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蓮池薫さんの話:横田滋さん死去について
横田滋さん死去、蓮池薫さん「帰国に一歩でも近づく方向に」
横田滋さん・横田早紀江さんのプロフィールとは ?
(www3.nhk.or.jp:2020年6月6日 12時21分)
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親の横田滋(よこた・しげる:87歳)さんが亡くなったことを受けて、拉致被害者で、18年前に帰国した蓮池薫さんが、6月6日NHKの取材に応じ、「滋さんのためにも被害者の帰国に一歩でも近づく方向にしていかなければならない」などと話しました。
横田滋さんは、昭和52年、中学1年生の時に新潟市で北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父親で、娘の救出を訴え続けてきましたが5日午後、老衰のため87歳で亡くなりました。
北朝鮮に拉致され、18年前に帰国した蓮池さんは、「めぐみさんに対する愛情が非常に強い方で、救出活動の先頭に立ち、燃え尽きるまで闘ってこられた。非常に尊敬していますし、再会が果たせずとても胸が痛いです」と話しました。
また、蓮池さんは、めぐみさんとピョンヤン市内の同じ地区で生活していた当時の様子を滋さんに伝えたときのことを振り返り「滋さんに、めぐみさんの話をすると『それで?それで?』とものすごくうれしそうな顔で聞いてくれました。1400回を超える大変な回数の講演を行ってきたのは、愛情が原動力だったのだと思います」と悼みました。
そして、「政府に対しては、この状況を打開するために大胆な策を考えていたのかどうか、不満です。滋さん亡き後、残された親も少なくなり、いち早く帰国の実現に向けた戦略にベクトルを向けてほしい」と述べたうえで、「救出活動を行う世代がかわったとしても被害者救出への世論がかわらずに盛り上がれば、北朝鮮の政策に影響を与えると思います。滋さんのためにも解決に一歩近づく方向に持って行かなければならない」などと訴えました。
(参考資料)
○横田滋さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
横田滋(よこた しげる、1932年11月14日 生まれ、87歳。 2020年6月5日死亡[1])は、北朝鮮による拉致被害者である横田めぐみの父、横田早紀江の夫。北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の代表を務めた。
◆人物・経歴:
2013 年4月15日、在日本アメリカ合衆国大使館にて国務長官ジョン・ケリー(右)と
北朝鮮による拉致被害者横田めぐみの父。妻は横田早紀江。長女であるめぐみの他に双子の息子がいる。元北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)代表。徳島県徳島市出身。
1997年(平成9年)2月、長女の横田めぐみが北朝鮮に拉致された疑いが産経新聞などで報じられ、国会でも取り上げられると翌3月、日本各地の被害者家族とともに家族会を結成し代表に就任した。以来、妻の早紀江とともにすべての都道府県を巡回した救出を求める署名活動や1400回を超える講演を重ね救出運動に尽力。その象徴的存在になった[2][3]。
2005年(平成17年)末、血小板の難病を患っていることが分った。長年の活動による疲労も重なり、2007年(平成19年)には家族会の代表を退いた。代表退任後も世論の関心を維持するため、定期的に病院で検査を受けながら各地で被害者の帰国を訴え続けた[4]。
2014年(平成26年)にはモンゴルで横田めぐみの娘で自身の孫にあたるキム・ウンギョンと面会。ただし、その場にめぐみの姿はなく、娘救出への決意を新たにしていた[3]。
妻は拉致事件をきっかけに洗礼を受けクリスチャンになっていたが[5]、2017年(平成29年)には本人も日本福音キリスト教会連合中野島キリスト教会より受洗し、クリスチャンとなった[6]。
2020 年(令和2年)6月5日午後2時57分に川崎市内の病院で老衰のため死去。87歳没。内閣総理大臣の安倍晋三は私邸で記者団の取材に応じ、「 (妻と共にめぐみさんとを抱きしめる日が来るように努力してしきたが実現できず)申し訳ない思いでいっぱいだ」と目に涙を浮かべながら述べた[7]。
◆年譜
1951 年:北海道札幌南高等学校卒業後、日本銀行(札幌支店[8])入行。
1962 年:早紀江(京都府京都市出身)と結婚。早紀江との間に長女・めぐみと双子の息子が生まれる。
1977年11月15日:長女・めぐみが失踪。のちに、日本へ潜入した、北朝鮮の特殊部隊員により拉致されたと判明した。
1993年:日本銀行を定年退職した。
2007 年11月24日:健康上の理由から、約10年間続けてきた家族会代表を辞任。
2017 年11月4日:キリスト教の洗礼を受ける。
2020年6月5日:老衰のため川崎市内の病院で死去。87歳[2]。
○横田滋さんのプロフィール
(www.hmv.co.jp )
1932年11月徳島県生まれ。11歳で札幌へ転居。高校卒業後、日本銀行に入行し、札幌支店を転出する、1961年までを札幌で過ごす。1962年、名古屋支店時代に、知人の紹介で早紀江さんと結婚した。1964年10月めぐみさんが生まれる。本店、広島支店勤務ののち、1976年新潟へ転勤した。翌年、めぐみさんが中学1年生の時、下校途中に行方不明となる。
20年後の1997年1月、拉致の情報が飛び込む。2月に大きく報道され、3月、拉着被害者家族連絡会が結成されると、代表となり、政府への要請、マスコミの対応など救出に向け、精力的に活動してきた。
○横田早紀江さんのプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
横田早紀江(よこた・さきえ、1936年2月4日生まれ、84歳)は、北朝鮮による拉致被害者横田めぐみの母、横田滋の妻。福音派の教会に所属するクリスチャン。
◆経歴・娘の失踪まで
京都市生まれ。1963年(昭和38年)に横田滋と結婚する。1964年(昭和39年)10月5日に名古屋の聖霊病院で長女横田めぐみを出産する[1]。その後、双子の息子を出産する。
1976 年(昭和51年)7月23日、日本銀行の行員であった夫の転勤に伴い、広島から新潟市に一家5人で転居する[2]。1977年(昭和52年)4月長女めぐみが新潟市寄居中学校に入学して、バドミントン部に所属する[3]。1977年11月15日長女めぐみが寄居中学校からバドミントン部の練習終了後の下校途中に失踪する。
その日の午後9時50分に、横田夫妻は新潟県警に捜索願を出す。捜索願を受けた新潟県警が捜索を開始する。11月22日には、公開捜査に踏み切り、『新潟日報』や『毎日新聞』で報道される。一年間で延べ3000人の捜査員を動員して捜査をするが、行方の手がかりがつかめなかった。
その年から夫とともに、長女の捜索活動をはじめる[4]。
生死もわからず、何の手がかりもないなかで、早紀江は、新聞の群衆写真や雑誌のグラビアなどに娘めぐみと似た女性が写っていると、新聞社に問い合わせしたり、写真の女性がいる場所を訪ねたりさえするほど、各地を必死に探しまわった[5]。
◆クリスチャンになる
近所に住んでいたアメリカ人のマクダニエル宣教師が失踪事件のビラを作り新潟港で配った。1978年(昭和53年)2月頃、娘が行方不明で悲しみの中にあるときに、友人にヨブ記を読むように勧められる[6]。
ヨブ記に感銘を受けて、聖書を読むようになる。そして、マクダニエル宣教師宅で行われていた「聖書を読む会」に出席するようになり、五十嵐キリスト教会の礼拝に出席するようになる。後に、マクダニエル宣教師の影響を受けてキリスト教に入信する。
1980年(昭和55年)1月7日から1月9日に、産経新聞社会部の阿部雅美記者が日本海沿岸を中心に起きた、地村保志、浜本富貴恵、市川修一、増元るみ子らの蒸発事件には、外国の情報機関が関与している疑いが強いと書いた新聞記事を横田夫妻が読み、産経新聞新潟支局の支局長に面会し、娘の失踪事件との関連性を尋ねたが、関係性は否定された[7]。
1983年(昭和58年)6月に東京へ転居。1984年(昭和59年)に日本同盟基督教団五十嵐キリスト教会[8]でTEAMのマクダニエル宣教師より洗礼を受け、娘のために祈り続ける。その後、前橋市に転勤して、1993年(平成5年)の夫の定年退職後は、一家で川崎市に定住して、日本福音キリスト教会連合の教会に所属。
◆拉致の情報
1996 年(平成8年)10月号で石高健次の書いた記事が「現代コリア」に掲載された。このことが発端になり、1997 年(平成9年)2月号の「アエラ」「産経新聞」などで取り上げられた。この記事を高世仁が安明進に確認して、横田めぐみが拉致にあったことが判明する。
横田夫妻の元に参議院議員橋本敦の秘書兵本達吉を通じて、1997 年1月21日長女めぐみが北朝鮮に拉致されているという情報が伝わり、横田滋が議員会館で詳しい情報を聞いた。そのころ、早紀江は何も知らないまま、千葉におけるキリスト教の集会で、「せめて娘がどこにいるのかだけでも教えてください」と、仲間とともに祈っていた。
帰宅後、滋から今日入った情報について聞かされ驚くとともに、「生きていたのね、めぐみちゃん」と、失踪から19年めにして初めて希望を見出す[5]。この日の情報をもとに、「めぐみさんを救う会」が結成される。その後全国23箇所で「救う会」が結成される。
1997年3月14日、ソウルに行き元北朝鮮工作員安明進に会見して娘の消息を聞く。このとき、横田夫妻が持参した多くの写真のうち、拉致の約1ヵ月前に新潟空港で滋が撮っためぐみの写真を見て、安明進はこの写真が自分が北朝鮮で見た女性と一番よく似ていると証言した。
新潟を訪ねてきた滋の父親が北海道に帰るのを一家で見送るために、新潟空港に行ったときの写真だ。このときの写真が、拉致前、横田めぐみが日本国内で撮られた最後の写真でもある。初めて髪を短くした直後でもあり、この写真の顔が早紀江にとっては、その後探し求め続ける娘めぐみの面影となった[9]。韓国から帰国後の3月25日に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」が結成される。
2000 年(平成12年)5月いのちのことば社のチャペルが提供され、東京で毎月行われる「横田早紀江さんを囲む祈り会」が開始される[4]。十数名からはじまった祈祷会であるが、チャペルは満員になった。2001年11月アムネスティ・インターナショナルのインターナショナル・ジャスティス・ミッションにゲストとして招かれる。
◆日朝首脳会談以降
2002年(平成14年)9月17日日朝首脳会談が平壌で行われた。その時、梅本和義駐英公使がめぐみの娘とされているキム・ヘギョンに面会した。北朝鮮政府が拉致の事実を認めて謝罪して、拉致被害者の安否の情報を日本政府に伝えた。
その時横田夫妻は外務省の飯倉公館に集められ、福田康夫官房長官(当時)と植竹繁雄外務副大臣(当時)より、長女めぐみが死亡しているという北朝鮮の情報を宣告される。結婚して、娘キム・ヘギョン[要曖昧さ回避]を生んだとも伝えられる。ここからマスコミの冷たい反応が変わったといわれる[4]。
9月18日に、横田夫妻と息子達および蓮池家が梅本和義駐英公使から説明を受けるために、外務省に出向いた。そして、政府がめぐみの「死亡情報」について何の裏付け作業もしていないことを伝えた。
10 月2 日政府調査団による現地調査報告書を受ける。政府調査団が持ち帰ったキム・ヘギョンの血液と横田夫妻の血液とめぐみのへその緒をDNA鑑定した結果、10月24日にめぐみとキム・ヘギョンの血縁関係が証明された。
2004年(平成16年)5月22日、再訪朝した小泉純一郎首相に北朝鮮は「死亡とした拉致被害者たちについて再調査する」と約束。その結果、11月に平壌で行なわれた日朝実務者協議で、めぐみの夫だったという男性が“横田めぐみの遺骨”を提出したが、それは約1カ月後、日本側のDNA鑑定により偽物だと判明した[5]。
2006 年(平成18年)4月28日 ジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領と会談。
横田めぐみの死亡説を否定して、夫と共に娘を含めた拉致被害者の奪還ための活動を続けていた[10][11][12]。夫の滋は2020年(令和2年)6月5日に老衰のため死亡した[13]。
ブルーリボン祈り会は、全国各地、香港、米国、欧州でもなされ、2008年の時点で、500人以上の参加者がいる[4]。
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