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12 月8 日、太平洋戦争開戦(下)…発表までの“緊迫の秘話”
第二次大戦・日米戦争等の深層・真相は(下) ?
(news.yahoo.co.jp:2020年12/8(火) 5:00)
辻田真佐憲 (近現代史研究者):
以下は、前回投稿の続きです。
■「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」と言われたアナウンサーは……
さて、この歴史的な大本営発表については、テレビの歴史番組などで聞いたひとも多いでしょう。しかし、じつはその音声は、当日午前7時のものではなかったといいます。ラジオ局(日本放送協会)でその発表を読み上げたアナウンサー、館野守男の証言を聞いてみましょう。
8日ごとに繰り返し放送され、レコードや映画にも使われた録音盤は、実は、昭和16年12月8日午前7時に放送されたものでなく、確か二度目に繰り返して放送した時のものである。最初の放送は、まったくの突然だったので、録音係の方で間に合わず、その前半が欠けて終わっていたように憶えている。
館野はそのことを裏付けるように、開戦の発表がいかに唐突だったかについて、つぎのようにも証言しています。
午前7時直前、私が7時からのニュース原稿を持ってマイクの前に待機していると、スタジオの扉をあらただしくあけて、報道部の一人が飛び込んで来た。
「いま大本営から、電話で大ニュースが入った」
といって、走り書きの原稿を渡してくれた。すぐ臨時ニュースのチャイムを鳴らし、
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます」
まず2回繰り返した。そして走り書きの原稿の字を追い追い読んだのである。
なんと、いきなり渡された原稿を読んだら、それが開戦のニュースだったというのですね。これには、館野も驚いたはずです。
現在残されている音声は、北朝鮮のアナウンサーとまではいかないまでも、けっこう勇ましいものです。ところが、そのときは読むので精一杯だったので、まるで「お通夜の放送のように沈んだもの」になっていたのではないかと、館野は振り返っています。
■「早速書き取ったのが開戦の発表文である」
「書きながら私の手は震えた」
この館野に手書きの原稿を渡した、同局報道部の田中順之助がまた手記を残しています。これを読むと、本当にギリギリのタイミングだったことがよくわかります。
7時5分ぐらい前であろうか、電話のベルが鳴った。指揮室の当番をしていた和田信賢アナウンサーからの電話で『たいへんだ、たいへんだ! すぐ原稿をとってくれ』とあわてた声が聞こえた。早速書き取ったのが開戦の発表文である(中略)。書きながら私の手は震えた(中略)。
やっと『放送OK』が来たので、放送原稿をつかんで隣接したスタジオへ飛び込んだときはもう時報のポンポンという音が始まり、館野アナウンサーの前に原稿を置いたとたん、ポーンと7時を知らせる音がした。これでは、録音盤が残っていないのも納得です。
なお、ここまで慌ただしくなった背景には、大本営陸軍報道部につめていた同局の永井順一郎が、報道局ではなく、放送の緊急対応を行う指揮室に原稿を送ってしまったこともありました。あまりの大ニュースに、気が動転してしまったのかもしれません。
■あの有名な映像もあとから撮影されたものだった?
12月8日の大本営発表については、映像も残っています。それは、陸軍の軍人が両手で紙をもちながら、緊張の面持ちを隠せず、いささか甲高い声で発表文を読み上げているものです。こちらもテレビの歴史番組でよく使われますから、見たことがあるひとも多いでしょう。
じつはこの映像、やはり当日午前6時のものではありません。あまりに突然の発表だったので、その歴史的な瞬間を録画する準備ができていなかったのです。そのため、今日残っているのは、ニュース映像のためにわざわざ再現されたものでした。
そうだとすると、この軍人はずいぶん緊張しているなと感じるのではないでしょうか。そう、この陸軍報道部長・大平秀雄は、口下手で、会話を好まず、たとえ再現でも固くなってしまうひとだったのです。
部下だった平櫛孝は、その人となりを率直に記しています。
大平は生来内向型で、人と話すことも好きでなく、また話下手で、むしろ部隊長、参謀長の適格型であった。お世辞にも報道部長に適格とはいえない性格で、陸軍省詰の記者や来訪出入の外部の人との折衝も好きでなかったようだ。
■口下手な軍人が報道部長に就いてしまった理由
では、どうしてマスコミ対応をする報道部長にそんなひとが就いてしまったのでしょうか。
もとより、陸軍もバカではありません。報道部長には、それまで外向的で、宣伝に秀でたひとがついていました。ところが、前任者の馬淵逸雄(このひとも『報道戦線』という著作があるほど宣伝のプロでした)が、東条英機陸相の不興を買い、突如として左遷されたのです。そのため、すぐに適格者を得られず、人事上の都合で、口下手な大平が報道部長に就いてしまったのです。
大平にとって運が悪かったのは、そこで太平洋戦争の開戦を迎えてしまったことでしょう。彼はその後も、まるではじめて人前で発表する中学生のように、ガチガチに緊張した姿で大本営発表を読み続けなければなりませんでした。
海軍には、雄弁家で知られた平出英夫(海軍報道部課長)がいましたから、陸軍側は緒戦の宣伝でどうしても一歩遅れをとってしまいました。
その状態が改善されたのは、遅れて1942年3月のこと。後任の陸軍報道部長・谷萩那華雄は明るく、冗談をよく言うひとでした。これでようやく陸軍は海軍と張り合えるようになり、「谷萩漫談、平出講談」という言葉まで生まれました。大平も報道部から離れられて、ホッとしたことでしょう。ちなみにその従弟には、「あーうー」で知られる大平正芳首相がいたりします。
いずれにせよ、大本営発表が国民のもとに届くまでには、このような人間ドラマがあったのです。太平洋戦争開戦のこの日、そんな歴史に思いをはせてみるのも、悪くないのではないでしょうか。
(参考資料)
前回投稿の続きです。
U 日本国民には知らせない、第二次大戦・日米戦争の真相とは ?
(3)この戦争指導者たちがユダヤ= 国際金融財閥の手先である !
太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘のひとつひとつを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。(中略) それぞれの戦局で「日本軍を敗北に導く役割」を果たした主な人物たちは次の通りである。
● 米内光政 ………海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン
● 山本五十六 ……連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。
● 南雲忠一 ………真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、ミッドウェー海戦 時の第一機動部隊指揮官。
● 源田実 …………第一航空艦隊参謀、海軍大佐。
● 井上成美 ………海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。
● 原忠一 …………真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。
● 服部卓四郎 ……大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。
● 辻正信 …………大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。
● 瀬島龍三 ………大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。
● 牟田口廉也 …支那駐屯歩兵第一連隊長・ビルマ方面第一五軍司令官・陸軍中将。
● 栗田健男 ………第二艦隊司令長官、海軍中将。
もちろん、彼らだけがすべてではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という「多くの協力者が暗躍した」のである。 重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と「通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者」(自民党体制の先祖たち)が大勢いたということである。
(4)米国のために重大な役割を果たした山本五十六
骨の髄まで、親米派のフリーメーソン
山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。
大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。
大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。
大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。
大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。
山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。
(5)真珠湾奇襲攻撃で、ルーズヴェルトに協力 !
連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。
欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。
フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。
山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。
ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊(空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将)は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。
アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号(パープル)」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。
真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。
戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。
―以下省略―
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