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合流新党代表選:枝野氏と泉氏が出馬表明 ! 消費税巡り持論展開 !
2 人のプロフィールとは ?
(news.yahoo.co.jp:2020年9/4(金) 20:13配信)
毎日新聞:立憲民主党の枝野幸男代表(56)は4日、国会内で記者会見し、国民民主党などと合流して15日に結党する新党の代表選(7日告示、10日投開票)へ立候補すると表明した。
枝野氏は、時限的な消費減税を代表選で掲げて訴えると表明した。
枝野氏は、立憲民主党の他、国民民主党の小沢一郎議員らの支持を受け、優位な情勢である。
国民民主党の泉健太政調会長(46)も立候補を表明し、両氏の一騎打ちとなる見通し。
3日までに新党への参加を届け出た衆参149人の投票により新代表を決める。
◆枝野氏の政策:
枝野氏は、主な政策として、時限的な消費減税と中間層の所得税免除▽困窮者への月額1万円の定額給付制度▽富裕層の所得税や多額の内部留保のある法人への課税強化――などを掲げた。
具体的な消費税率に言及しなかったが、「冷え込んだ消費を刺激し、経済再生の着実な一歩を踏み出す」と訴えた。
新型コロナウイルスの感染で冷え込んだ消費刺激策として、時限的な消費税減税など3案を例示した。
合流を巡っては、野党間の路線対立が改めて露呈したが、枝野氏は「離合集散の歴史に終止符を打つ」「右でも左でもなく前へと進む」と決意を述べた。
次期衆議院選挙に向け「当然、政権交代を目指す」と明言した。
◆泉氏の政策:
一方、泉氏は、新型コロナが収束するまでの消費税の凍結(税率0%化)などを主張し、「『改革中道』の旗を新党にしっかりと広めたい」と述べた。
「自由闊達に意見を述べ、みんなで答えを見つけ出していく。風通しの良い党運営を実践したい」と意欲を示した。
◆新党名:
代表選で掲げる新党名は、枝野氏が「立憲民主党」、泉氏が「民主党」を示した。
【宮原健太、木下訓明】
(参考資料)
○枝野幸男氏のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
枝野 幸男(えだの ゆきお、1964年〈昭和39年〉5月31日 - )は、日本の政治家、弁護士(登録番号:22259、司法修習43期、第二東京弁護士会)。東北大学法学部卒業。
立憲民主党所属の衆議院議員(9期)、立憲民主党代表(初代)。
旧民主党政策調査会長(第3代)、民主党政策調査会長(第6代)、民主党幹事長(第10代、第15代)、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣官房長官(第77代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、経済産業大臣(第16代)、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構担当)、民進党幹事長(初代)などを歴任。
◆弁護士として:1988年、24歳で司法試験に合格[2]。司法修習を経て弁護士となり、東京の法律事務所に就職した。
◆政界へ:1992年5月、元熊本県知事の細川護熙が日本新党を結党。同年11月、日本新党は次期衆院選に向けて、国内では初めての候補者公募を行うと発表した[7]。「今や失われかけている理想主義の旗を掲げて」という細川の言葉に惹かれた枝野は応募を決意し、論文を提出[8]。
1993年初め、日本新党は約150人の応募者の中から15人ほどを書類選考で選び、枝野もこれを通過。2月21日、二次審査が行われる。4月13日、党は枝野と出版社社長の三浦和夫の2名を合格したと発表。同時に枝野を定数が3から4に増えた旧埼玉5区に、三浦を旧岩手1区に割り当てると発表した[9][10][8]。
しかし活動の仕方を教えてくれる者はおらず、枝野に選挙グッズなどを売り込む業者もいなかったという。「金もないし何もないのだから、朝、街頭演説するしかない。野田佳彦さんのところを見るといいよ」という唯一のアドバイスにしたがって、衆院選に向けて準備を進めていた千葉県議2期目の野田の街頭演説を見学。これが日本新党候補者としての最初の活動となった[7]。
枝野は選挙は早くても同年秋と予想していたが、公募に選ばれてからわずか2か月後の6月18日に衆議院が解散。地盤もカンバンもない選挙区で、何の準備もないまま選挙戦に突入する[3]。手作り選挙を貫き、上田清司(前埼玉県知事)に次ぐ2位で初当選した。
総選挙後、非自民・非共産連立の細川内閣が誕生。商工委員会に所属し、公約に掲げていたPL法立案に携わる[11]。日本新党の党則改正を担当し「細川代表の個人商店」と言われていた党運営の近代化に取り組むが、党事務局の抵抗により失敗する[12]。
1994年4月に細川首相が辞任し羽田内閣が発足。首班指名選挙では自民政権は阻止すべきと考えて羽田孜に投票した[11]。羽田内閣発足時に日本新党が新党さきがけとの統一会派を解消して新生党などを含む新会派「改新」に参加したことに反発し、5月に日本新党を離党[13]。
院内会派「民主の風」を結成し、続いて新党さきがけ、グループ青雲とともに統一会派「さきがけ・青雲・民主の風」へ合流した。6月「さきがけ・青雲・民主の風」内で態度が分かれた羽田内閣への不信任案には反対を表明した[14]。
1994年6月、自社さ連立の村山内閣が発足。これを期に新党さきがけに合流し、菅直人政策調査会長の下で政策調査会副会長に就く。
1996年1月に橋本連立内閣が成立、首班指名では造反すると言われた[15]が村山富市から後継指名を受けた自民党の橋本龍太郎総裁に投票した。橋本がPL法の対象から血液製剤を外すよう抵抗した厚生族のドンであったためで、最後まで悩んだという[11]。
連立与党の行政改革プロジェクトチーム座長を務め、1996年5月に国家公務員人事の一括採用や天下り規制を含む公務員制度改革の座長私案を提示した[16]。
同年6月に超党派の若手有志議員による政策勉強会「司馬遼太郎哲学研究会」の呼びかけ人となり発足させた[17]。この会は、鳩山新党(旧民主党構想)をにらんだ若手による交流会と見られた。
1995年から薬害エイズ問題を追及し、真相究明と和解を実現して一躍注目された。1995年1月に薬害エイズ裁判の原告弁護団から接触を受け、国の責任を確信。8月、井出正一厚生大臣と被害者の面談を官僚に内密に実現した。
10月に裁判所から和解勧告が出されても厚生省が責任を認めなかったため、衆議院厚生委員会で追及。厚生省の当時の対応について説明を求める質問主意書を提出した[18][11]。
1996年1月から橋本内閣の厚相として薬害エイズ問題に取り組んだ菅直人をサポートし[19]、"郡司ファイル"発見などの真相究明と国の和解受け入れにつなげた。2月の大臣謝罪の場で司会を務め、7月には安部英元エイズ研究班班長らへの証人喚問で尋問に立った。
◆民主党下野後:
2013年7月15日、埼玉県にて
2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で民主党は大敗し下野したが、枝野は第46回衆議院議員総選挙でも小選挙区埼玉5区で当選する[71]。
2014年9月16日、民主党幹事長に就任した。 同年12月の第47回衆議院議員総選挙においては小選挙区埼玉5区で自由民主党牧原秀樹に約3千票差という僅差で当選[72]。
2015年1月民主党代表選挙後、代表に選出された岡田克也の下でも幹事長に留任した。
◆民進党へ移籍
2016年3月、民主党と維新の党が合流して結成された民進党に参加し、民進党執行部発足後も幹事長に留任した。同年10月、民進党憲法調査会長に就任[73]。
2017年9月の民進党代表選挙に立候補し、前原誠司と「凌雲会」同士での闘いとなるも敗れる。代表選後の党役員人事では代表代行に就任した。
◆立憲民主党の立ち上げ
Logo of Constitutional Democratic Party of Japan.svg
2017年9月28日、第48回衆議院議員総選挙に向けて、民進党両院議員総会において希望の党への事実上の合流が了承される[74][75]。しかし希望の党代表の小池百合子は理念・政策が一致しなければ「排除する」と言明[74][76]。
これに対し枝野は10月2日に離党、「安倍政権の暴走に歯止めをかける役割を果たす」として新党「立憲民主党」の結党を表明し[77][78]、翌日10月3日、総務省に届け出た[79]。安倍晋三を超える個人献金を集め[80]、党公式Twitterのフォロワー数も設立から2日で10万人を超えた[81]。
選挙戦では日本共産党が支援・連携を示し、埼玉5区への共産党候補出馬を取り下げた。自らは牧原との5度目の対決を制し、9選となっている(牧原は比例復活)。
2020年9月4日、立憲民主党・国民民主党・社会保障を立て直す国民会議、無所属フォーラムの2党2グループが合流して結党する新党代表選挙に立候補することを表明する[82]。
○泉健太氏のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
泉 健太(いずみ けんた、1974年7月29日生まれ。46歳 )とは、日本の政治家。立命館大学法学部卒業。国民民主党所属の衆議院議員(7期[1])、国民民主党政務調査会長。内閣府大臣政務官、民進党組織委員長、希望の党国会対策委員長、国民民主党国会対策委員長等を歴任。選挙では通称「泉ケンタ」を用いている。
◆経歴:2009年10月17日、納沙布岬にて内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)前原誠司(右から2人目)、根室市市長長谷川俊輔(右から1人目)らと歯舞群島を視察
北海道札幌市北区生まれ。札幌市立北海道札幌開成高等学校、立命館大学法学部卒業。大学在学中は関西学生弁論討論交流会会長、全日本学生弁論討論交流会会長を務めた。立命館大卒業後は民主党参議院議員福山哲郎の秘書を務める。
2000年(平成12年)、第42回衆議院議員総選挙に京都3区から民主党公認で出馬したが、自由民主党の奥山茂彦に敗れ、重複立候補していた比例近畿ブロックでの復活もならず落選した。
2003年(平成15年)、第43回衆議院議員総選挙に再び京都3区から出馬し、前回敗れた奥山を破り初当選した。
2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙では、小泉旋風による民主党への逆風に苦しめられたが、自民党の清水鴻一郎らを破り再選し2選(清水も比例復活)。
2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙では、清水に比例復活すら許さず、京都3区で3選。
同年9月に発足した鳩山由紀夫内閣で内閣府大臣政務官に就任。
2010年(平成22年)6月、菅内閣でも内閣府大臣政務官に再任され、同年9月の菅改造内閣発足により退任した。
2012年(平成24年)12月の第46回衆議院議員総選挙では自民党の宮崎謙介に僅差で敗れるも、比例近畿ブロックで復活し4選。
2014年(平成26年)12月の第47回衆議院議員総選挙では再び宮崎に敗れるも、比例近畿ブロックで復活し5選。
2015年(平成27年)1月に行われた民主党代表選挙では、元幹事長・細野豪志の推薦人に名を連ねた[2]。
2016年(平成28年)4月実施の京都3区補欠選挙に民進党公認で出馬。4月12日告示日の立候補届出に伴い衆議院議員を自動失職した(それにより北神圭朗が繰り上げ当選)。補欠選挙では当選5回の実績を訴え、6回目の当選を果たした[3]。当選の旨が京都府選挙管理委員会により同月26日に告示され[4]、同日付で衆議院議員となった。
2017年10月3日に希望の党に公認申請し、4区前職の北神圭朗、6区前職の山井和則と共に府内の申請者が全て公認された。そのため、京都府内の民進党出身者の中では、民進党を離党した枝野幸男が結成した新党「立憲民主党」に参加する前議員はいなかった[5]。同月の第48回衆議院議員総選挙で7選。11月の希望の党共同代表選挙後の党役員人事では国会対策委員長に就任した[6][7]。
2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結成された国民民主党に参加し、希望の党に引き続いて国民民主党でも国会対策委員長に就任した[8]。9月11日より党政務調査会長[9]。
2020年9月4日、立憲民主党・国民民主党・社会保障を立て直す国民会議、無所属フォーラムの2党2グループが合流して結党する新党代表選挙に立候補することを表明する[10]。
◆政治活動・政策
安全保障関連法の成立をどちらかと言えば評価しない[11]。憲法改正に賛成[11]。
アベノミクスをどちらかと言えば評価しない[11]。
安倍内閣による消費増税の先送りを評価しない[11]。
安倍内閣による北朝鮮問題への取り組みをどちらかと言えば評価しない[11]。
組織犯罪処罰法の改正(共謀罪法)をどちらかと言えば評価しない[11]。
安倍内閣による森友学園・加計学園問題への対応を評価しない[11]。
選択的夫婦別姓制度導入に賛成[12]。
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