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枝野代表、衆院選へ地方行脚を再開 ! 大分県で村山元首相と面会 !
大分県での政治行動・村山氏の深層・真相は ?
(www.tokyo-np.co.jp:2021年7/11 15:31)
立憲民主党の枝野幸男代表は、7月11日、大分県を訪れ、次期衆院選に向けた、地方行脚を再開した。社民党初代党首を務めた、村山富市元首相を大分市内の自宅に訪ね、政権交代実現を目指す考えを伝えた。
昨年12月に社民党議員が、立憲民主党に部分合流した経緯を踏まえ、両党間にわだかまりがないことを、内外にアピールする狙いがある。
97歳の村山元首相は、高齢のため、新型コロナウイルス感染対策も考慮し、枝野代表を玄関先で出迎えた。枝野代表が「村山氏がお元気なうちに、もう一回リベラルな政権をつくる」と誓うと、村山氏は「頑張って」とエールを送った。
社民党を離党し、立憲民主党入りした、吉川元・衆院議員も同行した。
(参考資料)
○枝野代表が村山元総理大臣と面談、県連総決起集会で「次の総選挙で
皆さんのお力をいただき、政権を変えなければならない」と訴え !
(cdp-japan.jp:立憲民主党:2021年7月12日)
枝野幸男代表は、7月11日、大分県入りし、村山富市元総理大臣と面談、県連総決起集会、連合大分役員・党大分自治体議員との意見交換、街頭演説などに参加しました。
■村山元総理と面談 !
報道陣の撮影に応じる村山元総理、枝野代表、吉川衆院議員(左から)
村山元総理との面談では、枝野代表から「吉川元さん、吉田忠智さんと、一緒に頑張ってやらせていただいています」と報告。村山元総理から「頑張ってな」「頼みます」との激励の言葉がありました。これを受け枝野代表は、「お体気をつけて、元気で見守ってください」「先生に喜んでいただくのを楽しみに頑張ります」とあいさつしました。
■大分県連総決起集会
大分県連総決起集会では、冒頭、横光克彦県連代表が「(衆院選は)立憲民主党の真価が問われる戦い。安倍・菅と続く長期政権により行政のみならず政治の劣化をいまほど感じたことはない」「大分県全選挙区で厳しい戦いを勝ち抜き、まずはこの大分県から政権交代を実現しよう」と出席者に呼びかけました。
続いて、県連総合選対委員長の吉田忠智参院議員は、枝野代表が東日本大震災・東京電力福島第一原発事故の際、官房長官であったことを引き合いに出し「いまの新型コロナに対応すす菅政権、自公政権の状況はどうか。すべて後追い、後手後手ではないか。極めて不十分」と指摘、「東日本大震災において司令塔の役割を務めた枝野代表こそ、日本のリーダーとしてしっかりその職責を果たしてもらわないといけない」と訴えました。また、来賓を代表して連合大分の佐藤会長があいさつしました。
枝野代表は、集会の前に村山元総理と面談したことから、阪神淡路大震災の対応にあたった当時の自社さ政権に触れ、東日本大震災を経て「それでも想定を超えることが起こるから有事。東北地方、特に福島の皆さんには、至らない点があったことは、いまでも忸怩(じくじ)たる思い」だと語りました。
そして2011年9月に菅内閣が退陣し官房長官の職を離れたときに「村山内閣が阪神淡路大震災の教訓を活かしていたことで、この東日本大震災に一定程度対応できた。この東日本大震災の教訓を活かして、より想定を超える、想定とは違う有事が生じたときでも、もっとしっかりとした体制をつくるのが私の使命」だと決意したと明かしました。
いずれ、もう一度非自民政権をつくり、総理としてこれまでの経験を活かし、防災危機管理庁、防災危機管理局という、地震や豪雨にとどまらず、感染症などを含めたあらゆる危機に対応できる強力なチームをつくる予定だったが、政権を変え、そうした体制を作る前に次の有事が来てしまったと語り、「安倍・菅政権が東日本大震災の教訓を活かすどころか、まるでなかったかのように、何もしてこなかったということがいまの状況を作っていると」指摘しました。
さらに、「この10年、緊急事態に対応できる政府を作りたい、そういう思いで準備を重ねてきた。ぜひ私にやらせて下さい。この危機管理を乗り越えることができるのは、あの東日本大震災の経験をした私しかいないと、この1年半で確信を持っている。そのために次の総選挙で皆さんのお力をいただき、政権を変えなければならないと、強い責任を感じている」と訴えました。
集会の終わりに、吉川元衆院議員は、「初当選した2012年からの約9年間、どんどん日本の政治が壊れていく、政治に対する信頼が失われていく」と指摘。さらに政治の師であった重野安正元衆院議員が今年永眠されたことに触れ「重野さんの弔いのためにも絶対に勝たなければならない」と語り、「(大分ではすべての)選挙区で勝ち抜くことで日本の政治を変えていく」と訴え次期衆院選への支援を求め、吉田県連総合選対委員長の発声で気持ちを1つにしました。
■連合大分役員との意見交換会、党大分自治体議員団との意見交換会
あいさつする連合大分の佐藤会長
連合大分の会長、副会長、事務局長の方と意見交換をおこない、その後、県内の党の自治体議員と一問一答形式で意見交換をおこないました。
党大分自治体議員団との意見交換会の様子
■街頭演説(ガレリア竹町ドーム広場・サンリブさいき前)
ガレリア竹町ドーム広場での街頭演説では、吉川、横光両衆院議員、吉田参院議員、枝野代表が順に訴え、司会はスカルリーパー・エイジ大分市議が務めました。
吉川衆院議員は、「9年あまり続いてきた、嘘や誤魔化(ごまか)し、強権的な政治を終わらせる総選挙にしよう」と訴えました。横光衆院議員は「国会でいまの政府のあり方を説明すべきときに国会を閉じてしまった。そして政府は好きなようにやっているが、それがすべて裏目に出ている。
こういった政治をいつまでも続けるわけにはいかない。被害を受けるのは国民。このいまの政治の流れは、国民の皆さんの力でしか変えることはできない」と支援を訴えました。
吉田参院議員は、「今国会で新型コロナウイルス対策関連だけでも立憲民主党は16本法案を提出している。困っている個人、中小企業の皆さんに給付をすべきだといったことを具体的に提案をしている」と説明、また野党第1党として修正案を出すなどコロナウイルス感染症対策だけでなく、しっかり活動していると訴えました。
枝野代表は、新型コロナ対策として、(1)水際対策(2)感染を封じ込めるための徹底した検査(3)暮らしと事業を守るための補償──をしっかりとやっていれば状況が変わっていたと指摘しました。
さらに、「(私自身も)15年位までまでは『競争だ』『小さな政府だ』といういわゆる改革の尻馬に乗っていた。
30年前に言っていた改革を、30年同じことをやっていても、時代に合っているはずがない。競争だ、自己責任だ、小さな政府だなんていうのは30年前の昭和の改革。いま必要なのは、この間に壊れてしまった、政府の役割を取り戻す。政府の役割とは『命を守ること』『暮らしを守ること』『いざという時にあなたを支えられる』ことだ」と大きな社会と政治の転換が必要だと訴えました。
サンリブさいき前では、吉川衆院議員、枝野代表がマイクを握り、集まった方々に来たるべき衆院総選挙での支援を訴えました。司会は御手洗秀光佐伯市議が務めました。
○村山富市元首相のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
村山 富市(むらやま とみいち、1924年〈大正13年〉3月3日生まれ。97歳。 )は、日本の政治家、労働組合指導者。勲等は桐花大綬章。軍人としての最終階級は陸軍軍曹。いわゆる「村山談話」を発表したことで知られる。
労働組合運動から日本社会党の政治家となり、大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、日本社会党委員長(第13代)、内閣総理大臣(第81代)、社会民主党党首(初代)、名誉党首等を歴任。
2019年11月29日に中曽根康弘が死去したことに伴い、存命の内閣総理大臣経験者としては最高齢(死去した総理大臣経験者を含むと東久邇稔彦王、中曽根康弘に次いで三番目の高齢)となった(現行憲法下での総理としては中曽根に次いで二番目の高齢)。中曽根没後は、大正生まれの内閣総理大臣経験者で最後の存命者となった。
◆来歴・人物
国会議員当選まで
1924年、大分県大分市の漁師の家に11人兄弟の6男として生まれた。村山家は網元であったが、村山が14歳のときに父が他界している。そのため新聞配達などをしながら苦学を続けた[1]。1936年、大分市立中島尋常小学校卒業、1938年、大分市立大分高等小学校卒業後、東京に出て、昼間は機械工場や印刷工場などで働きながら、夜間は東京市立商業学校に学んだ。
1943年、旧制明治大学専門部政治経済科に入学。哲学研究部に属す。このころ、同じく明治大学に通っていた丸谷金保に誘われ、穂積五一が運営する学生寮「至軒寮」に入った[2]。1944年、学徒動員で石川島造船所に配属された。同年、成人し徴兵検査を受け、学徒出陣で宮崎県都城市の日本陸軍歩兵第23連隊に二等兵として入隊。1945年8月15日、幹部候補生として陸軍軍曹の階級で終戦を迎えた。
1946年、旧制明治大学専門部政治経済科を卒業した。1948年、大分県漁村青年同盟の書記長に就任した。漁業協同組合設立等の成果を収め漁村青年同盟が解散すると、その後は大分県職員労働組合の書記として活動した[3]。
1951年、大分市議会議員選挙に立候補したが、次点で落選。1953年、ヨシヱ夫人と結婚。再起を期した1955年、大分市議会議員選挙に日本社会党から立候補し、当選(以後当選2回)。1963年、大分県議会議員選挙に支持者の後援で立候補し、当選(以後連続3回当選)。1972年12月、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、トップで初当選(同じ自治体議員経験者たる社会党新人代議士に竹村幸雄)。以降、落選1回を挟み、通算当選8回。1973年には横路孝弘や田英夫らと「新しい流れの会」に参画。
◆国会対策委員長から党委員長へ
1991年7月、土井たか子に代わり田邊誠が社会党委員長に就任すると、村山は国会対策委員長に就任した。
9月に行われた委員長選挙では、無投票当選阻止を図って立候補した翫正敏を大差で破り、村山が社会党委員長に当選した。当選後、書記長には久保亘を起用した。
◆自社さ連立政権発足
1994年4月、細川護熙内閣総理大臣が辞任を表明すると、連立与党は次期首班に新生党党首羽田孜(細川内閣で副総理兼外務大臣)を推すことで合意し、国会で羽田が首相に指名された。
しかし、首班指名直後に新生党、日本新党、民社党などが社会党抜きで院内会派「改新」を結成すると発表。社会党の与党内での影響を抑えるためのもので、「改新」は連立与党内で社会党を大きく上回る最大勢力となった。しかし社会党には事前の相談がなかったため、村山はこれに強く反発して社会党の連立離脱を表明、羽田内閣は少数与党で発足することとなる。羽田政権下、社会党内では久保亘、佐藤観樹、上原康助、赤松広隆らが連立復帰を主張する一方、山口鶴男、大出俊、野坂浩賢らは連立離脱を支持した。
6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。しかし、自民党総裁経験者である海部俊樹が「社会党委員長を首班に支持できない」と主張し、それに中曾根康弘も同調し、連立与党は海部俊樹を統一候補に指名した。6月29日、首班指名が行われるが、衆議院で過半数に達せず、決選投票となった。その結果、村山が指名決選投票で海部を破って内閣総理大臣に指名され、自社さ連立政権内閣が発足した。ここに1947年の片山内閣以来47年ぶりの社会党首班内閣誕生となった。また、1955年の自民党誕生以降から2010年6月に菅直人が内閣総理大臣に就任するまでの間では、自民党籍を有したことのない唯一の内閣総理大臣であった[注釈 1]。
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