育ち、昭和になった時、結局は天皇に対する素朴な信頼が民衆をがんじがらめにしていたのかも知れない。

いずれにせよ天皇崇拝に絡めとられた与謝野晶子の精神には、昭和時代の反戦を訴える能力がなかったのは間違いない。

1932年の第一次上海事変の後、与謝野晶子は次のような歌を発表した。

 江湾鎮の西の方かの塹壕に何を見る。

 行けど行けども敵の死屍、折れ重なれる敵の死屍。

 中に一きは哀しきは学生隊の二百人。

 十七八の若さなり、二十歳を出たる顔も無し。

 彼等、やさしき母あらん、その母如何に是れを見ん。

 支那の習ひに、美くしき許嫁さへあるならん。

 彼等すこしく書を読めり、世界の事も知りたらん。

 国の和平を希ひたる孫中山の名も知らん。

 誰れぞ、彼等を欺きて、そのうら若き純情に、

 善き隣なる日本をば侮るべしと教へしは。

 誰れぞ、彼等を唆かし、筆を剣に代へしめて、

 若き命を、此春の梅に先だち散らせるは。

 十九路軍の総司令蔡廷鍇の愚かさよ、

 今日の中にも亡ぶべき己れの軍を知らざりき。

 江湾鎮の西の方かの塹壕に何を見る。

 泥と血を浴び斃れたる紅顔の子の二百人。

一見すると倒れた敵兵士にも愛情を持った歌に見えるが、底の浅い薄っぺらな愛情でしかないことに気づく。「君死にたまふことなかれ」は、戦地の兵士との精神的距離が近いことを感じさせる。実際に姉弟であったこともあるだろう。しかし、この歌で見せる愛情はせいぜい隣町の顔は知っているという程度の知り合いに対する愛情に過ぎない。可哀想ね、と言いながら食事の準備をしている、そんな印象すらある。

「誰れぞ、彼等を欺きて、そのうら若き純情に、善き隣なる日本をば侮るべしと教へしは。」には相手側の視点がまるで感じられない。自らの属する国家を「善き隣なる日本」と書いて恥じない態度にはカルト的な戦慄すら覚える。本土が戦場となる経験を経なかった国家*2に住んでいた女性の平和ボケとも言えるし、シベリア出兵批判で見せた批判能力が老衰したとも言えるかもしれない。

外国の侵略を受け国土を現実に切り取られつつある状況を想像できなかった与謝野晶子は、日本の本土空襲が本格化する前の1942年に亡くなっている。ある意味で幸せだったかも知れない。

なお、後の第二次上海事変、それに続く南京攻略後、萩原朔太郎が戦争賛美の歌を書いており、それには敵兵士への愛情は皆無であるが、萩原朔太郎自身は「無良心の仕事」と後悔していたという*3。

*1:それでも反戦運動に対する非難は強いものがあったが

*2:当時まで

*3:http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20101108/p1
http://d.hatena.ne.jp/MARC73/20101120/1290268924  

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コメント
 
01. 2010年11月21日 21:25:01: WdUZRlOZh6
でもさー、陸軍は天皇に逆らっていたよねー。
内閣組閣の大命降下した人物に3長官会議とかで推薦を出さないで、組閣を断念させたりしてね。

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