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8 月23 日、渡部恒三元衆院議員が死去
渡部恒三元衆院議員のプロフィールとは ?
(www3.nhk.or.jp:2020年08月24日 19時21分)
衆議院の副議長や閣僚などを務めた渡部恒三氏が亡くなりました。88歳でした。
渡部恒三氏は、福島県議会議員を経て、昭和44年の衆議院選挙で初当選して以降、衆議院議員を連続14期務めました。
◆渡部恒三氏は、厚生大臣や自治大臣等を歴任 !
この間、自民党の田中派、その流れをくむ竹下派に所属し、国民民主党の小沢一郎氏や、小渕元総理大臣らとともに、「竹下派七奉行」と称されました。
また、厚生大臣や自治大臣、通商産業大臣や、自民党の国会対策委員長などを歴任しました。
その後、小沢氏らと自民党を離党し、新生党や新進党の結党に参加しました。
平成8年には衆議院副議長に就任し、7年近く、議会運営に力を尽くしました。
民主党時代の平成18年、いわゆる「メール問題」で、党が窮地に陥った際には、国会対策委員長に就任して、立て直しにあたりました。
また、野田・前総理大臣や、岡田・元副総理、前原・元外務大臣らの指導にもあたり、民主党政権を支えました。
出身地の会津のことばを使う独特の話し方と気さくな人柄で、渡部氏は、多くの人に親しまれました。
そして、平成24年の衆議院選挙には立候補せず政界を退いていました。
◆渡部恒三氏:「竹下派七奉行」と称された !
渡部恒三氏は、昭和7年に旧田島町、現在の南会津町で生まれました。
昭和30年に早稲田大学を卒業した後、昭和34年から福島県議会議員を2期務め、昭和44年の衆議院選挙で旧福島2区から立候補して初当選して以降、衆議院議員を連続14期務めました。
この間、自民党の田中派やその流れをくむ竹下派に所属し、小沢一郎氏や小渕元総理大臣らとともに「竹下派七奉行」と称されました。
◆渡部恒三氏:新生党や新進党の結党に参加 !
また、厚生大臣や自治大臣、通商産業大臣、それに自民党の国会対策委員長などを歴任しました。
その後、小沢氏らとともに自民党を離党し、新生党や新進党の結党に参加した。
平成8年には衆議院副議長に就任し、7年近く議会運営に力を尽くしました。
民主党時代の平成18年、いわゆる「メール問題」で、党が窮地に陥った際には、国会対策委員長に就任して立て直しにあたりました。
地元・会津のことばを使い、誰とでも気さくに接する人柄が多くの人に親しまれ、「黄門さま」の愛称で呼ばれることもありました。
平成24年の衆議院選挙には立候補せず80歳で政界を引退しましたが、その後も東日本大震災や原発事故に見舞われたふるさとの復興に思いを寄せていました。
◆安住国会対策委員長:公私ともにご指導いただいた !
立憲民主党の安住国会対策委員長は、記者団に対し、「同じ東北地方選出の国会議員ということで、公私ともにご指導いただいた。今の野党には足りないものを持っていて、ぎすぎすした政策論だけではなく、おおらかな人間関係の中で、立場の異なる人を包み込んでいく人だった。非常に残念だ」と述べました。
◆小沢一郎議員:心よりご冥福をお祈り申しあげたい !
国民民主党の小沢一郎衆議院議員は、「突然の訃報に接し、深い悲しみを覚える。最初の当選の時から同じ東北出身ということで意気投合し、その後も田中派で行動をともにした間柄で、政権交代も、ともに力を合わせて実現した、大切な仲間の1人だ。本当にユーモラスで人間味あふれ、誰からも愛される魅力的な政治家だった。心よりご冥福をお祈り申しあげたい」というコメントを出しました。
◆石破元幹事長:人の心を捉える立ち居振る舞いに、感心した !
自民党の石破元幹事長は、記者団に対し、「政治家になる前、田中角栄・元総理大臣の自宅に行った際、初入閣したばかりの渡部氏がその場にいて、人の心を捉える立ち居振る舞いに、感心した覚えがある。新進党で一緒だった時期もあるが、自民党とは何かというのを、よくご存じで、国民に対して、果たすべき責任は何かを常に考えていた」と述べました。
山口代表:同じ新進党に所属していた時期がある !
公明党の山口代表は、記者団に対し、「同じ新進党に所属していた時期があり、政治経験は圧倒的に豊かだった。論客ぞろいの中で、独特な言葉遣いや、親しみのあるユーモアを交えた言動が、とても和みを与え、私たち後輩にも、政治家としての大事な要素の1つを授けてくれた。本当に愛すべき人柄で、逝去を心から悼み、お悔やみ申し上げたい」と述べました。
◆内堀知事:会津魂を胸に数々の難局に当たられた !
渡部恒三氏の死去を受けて内堀知事は、「突然の訃報に接し、驚きと同時に大変残念でなりません。平成二十四年に政界を引退されるまで、常に『ならぬことはならぬ』の会津魂を胸に数々の難局に当たられ、卓抜なる見識と高まいな信念をもって、福島県、そして我が国の発展に多大な御貢献を頂きました。
恒三先生が抱いておられた福島県の復興・創生への熱い思いをしっかりと胸に刻み、『新生ふくしま』の創造に全力で挑戦を続けていくことをお誓い申し上げ、ここに哀悼の意をささげます」というコメントを発表しました。
◆室井市長:生前のご功績に改めて敬意を表します !
渡部氏の死去を受けて、会津若松市の室井照平市長は、「ご逝去の報に接し、謹んでお悔やみを申し上げます。磐越自動車道の建設、地域高規格道路の整備、会津大学の創設をはじめ、長年にわたりふるさと会津の発展に多大なご尽力を賜りました。
また、国政においても、厚生大臣、自治大臣などの主要閣僚、そして衆議院副議長を歴任し、国民のためにひたむきに活動を続けられた姿は、会津人にとって大きな誇りであります。生前のご功績に改めて敬意を表しますとともに、心からご冥福をお祈りいたします」というコメントを出しました。
◆70代の女性:町のお父さんのような存在だった !
渡部氏の衆議院議員時代の地盤、会津若松市では、地元の新聞社が死去のニュースを伝える号外を配りました。
号外を受け取った、70代の女性は、「渡部さんは町のお父さんのような存在で、居てくれるだけでうれしかったので、残念です。いつまでもみんなの心の中にいると思います」と話していました。
また、別の70代の女性は、「ふるさとの言葉会津弁を大事にしながら、東京の政界で活躍し、会津のために頑張ってくれていたので、惜しい人を亡くしたと思います」と話していました。
◆親子2代にわたり、渡部氏の選挙を支援してきた !
親子2代にわたり、渡部氏の選挙を支援してきたという40代の女性は、「いつまでもお元気でいると思っていたので、亡くなったと聞いてびっくりしました。去年参加した誕生日パーティーでは足腰は弱くなっていましたが、かくしゃくとしていて支援者の前で大きな声であいさつしていました。
政治家でありながら偉ぶることなく、私のような者でも顔を覚えていてくれた。天国にはたくさんの仲間がいるでしょうから、またにぎやかに楽しく過ごしてほしいです」と話していました。
(参考資料)
○渡部恒三元衆院議員のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
渡部 恒三(わたなべ こうぞう、1932年5月24日 - 2020年8月23日。88歳)は、日本の政治家。元の姓名は渡部 恒蔵(読み同じ)。早稲田大学第一文学部卒業。
勲一等旭日大綬章。
衆議院議員(14期)、衆議院副議長(第60・61代)、厚生大臣(第64代)、自治大臣(第39代)、国家公安委員会委員長(第49代)、通商産業大臣(第55代)、自由民主党国会対策委員長(第32代)、新進党政務会長(第2代)兼国会運営委員長(第2代)、同総務会長(初代)、無所属の会代表(第3代)、民主党国会対策委員長(第11代)、同最高顧問、復旦大学経済管理学院名誉教授などを歴任。自由民主党所属時は竹下派七奉行の1人だった。
◆政治家への道
自由党の石橋湛山の私設秘書となったが、20歳になって初めての選挙である第25回衆議院議員総選挙では、右派社会党書記長であった浅沼稲次郎に投票したという。渡辺は、「石橋も浅沼も早稲田の先輩だったから」何の違和感もなかったと語っている[5]。
内閣官房副長官などを務めた八田貞義の秘書を経て、1959年4月の福島県議会議員選挙に出馬し、初当選。県議初出馬の際には『選挙で名前を書きやすいように』と、出生時の名であった『恒蔵』から『恒三』に改名し、後に戸籍名も『恒三』とした[6]。
福島県議会議員時代には自由民主党福島県支部連合会政務調査会長も務めるが、2期目途中、八田の選挙活動にからむ公職選挙法違反のため有罪判決を受け県議会議員を辞職[1]。
1969年、第32回衆議院議員総選挙に「県議ならばカムバックできる。衆議院は無理」という後援者の説得を振り切って旧福島2区から無所属で立候補。明治100年を記念した特別恩赦で公民権停止が解けた直後だった[1]。「会津のケネディ」(「ワタスは東北のケネディダす」)を自称して、初当選した。
選挙期間中自由民主党から公認を得られなかったが、当選したのち追加公認された。渡部によると、当時の党幹事長・田中角栄が中継のテレビカメラの前で渡部を名指しして不明を恥じたという[7]。
69年の総選挙で初当選した議員は多くが田中の所属する佐藤栄作派(周山会)に所属したが、渡部は「俺は会津出身だから(戊辰戦争で戦った)長州の家来にはなれません」と宣言してしばらく無派閥を貫いたのち、田中派が結成されると、すぐにこれに参加した[8]。
商工族としてキャリアを積む。国会内では衆議院商工委員長、政務では通産政務次官、厚生大臣、自治大臣、国家公安委員会委員長、通商産業大臣、党務では自民党国会対策委員長を歴任した。経世会では竹下派七奉行の1人に名を連ねる。
厚生大臣在任当時の国会答弁で『少子高齢化社会』というキーワードを使い、年金法や医療保険法改正に取り組んだ。渡部自身は「少子高齢化という言葉を最初に使った政治家は私だろう」と語っている[9]。また、いわゆる「トルコ風呂問題」が持ち上がったのは、彼の厚相在任中であった。
◆衆議院副議長
1993 年に自民党を離党後、新生党を経て新進党の結党に参加。新進党では幹事長代理、政務会長兼国会運営委員長、総務会長、副党首を歴任し、1996年に衆議院副議長に就任。2000年に再任された。副議長在任日数2498日は衆議院創設以来最長記録。
当初、副議長就任には前向きではなかったが「早稲田大学雄弁会の後輩の小渕恵三が衆議院議長に就任するので」と説得され、副議長就任を引き受けた。しかし、小渕は1963年衆院選当選同期である橋本龍太郎首相の説得により、「上がりポスト」の衆院議長就任を固辞し、結局伊藤宗一郎が衆院議長に就任した。
副議長就任時の慣例として党籍を離脱中に出身政党の新進党が解党し、自由党・新党友愛・新党平和・黎明クラブ・改革クラブ・国民の声の6党に分裂したが、渡部はそのいずれにも籍を置かず、無所属の会(会派は民主党・無所属クラブ、選挙では与党の公明党や保守新党の推薦も受ける)に参加した。
2000年、衆議院副議長に再任。野党側から選出されるのが慣例の衆院副議長人事において、野党側が石井一を推したのに対し、与党側が唐突に渡部の擁立を表明した。渡部の副議長続投は当時の最大与党・自民党、特に幹事長の野中広務の強い意向であった。
これは大の公明党嫌いで知られる石井が自自公連立政権を強く批判していたためである(ただし石井は新生党時代、公明党も参加する非自民連立政権の一員であり、羽田内閣では入閣している)。野中の主導による渡部擁立に対して野党4党は一斉に反発し、「野中幹事長の私怨によって、暴挙がおこなわれようとしていることを看過できない。
私たちは大人の政党として責任を果たしたい」(鳩山由紀夫)、「国会は与野党あっての国会。与党のため、自民党のため、ましてや野中幹事長のために存在するのではない」(佐藤敬夫)などとして野党4党は石井に揃って投票するとともに、賛成で臨むはずだった議長選挙では白紙で投票し抗議の意思を示した。しかし結果は渡部287票、石井189票で渡部が当選し、副議長に再任された。
2005年9月の第44回衆議院議員総選挙前に民主党に入党し、同党公認で福島4区から立候補。渡部は小選挙区制導入前から会津地方で強固な地盤を築いていたが、この選挙では自民党の渡部篤(血縁関係はない)に約7000票差まで迫られる猛追を受けた(渡部篤も比例復活)。また渡部恒三陣営の選挙違反が摘発され、運動員が逮捕された(後述)。
◆民主党時代・国会対策委員長
2006 年2月、堀江メール問題で前原誠司民主党代表の側近である野田佳彦国会対策委員長が辞任すると、鳩山由紀夫幹事長の要請を受けて後任の国対委員長に就任した。菅直人や山岡賢次ら国対に精通したベテランが相次いで就任を固辞したための苦肉の策であった。
衆院副議長を経験した党内最長老の国対委員長就任は異例のことであり、与党・自民党からも驚きの声が聞かれた(過去には園田直が衆院副議長経験後に自民党国対委員長に就任した例があった)。渡部の国対委員長就任について、当時の小泉内閣の一員である麻生太郎外務大臣は、平均年齢の若い前原執行部を引き合いに出して「貫禄が違う」と渡部を持ち上げた[要出典]。
就任直後から生放送のテレビ、ラジオ番組に相次いで出演し、9月に行われる民主党代表選の前倒しや、永田議員へ辞職要求などを発言、鳩山幹事長はその火消しに追われた。堀江メール問題に関して、2006年3月15日放送のTBS系「みのもんたの朝ズバッ!」で涙を流して謝罪した。
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