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シベリア抑留の犠牲者を追悼する式典を
千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、今年も実施 !
日本政府は、ソ連を仲介に和平工作を進めることを決定 !
第二次大戦・日中・日米戦争勃発の
真相は、世界大恐慌後、英米の謀略だった !
シベリア抑留の概要と背景は ?
T シベリア抑留の犠牲者を追悼する式典
(www3.nhk.or.jp 2016年8月23日 16時30分より抜粋・転載)
終戦直後、シベリアなどに抑留され、厳しい寒さの中で過酷な労働を強いられて亡くなった人たちを追悼する式典が、東京で開かれました。
8月23日は、71年前に旧ソビエトが、中国にいた元日本兵や民間人をシベリアなどに移送する指令を出した、いわゆるシベリア抑留が始まったとされる日です。
東京・千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、抑留されていた人や遺族で作る団体が追悼式を開き、およそ160人が参列しました。
はじめに全員で黙とうをささげたあと、17歳で抑留された、神奈川県横須賀市の猪熊得郎さん
(87)が「仲間たちが日本に帰れないまま、口々に『お母さん』と言って亡くなっていったのが忘れられない。戦争は二度と繰り返してはいけない」と訴えました。
厚生労働省によりますと、シベリアやモンゴルに抑留された日本人のうち、およそ5万5000人が厳しい寒さや飢えなどで亡くなったとされていますが、6割に当たるおよそ3万3000人については、今も遺骨が現地に残されたままだということです。
厚生労働省は今年度から9年間を集中期間と位置づけ、遺骨の収集を加速化させています。
初めて参列した広島市に住む77歳の女性は「幼いころに父親が抑留され、亡くなったという通知が届いただけで、遺骨も戻ってきていません。どのようにして亡くなったのか真実が知りたい」と話していました。
U 千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式の挙行
(www.mhlw.go.jpより抜粋・転載)
遺骨収容などにより海外などから持ち帰られた戦没者の御遺骨のうち、遺族に引き渡すことのできない御遺骨を東京都千代田区内にある「千鳥ケ淵戦没者墓苑」に納骨し、併せてこの墓苑に納められている御遺骨に対して拝礼を行う「千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式」を、厚生労働省主催により毎年5月下旬に、皇族の御臨席のもとに挙行しています。なお、これまでの納骨数は約36万柱となっています。
(参考資料)
T 1945(昭和20)年5月、日本政府は、
ソ連を仲介に和平工作を進めることを決定 !
(kotobank.jp:太平洋戦争より抜粋・転載)
沖縄に米軍が上陸した直後、小磯内閣は辞職し、鈴木貫太郎内閣が成立したが、1945(昭和20)年5月ドイツが降伏すると、最高戦争指導会議は、ソ連を利用する和平工作を進めることを決定、和平の仲介をソ連に申し入れることとした。
一方、連合国はすでに1943年11月、カイロ宣言を発し、対日戦の目的を明らかにするとともに、日本の無条件降伏まで戦争を続ける態度を明らかにしていた。
さらに日本本土上陸作戦が具体化するにつれて、アメリカはソ連の対日参戦を熱望し、1945年2月の米英ソ首脳によるヤルタ会談では、ソ連の満州の権益や北方領土確保と引き換えに、対独戦終了後における対日参戦の約束がなされた。
しかし、対独戦が終わったころから、米ソ対立が表面化し、米政府内部では、天皇制の保持を約束することによって日本の早期降伏を促進しようとする機運が高まり、7月初めには、その趣旨を盛り込んだポツダム宣言の原案が作成された。
しかし、7月16日に原爆実験が成功すると、ポツダム会談に臨んだ、トルーマン大統領は、天皇制条項を日本が受諾しにくい形に書き改め、7月26日に公表して日本に無条件降伏を呼びかける一方、25日には原爆投下命令を出した。
U 第二次大戦・日中・日米戦争勃発の
真相は、世界大恐慌後、英米の謀略だった !
副島隆彦・船井幸雄の主張:
国民党と中国共産党を和解させて、抗日統一戦線をつくらせ、日本を敗北させようとしたことは、世界大恐慌後、景気回復のため、世界大戦誘導を狙う、英国と米国の裏の戦略でもあった。
特に、米国は、英国を追い抜いて、世界覇権国になるという、英国に内密の戦略のため、大戦後・対ソ連との戦いのため、1930年代から、日本占領・支配・収奪を狙って、長期的に準備していた。
つまり、日本政府・陸海軍首脳は、英国・米国・ソ連・中国共産党の仕掛けたワナに嵌められて、無謀な大戦に突入したのだ。マッカーサー元帥は、この首脳を、12歳並と言った。
自民党体制(官僚機構・財界・マスコミ・御用学者・御用評論家も含む)は、アメリカが裏から思い通りに支配するために、強力なアメリカ主導で作ったものである
(『昭和史からの警告』。
V シベリア抑留の概要と背景
(ウイキペディアより抜粋転載)
1)シベリア抑留
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアなどに労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する、日本側の呼称。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[1]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[2]。
2)シベリア抑留の経緯[編集]ソ連軍侵攻と停戦[編集]
ソビエト連邦参戦_日ソ不可侵条約破棄(舞鶴引揚記念館)
第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。
8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。
これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、
満州においては旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が
記されていた[10]。
日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。
8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。
満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[11]。
3)シベリア抑留の決定[編集]
スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[12]。
4)関東軍密約説[編集]
8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという[13]。
また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依ョスルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している[14]。
なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。
またこの交渉に同行した瀬島龍三は、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦には密約を結ぶ権限はなかったと反論している[15]。
5)北海道代償説[編集]
8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。
しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[16]。
6)移送[編集]
◆シベリア抑留移送先(舞鶴引揚記念館)
占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。
日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。
彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。
また、この時抑留された捕虜の証言によると、ソ連兵はダモイ(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せたという。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。
一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[17]。
モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[18]。
◆移送先[編集]
コムソモリスク・ナ・アムーレ、ハバロフスク、シベリア、ブラーツクダム、ナヴォイ劇場
タシケント、ナホトカ、エラブガ、シベリア以外にも、モンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連の勢力圏全域や中華人民共和国にも送り込まれた。
7)収容所での生活[編集]
シベリア抑留生活(舞鶴引揚記念館)
シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[19](犠牲者数に関しては後述)。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。新聞として「日本しんぶん」が発行された。 「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった(シベリア天皇、浅原正基[20]、袴田陸奥男[21] [22]。また日本共産党委員長志位和夫の伯父志位正二などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行ったものもいる[23]
共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った[24]。抑留中に起きた事件として「暁に祈る」事件がある。
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