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皇后の雅子さま57 歳の お誕生日 !
愛子さまとの母子19 年間の歩みを振り返る
(news.yahoo.co.jp:2020年12/9(水) 12:00)
11月30日の秋篠宮さまのお誕生日に際しての記者会見は、眞子さまのご結婚を認める発言が注目を集めた。
ご結婚を願う眞子さまのお気持ちや秋篠宮さまの父としての胸中に思いをめぐらし、多くの人びとが心を痛めていたことだろう。
しかし、その翌日の12月1日には、愛子さま19歳のお誕生日映像が公開され、愛犬の由莉とともに赤坂御用地のお庭を散策される初々しい笑顔に、日本中が癒されたのではないだろうか。
そして今日、12月9日、雅子さまは57歳のお誕生日を迎えられた。
雅子さまはコロナ禍による国民の苦境に心を寄せられるお気持ちを綴り、愛子さまについてこのように触れられた。
「愛子は、今年学習院大学文学部日本語日本文学科の1年生になり、先日19歳の誕生日を迎えました。早いもので来年には成人することを思いますと、幼かった頃のことも懐かしく思い出され、感慨深いものがあります」
雅子さまと愛子さまの、母と子の19年間はどのようなものだったのだろうか?
■愛子さまご誕生の時を振り返る
天皇皇后両陛下の一人娘・敬宮愛子さまは、平成13年12月1日、皇居内にある宮内庁病院で産声をあげられた。
1週間後の12月8日、ご出産という大任を果たされた雅子さまは、その腕に小さな愛子さまを大事に抱きかかえ、病院職員たちの見送りを受けて無事ご退院。
赤坂御用地の東宮御所にお帰りになる車列は、さながらパレードのようになって、麹町から四谷見附まで、沿道には大勢の人びとが日の丸の小旗を振り、愛子さまのご誕生を祝った。
当時、皇太子だった天皇陛下は後列右側に座わられ、雅子さまは沿道の人びとからよく見えるように左側。愛子さまはお二人の真ん中にはさまれるように据えられた、チャイルドシートで眠っておられるようだった。
手を振る雅子さまのお顔は、ほっとしたような満ち足りた幸せな面持ちをたたえていらっしゃった。
このご退院の前日、皇居では愛子さまの「命名の儀」が執り行われた。お名前は上皇さま直筆の書にしたためられ、それを菊の御紋が施された漆塗りの文箱に入れて、関係者の手によって東宮御所に届けられたのである。
その後、宮内庁から新宮さま(愛子さま)のお名前が発表された。
「12月1日ご誕生になった内親王殿下は、御名を愛子と命ぜられ、敬宮と称されます」
名前と称号は中国の古典「孟子」からとられ、敬愛の心を深く身に付けてほしいとの願いがこめられていたとか。
■雅子さまの愛子さまに寄せる思い
そしてご退院翌日の12月9日は、ちょうど雅子さまのお誕生日。愛子さまがお生まれになった8日後に、雅子さまは38歳を迎えられたのであった。
翌年の愛子さまご誕生会見で、雅子さまは涙ぐみながら、こう述べれられた。
「無事に出産できましたときには、ほっといたしますと同時に、初めて私の胸元に連れてこられる生まれたての子供の姿を見て、本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」
21世紀に誕生した初めての皇族として、愛子さまは未来の希望とともに、両陛下のもとへお生まれになった。
その小さな命は、ご家族の愛情に満ちた物語を紡いでいった。
ご一家での那須のご静養では、陛下が愛子さまを背負って沼ッ原湿原をハイキング。
以来、毎年夏のご静養は那須で過ごされるようになり、駅に到着されると、集まった多くの人びとの前で愛子さまがお手振りされるのが恒例となった。
筆者が構成を担当するテレビ東京「皇室の窓」では、愛子さまの那須でのお手振りを時系列に短く繋いで放送したことがあるが、はっきりと成長ぶりが分かり、視聴者の反応はとても好評だった。
無邪気だった赤ちゃんの頃から、自我が芽生え始めはにかむようになるものの、少しずつご自身のお立場を受け入れ、やがて堂々と出迎えの人たちと触れ合うようになっていかれた。
■12月に生まれた母と子の絆
雅子さまは、そうした愛子さまの横で静かに見守られ、陛下はいつも気さくに人びとの中へ分け入って行かれていた。
那須で待ち受ける人びとの表情も、愛子さまの名前の由来となった敬愛の思いをあふれさせていた。
こうしたご一家に寄せる人びとの温かな雰囲気が、雅子さまの心を解きほぐし、また愛子さまの健やかなご成長が雅子さまのご体調の回復へとつながったのではないだろうか。
天皇ご一家のスケートご指導に当たっていた長久保初枝さんが、雅子さまと愛子さまの愛情が通う、こんなエピソードを話してくれた。
それは、愛子さまが幼い頃、雅子さまと一緒にスケートを習われていた際、体調がすぐれない雅子さまがリンクサイドでお休みになられていた。
その時、愛子さまは雅子さまのご様子に気づき、すぐにお母様の傍に寄り添われたという。
雅子さまを気遣う愛子さまと、そんな愛子さまを愛おしく抱きしめられる雅子さま。
そこには、強い絆で結ばれた母と子の素朴なお姿があったという。
今年はコロナ禍によって多くの公務が中止や延期となり、両陛下がお出ましになる機会は少なかったが、来年は増えてほしいものだ。
それに愛子さまも来年は20歳。成年皇族となって公務も始められるが、きっと雅子さまをおおいに助けてくれる存在になられることだろう。
愛子さまが生後間もない頃、雅子さまが詠まれた御歌のように、希望の光となることを祈らずにはいられない。
「乳母車 おして歩めば みどり児は 光あふるる 空にまばたく」
(愛子さまが生後3、4カ月の頃、雅子さまが詠まれた御歌)
(参考資料)
皇后・雅子さま様のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
雅子(まさこ、1963年〈昭和38年〉12月9日生まれ。57歳。 )は、日本の第126代天皇・徳仁の皇后(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )[1]。皇族。お印はハマナス。敬称は陛下[2]。勲等は勲一等宝冠章。旧名は小和田 雅子(おわだ まさこ)。
小和田恆・小和田優美子の第1女子。皇女子に敬宮愛子内親王がいる。元外務省職員。
住居は、東京都港区元赤坂の赤坂御用地内にある赤坂御所[3]。
◆来歴・生い立ち
1963 年(昭和38年)12月9日、外務省職員であった小和田恆、優美子夫妻の長女として東京都港区赤坂葵町(現:虎ノ門)にある国家公務員共済組合連合会虎の門病院にて誕生。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に居住していた[4]。
父の恆が在ソ連日本大使館一等書記官に就任したため、一家で渡露し1歳数か月からソビエト連邦・モスクワで過ごす。2歳の終わりごろから同国のモスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園した。当初は慣れない言語や集団生活で泣き出すこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだったという[5]。
このとき、モスクワ市のクツゾフスキー(英語版)で過ごした。1966年(昭和41年)7月、一家で渡瑞しスイス連邦・ジュネーブで過ごす。同地で妹として礼子と節子の双子が誕生。後年、母の優美子と生後直後の両者はベルンのスイス大使公邸に滞在したため、恒と雅子だけモスクワに戻り家政婦と3人での生活を送った。
1968年(昭和43年)5月から、父が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任したため、アメリカ合衆国のニューヨーク州ニューヨーク市に一家で渡りブロンクス区のヘンリーハドソン・パークウェイ(英語版)という郊外で過ごした。
この頃から区内のコンドミニアムに家族と引っ越し、同年9月から1年間、ニューヨーク市立第81パブリックスクール(P.S.)付属幼稚園(キンダガーデン)に通園する。1969年9月、市立第81パブリックスクール(P.S. 81-Robert J. Christen School)に入学。この頃からピアノを習得し始め、またこのアメリカ滞在期間中は日本語を忘れないようニューヨーク補習授業校(日本語学校)(英語版)に通学していた[6]。
1971年(昭和46年)3月、父が外務大臣秘書官事務取扱(前任は第87代内閣総理大臣小泉純一郎)に就任したため一家は日本に帰国し新宿区大久保の国家公務員官舎に居住を移転する。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月には新宿区立富久小学校第2学年に編入する[7]。第67代内閣総理大臣福田赳夫次男・横手征夫一家と毎年冬になると1、2週間スキー旅行をしていた。
義母の上皇后美智子が雙葉小学校附属幼稚園に通園していた当時の担任教師が開設した塾に通い、編入学試験の勉強を一年する[8]。1972年(昭和47年)4月、田園調布雙葉学園・田園調布雙葉小学校の3年生に編入学する[注釈 1]。
生物部に所属し卒業文集に「将来は獣医になりたい」と記した。この頃から江頭豊宅(目黒区南)にて同居をはじめる。1975年(昭和50年)4月、田園調布雙葉中学校に進学し自らソフトボール部を結成し活動した[9]。1978年(昭和53年)4月、田園調布雙葉高等学校に進学。
1979年(昭和54年)7月から父が在米日本大使館公使に就任したため、1985年(昭和60年)6月までの6年間米国のマサチューセッツ州ボストンへ一家で移住する。
1979年(昭和54年)より、ボストン市郊外のベルモント市にあるマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ11年生(日本の高校2年生に相当)として転入学し2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。
High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞し在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。
また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった[10]。この期間、高校(12年生)から大学1年にかけて講談社がアメリカで編集製作していた『エンサイクロペディア・オブ・ジャパン(英語版)』(英語版日本百科事典)の編集を手伝う(編集責任者・板坂元)。
1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
同年、ハーバード大学経済学部に入学。国際経済学専攻。ハーバード大学のほかイェール大学、プリンストン大学などアイビー・リーグ校を受験したが、「日本で就職するには名前の通った大学がいい」と考え進学した。
恒が在ソ連特命全権公使に就任したため雅子1人を残し、一家はロシア連邦のモスクワに引越す。在学中は、心身障害児の運動指導[11]やフランス語のサークルに参加した。また、1学次時に日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサエティー)を自ら創立し、1年次の時に書記を担当、2年次で副会長、3年次には会長を務める。
同大学のライシャワー教授などの著名人を招待しての講演会、浮世絵や能の紹介、黒澤明監督作品などの日本映画上映、習字・折り紙の紹介、日本食の試食会、ダンスパーティーなど日本文化を紹介するイベントを企画していた。
さらに学生評議会の広報担当もしゴードン教授の助手として日本現代史関係の資料研究を手がける。1年次の夏休みにはドイツのゲーテ・インスティチュートで2か月滞在しドイツ語の特訓をし[12]、2年の夏休みにはフランスのグルノーブル大学のフランス語夏期講座に参加するなど外国語の活動も活発だった。
雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる[13]。また、初等教育・中等教育(小学校1学年3学期 – 高等学校1学年1学期)は日本で生活し義務教育を受けているため、厳密な意味での帰国子女ではない。
◆外務省職員時代:1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[13]。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjustment to Import Price Shocks : Oil in Japanese Trade(輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油)』(糠沢和夫・真野輝彦・榊原英資協力)。
成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した[13]。1985年の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3人だった。
卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。
彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」といった評価をした。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[14]。
1986年(昭和61年)、米国から帰国後の4月に東京大学法学部第3類(政治コース)[15]の3学年に外部学士入学する[13]。100名中3名の合格であった[16]。雅子は皇太子徳仁親王(当時)との婚約内定後にこの事を振り返り、「米国に残ったら根無し草になってしまうような気がして日本に帰りたかった」と語っている。東大在学中の学友には工藤雪枝などがいる[17]。
駐スウェーデン特命全権大使・村角泰の娘が外交官になったことに刺激を受けて外交官を志し[18]、同年10月に外務公務員上級採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[13]。合格者は28名でうち女性は3名であった[19][20]。渋谷区広尾の公務員官舎に居住し始める。
―以下省略―
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