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3・27 民進党結成 ! 江田憲司氏、代表代行に就任 !
「民進党」は、江田憲司が発案 !
「安倍政権の暴走」をストップし、政権交代をめざす !
(blogos.com:2016年3月28日より抜粋・転載)
2016年3月27日、民主党と維新の党は、自民党に対抗しうる政権交代可能な一大勢力=「民進党」を結成しました。
今の「安倍自民党一強の政治」ではなく、互いに競争して切磋琢磨できる政党をつくり、緊張感をもった政治にしないと、決して国民を向いた政治は実現できません。
この新党結成で、色々試行錯誤はありましたが、私、江田憲司が一貫して訴えてきた「野党再編「自民党のライバル政党づくり」という公約が実現したことになります。
☆常に「民」の立場で改革を進める !
「民進党」という党名は、 江田憲司が発案しました !
「民進党」という党名は私、江田憲司が発案しました。その党名に込めた思いは、「民」と共に「進」む、歩むです。
また、「進」には進化、進歩の意味もあり、常に「民」(「官」ではなく)の側に立ち、イノベーション、改革を進めるということです。
維新の党と民主党が合流することで、我が維新の政策を曲げたというような批判をされる方がいますが、まったく当たりません。むしろ、よく民主党が、我々の政策を呑んでくれたと思うほどです。
例えば、安全保障では、昨年、民主党がどうしても出せなかった対案を共同で国会に提出しました。北朝鮮の核・ミサイルや中国の海洋進出等の脅威に備えた領域警備法の制定、PKO法と周辺事態法の改正案です。
☆国家公務員の人件費2割カット、企業団体献金の禁止」
法案も提出する予定、消費増税(10%)の凍結」 !
「身を切る改革」についても、国家公務員の人件費2割カットは、既に法案を共同で提出しましたし、甘利問題に端を発する「企業団体献金の禁止」法案も提出する予定です。「消費増税(10%)の凍結」も維新主導で決めました。
「30年代の原発ゼロ」や「規制改革等の成長戦略」「雇用の流動性促進」「自由貿易の推進」「地域主権改革」等の政策も盛り込み、私、江田憲司の良心に照らしても、率直に受け入れられる内容となっています。
☆「解党新党」に匹敵する名称、綱領、政策
今回の決断は、違憲の安保法制や言論統制等にみられる「安倍政権の暴走」にストップをかける、そのためには政権を獲るしかないという大局的な判断で行ったものです。「解党新党」が理想でしたが、それに匹敵する「党名」「綱領」「基本政策」となったと思います。
ただ、正念場はこれからです。4月下旬には北海道と京都で衆院補選があります。夏には参院選、そしてかなりの確率で衆院選も想定されます。大事なことは、この民進党が「国民のために何をやるか」「何をやってくれるのか」をはっきりさせていくことです。
そう、安倍自公政権との政策的な対立軸をしっかりと打ち出していくことです。
☆「違憲の安保法制の廃案=立憲主義を守る」
ことや「原発ゼロ」も大事 !
私は、「違憲の安保法制の廃案=立憲主義を守る」ことや「原発ゼロ」も大事ですが、やはり、「政治は社会的弱者のためにある」という新党の政治理念をはっきりと訴えていくことだと思っています。
今の安倍政治は「強い者をさらに強くすれば、そのおこぼれが弱い者にいく」という「トリクルダウンの政治」です。
それに対し、民進党は、社会的に弱い立場に置かれている人たちに光を当てる、予算の重点配分をしていく。低所得者や低年金のお年寄り、ひとり親(母子)家庭や貧困のこども、非自発的な非正規や派遣社員、難病や障害をお持ちの方、、、、。
☆政権交代を成し遂げ、「政治は社会的弱者のためにある」、
誰もに「居場所」と「出番」がある「共生社会」を実現していきたい !
政権をとる、権力を握るということは、こうした政策転換をしていく、より直截に言えば、予算の配分を変えていくということです。
予算編成は政治そのもの、権力そのものです。自公政権からの政権交代を成し遂げ、「政治は社会的弱者のためにある」、誰もに「居場所」と「出番」がある「共生社会」を実現していきたいと思います。
(参考資料)
江田憲司議員のプロフィール
(www.eda-k.net/profileより抜粋・転載)
◆昭和 31 年 4 月 岡山県に生まれる。(4月28日)
昭和 50 年 4 月 東京大学入学(文科一類)。
日本の大学生にありがちな、入ってしまえばこっちのもの。田舎から花の東京に出てきた高揚感も手伝って、合コン、合ハイ(合同ハイキングの略。今は死語)、麻雀などに明け暮れる。「我が青春に悔いあり」。もっと、英語の勉強とか、一つでもいいから本気で打ち込んだものがあったら。後悔先に立たず。
昭和 54 年 3 月 東京大学法学部私法学科卒業。
4 月 通商産業省(現経済産業省)入省。
◆通産大臣秘書官時代
( 1994 年〜 1996 年)
世界の耳目を集めた日米自動車交渉で橋本龍太郎大臣を補佐。米国の理不尽な数値目標要求(目標年次を切った、米国車を扱う日本ディーラー数の増加や米国製部品の日本車への使用比率の向上等)を拒絶。また、橋本龍太郎氏の自民党総裁選への立候補( 1995 年 9 月)では、その政策綱領「元気を出せ!日本」をとりまとめる。
◆総理大臣首席秘書官時代
( 1996 年〜 1998 年)
通産官僚から、通常役人は登用されない首席秘書官に。当時の内閣の最重要課題である「橋本六大改革」(財政、行政、金融、経済、社会保障、教育の諸改革)や、米軍兵士の少女暴行事件に端を発する「沖縄問題」に携わる。
特に、総理のリーダーシップ(官邸機能)の強化、中央省庁の再編(霞ヶ関改革)に中心的役割。首相官邸に「経済財政諮問会議」を創設する等、政治・民間人材を多数登用し、日本の司令塔を官僚主導から政治主導へと改革。各省庁も縦割り行政の弊害を是正し、より総合的整合的な行政にするために、約半分( 22 省庁から 12 省)に再編統合。
国家公務員も 10 年間で 25% 減( 2001 年 1 月からスタート)とした。
その他、家庭内の介護の負担を地域社会で分かち合う介護保険の創設( 1999 年 4 月 1 日からスタート)、ペルー人質事件における危機管理等国政全般にわたる業務を経験。
◆「天下の素浪人」?時代( 1998 年〜 2002 年)
98年7月の橋本政権退陣と同時に、総理に辞表を出して役人生活にピリオド。公務員には失業保険がないので途端に無職無収入となったが、かねてから計画していた「南の島」に渡る。当初は「タヒチ」が希望だったが、長期ビザの関係と物価高で断念。結局、米国立イーストウェストセンターで客員研究員としてハワイに。そうは言っても日本人のいない所をねらって、マウイ島、オアフ島を転々と6箇所、放浪の旅。
サラリーマンあこがれの、目覚まし時計のない「何もしない贅沢」を満喫。起きたいときに起き、ビーチに寝そべり本を読み、暑くなったら泳ぐ。
まさに「晴泳雨読」の生活。食事も、何もかもが完備したコンドミニアムのキッチンで自炊。接待も被接待もない健康的な生活で体重も大学時代の68sまで落ちる。ただ一つ自分に課した宿題が橋本政権の光と影を書き綴った本を執筆すること。それが「誰のせいで改革を失うのか」(新潮社99年12月刊)
99年9月に帰国して、なる気のまったくなかった政治家に挑戦することに。自民党の菅義偉さんから強く説得され、当時の神奈川8区(横浜市青葉区・川崎市宮前区)から2000年6月の総選挙に出馬。自らの不徳の致す所に加え、当時の森喜朗総理の「神の国発言」やら「無党派寝ておれ発言」やらで惨敗。自民党の組織選挙の限界を嫌というほど味わう。この時の経験が今の江田けんじの政治スタイル(脱業界依存、脱労組依存。しがらみのない100%ボランティア選挙)の原点。
2002年秋の衆院補欠選挙を機に自民党を離党。 2001年4月から地元の桐蔭横浜大学法学部客員教授に。昔取った杵柄で「行政学」を若い学生、社会人を相手に講義。その立場で7月からテレビに進出。最初の出演はテレビ朝日「スーパーモーニング」のコメンテーターだった。折りしも小泉政権発足で政治への国民の関心も高く、その後、「TVタックル」「朝まで生テレビ」「サンデージャポン」「情報ツゥ」等の情報番組のレギュラーに。特にワイドショーでは、国民、特に主婦の皆さんの関心が奈辺にあるかを徹底的に学ぶ。
官僚出身の江田けんじに、少しでも庶民感覚があるとすれば、このワイドショーのレギュラーを8年近く務めたことが大きい。
◆国会議員初当選(純粋無所属)の時代
( 2002 年〜 2003 年)
現職の衆院議員の横浜市長への転出に伴い、思いがけず、2002年10月に衆院補欠選挙。
大学やマスコミでの活動が軌道にのっていただけに最後まで悩むが、支援者の顔が一人一人浮かび、出馬を決意。
落選して厳しい時こそ人情がわかる。変わらず応援してくれた支援者の思いを無駄にしたくない一心で、ただ、こんど選挙をやるなら、しがらみだらけの組織選挙ではなく、本当に江田を支援してくれる人たちだけの100%ボランティア選挙で、それでだめならあきらめもつくと、自民、民主の候補を相手に戦う。
当時の政治不信、政党不信の波にものって、ダブルスコアー、トリプルスコアーで圧勝。晴れて国会議員に。
たった一年の議員生活だったが、政治とカネの問題に真正面から取り組む「自立した議員の会」や「マニフェスト推進議連」等を立ち上げ。公職選挙法の改正で、マニフェストを選挙戦中に配布できるようにする。また、イラク戦争では三度にわたり小泉首相に、その正当性を問う質問主意書を提出。「間違った戦争」であることを内外で主張するとともに、サマワへの自衛隊派遣にも反対。小泉改革も、次第に財務省主導の「予算ぶったぎり」改革というニセモノの改革であることを随所で指摘。
◆国会議員二回目当選(純粋無所属)の時代
( 2005 年〜 2009 年)
2003年11月の総選挙で二度目の落選を経験。
江田の不徳、油断もあったが、直前の「民由合併」で日本にあたかも「ニ大政党制」の時代が到来したかのような騒ぎの中で「純粋無所属」は完全に埋没。それでも勝てる自信はあったが、約2000票差で民主党候補に惜敗。
ただ、幸運にも、その二年後、2005年の「郵政選挙」で二度目の当選。元々、小泉首相より早く政権の中で「郵政民営化」(97年夏の行革会議中間報告)に取り組んだ「元祖・郵政民営化」を訴える。
その後は、無所属議員は国会質問等で虐げられる中、60本以上の質問主意書を提出。年金記録の責任問題や高齢者医療制度の欠陥、天下り(押し付け型天下りをはじめて政府に認めさせる→天下り規制の法律制定へ)や道路や特別会計のムダ(埋蔵金187兆円、タクシー代125億円)、食の安全等を徹底追及。インド洋上での自衛隊給油のイラク戦争流用疑惑をはじめて指摘し、米国を巻き込んだ全国的な大論議に。これらの成果はメディアで続々報道された。
また、2008年6月には、「官僚の手の内を知り尽くしている人間だからこそ、国民のため、できることがある!」として「官僚国家日本を変える元官僚の会」(「脱藩官僚の会」)を設立。代表幹事に就任。さらに、2009年1月には、自民党を離党した渡辺喜美氏とともに、官僚政治を変える国民運動「日本の夜明け」を全国で展開。その後の、「みんなの党」結成につなげる。
◆国会議員三回目当選
(「みんなの党」幹事長)の時代 ( 2009 年〜)
2009年8月の選挙で、三回目の当選。怒濤のような民主党への流れの中で、皆さまから頂いた得票数はなんと12万8753票! 投票率が前回(郵政選挙)と変わらない中で、4万票伸ばし、当の民主党候補には5万4千票の差をつける。自民、民主の候補を相手に勝って、しかも得票率は50%。あらためて、この選挙区で政治家をさせていただいている幸せを感じる。それだけに責任も大変重い。
これからの活動に、、、 乞う、ご期待 !
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