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安倍首相が手を突っ込む「創価学会の解体」工作 !
『自民党擦り寄り派』と『自公連立・絶対反対派』の対立 !
公明党が、1998年後、自民党権力に迎合・屈服した理由は ?
国家権力と有力宗教団体の連合からの迫害・弾圧に関する歴史的考察 !
T 安倍首相が手を突っ込む「創価学会の解体」工作 !
★創価学会内部は正木派と谷川派に分かれ、既に四分五裂 !…の巻
(anyandromeda.jugem.jp:2014.06.11 より抜粋・転載)
2014.06.11 Wednesday ニュース 00:13 comments(3) trackbacks(0) - - by amiandromeda
集団的自衛権の行使容認問題で、あろうことか公明党の支持母体である創価学会が“火だるま”となっている。
ご存じの通り、安倍首相が成立に政治生命を懸ける集団的自衛権の行使容認問題では、公明党と創価学会が猛反発。
今国会での与党合意が絶望視され始めたが、その喧噪の裏側で、学会内部が四分五裂の分裂状態に陥り始めたというのである。 創価学会に詳しいジャーナリストが言う。
◆『自民党擦り寄り派』と『自公連立・絶対反対派』の対立 !
「分裂の中心となっているのは、次期会長との呼び声も高い正木正明理事長と谷川佳樹副会長の両名です。もともと、学会は同盟国が攻撃された場合に共同防衛にあたる行使容認問題にはハナから反対しており、憲法改正なくして集団的自衛権なしの姿勢を貫いていた。
ところが、組織内で従来の意向を堅持する『絶対反対派』とは別に、連立を切られることに恐怖を抱き、条件付きで賛成に回ろうとする『自民党擦り寄り派』が増殖した。
対立が熾烈化していたのです。
その両派の頭目が、次期会長レースで睨み合いを続ける2人で、ここにきて与党協議が暗礁に乗り上げ始めたことから、『反対派』の正木氏と『自民党擦り寄り派』の谷川氏の確執が極めて大きくなっているのです」
◆正木派は連立解消志向、谷川派は『自民党擦り寄り派』
◆路線争いに火に油を注いでいるのが、他ならぬ安倍首相だ !
U 公明党・創価学会攻撃のため、自民党がつくった主な組織 !
★「創価学会等の社会的不正を糾す議員連盟」:中心者:三塚博元大蔵大臣
★「民主政治研究会」:代表:島村宜伸(しまむら・よしのぶ)元文部・農林大臣
★「憲法二十条を考える会」:代表:亀井静香・元運輸・建設大臣
★「四月会」(死学会):代表幹事:俵孝太郎(評論家)
顧問:勝部真長(お茶の水女子大学名誉教授)、秦野章(元法務大臣)、藤原弘達(評論家)
V 自民党の「反公明党・創価学会キャンペーン」
一次・二次宗門事件(日蓮正宗と創価学会の紛争、実は、
自民党による分断工作)の黒幕は、自民党・CIAだった !
池田第三代会長は、辞任させられる:昭和54(1979)年4月。
宗門の権威(黒幕は山崎正友弁護士、自民党)に屈服した首脳の真相を、
池田氏は、20年後に漸く、公表できた。
1998年前は、公明党の基本路線は、自民党政権打倒、政権交代のため、民主党・
社会党等と協力、細川連立政権樹立、または、小沢一郎達と新進党結成等、改革運動を推進していた。
自民党は、数十年、公明党・創価学会を敵視して、週刊誌等で攻撃、分断工作を推進していた。
* 一次・二次宗門事件、奥の巨大黒幕が自民党・CIAだった事は、
公明党・創価学会首脳陣は、創価学会員には、徹底的に隠している。
池田名誉会長は、最近は約7年間、会合等全部欠席続きである。
W 1998年後、自民党権力に迎合・屈服した公明党 !
魚住昭氏の主張:
(魚住昭『差別と権力』講談社2004年、295〜296頁より抜粋・転載)
後に、野中広務元幹事長が、自公政権作りを成し遂げた後、有力支持者の1人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。すると野中はこう答えたという。
「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」と著書にしるしている。
(参考資料)
小説「新・人間革命」常楽の章
国家権力と有力宗教団体の連合から
の迫害・弾圧に関する歴史的考察 !
(www.seikyoonline.jp:2016年1月より抜粋・転載)
常楽13: 十月十日、ガルブレイス博士との対談を終えた山本伸一(池田大作氏)は、大阪へ向かった。
関西での諸行事に出席し、さらに、静岡へ行き、総本山で営まれる熱原法難七百年記念法要に参列することになっていたのである。
大阪への空路、伸一は、熱原法難(あつわらのほうなん)について思索をめぐらした。
熱原法難は、弘安二年(一二七九年)に、富士郡下方庄の熱原郷(静岡県富士市の一部)で起こった日蓮門下への弾圧事件である。
その数年前から熱原郷では、日興上人によって天台宗滝泉寺の僧、さらには農民たちにも、弘教の波が広がっていった。滝泉寺は、多くの住僧がいる大寺院であり、その寺で、日秀、日弁らが、次々と正法に帰依していったのである。
彼らは、日蓮大聖人の教えに歓喜し、勇んで寺内の僧たちへの折伏を進めていった。
滝泉寺は、乱れ切っていた。
同寺では平左近入道行智が院主代として権勢を振るっていた。
彼は、北条一族であることを笠に着て、寺の財産を私物化したり、金を取って盗人を供僧に取り立てたりもした。また、寺の池に毒を流して殺した鯉や鮒を売るなど、およそ仏門に身を置く者としてあるまじき悪行を重ねてきた。
また、滝泉寺は、天台宗でありながら、天台が伝えた法華経の教えを捨てて阿弥陀経を唱えていた。信仰の根本から狂いが生じていたのである。
そうしたなかで、日興上人の教えを受けた日秀、日弁らは、日蓮大聖人の御心を体して、声高らかに唱題に励んだ。そして、念仏等の教えの誤りを鋭く指摘し、法華経の正法正義を訴え抜いていった。
行智は、勢いを増す法華折伏の広がりを見て、院主代の地位が脅かされることを恐れた。遂に、大聖人門下となった僧たちに対して、脅迫という手段に出た。
教えの正邪を見極めようともせず、保身のための弾圧が始まったのだ。権威、権力の美酒に酔いしれた者は、改革を畏怖する。
常楽14:
滝泉寺院主代の行智は、正法に帰依した僧たちに、敵意を露わにして迫った。
――法華経は信用できぬ法である。すぐに法華経を読誦することをやめて、ひたすら阿弥陀経を読み、念仏を称えるという起請文(誓詞)を書けば、居る所は保障してやろう!
この脅しに屈し、退転していく者もいた。難は信心の真偽を試す。
行智の言に従わなかった日秀、日弁は、滝泉寺にいることができなくなった。
しかし、寺内に身をひそめながら、熱原郷をはじめ、他の郷にも弘教にでかけていった。
彼らの信望は厚く、広宣流布の火は燃え広がり、弘安元年(一二七八年)に、熱原の農民である神四郎、弥五郎、弥六郎の兄弟が信心を始めた。この三兄弟が、熱原の農民信徒の中心になっていったのである。
唱題の声は、あの家、この家から、熱原の田畑に響き、弘安二年(七九年)のうららかな春が訪れた。法華衆の広がりを苦々しく思っていた行智は、いよいよ農民信徒にも迫害を開始した。
四月、浅間神社の祭礼が熱原郷内にある分社で行われた。流鏑馬の行事で賑わうなか、雑踏に紛れて、法華信徒の四郎が何者かに襲われ、傷を負ったのである。
そして八月、今度は門下の弥四郎が殺害されたのだ。“法華経の信仰を続けると、こうなるぞ”という脅しであった。これらは、行智が富士郡下方の政所代と結託しての犯行であり、しかも、その罪を日秀らに被せようとしたのだ。弾圧の凶暴な牙は、農民信徒にとって、大きな恐怖となったにちがいない。
日蓮大聖人は、「異体同心事」のなかで、熱原の人びとのことに触れて、こう仰せになっている。
「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし」(御書一四六三ページ)
団結は、皆を勇者に育む。団結があるところには、勝利がある。
■語句の解説
◎流鏑馬/馬に乗った射手が馬場を駆けながら、三つの的を順に鏑矢で射るもの。鎌倉時代には武芸として盛んに行われた。
常楽15:
熱原の農民信徒は、互いに励まし合い、決して信心が揺らぐことはなかった。
行智の一派は、さらに悪質な弾圧の奸計をめぐらした。
弘安二年(一二七九年)九月二十一日、稲刈りのために農民信徒が集まっていた。
そこに、下方政所の役人らが、弓馬をもって大挙して押し寄せ、農具しか持たぬ信徒たちに襲いかかったのである。
農民たちは、抵抗のすべもなかった。神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟をはじめ、二十人が捕らえられ、下方政所へ引き立てられていった。
彼らに着せられたのは「刈田狼藉」の咎である。稲を盗み取って、乱暴を働いたというのだ。
その訴人となったのは三兄弟の兄で、弟たちの信心を快く思わぬ弥藤次であった。
親や兄弟など、血を分けた人が憎悪し、迫害の急先鋒になることは、人間の感情として辛く、耐え難い。
だから、第六天の魔王は、しばしば近親の身に入って、迫害、弾圧を加える。
池上兄弟として知られる宗仲・宗長も、父の康光に信心を反対された。特に兄の宗仲は、二度にわたって勘当されている。
弥藤次の訴状には、日秀が武装した暴徒を率いて馬に乗り、滝泉寺の院主の坊に乱入し、滝泉寺の田から稲を刈り取って、日秀の住坊に運び込んだとなっていた。
事実は、全くすり替えられていたのだ。
捕らえられた農民は、鎌倉に送られた。
尋問は、大聖人を迫害した侍所の所司(次官)・平左衛門尉頼綱によって、彼の私邸で行われた。彼は行智と通じていたのだ。訴状を差し置いて、こう迫ったのである。
「法華の信仰をやめて、念仏を称えよ。そうすれば、罪は許して帰され、安堵することができよう。
しかし、もし信仰を改めなければ、きっと重罪に処せられよう」
農民たちは皆、信心を始めて一年ほどにすぎない。だが、誰一人として動じなかった。
信心の強さは、歳月の長さによるのではなく、決定した心によってもたらされるのだ。
■語句の解説
小説『新・人間革命』語句の解説 ◎第六天の魔王/欲望の世界である「欲界」に属する六つの天(六欲天)の最上の天(第六天)に住むとされる魔王。「他化自在天」とも呼ばれ、正法に敵対し、成仏を妨げる「魔」のなかでも最大の働きをなす。
◎平左衛門尉頼綱/生年不明〜一二九三年。北条家の有力家臣として、警察権力等を握り、権勢を振るい、日蓮大聖人と門下を迫害した。後年、反逆罪で断罪され、一族は滅亡する。
常楽16:
「法華経を捨てよ」と迫る平左衛門尉頼綱に対して、熱原の農民信徒は、声も高らかに唱題を響かせた。それは、不惜身命の決意の表明であった。
激昂した頼綱は、次男である十三歳の飯沼判官資宗に、蟇目の矢で農民たちを射させた。
この矢は、桐材を鏃とした鏑矢で、当たれば体内の悪魔が退散するとされていた。音を発して飛び、犬追物などにも使われた。
その矢が迫ってくる恐怖、打ち当てられた痛みは、いかばかりであったか。
農民信徒は、過酷な拷問に耐え抜いた。
遂に頼綱は、十月十五日、信徒の中心的な存在であった神四郎、弥五郎、弥六郎を斬首した。
しかし、それでも農民たちは、一人として信仰を捨てようとはしなかった。毅然として唱題し続けたのだ。彼らの不屈の信仰に、頼綱は狼狽したにちがいない。
結局、処刑は、三人までで、あきらめざるをえなかった。残った十七人は、追放処分となっている。
一方、日秀は熱原郷から、一時、下総(千葉県北部など)に移るが、その後も、日興上人と共に弘教に奔走するのである。
日蓮大聖人の門下は、日昭などの僧、富木常忍や四条金吾などの武士、そして、武士の妻をはじめ家族へと広がってきた。
しかし、一閻浮提広宣流布を進め、万人成仏の教えを現実のものとしていくには、農民などの民衆が、法華経の教え通りに諸難を乗り越える、不退の信心を確立しなければならない。彼らの多くは、読み書きもできなかったであろう。
その民衆が純真な信心で、横暴な権力の迫害にも屈せず、死身弘法の実践を貫き通したのである。つまり、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を受持し、大聖人と共に広宣流布に戦う偉大な民衆が出現したのだ。
大聖人は「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書一三六〇ページ)と仰せである。
民衆を単に救済の対象とするのではなく、民衆が人びとを救済する主体者となる。ここにこそ、真実の民衆仏法がある。
―この続きは次回投稿します―
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