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女性蔑視発言の森喜朗氏は、引責辞任に追い込まれた !
森喜朗氏のプロフィールとは ?
植草一秀氏ブログ「知られざる真実」
(第2898号:2021年7月19日)
1)〜10)は前2回投稿済みです。以下はその続きです。
11)小山田氏:初めて謝罪文を発表しただけである !
今回問題が発覚した後に、初めて謝罪文を発表しただけで、現時点まで加害行為に対する謝罪、贖罪を実行してきていない。
小山田氏は公式サイトで、「過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかった」
と明記している。
12)小山田氏を、楽曲提供担当に起用したのは、五輪組織委員会だ !
この小山田氏を「いかなる差別も禁じる」との五輪憲章を掲げるオリンピック、障がい者アスリートの祭典である、パラリンピックの楽曲提供担当に起用したのは、五輪組織委員会である。
問題発覚後に謝罪したから済む問題でない。
犯罪的ないじめ行為を長期間にわたり実行し、その事実を武勇伝として雑誌記事において発表し、いじめ行為に対する謝罪も贖罪も行ってきていないというのが厳然たる事実である。
その小山田氏をオリパラの楽曲提供者に起用することに合理性はない。
小山田氏が辞任するか、組織委が更迭するかの、いずれかの道しかないと考えられる。
組織委が謝罪をもって問題が解決したとする姿勢は、森喜朗氏の女性蔑視発言の際に、謝罪会見をもって問題が解決したとしたIOCの姿勢と同一である。
13)女性蔑視発言の森喜朗氏は、引責辞任に追い込まれた !
しかし、世論が許容しなかった。
結局、森喜朗(東京オリンピック組織委員会の元会長・元総理大臣)氏は引責辞任に追い込まれた。
その森喜朗氏をなぜパーティーに招待し、スピーチまでさせるのか。
戦前の狂気の日本軍部と何も変わらない。
このような醜い五輪は一刻も早く終結させるべきである。
アスリートは薄汚れた五輪の場ではなく、別の場に成果発揮の機会を見出すべきである。
五輪に輝きは存在しない。あるのは薄汚れた醜い欲望だけである。
14)薄汚い東京五輪を打ち切り、五輪終を宣言すべきだ !
五輪に訣別すべきときがきている。
薄汚い東京五輪を打ち切り、五輪終を宣言すべきである。
同時に薄汚れているのが日本のマスメディアである。
権力に媚びる茶坊主ばかりが跋扈する。
とりわけTBS「サンデー・ジャポン」の醜悪さは群を抜いている。
日本政治の刷新が大きな課題だが、政権刷新を実現した際に、直ちに取り組むべきテーマがメディアの浄化である。
15)NHKは、政治権力の御用機関に堕落している !
NHKは、政治権力による放送法悪用により政治権力の御用機関に堕落させられている。
NHKを公共放送として、抜本的に生まれ変わらせることも重要テーマである。
放送法改正が直ちに必要になる。
民間メディアは政治権力と癒着する巨大資本によって支配されている。
企業献金を容認していることが、大資本による政治支配の主因である。
企業献金を全面禁止することが、不可欠である。
現状では市民が独自に偏向番組と偏向司会者のリストを公表し、主権者に警鐘を鳴らすことが必要である。
(参考資料)
○森喜朗氏のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
森 喜朗(もり よしろう、1937年〈昭和12年〉7月14日 生まれ。84歳。)は、
日本の政治活動家。
衆議院議員(14期)、文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、内閣総理大臣(第85・86代)、自由民主党政務調査会長、自由民主党幹事長、自由民主党総務会長、自由民主党総裁(第19代)、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長などを歴任した。
◆経歴:生い立ち
石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜と、妻の薫(1944年11月病死)との間に、長男として生まれる。小中時代はいじめの常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧している。
中学時代の教師は森が悪いことをして交番に連れて行かれると、警官の前で森を怒鳴り、殴りつけた。父親の立場を慮って貰い受けに来た手前、必要だったものらしく、自転車の後ろに森を乗せて帰る途中「頭が痛かったら先生の背中にこすりつけろや」と言ってくれたと言う。
こうしたやりとりから師弟の情愛が生まれ、その教師は後年に森が立候補する頃には教組の幹部になっていたが「お前のお陰で教組を辞めなきゃいかんようになった。今まで自民党にだけは入れないできたが、とうとう自民党に入れることになってしまった。困った奴だ」と森に協力した。その後、恩師は石川県中学校長会の会長になったという[注釈 1]。
◆村山内閣時代
村山改造内閣では建設大臣として入閣した。当初、自由民主党総裁の河野洋平は、自身が外務大臣から外れ、後任の外務大臣として森を推薦する意向を示していたが、村山は、河野外務大臣、橋本龍太郎通商産業大臣、武村正義大蔵大臣の留任を強く望んだ。
このため河野は、森を無任所の総合経済対策担当大臣として入閣させたい意向を示したが、経済企画庁を中心に反対論が起こり、最終的に建設大臣としての入閣で落着した。
後任の幹事長ポストには三塚博が就いた。閣内での仕事としては阪神・淡路大震災の教訓を踏まえた建築物の耐震化を促進するための「建築物の耐震改修の促進に関する法律」案の提出などがあり、同法は特に小中学校に配慮した内容として成立している。
また、経済対策の一環として立ち遅れている大都市の社会資本整備を促進し、耐災害性の向上のため、一般公共事業と別枠で約6000億円の公共用地取得促進対策を実施した[19]。
1995年夏になると1996年度予算の概算要求に向けた動きが活発化してきた。当時、自衛隊の存在を合憲と認めたとは言え、社会党内には拒否反応が依然として存在し、防衛予算の抑制要求として党内から突き上げがあった。
その最中、アメリカはハバード米国務次官補代理を訪日させ、森と会談した。米側が要望したのは当時日米が共同開発していた次期支援戦闘機(FS-X)の量産へ向けた予算や在日米軍駐留経費の十分な確保であり、森は「連立政権には自民党が入っているから大丈夫だ」などと協力的な姿勢を確約している[20]。1995年9月に沖縄米兵少女暴行事件が発生し、在日米軍にとり逆風となったものの、12月の大蔵原案内示も無事通過し、1996年度の防衛予算は前年度比2.58%増とバブル崩壊後最大の伸びを示した(以降2009年8月に自民党が政権を失うまでこれほどの高い比率の伸びは無かった)。
1998年7月には、新たに総理、総裁に就任した小渕恵三のもと、再び幹事長に任命される。
また、同年12月、三塚に派閥の継承許可を求め、「森派」とした。一方で森と方向性を合わなかった亀井静香は平沼赳夫、河村建夫などと共に清和会を出て[16][21]、1999年3月、亀井グループと政策科学研究所(旧渡辺派)が合流し、「志帥会」(村上・亀井派)結成。幹事長としての在籍日数は1358日で二階俊博、田中角栄に次いで歴代3位。
◆首相時代
アメリカ合衆国国防長官ウィリアム・コーエンと会談する内閣総理大臣森喜朗(2000年9月22日、東京都千代田区の総理大臣官邸にて)
アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュと会談する内閣総理大臣森喜朗(2001年、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて)
森喜朗首相、小池百合子議員らとウラジーミル・プーチン・ロシア大統領に会う(2001年3月)
◆就任の経緯
2000年4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した当時の小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は福田赳夫以来22年ぶりであった。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。これらの論評に対して、森自身は「マスコミが密室と言いたがるだけ」と反論した。
詳細は「五人組 (自由民主党 2000年)」を参照
◆就任後
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという[22]。
政策では小渕政権の政治目標を継承することを重視し、小渕が学生時代から取り組んでいた沖縄問題の一つの到達点と目していた沖縄サミットを完遂や、小渕が望んでやまなかった景気回復を目指した。この他対ロシア外交、教育基本法問題なども小渕と森が最後に話をした4月1日に政治課題として意識していた[23] し、対アフリカ外交についても小渕が計画していたものであるとの指摘がある[24]。
首相としての最初の外国訪問地にはロシアを選択し、ソ連との親善に努めてきた父の遺骨の一部があるシベリアの日本人墓地へプーチン大統領とともに訪れた。
中央日報は徹底的に計算された行動であり、 プーチンは東方経済フォーラムで「我々の過去が未来に進むことを妨げてはいけない」と発言させ安倍晋三首相の意中を伝達する窓口を2013年以後は務めていてプーチン大統領とお互い「ヨシ」「ワロージャ」という愛称で呼び合う関係だと報道している[25]。
また、所信表明直後に前から予定されていた医師の診断を受けたところ前立腺にガンが発見された(後述)。そのため数々の「失言」が槍玉に挙がって批判がヒートアップする前から自分の政権は短命であると自覚しており、「何かきちんとのこさないといけないと思った」という[26]。
4年後の論座での証言では癌を理由に「就任時から1年で辞めることを決めていた」と述べた[27]。癌であることが発覚すると首相が二代連続して健康問題に晒されることになるため、森は抗がん剤で症状を抑えつつガン告知を黙ったまま首相を務めることにしたが、論座編集部は『自民党と政権交代』のあとがきで指導者という地位が持つ孤独性として印象的であると述べている。
『自民党と政権交代』では辞意についてプーチンと2001年3月にイルクーツクで行った会談で伝えたのが最初であった[28]。だが、その半年ほど前に『文藝春秋』でのインタビューにて小渕恵三から引き継いだ政治課題を達成したら総理を辞めてもよい旨を語っている[29]。
なお、総裁選を経て首相となった小渕についてはマスコミを絡めて「小渕さんも随分口汚く罵られていましたよね。マスコミ攻撃までも引き継いでしまったようでした」と語っている。また、この不規則登板の中終始バックアップしてくれた人物として政調会長の任にあった亀井静香を挙げ、首相辞任の際に「本当のことを言えず、彼のポストの手伝いも出来なかった」と述べている[30]。
―以下省略―
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