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自民党総裁選:菅官房長官への支持、国会議員の過半数に !
岸田氏、石破氏との争い、14 日選出
岸田氏・石破氏・菅氏のプロフィールとは ?
(www.jiji.com :2020年09月01日00時25分)
安倍晋三首相の後継を選ぶ自民党総裁選で、出馬の意向を固めた菅義偉官房長官(71)が31日、支持を広げた。二階派(47人)に続き、最大派閥の細田派(98人)、麻生派(54人)も同日、菅氏支持を決めた。無派閥議員グループ(約20人)なども菅氏支持を確認。国会議員票(394票)の過半数を固めた格好だ。出馬を表明している岸田文雄政調会長(63)は有力者に支援を求め、石破茂元幹事長(63)も立候補する意向を固めた。
党員投票要求、145人 地方からも相次ぐ―自民党
自民党は、8月31日、総裁選を9月8日告示、同14日投開票の日程で実施する案を決めた。
1日の総務会で、党員投票は行わず、両院議員総会で選出する方針を決定した。
選挙日程は2日に総裁選挙管理委員会を開いて確定する。次期首相の座を懸けた選挙戦が事実上スタートする。新総裁は臨時国会が召集予定の16日に新首相に指名され、新政権が発足する見通し。
菅氏は31日、参院竹下派に影響力を持つ青木幹雄元参院議員会長と東京都内で会談。「安倍政治を継承する。1日の総務会の後、正式に表明する」と伝え、支援を要請した。
菅氏は吉川貴盛前農林水産相(二階派)ら当選同期の衆院議員から出馬要請を受けた。吉川氏によると、十数人が菅氏支持に回る見通し。
菅氏は「しっかり受け止める」と応じた。自身に近い無派閥若手の議員グループ「ガネーシャの会」からも要請を受けた。竹下派(54人)の幹部も菅氏支持で調整している。同派は総会で、結束して対応する方針を確認した。
こうした中、麻生派会長の麻生太郎副総理兼財務相は、一致して菅氏を推すよう派内に指示。同派では河野太郎防衛相(57)が出馬を模索していたが、立候補に必要な推薦人20人の確保は困難で、見送る見通しとなった。
細田派は総会を開き、会長の細田博之元幹事長に対応を一任。この後の幹部会で、菅氏を支持する方針を満場一致で決めた。同派出身の首相は「菅氏が望ましい」との立場だ。石原派(11人)も菅氏を支持する検討に入った。
一方、岸田氏は首相を官邸に訪ね、「総裁選に向けた準備を進めている」と協力を要請。竹下派会長の竹下亘元総務会長、青木氏らへのあいさつ回りを続けた。
石破氏は31日夜のBS番組で、出馬の決断について「早ければ早い方がいい。
そういう時期があしただと思う」と述べ、9月1日に石破派(19人)で協議した上で、表明する考えを示した。
総裁選は国会議員票と都道府県連代表票(141票)の計535票で争われる。投開票を行う両院議員総会は、新型コロナウイルス対策として議員らの密集を避けるため、党本部ではなく東京都内のホテルで開く。
(参考資料)
○岸田文雄議員のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
岸田 文雄(きしだ ふみお、1957年7月29日 生まれ。63歳 )は、日本の政治家。早稲田大学法学部卒業。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、自由民主党政務調査会長(第58代)、宏池会会長(第8代)。 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)、外務大臣(第143代・第144代)、防衛大臣(第16代)、自民党国会対策委員長(第52代)、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。血液型AB型。
中小企業庁長官、衆議院議員を務めた岸田文武は父[1]。戦前戦後に衆議院議員を務めた岸田正記は祖父。参議院議員・経済産業大臣を務めた宮澤洋一は従兄弟。
◆政界
1987年、父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[1]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[1][4]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[1]。
2001年、第1次小泉内閣で文部科学副大臣に任命される。2007年、第1次安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、再チャレンジ、科学技術政策)に任命され、初入閣した[1]。続く福田康夫内閣でも内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、規制改革、国民生活、科学技術政策)に任命され、引き続き入閣。併せて消費者行政担当大臣、宇宙開発担当大臣の特命事項も任された[1]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、広島1区で民主党の菅川洋を破り、6選(広島県の小選挙区で議席を獲得した自民党の候補者は岸田のみ。また、広島1区では初めて次点以下の候補者が比例復活した)。2011年9月、自民党総裁谷垣禎一の下、党国会対策委員長に就任(2012年9月退任)[1]。2012年10月、政界引退を表明した古賀誠から宏池会を継承し、第8代宏池会会長に就任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、広島1区で7選。
◆外務大臣
選挙後に発足した第2次安倍内閣では外務大臣として入閣し、第2次安倍改造内閣で留任、さらに2014年12月の第47回衆議院議員総選挙で8選した後に第3次安倍内閣でも再任、自民党総裁選後の2015年10月に発足した第3次安倍第1次改造内閣でも外相を留任する。
同年12月28日ソウル市内で尹炳世韓国外交部長官と外相会談をし、日本国政府は韓国政府が設立する元慰安婦を支援するための財団に10億円拠出し慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決することで合意する日韓合意がなされた[5]。
○石破茂議員のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
石破 茂(いしば しげる、1957年(昭和32年)2月4日生まれ。63歳 )とは、日本の政治家。 慶應義塾大学法学部法律学科卒業。自由民主党所属の衆議院議員(11期)、水月会会長、自由民主党水産総合調査会顧問。血液型B型[2]。
防衛庁長官(第68代、第69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域)、内閣府特命担当大臣(地方創生)、さわらび会会長、無派閥連絡会顧問、自民党たばこ議員連盟副会長などを歴任。
父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗[3]。
◆衆議院議員
1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した[11]。1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった[4]。なお鳥取県全県区からは田中派の平林鴻三が選出されていたが石破は1985年2月27日に田中角栄が脳梗塞で倒れた後、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄と通じ中曽根派から立候補した[12]。以後9期連続当選。
1988年9月2日、リクルート事件をきっかけとして武村正義、鳩山由紀夫らとともに政策勉強会「ユートピア政治研究会」を結成する[13][14]。
1990年の第39回では鳥取県全県区でトップ当選する。1990年、衆議院農林水産委員会理事に就任。1992年、宮澤改造内閣で農林水産政務次官。1993年の宮沢内閣不信任決議を巡っては、与党の一員でありながら賛成票を投じるが、離党はせず、直後の第40回衆議院議員総選挙では、無所属で出馬し、再びトップ当選する。
しかし細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため自民党を離党。同じく自民党を離党した西岡武夫らと共に改革の会を結成した。その後自由改革連合を経て新進党結党に参加。
しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。
以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。1997年3月、自由民主党に復党。2000年、第2次森内閣で農林水産政務次官に任命され、2001年の第2次森改造内閣では防衛庁副長官に任命される。
◆小泉政権
元々、石破は農水族として地歩を築いてきた[要出典]が、自身も「国防がライフワーク」と語る[要出典]ように「新国防族」などと称され[要出典]、外交・安全保障に精通する政策通で知られた。拉致議連の会長を務めた後、2002年、第1次小泉内閣第1次改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣した。防衛庁長官在任中はアメリカ同時多発テロ事件の発生による有事法制の制定や、陸上・航空自衛隊のイラク派遣に取り組んだ[15]。
◆自由民主党幹事長
自由民主党総裁に選出された安倍の下、無派閥ながら自由民主党幹事長に起用され[21]、2012年の第46回衆議院議員総選挙、2013年の第23回参議院議員通常選挙の陣頭指揮を執った。
○菅官房長官のプロフィールとは?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
菅 義偉(すが よしひで、1948年〈昭和23年〉12月6日生まれ。71歳。 )は、日本の政治家。
法政大学第二部法学部政治学科卒業。
自由民主党所属の衆議院議員(8期)であり、内閣官房長官(第79代・第80代・第81代)、沖縄基地負担軽減担当大臣、拉致問題担当大臣である。
横浜市会議員(2期)、総務副大臣(第3次小泉改革内閣)、総務大臣(第7代)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣(第3代)、自民党幹事長代行(第2代)などを歴任した。官房長官として新元号令和を発表したことから、「令和おじさん」の愛称がある[3]。
◆官房長官へ
アメリカ合衆国通商代表マイケル・フロマンと2012年12月、第2次安倍内閣の発足に伴い、内閣官房長官に任命される。
2013年、郵政民営化の考えにそぐわないとして、日本郵政社長坂篤郎を就任わずか6か月で退任させ、顧問職からも解任した。同年に発生したアルジェリア人質事件では、防衛省の反対を押し切り、前例のない日本国政府専用機の派遣を行った[6][7]。
2014年5月、内閣人事局の局長人事を主導し、局長に内定していた杉田和博に代わり加藤勝信を任命したとされる[26]。元内閣参事官の高橋洋一によると、局長人事を機に官僚を統制下に置き「歴代官房長官の中でも屈指の情報収集能力」を持つようになったという[26]。同年7月、自らが出演したNHK『クローズアップ現代』の放送内容について、放送後のNHKに官邸を通じて間接的に圧力をかけたと報じられたが、事実や関与を否定した[27]。さらに、同年11月には衆議院解散による第47回衆議院議員総選挙執行を安倍に進言した[28]。
2016年7月7日、内閣官房長官の在職期間が1,290日となり、歴代1位の在職日数を記録した[29]。
2019年4月1日、総理大臣官邸にて新元号を発表
2019年4月1日、総理大臣官邸での記者会見にて同年5月1日より施行される新元号を「新しい元号は『令和』であります」と発表した。
同年5月9日-11日、官房長官となってからは初となるアメリカ合衆国訪問。初日からマイク・ポンペオ国務長官、パトリック・シャナハン国防長官代行(直後に国防長官に指名)、10日にはマイク・ペンス副大統領と会談した。ドナルド・トランプ大統領との面会はなかったとはいえ、政権を動かしている実務畑の3人と会談できたことは異例の厚遇として報道されている。ニューヨークへ移動してからは、S&P グローバル、バンク・オブ・アメリカを訪問し、アメリカ経済界のトップらとの交流をもったほか、国際連合本部で開かれていたシンポジウムで基調演説も行った[30]。
同年6月には菅に近い自民党無派閥議員13人による政策勉強会「令和の会」が発足、同月20日に菅を招いて初会合が開かれた[31][32]。
1987年、父・衆議院議員岸田文武の秘書となる[1]。
1993年、第40回衆議院議員総選挙に旧広島1区から自由民主党公認で出馬し、初当選[1][4]。父親と同じ宏池会に所属する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い広島1区から出馬し、以後広島1区で連続8選[1]。
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