http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/13959.html
Tweet |
小池都知事の次なる敵は ?…新宿・歌舞伎町“殲滅”の危うさ !
小池百合子知事の深層・真相・とは ?
(www.excite.co.jp:2020年6月5日 15:00)
敵は歌舞伎町にあり――。6月4日も新たに、28人の感染者が確認された東京都。4日連続の2ケタに警戒感が高まる中、小池知事は「夜の街」ばかりをやり玉に挙げる。東京アラート発動後、特に新規感染者が多いとして「新宿周辺の繁華街」を名指し。ターゲットは間違いなく“不夜城”歌舞伎町だ。
確かにホストクラブやガールズバーなどに関わる人の感染例は増えており、注意喚起は理解できる。ただ、職員派遣にとどまらず、警視庁と協力し、「見回り隊」の結成まで検討とは、やりすぎだろう。
「接待を伴わない」飲食店にしてみれば、商売あがったりだ。さも歌舞伎町で“感染爆発”が発生しているかのようなレッテル貼りだが、4日も感染者28人のうち14人と、経路不明の高止まりだって問題視すべきではないか。
ホンの1週間前、再び22人にまで感染者が増えた先月29日、小池知事は最低2週間かけるとした自粛緩和のロードマップのステップを1週間で「1」から「2」への移行を発表。こう余裕をかましていた。
「感染状況の把握が難しい状況には至っていない」「重症患者、入院患者がともに減少傾向で、医療提供体制も十分確保できている」
自ら真っ先に気を緩めたクセに、緩みの責任を歌舞伎町に押しつけるのは筋違い。その上、隣県より厳しい条件で、いまだ多くの業種に休業を求めながら、サッサと補償を打ち切る冷酷さだ。
■給付金支給はまだ半数以下
1店舗月額50万円、都独自の「感染拡大防止協力金」の対象期間は緊急事態宣言が解除された先月25日まで。同11日に支給が始まった4月分の相談件数は、4日までに約20万件に上る。
申請は約10万9000件で実際の支給は約5万件と、受け付け開始(4月22日)から6週間経っても半数以下だ。5月分の受け付けは都知事選の告示前日の今月17日まで待たされる。
「戦中じゃあるまいし、警官動員の見回り隊なんて、夜の繁華街で生計を立てる人への職業差別すら感じます。ここまで私権を制限するなら補償すべきですが、東京アラートも『あとは自己責任でよろしく』。
感染再拡大の兆しは『繁華街ではしゃぐ人々のせい』との印象操作で、都民同士をいがみ合わせて、知事自身は責任逃れです。いつもの敵をつくり叩いて喝采を浴びるパターンで、彼女の政治手法は極めて危うい」(立正大名誉教授・金子勝氏=憲法)
歌舞伎町で散々楽しんできた都民は小池知事による殲滅(せんめつ)を許すのか。
(参考資料)
○小池都知事の記事:「カイロ大学・首席卒業は嘘」
学歴詐称疑惑 ! 元同居人が詳細証言
(bunshun.jp:2020/05/27)
週刊文春 2020年6月4日号:編集部:
7月5日に迫る東京都知事選。小池百合子都知事の圧倒的優位と見られているが、そこで改めて注目されるのが、小池氏の「選挙公報」に書かれる経歴だ。
◆小池さんはカイロ大学を卒業していない !
小池氏には、1992年に日本新党から政界に打って出て以来、幾度となく疑惑の目を向けられる「学歴詐称」疑惑がある。これについて、ノンフィクション作家の石井妙子氏が、小池氏とカイロで共に暮らし、小池氏のカイロ大学生活を誰よりもよく知る元同居人女性の早川玲子さん(仮名)から詳細な証言と当時の手帳や写真などの資料提供を得て取材をし、「小池さんはカイロ大学を卒業していない」との詳細な証言を得た。
小池氏はこれまで、72年にカイロ大学文学部に入学、76年に卒業したと自著やインタビューで語ってきた。
◆小池百合子:カイロ大学での試験に落第した !
だが、小池氏が卒業したと主張している1976年7月、カイロ大学での試験結果が発表された際、落第し、ふさぎ込んでいた彼女の様子が、早川さんの記憶に強く残っている。当時2人が同居していたアパートの同じ階にはカイロ大学文学部の教授が住んでいた。思いつめた小池氏は「どうしたらいいのか、聞いてくる」と部屋を飛び出したが、戻ってくると、早川さんにこう言った。
「あなたは最終学年じゃないから、追試を受ける資格はないって。そう言われた」
◆小池百合子:最終学年に進めなかった !
1976年時点で、最終学年に進むことすらできていなかったのだ。
そんな小池氏だが、直後の76年秋、彼女を取り上げたサンケイ新聞(10月22日)と東京新聞(10月27日)は、小池氏へのインタビューをもとに「カイロ大学卒」と紹介している。
経緯をめぐる早川さんの証言は詳細を極めた。76年9月下旬、小池氏は父親から「大急ぎで日本に帰ってこい」との連絡を受けて、すぐさま日本へと帰国。そして11月、カイロに戻ってきた小池氏は、早川さんに新聞を見せた。
「目を疑いました。『カイロ大学を卒業した小池百合子さん』と書かれていたからです」
早川さんが「そういうことにしちゃったの?」と尋ねると、小池氏は「うん」と答えたという。
これまで学歴詐称疑惑が浮上するたびに、小池氏は卒業証書を一部メディアで公表し、噂を否定してきた。前回の都知事選前にも『とくダネ!』(フジテレビ系、2016年6月30日放送)で卒業証書を示している。しかしこの卒業証書自体にも、前述の新聞記事と矛盾する記述があり、石井氏によるカイロ現地取材では、さらなる疑問点も浮上した。
◆学歴詐称は、公職選挙法の 「虚偽事項公表罪」に該当する !
小池氏に質問状を送ったが、締め切りまでに回答は得られなかった。
◆小池氏と舛添要一氏との熱愛 !
5月28日(木)発売の「週刊文春」では、早川さんの証言で明らかとなった、カイロ大首席卒業の真相、エジプト現地取材をはじめ100人を超える関係者の証言をもとに書かれた石井氏の新著『女帝 小池百合子』(文藝春秋刊)で明かされた秘話、小池氏と舛添要一氏との熱愛などを詳報している。
当時、桝添氏(1948年〈昭和23年〉11月29日うまれ、71歳)は、大藏官僚だった、片山さつき氏(現参議院議員)との離婚が、1989年成立した。
桝添氏は、40代前半で、小池氏(1952年〈昭和27年〉7月15日生まれ、67歳)は40歳が目前に迫っていた。
桝添氏が1990年に建てた、北海道白老町の別荘に、桝添氏と小池氏は、連れだって出かけていた
(知人)。
○小池百合子知事のプロフィールとは ?
(ウィキペディアより抜粋・転載)
小池 百合子(こいけ ゆりこ、1952年〈昭和27年〉7月15日 生まれ、67歳 )は、日本の政治家[4]。東京都知事(第20代)。
アラビア語通訳者[5]、ニュースキャスター[5][6]を経て、1992年に政界へ転身した。
テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』キャスター(初代)[5]、参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、総務政務次官(細川内閣)、経済企画総括政務次官(小渕第2次改造内閣・第1次森内閣)、環境大臣(第5代・第6代・第7代)、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣(第2代)、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長(第49代)、自由民主党国際人材議員連盟会長、都民ファーストの会代表、希望の党代表(初代)などを歴任した。
◆来歴・生い立ち
兵庫県芦屋市生まれ。芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経て、甲南女子高等学校卒業。在学中は、テニス部、ソフトボール部、ESS部に所属。高校在学中、神戸市で貿易商を営んでいた実父の小池勇二郎が石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて、1969年12月に実施された第32回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区から無所属で立候補したが落選している[7]。実母は赤穂の塩田地主であった小川家の出身。
甲南女子高校卒業後に関西学院大学社会学部に入学するものの、父親の会社の都合で家族が東京都、六本木に引っ越す[7]。「国際連合の公用語にアラビア語が加わる[注釈 1]」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年9月に大学を「中退」して父親の貿易先でもあったエジプトへ留学。
“朝堂院大覚”こと松浦良右の資金援助で両親もカイロ市で日本食レストランを経営した[7]。カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語: American University in Cairo)でアラビア語を修め、カイロ大学に移って1976年10月に卒業した[1][8]。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこともある[9][注釈 2]。
なお、自身の著書においてカイロ大学を「首席で卒業」としているが、真偽は定かでない[10]。
ジャーナリストの山田敏弘がカイロ大学教授のアーデル・アミン・サーレに取材して在籍記録を調べたところ小池が1976年にカイロ大学文学部社会学科をグッドの成績で卒業した記録が残っており、サーレは「カイロ大学は今でも4人に1人は留年するが、彼女は4年間で卒業している。これはすごいこと。
10月に卒業したことになっているが、普通は7月卒業なので、2か月遅れたのは、卒業前にも補習を受ける必要があったからだろう。相当に大変だったのではないか」と話していたという[11]。
◆政界入り、反自民勢力として
1992年の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受けていたが、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」[16]との理由で、細川護熙が結党した日本新党に、野田佳彦、前原誠司らとともに入党した。
細川とは、同年5月に「ワールドビジネスサテライト」にゲスト出演した際が初対面であり、番組出演をきっかけに細川が参議院議員候補として小池に白羽の矢を立てたという[14]。
当時の参議院比例区は拘束名簿式であったが、小池は党代表の細川に次ぐ2位に記載され、日本新党が比例区で4議席を獲得したため初当選した。
翌1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で鞍替え立候補し、旧兵庫2区(定数5)において日本社会党元委員長の土井たか子に次ぐ得票数2位で当選した。
自由民主党は選挙前の党分裂により減少した議席数を回復できなかったのに対して、日本新党は躍進し、非自民非共産の連立による細川内閣が成立した。小池は総務政務次官に就任するが、連立政権は1年足らずで崩壊する。
1994年、日本新党を含む旧連立派各党を糾合した野党第一党となる新進党の結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市、宝塚市、川西市)から出馬し、自民党の阪上善秀に競り勝ち再選。
新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近となり、1997年の新進党解党後は小沢率いる自由党に参加。
◆変身:自民党との連立勢力から自民党入り
内閣総理大臣森喜朗らと共にロシア大統領ウラジーミル・プーチンと面会(2001年3月)
1999年、自民党と自由党の連立(自自連立)に伴う、小渕第2次改造内閣の発足に際して、経済企画政務次官となり、第1次森内閣まで務める。
2000年の自由党分裂に際して小沢と決別して連立与党に残留、保守党結党に参加した。同年の第42回衆議院議員総選挙では保守党公認に加えてコスタリカ方式を条件とする連立与党の推薦を受け当選(3選目)し、今回比例単独に回った自民党の阪上に次回選挙の選挙区出馬枠を譲ることとした。
2002年、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に、党首の野田毅および月原茂皓と共に、保守党を離党し保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。党内派閥に関しては、野田と月原が近未来政治研究会に入会したのに対し、小池は清和政策研究会(当時は森派)に入会した。
人物・政党遍歴・政界渡り鳥
日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と5つの政党に所属し[88][89][90]、「政界渡り鳥」と呼ばれることがある[89]。
ただし、日本新党、新進党は党そのものが解党しており[89][90]、自発的な離党は自由党および保守党を離党した時[90]である。
また、自由党からの離党は自自公連立政権からの離脱の是非を巡り党が分裂したことに伴うものであり、海部俊樹、扇千景、野田毅、二階俊博など小池を含めて26名の議員が共に離党している。これは自由党に残留した側の人数を上回る。
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
最新投稿・コメント全文リスト コメント投稿はメルマガで即時配信 スレ建て依頼スレ
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。