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ワクチン担当に河野大臣を決定 ! ポスト菅首相は河野太郎氏で決まりか ?
河野太郎大臣のプロフィールとは ?
(news.yahoo.co.jp:2021年1/19(火) 15:27)
田中良紹・ ジャーナリスト:
菅義偉総理大臣が初の施政方針演説を行った、1月18日、日本政治は大きく動くような気がした。
施政方針演説によってではない。その直後に発表された人事によってである。
菅総理大臣は、「河野太郎規制改革担当大臣を新型コロナウイルスのワクチン接種担当大臣に任命する」と発表した。ワクチン接種を担当するのは厚生労働大臣だろうと思っていたフーテンは、わざわざワクチン担当大臣を新設することに驚いた。
驚いたがそれを河野氏にやらせると聞いて納得した。支持率下落が止まらず、危機的状況にある菅総理の最終手段と思えたからだ。菅義偉総理は背水の陣を敷き、その陣内に抜群の発信力を誇る河野氏を入れることで、この危機を脱しようとしている。
さらに、それでも危機から逃れることができなければ、後事を河野氏に託して一気に世代交代を図り、自分が政策課題の中心に据えた「グリーン」と「デジタル」を、河野太郎と小泉進次郎の両氏によって推進させようと考えていると思った。
つまり菅総理の心にある「ポスト菅」は河野太郎、その次は小泉進次郎という構想をこの人事は暗示する。自分もその一翼を担った安倍長期政権の負のイメージを払しょくするにはそれしかない。それが菅総理の思いだとフーテンは受け止めた。
菅義偉総理の初の施政方針演説は「決意」の羅列だった。コロナウイルスとの闘いの決意、東日本大震災からの復興の決意、東京五輪開催への決意、グリーン社会とデジタル改革への決意などが並べられた。しかしいずれも淡々として具体的な道筋を示すものではなかった。
ただ最後に政治の師と仰ぐ梶山静六氏の言葉で締めくくったところだけは熱を感じた。「少子高齢化が進む日本社会は、国民に負担をお願いする政策が必要になる。それを国民に説明して理解してもらわなければならない。資源の乏しい日本の食い扶持を作るのがお前の仕事だと言われた。その言葉を胸に国民のために働く内閣として全力を尽くす」と声を高めて菅総理は演説を終えた。
そこには「安倍政治の継承」の「あ」の字もない。イデオロギー政治の「い」の字もない。安倍政治とは異なる政治を志向した政治家が、安倍政治の継承者としてしか権力の階段を登り詰めることができず、食い扶持を作るために力を入れた「観光立国」路線はコロナのために壊滅状態となった。
「観光立国」のためのカジノ誘致で担当副大臣の秋元司議員は逮捕され、二階幹事長と組んで推進した「GoToトラベル」は、コロナ感染増加の元凶とされ支持率急落の原因となった。そこからやることなすことすべてが裏目に出る。東京五輪が中止されるようなことになれば政権の求心力は一気に落ちて解散すら打てなくなる。
かすかな望みはワクチン接種だ。その担当大臣に河野太郎氏を起用したのは、菅総理の命運を託すに足ると考えたからだろう。実際、河野氏のツイッターのフォロワーは安倍前総理には及ばないものの200万人を超え発信力は政界でもピカイチだ。
◆菅総理は、河野太郎氏を高く評価してきた !
同じ神奈川県選出のしかも同期の衆議院議員として、菅総理は河野太郎氏を高く評価してきた。
河野氏が2015年に安倍政権で、国家公安委員長、行革担当大臣として入閣し、2017年外務大臣、2019年防衛大臣に抜擢された背景には、菅義偉総理の後押しがあったと言われている。
◆異端児と見られてきた、河野大臣 !
河野氏は麻生派に所属しているが、反原発を堂々と主張するなど自民党内では異端児と見られ、また合理主義者で群れることを好まない。そのためか麻生派の中ではいまだ総理・総裁には早いと見られている。
しかし本人は昔から総理になることに強い意欲を持っていた。自民党が野党に転落した、2009年には、自民党総裁選に立候補して、谷垣禎一氏に敗れた。昨年8月に安倍総理が、突然退陣表明した際にも総裁選出馬を模索した。しかし麻生派が、菅義偉支持で一致したことから出馬を諦めた。
◆菅総理は、河野太郎氏を入閣させた !
その河野氏を菅義偉総理は「縦割り行政打破」の推進役として入閣させ、デジタル化が遅れている官庁の改革に取り組ませた。それに応えて河野氏は「ハンコ廃止」を打ち出し、また「行政改革目安箱(縦割り110番)」を自身の公式サイトに開設した。
ところがあまりにも多くの相談が寄せられ、一時は停止する騒ぎになった。
防衛大臣時代には、安倍前総理が、トランプ大統領から押し付けられた、地上イージスアショアの配備断念を決定したことも、大きなニュースになった。外務大臣時代就任時には、小泉純一郎元総理が、「あの男は、大化けするかもしれないぞ。脱原発派だからな」と評価したこともある。
◆河野氏は、小泉進次郎氏と相性が良い !
そして河野氏はその息子の進次郎氏と相性が良い。河野氏が総理総裁を目指すとなれば進次郎氏は支援に回ると見られている。その進次郎氏を安倍政権下で環境大臣として入閣させたのは菅官房長官である。そこには「グリーン社会の実現」という安倍政権とは異なる政策を目指した菅総理の深慮遠謀がある。
その目的のため、一方では政治の師である梶山静六氏の息子の梶山弘志氏を経済産業大臣に押し込み、小泉進次郎、梶山弘志氏の2人が連携して「グリーン社会の実現」に当たる下地を作った。そして自分が総理に就任すると、2人をそのまま留任させて「2050年脱炭素社会の実現」という野心的な政策課題を打ち出した。
(参考資料)
○河野太郎大臣のプルフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
河野 太郎(こうの たろう、1963年〈昭和38年〉1月10日生まれ。58歳)は、日本の政治家。
自由民主党所属の衆議院議員(8期)、行政改革・国家公務員制度担当大臣、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、新型コロナウイルスワクチン接種担当)を務める[注 1]。
今現在2021年1月17日 次期内閣総理大臣候補に上げられている[誰によって?]
外務大臣(第145・146代)、防衛大臣(第20代)、国家公安委員会委員長(第90代)、内閣府特命担当大臣(規制改革、防災、消費者及び食品安全〈第3次安倍第1次改造内閣〉)、自由民主党行政改革推進本部長、自由民主党幹事長代理、法務副大臣(第8代)、総務大臣政務官 (人事、行政管理、行政評価、恩給、統計など旧総務庁関係の業務担当[1]〈第1次小泉内閣〉)、衆議院決算行政監視委員長・外務委員長等を歴任した。
父は、自由民主党総裁、副総理兼外務大臣、内閣官房長官、科学技術庁長官、衆議院議長を務めた河野洋平。弟は、日本端子株式会社代表取締役社長の河野二郎。副総理兼東京五輪担当大臣、建設大臣、行政管理庁長官、農林大臣を務めた河野一郎は祖父、参議院議長を務めた河野謙三は大叔父に当たる。
◆来歴・人物
1963年、河野洋平の長男として生まれる。初代伊藤忠兵衛(母方の高祖父)の玄孫。
学生時代
YWCA幼稚園、平塚市立花水小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校時代は、祖父、大叔父、父と同様、競走部(陸上競技部)に入り[要出典]、箱根駅伝を目標にしていた[要出典]。
慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校競走部では、主将を務めた経験を持つ[2]。
高校の同級生に公明党所属の参議院議員西田実仁がいる。
1981年(昭和56年)4月に慶應義塾大学経済学部経済学科に入学するも2ヶ月で退学[3]。その後渡米。渡米後すぐにマサチューセッツ州アンドーバーでサマースクールに通った[4]。
その後、コネチカット州のボーディングスクール、サフィールドアカデミー(Suffield Academy)で1年間過ごし[5]、1982年9月にワシントンD.C.のジョージタウン大学に入学、比較政治学を専攻[2]。1984年にジョージタウン大学を休学し、ポーランド中央計画統計大学(現在のワルシャワ経済大学)に交換留学[6][7]。 1985年(昭和60年)1月にジョージタウン大学に復学。
1985年12月(22歳)にジョージタウン大学卒業[2]。
ジョージタウン大学ではニューヨーク・ニックスにいたパトリック・ユーイングと同級であった。在学中は、後に国務長官となるマデリーン・オルブライトのゼミに参加。
ワシントンでは政治活動にもかかわり、1983年(昭和58年)にはアメリカの大統領選挙に立候補したアラン・クランストン上院議員(カリフォルニア州選出、民主党)の選対本部の財務部門でボランティアをしたり、リチャード・シェルビー下院議員(アラバマ州選出、民主党。のち共和党)の下でインターンを務めるなどした。
ポーランド中央計画統計大学在学中には、当時自宅軟禁下にあった、後にポーランド大統領になるレフ・ヴァウェンサ「連帯」議長宅を訪問し逮捕され、一晩留置所で過ごしたエピソードがある。翌日に保釈された。当時は共産党の独裁政権下で、「大学の寮の食事は、ほとんど毎食、ジャガイモと酢漬けキャベツだけだった」と語っている[8]。
社会人時代
帰国後、1986年(昭和61年)に富士ゼロックスに入社し、調査統計部に配属された。企画部に転じた後に、サテライト・オフィスの実験を担当し、日本初の本格的サテライト・オフィスと称された「志木サテライトオフィス」の立ち上げにも関わった[9]。国際事業部に転じた後、シンガポールの富士ゼロックスアジアパシフィックで勤務した[10]。1993年(平成5年)、日本端子に転じた。自動車や電気機器の部品メーカーで開発生産や海外輸出を担当[2]。
◆衆議院議員:
演説を行う河野氏:小選挙区比例代表並立制の導入に伴い、父・洋平の選挙区が分割されたため、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に神奈川15区から自民党公認で立候補し、当選する(当選同期に菅義偉・平沢勝栄・渡辺喜美・大村秀章・河本三郎・桜田義孝・下地幹郎・下村博文・新藤義孝・棚橋泰文・田村憲久・谷畑孝・戸井田徹など)。
自民党ではしばらく無派閥、その後に麻生太郎の勧めで、宮澤喜一が会長を務めていた宮澤派(宏池会)に所属していたが、1999年(平成11年)、父や麻生に従い同派を離脱し、河野グループ(大勇会)に移った。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙で再選、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で三選。2002年(平成14年)12月には、川口順子外務大臣に対し「国民に対して説明責任を果たしていない」と非難して衆議院外務委員会理事を辞任。第1次小泉内閣で総務大臣政務官(人事、行政管理、行政評価、恩給、統計など旧総務庁関係の業務担当[1])、第3次小泉改造内閣で法務副大臣を歴任。2006年、自民党政調副会長(法務担当)に就任[11]。自民党神奈川県連会長も務めていたが、2007年(平成19年)の神奈川県知事選挙(第16回統一地方選挙)で、河野の主導で県連が擁立した杉野正が惨敗した為、同年4月22日に引責辞任した。
また、法政大学大学院にて客員教授を務めている。
韓国の元ハンナラ党議員で駐神戸総領事の李成権[12]をかつて秘書としていた[13]。
2008年(平成20年)9月、衆議院外務委員長に就任。
2009年(平成21年)9月、自由民主党総裁選挙へ出馬した[14]が、谷垣禎一に敗れた。
11月11日、新世代保守を確立する会を設立。
2010年(平成22年)4月5日、自民党は離党した前幹事長代理園田博之の後任に河野を充てることを臨時役員会で決定し[15]、翌4月6日に正式就任した[16][17]。9月22日、自由民主党シャドウ・キャビネットで影の行政改革・公務員制度改革担当大臣に就任し[18][19]、党内で規制改革や事業レビュー、事業仕分けなどを担当した。
◆国家公安委員長兼行政改革担当大臣
2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣において、国家公安委員会委員長、行政改革担当大臣、国家公務員制度担当大臣、内閣府特命担当大臣(規制改革、防災、消費者及び食品安全)として初入閣[注 2]。
2016年8月3日、内閣改造に伴い退任。同年の第29回日本メガネベストドレッサー賞・政治部門を受賞[22][23]。
外務大臣:2017年8月3日、第3次安倍第3次改造内閣において、外務大臣に抜擢された。
同年8月に訪米し、米国で批准に至っていない包括的核実験禁止条約(CTBT)について、その早期批准を求めた[24][25]。―以下省略―
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