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「悲しみの念に堪えぬ」=三笠宮さま逝去で首相謹話−与野党幹部も哀悼 !
三笠宮さまは戦時中、軍人だった !
第二次大戦・日中・日米戦争勃発の
真相は、世界大恐慌後、英米の謀略だった !
戦前、政府の指導者は、日米戦争を
誘導した、米国のワナに嵌められた !
(www.jiji.com :2016/10/27-16:26より抜粋・転載)
☆ 安倍晋三首相は、10月27日、三笠宮崇仁さまの逝去について「悲しみの念に堪えません。国民と共に慎んで心から哀悼の意を表します」との謹話を発表した。
謹話は「幅広い分野にわたり、皇族として、重要な役割を果たされ、各種の記念式典や大会にご臨席の際には、国民と親しく接せられました。国民は、殿下の一層のご長寿を願っておりましたところ、思いもむなしく薨去(こうきょ)されましたことは、誠に哀惜に堪えません」としている。
☆ 自民党の二階俊博幹事長は「国民とできるだけ近い距離で接触され、皇室としての責任を大いに果たしていただいた。ご冥福を心からお祈り申し上げる」と悼んだ。
東京都内で記者団に語った。
☆ 公明党の山口那津男代表も、党会合のあいさつで、「戦後の平和で安定した社会へ、国民のために数々の功績を重ねられた。深く敬意を表したい」と述べた。
☆ 民進党の蓮舫代表は、記者会見で「心からご冥福をお祈りすると同時に、哀悼の意を表したい」と語った。
☆社民党の吉田忠智党首は「心から哀悼の誠をささげる」とのコメントを発表した。(2016/10/27-16:26)
(参考資料)
T 三笠宮崇仁親王薨去の報に接し
(www.seikatsu1.jp:平成28年10月27日より抜粋・転載)
平成28年10月27日
代表 小沢 一郎
三笠宮崇仁親王薨去の報に接し、心から哀悼の誠を奉げます。
三笠宮崇仁親王殿下は、戦前から戦後に至る激動の時代を
国民と共に歩んでこられました。
大変な学究肌で、国際親善にもご尽力されてこられました。
ご回復を願っておりましただけに本当に残念であります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
U 三笠宮崇仁さまの逝去に当たって(コメント)
(www5.sdp.or.jp:社民党OfficialWeb:2016.10.27 より抜粋・転載)
社会民主党
党首 吉田 忠智
大正・昭和・平成と、激動の長い年月を過ごされた三笠宮崇仁さまのご訃報に接し、心から哀悼の誠を捧げます。
古代オリエント史に造詣が深く、「宮さま講師」として大学などでご活躍され、歴史学者としての立場から紀元節復古反対の意思表明を行うなど、自由で進歩的な言動が注目されてきました。
また、国民を癒し平和な文化国家を育成するために、全国各地を廻ってレクリエーションの普及に力を注ぐなど、幅広い活動に取り組まれてこられました。
三笠宮崇仁さまのご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
V 三笠宮崇仁親王のプロフール
(ウイキペディアより抜粋・転載)
笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年(大正4年)12月2日 - 2016年(平成28年)10月27日)は、日本の皇族、歴史学者(専攻は古代オリエント史)、陸軍軍人(最終階級は陸軍少佐)。大正天皇と貞明皇后の第四皇男子。昭和天皇の弟、今上天皇の叔父にあたる。
御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。勲等は大勲位。称号は東京芸術大学名誉客員教授。お印は若杉(わかすぎ)。
「三笠宮」の宮号[注釈 1]は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。従軍経験のある最後の皇族であり、明治時代以降初めて100歳を越えた皇族であった。
◆軍人として[編集]
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後、陸軍大尉時代の1943年(昭和18年)1月から翌1944年(昭和19年)1月まで、コードネーム「若杉」(姓は印にちなんで作られた)として南京の支那派遣軍総司令部に勤務。
三笠宮は「軍は中国との戦争が長引き戦闘が泥沼状態になっており、軍紀が乱れている者が一部いる事を深く反省すべきである」と総司令官に言い対中政策のブレーキ役となった[1]。
総司令部は着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の待遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。
若杉の正体は秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで若杉が三笠宮であることを知らない者も多かった。
支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。また、中国共産党の八路軍に興味を持ったことは後の考古学への関心に影響を与える[2]。その後、大本営参謀に転出。
帰国後、戦争終結を摸索し、同僚の津野田知重陸軍少佐らと共に東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。
成功時には支那派遣軍総司令官の職に就く予定であったと言われる(津野田事件)。
事件への関与は明白ではあったが不問に付され、1944年(昭和19年)9月、願い出て陸軍機甲本部付に異動。津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。
こうした経緯があったためか、1945年(昭和20年)4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。終戦時の階級は陸軍少佐、航空総軍参謀であった。
1945年(昭和20年)8月12日に皇族会議が召集されて、昭和天皇が終戦の決意を語り、三笠宮は「忠実に実行したい」と語った。
8月13日に阿南惟幾陸軍大臣が昭和天皇に徹底抗戦に翻心させようと三笠宮に説得を願い出たが「陸軍は陛下の大御心に反する」と断り、阿南を叱責した[3]。
W 「思考」と「判断」の誤りが積み重なり、
「歴史上最悪の愚策」を断行した !
(「植草一秀の『知られざる真実』」:2015/05/11より抜粋・転載)
1)〜8)は、省略します。
9)日本に勝算はないとの見解は、排除され、
愚策・真珠湾攻撃を実行した !
米国と日本の国力を正しく認識できた者は、日本に勝算はないことを
明確に認識していた。
しかし、その正論が排除された。
また、米国は第二次大戦への参戦を希望していたが、そのための大義名分を欠いていた。
日本が米国に戦争を仕掛けることが、最良の大義名分となり、英国は、戦争勝利のためには米国の参戦が不可欠であると認識していた。
10)日本の政府・軍・指導者は、日米戦争
を誘導した米国のワナに嵌められた !
米国は、意図的に日本が対米戦争を仕掛けるように誘導したのである。
ところが、当時の日本の意思決定者は、情勢を正確に把握する能力を持たなかった。
情勢を正確に把握する能力が日本全体に存在しなかったわけではない。
しかし、正しい情報と正論が、意思決定者に適正に届かない状況が存在していた、あるいは、正しい情報が届けられても、正しい判断を行なえる人物が、意思決定権者に配置されていなかったという「悲劇」が存在した。
11)意思決定権者に、正しい情報と正論が封印か、
愚劣な意思決定権者だったか ?
日露戦争に勝利した日本は、ロシアから南満州鉄道の経営権を得た。
その経営権を、日本は、満州における日本の利権確保と錯覚した。
そして、この利権を守るために、満州を軍事的に支配することを考えた。
満州国でこれを確保できたが、中国の東北地方から反対勢力が入り、中国東北地方を軍事的に制圧しようと考えた。
これに対して、中国での抗日運動が拡大し、その拠点となった上海に、日本は、軍事進出した。そして、日本は、中国政府そのものを倒して、親日政権を樹立しようと、蒋介石政権の首都、南京まで侵攻した。
12)中国全域で抗日運動を展開、抗日運動を英米が支援した !
これに対して、中国は、共産党と蒋介石政権が、抗日を優先して、
中国全域で抗日運動を展開した。この抗日運動を英米が支援した。
支援ルートの中心はベトナム経由ルートで、日本は仏印南部に侵攻する決定を下す。
米国は対日石油禁輸措置を取り、対米戦争を決定する。歴史はこう流れたのである。
歴史を振り返れば、それぞれの時点での「思考」と「判断」の誤りが積み重なり、「歴史上最悪の愚策」である「真珠湾攻撃」に到達した。
13)「思考」と「判断」の誤りが積み重なり、
「歴史上最悪の愚策」を断行した !
しかし、それぞれの時点において、「正論」と「正しい情勢分析」が存在しなかったわけではない。
対米開戦を決定した1941年夏から11月にかけての時点においてさえ、なお、引き返す可能性は十分に残されていた。
しかし、その「チャンス」さえ生かすことができなかったのである。
特筆すべきことは、これらの流れのなかで、一貫して日本政府、日本軍の行動に反対した人物が存在することである。その代表として孫崎亨氏は、石橋湛山を挙げる。
14)「思考」と「判断」の誤りに反対した少数の人物がいた !
東洋経済新報主筆を務めた石橋湛山に影響を与えたのが同誌主幹の三浦銕太郎である。
三浦は1912年、帝国主義と保護主義に反対し、満州放棄を論ずる「小日本主義」を展開した。
「小日本主義」は領土拡張や保護政策に反対し、内政改革と個人の自由や活動力の増進により、国民福祉を増進させる主義であるとし、これを高く評価したのである。
ここで三浦は、
1.満州の主人は中国であり、日本が政治的にその地を掌握しても一時的に過ぎない
2.我が国の経済的、財政的負担を増す、点を指摘した。
三浦の影響を受けた石橋湛山は、三浦の主張に、「植民地経営は、経済的にマイナスである」との視点を入れて、小日本主義、満州放棄論を発展させたのである。
15)賢明な勇気ある人物を権力者・右翼が攻撃・迫害し続けた !
後に東大総長に就任した、矢内原忠雄は、日本の対満州政策を経済的観点から厳しく批判し、右翼から攻撃されて、東大辞職に追い込まれた。
戦後に東大に復帰して東大総長に就任したのである。
これ以外にも、横田喜三郎、馬場恒吾などの人物が権力の暴走に異を唱えたことを孫崎氏が検証する。しかしながら、多くの知識人、文化人が戦争遂行に協力していった。
孫崎氏は、多くの文学者が戦争協力に傾斜した事実を指摘する。
16)賢明な勇気ある人物は、特高から拷問され、殺害された !
その一方で、小林多喜二のように特高警察から拷問を受けて殺害された事例が存在する。
少なからぬ文学者は、自己の生存のために消極的に戦争遂行に協力したとも考えられるのだ。
この問題が、本書の最終章「暗殺があり、謀略があった」につながる。孫崎氏はこう述べる。「実力行使におびえなければならない状況、実は今日本は、着実にその時代に入っています。」そして、教訓として最後に一点を挙げる。
17)正論を発言できる機会を確保する社会の
維持・推進が、愚策・暴走の防止になる !
「発言すべきことを発言できる」、それを確保する社会を維持してゆくこと。
『小説外務省』で孫崎氏は、主人公の西京通じて木阿弥一族の生き方を述べる。
「何より大事なのはまず自己の自己に対する誠実であって、外に対する器用さよりは己の心にたがうことを行うのを恐れる」この自己に対する誠実と、言論の自由を確保する空間を残すこと。これが日本を救う救世主の力となるのだろう。
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