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本気度問われる政府の米国国債売却
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」2022年9月26日
9月22日、日本政府がドル売り・円買い介入を実施した。
岸田首相は「過度な変動に対しては断固として必要な対応を取りたい」と述べた。
「断固として必要な対応」と威勢は良いが介入効果は限定的。
1ドル145円台にまで進行したドル円レートは介入実施後に一時1ドル140円台にまで円高に振れたが、その後はドルが値を戻し、現在は1ドル142円台で推移している。
円安が加速した背景は内外金利差および内外金融政策スタンスの相違。
米国をはじめとして主要国が金融引締め政策を推進するなかで日本銀行は金融緩和政策に固執している。
9月21日、米国FRBはFFレートを0.75%ポイント引き上げる措置を決定した。
直近3回の政策決定会合(=FOMC)で0.75%幅の利上げを3回連続で決定した。
米国でインフレ率上昇が加速し、インフレ抑制の政策方針を明示している。
欧州でもECB(欧州中央銀行)は9月8日の定例理事会で0.75%幅の利上げを決定した。ウクライナ戦乱を背景に資源価格が急騰。
これらの事象を背景に世界的にインフレ圧力が高まっている。
これに対応して主要国が足並みをそろえて金融引締め政策を実行している。これに背を向けているのが日本銀行。
日本銀行は9月22日の政策決定会合で大規模金融緩和政策の維持を決定した。
お金は金利の低いところから金利の高いところに向けて流れる。
海外金利が上昇し、国内金利が超低金利に据え置かれれば、お金は日本円からほか通貨へ向かって流れる。
このために円安=ドル高・他通貨高が生じる。
円安を止めるには日本の金融政策修正が必要不可欠。
9月22日の日銀金融政策決定会合で日銀が金融政策修正を発表し、併せてドル売り=円買い介入を実施したなら効果は絶大なものになった。
一気に円高に回帰したと考えられる。
しかし、日銀の決定は逆向きだった。
大規模金融緩和政策維持を決定し、同時に日本政府がドル売り=円買い介入を実施した。
暖房を全開にしながら冷気を注ぎ込んだようなもの。
冷気を注ぎ込んだ瞬間は一部の温度が低下するが、冷気の注入をやめれば部屋の温度はまた上がる。
意味不明・支離滅裂介入のそしりを免れない。
日銀は物価安定の責務を負っている。
物価安定とは言い方を変えれば「通貨価値の維持」。
いま日本円の通貨価値が著しく毀損している。
グローバルスタンダードで円の価値が暴落している。
かつて70円で1ドルを購入できた。
いまや140円出さなければ1ドルを購入できない。
日本円の価値が半分に暴落している。
日本円を保有する日本国民の財産価値は国際標準で半分に目減りしている。
円の通貨価値が半分に暴落しているということ。
日本国民は巨大な損失を蒙っている。それだけではない。
日本でもインフレが確実に進行している。
9月20日に発表された8月全国消費者物価上昇率は前年同月比3.0%上昇を示した。
30年ぶりのインフレ率だ。物価上昇の最大原因は円安。
*バイデン大統領のプロフールとは ?
来歴[編集]
1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンに誕生し、デラウェア州ニューキャッスル郡で育った。アイルランド系カトリックの中産階級の家庭の生まれである[4]。子供の頃は吃音に悩み鏡の前でアイルランドの詩を朗読するという独自の発声練習で克服したという。高校・大学ではアメフトに夢中になった[4]。
デラウェア大学で学んだ後、シラキュース大学で法務博士号を取得[6]。ロースクールを経て1969年に弁護士となり、1970年にデラウェア州のニューキャッスル郡議会(英語版)議員に選出された[4]。1973年1月に29歳でデラウェア州の上院議員に当選し、アメリカ史上5番目に若い上院議員となった[7]。同年12月にクリスマスの買い物に出かけた妻と娘を交通事故で失った[7]。1977年6月に現在の妻であるジルと再婚している[4]。
1973年1月から2009年1月まで連続6期も連邦上院議員を務め、外交・刑事司法・薬物問題に取り組み、上院司法委員会(英語版)の委員長や上院外交委員会の委員長などを歴任した[4][7]。政策実現を重んじる調整型の政治家として党派を超えた信頼を確立した[4]。
1991年1月の湾岸戦争に上院議員として反対し、東ヨーロッパへのNATOの拡大と1990年代のユーゴスラビア紛争への介入を支持した。2002年のイラク戦争承認決議を支持したが、2007年のアメリカ軍増派には反対した。また、1987年1月から1995年1月まで上院司法委員会の委員長を務め、麻薬政策・犯罪防止・市民の自由に関連する問題を扱っていた。バイデンは暴力犯罪取締法と女性に対する暴力法の成立に向けた取り組みを主導し、ロバート・ボークとクラレンス・トーマスの最高裁判所長官への指名を監督した。
2008年アメリカ合衆国大統領選挙でバラク・オバマと並んで副大統領に当選した後に上院議員を辞任した。4番目に在職期間の長い上院議員だった[8]。オバマとバイデンは2012年アメリカ合衆国大統領選挙においても再選され、2期8年に渡って務めた。副大統領としてバイデンはリーマンショックの不況に対抗するために2009年にインフラ支出を監督した。バイデンの議会の共和党との交渉は、オバマ政権が税制の行き詰まりを解決した2010年税制救済法、債務上限危機を解決した2011年予算管理法、差し迫った財政の崖に対処した2012年アメリカ納税者救済法などの法案を通過させるのを助けた。外交政策ではアメリカ合衆国およびロシア連邦との間で新START条約の成立に向けた取り組みを主導し、リビアへの軍事介入を支持し、2011年12月のアメリカ軍の撤兵までイラクに対するアメリカの政策を所管した。2012年12月のサンディフック小学校銃乱射事件の後、バイデンはアメリカにおける銃暴力の原因に対処するために設立された「銃暴力タスクフォース」を率いた[9]。
2015年5月に長男のボー・バイデンを脳腫瘍で亡くし、失意から2016年アメリカ合衆国大統領選挙を見送った[7]。2017年1月にオバマ大統領はバイデンに大統領自由勲章を授与した[10]。
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