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東京五輪組織委の新会長に橋本聖子氏を選出 !
「大会成功に尽力」―女性蔑視発言の森氏後任
橋本聖子氏のプロフィールとは ?
(www.jiji.com :2021年02月18日19時55分)
東京五輪・パラリンピック組織委員会は18日、新会長に橋本聖子氏(56)を選出した。女性蔑視発言の責任を取って12日に辞任した森喜朗前会長の後任。今夏の大会まで残り約5カ月。開催自体が危ぶまれ、新型コロナウイルス対策など課題が山積する中での就任となる。橋本氏は選出に先立ち、菅義偉首相に、五輪担当相の辞表を提出し受理された。
◆寺田:「思い共有できるトップに」
東京五輪組織委後任会長に期待―陸上
組織委は候補者検討委員会が橋本氏に一本化したことを受け、理事会を開いて新会長候補とすることを決めた。その後、まず評議員会で理事に選任し、理事会での互選で新会長に選出した。
橋本氏は選出後に「大臣を辞職するということは私にとって大きな決意。その思いをしっかりと胸に抱いて東京大会の成功に尽力したい」と抱負を述べた。記者会見では、参院議員は辞めない意向を示した。
橋本氏は、五輪に冬夏合わせて7度出場し、1992年アルベールビル五輪スピードスケート女子1500メートルで銅メダルを獲得した。1995年の参議院選挙で初当選し、現在5期目である。
◆橋本氏は、2019年から五輪担当相を務めた !
橋本氏は、2019年から五輪担当相を務めていた。
組織委は、12日の臨時会合で、候補者検討委設置を決め、座長に御手洗冨士夫名誉会長が就いた。荒木田裕子国際オリンピック委員会(IOC)プログラム委員、山下泰裕日本オリンピック委員会(JOC)会長ら男女各4人で構成。
16日の初会合で、新会長に求められる資質として、五輪・パラリンピックへの造詣、男女平等や多様性の実現、国際感覚など五つの観点を取りまとめた。
計3度の非公開会合で協議し、橋本氏が適任とした。
会長人事をめぐっては、森会長が辞任前の11日に、日本サッカー協会相談役の川淵三郎氏に後任を打診した。川淵氏は、就任に前向きな姿勢だったが、首相官邸が難色を示し、川淵氏が、12日に辞退した。この一連の動きが密室人事と批判された。
◇橋本聖子氏の略歴
橋本 聖子(はしもと・せいこ)北海道・駒大苫小牧高出。1992年アルベールビル五輪スピードスケート女子1500メートルで銅メダル。冬季は4度、夏季は、自転車で3度の五輪に出場した。
計7度の五輪出場は、日本女子で最多である。日本スケート連盟、日本自転車競技連盟会長などを歴任し、10年バンクーバー、14年ソチ両冬季五輪、16年リオデジャネイロ夏季五輪で、選手団長であった。1995年から参院議員、2019年から五輪担当相を務めた。56歳。北海道出身。
(参考資料)
◆橋本聖子氏のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
橋本 聖子(はしもと せいこ、1964年(昭和39年)10月5日生まれ。56歳。)は、日本の政治家、元スピードスケート・自転車競技選手。自由民主党所属の参議院議員(5期)。現在、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長、同理事[1]を務めている。
戸籍名は、石ア 聖子(いしざき せいこ)。
スピードスケートおよび自転車競技でオリンピック日本代表として出場。アルベールビル冬季オリンピックスピードスケート女子1500m銅メダル。東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会担当大臣、女性活躍担当大臣、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)、自由民主党参議院議員会長、公益財団法人日本スケート連盟会長、公益財団法人日本自転車競技連盟会長、公益財団法人日本オリンピック委員会副会長を歴任した。
◆略歴
北海道勇払郡早来町(現:安平町)の牧場で生まれ育つ[2]。祖父母は開拓者で、父方は宮城県三本木町から、母方は奈良県十津川村から入植した[2]。4人兄弟の末子。1964年東京オリンピックの直前に生まれ、聖火にちなんで「聖子」と名付けられた[3]。このことから、後にマスコミで「五輪の申し子」と呼ばれる[4]。
父親の方針で3歳でスケート開始。小学3年の時、腎臓病にかかり、2か月間入院。2年間スポーツを禁止される[5]。
中学3年の時、全日本選手権を初制覇の後、駒澤大学附属苫小牧高等学校に入学。全日本スプリント、全日本選手権で優勝。以後、10年間にわたって全日本選手権を制覇。高校1年で世界ジュニア選手権の日本代表に選ばれる[要出典]。
原因不明の呼吸器系の病気にかかり生死の境をさまようが、後に全日本選手権で「4種目完全制覇」を達成した。
1983年、苫小牧高等学校高校卒業後、富士急行株式会社へ入社。1994年、富士急行株式会社退社。
1995年、第17回参議院議員通常選挙の比例区に自民党から立候補し初当選。国会議員とスポーツ選手の二足のわらじを履き、午前3時に起きて自転車に乗り、昼間に国会議員としての活動をして、夜9時すぎから2時間のウエイトトレーニングという日課を繰り返し、土日の地方講演には自転車で移動をするなどして練習に充てていた。
1996年、現職国会議員としてアトランタオリンピックの自転車競技2種目に出場するも、12位と9位に終わる。現役スポーツ選手続行の体力があると自負していたものの、国会議員としてのオリンピック出場が政界とスポーツ界の両方から批判をされたことを理由に「両方の世界を傷つけた」としてスポーツ選手としての現役引退を決意する[6]
1998年、一般人の男性(警察官)と結婚した。
2000年8月、園田天光光以来51年ぶり、現役国会議員として2人目、参議院議員としては初の出産。これに先立ち、妊娠判明後の同年3月、出産による本会議欠席を認める参議院規則改正が行われ、事実上、国会議員の産休が制度化する。橋本は直前まで議員活動をし、入院後2時間で初の出産。
◆役職
1995年7月 - 第17回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、初当選。
2000年7月 - 北海道開発総括政務次官就任。
2001年7月 - 第19回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、当選(2期目)
8月 - 参議院文教科学委員長就任。
2003年9月 - 自由民主党副幹事長就任。
2004年9月 - 自由民主党副幹事長退任。
2005年9月 - 自由民主党女性局長。
2006年6月18日 - 日本スケート連盟会長。
2007年7月 - 第21回参議院議員通常選挙に比例区から立候補、当選(3期目)
北海道トライアスロン連合会長/トライアスロン議員連盟 幹事長
2007年9月 - 2007年自由民主党総裁選挙で、立候補者・福田康夫元内閣官房長官の推薦人代表となる。
2008年9月 - 麻生内閣で外務副大臣に就任。
2012年12月 - 第2次安倍内閣で自民党参議院政策審議会長に就任。
2013年7月 - 第23回参議院議員通常選挙で比例区から立候補、当選(4期目)
2016年7月 - 自民党参議院議員会長に就任[7]。初の女性及び閣僚経験のない自民党参院会長となる。
2019年7月 - 第25回参議院議員通常選挙で比例区から立候補、当選(5期目)
2019年7月 - 自民党参議院会長を退任
2019年9月 - 第4次安倍第2次改造内閣で東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当、女性活躍担当、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)として初入閣。
2020年9月 - 菅義偉内閣でも東京オリンピック・パラリンピック競技大会担当、女性活躍担当、内閣府特命担当大臣(男女共同参画)再任。内閣総理大臣臨時代理就任順位第5位に指定された[8]。
2021年2月18日 - 内閣府特命担当大臣を辞任し[9] [10]、同日、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任[11]。
スポーツ活動・オリンピック:
日本の旗 日本・女子 スピードスケート
銅 1992 アルベールビル 女子 1500 m
1984年、サラエボ冬季オリンピック出場。当時スピードスケート女子全種目の4種目に出場したが、いずれも8位以内(入賞)には届かなかった(500m11位、1000m12位、1500m15位、3000m19位)。
1988年、カルガリー冬季オリンピックではスピードスケート女子全種目の5種目に出場し、全ての種目で日本記録を更新の上、入賞を果たす(500m5位、1000m5位、1500m6位、3000m7位、5000m6位)。但し3000mでは、同走の選手にクロッシングゾーンで本来譲られるべき走路(ほぼ同走時にはアウトからインに入るコースの選手が優先権)を、邪魔されてしまうアクシデントがあった(その同走選手は走路妨害を取られて失格)。さらに最後の出場種目だった5000mでは、レース終盤に苦悶の表情ながらも懸命に滑り続け、そして最後は完全に力尽きてしまい転倒してのゴールとなった(後に橋本本人は「あのゴール直後の転倒は私自身非常に恥ずかしく、スケート人生の中で一番悔いの残るレースだった」と語っている[12])。
同1988年、ソウル夏季オリンピックに自転車の代表選手として出場した。このため、関ナツエとともに、日本人として男女を通して史上初めて冬・夏両方のオリンピックに出場した[13]
1989年、世界オールラウンドスピードスケート選手権大会において、500m優勝を含む日本人初の総合銀メダル。
1992年のアルベールビル冬季オリンピックも女子スピードスケート全5種目出場。女子1500mでの橋本は、序盤から中盤まで積極的に飛ばし続け、終盤ラップタイムが落ちたものの屋外リンク自己記録の2分6秒88をマーク。結果3位入賞を果たし、日本人女性としては史上初となる冬季オリンピックで銅メダルを獲得する快挙を達成した[14]。1000mは5位入賞だった(他500m12位、3000m12位、5000m9位)。
1992年バルセロナオリンピック出場(自転車競技)。女子3000m個人追抜で11位。
1994年、リレハンメル冬季オリンピック出場。日本選手団の主将を務め、女子スピードスケートでは500mを除く4種目に出場。特に3000mでは、600m付近で当時世界記録保持者のグンダ・ニーマンの転倒に巻き込まれ、橋本自らも転んでしまい左肘と左脇腹に打撲傷を負うハプニングがあった。その後橋本の再レースが認められ、約1時間経過後の再レースでは当時の日本新記録となる6位入賞を果たした。5000mでも8位入賞だった(他1500m9位、1000m21位)。
1996年アトランタオリンピック出場(自転車競技)。女子3000m個人追抜で12位、女子2万4000mポイントレースで9位。
合計7回(冬季大会4回・夏季大会3回)のオリンピック出場は日本女子最多記録である(世界最多記録は8回出場のヨセファ・イデム、レスリー・トンプソン、ニノ・サルクヴァゼが保有)。
◆引退後
現役引退後は後進の指導に当たる。個人の芸能マネジメント事務所「セイコ・ハシモト・インターナショナル(SHI)」を設立し、代表取締役に就任[15]。
2006年7月1日付けで日本スケート連盟会長に就任する。また、日本オリンピアンズ協会の理事も務めている。
2008年10月30日、麻生内閣発足に際して外務副大臣に就任したため日本スケート連盟会長職を休職した。これは国務大臣・副大臣・大臣政務官については「公益法人その他これに類する諸団体については、報酬のない名誉職等を除き、その役職員を兼職してはならない。」とする「国務大臣、副大臣及び大臣政務官規範」の規定によるものである。2009年9月16日、内閣総辞職に伴い外務副大臣を退任したため、日本スケート連盟会長職に復帰した。
2009年11月17日、日本オリンピック委員会理事に就任し、バンクーバー冬季五輪選手団長となる[16]。2012年、ロンドン夏季オリンピック選手団副団長。2013年には、日本オリンピック委員会常務理事となり[17]、女性として初めて、日本オリンピック委員会選手強化本部長を兼務[18]。2014年、ソチ冬季オリンピック選手団長となる。2015年、リオ夏季オリンピック選手団長となる[19]。2017年、日本オリンピック委員会副会長に就任[20]。2009年12月21日、日本女子プロ野球機構名誉顧問に就任。
2010年、国会開会中ながらバンクーバーオリンピックに日本選手団の団長として参加。女性として初めてオリンピック日本選手団団長となった。スノーボード男子ハーフパイプ出場の國母和宏の服装問題で出場辞退の話が浮上した際には、団長として國母に開会式への出席辞退と謝罪会見をさせた上で競技には出場させるという裁定を下した。
三男三女あり(実子3人。夫と、死別した前妻との子供3人)。現在は千葉県在住。
―以下省略―
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